[ 長 崎 平 和 公 園 ]
原爆落下中心地(爆心地公園)
爆心地公園
 第2次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、連合国アメリカ(米)軍の戦略爆撃機B29ボックスカーから投下されたプルトニュウム原子爆弾(ファットマン)が、中心地を示す黒御影石の原爆落下中心碑の上空約500メートルで爆発しました。その3日前の8月6日、広島に投下された濃縮ウラン原子爆弾(リトルボーイ)に続く人類史上2番目の原子爆弾でした。爆発による超高温の熱線、多量の放射線と強い爆風は、この一帯のあらゆるものを破壊し、焼きつくしました。
 当時、この松山町には約300世帯、1,860人余の一般市民が生活していましたが、町内に居た者は、偶然に防空壕に避難していた9歳の少女を除いて、全員が即死しました。
 右側のレンガの壁は、ここから約500メートル北東に離れた丘に建っていて、爆風で破壊された浦上天主堂の一部です。
原爆落下中心碑
原爆落下中心碑
 1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、中心碑の上空約500メートルでプルトニュウム原子爆弾(ファットマン)が爆発しました。
 中心碑のふもとには、原爆で亡くなられた115,669名(平成9年8月9日現在)の方々の名前を納めた原爆殉難者名奉安があります。
浦上天主堂遺壁
浦上天主堂遺壁
 原爆で倒壊した浦上天主堂の、西に面した南側壁の一部を移設したものです。爆風による石柱のずれがそのままに再現されています。壁上の石像はザベリオと使徒です。 
被爆地層
公園の下に残る被爆当時の地層
 原爆で破壊された家屋の瓦やレンガ、壊れた陶磁器の食器、熱によって溶けたガラスや焼けた土などが、当時のままに厚い層となって残されています。
 公園の東を流れる下の川の川岸にあります。
長崎誓いの火爆心地像1
長崎誓いの火と殉難者の碑
 原爆落下中心地の東側、下の川を渡った丘に長崎原爆資料館と長崎市平和会館があります。
 丘の斜面や下には、多くの殉難者を弔う碑があります。階段右の像は世界平和の折鶴会の「平和を祈る子」です。階段の左側には、「世界のどこででも決して核戦争を起こさず、長崎が最後の被爆地であり続けるように」との願いを込め、1983(昭和58)年8月、ギリシャのオリンピアの丘で採火された「長崎誓いの火」が点されています。
長崎市原爆資料館未来を生きる子ら
長崎原爆資料館と長崎市平和会館
 原爆開発、長崎への原爆投下から被災に関する資料などを展示してあります。
未来を生きる子らの像
 戦後50年の春、「悲しき別れ−荼毘」に描かれた少女の一人福留美奈子ちゃんの母、志なさんの 「長崎に平和を祈るお地蔵さんをたてたい。」との願いを知った京都府綾部中学校の生徒会が、中高生の仲間、 父兄、先生、地域の人々とともにつくった「長崎にふりそでの少女像をつくる会」により1996年3月31日に建てられた。
被爆直後の爆心地周辺の航空写真
爆心地周辺航空写真
当時の被害状況(長崎市全市)
焼失区域面積 6,702,300平方メートル
(2,031,000坪)
罹災戸数(中破以下は含まず) 
 全 焼 11,574戸
全 壊 1,326戸
大 破 5,509戸
死 者 73,884人
傷 者 74,909人
その後、原爆症で死亡した人も少なくありません
   (死傷者数は1945年12月末までの合計数)

←写真:長崎原爆資料館所蔵(H.J.Peterson氏撮影)
(拡大写真があります。)

長崎原爆資料館
観覧料 一般:200円 小・中・高校生:100円
団体 大人:160円 小・中・高校生: 80円 (団体は30人以上)
開館時間 午前8:30〜午後5:30
休館日  12月29日〜12月31日
所在地〒852-8117 長崎市平野町7番8号
電 話095-844-1231
アクセス路面電車:浜口町または松山町から徒歩5分
バ  ス:浜口町または松山町から徒歩5分
原爆落下中心地(爆心地公園)
所在地長崎市松山町
アクセス路面電車:松山町から徒歩1分
バ   ス:松山町から徒歩1分
[長崎原爆資料館所蔵の写真は同資料館の使用許可を得ています。写真および内容の複製、転用を禁じます。]
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