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発責 大館市東台6-5-83 鷲谷豊
北羽歴史研究会 会報 NO.237
2011(H23)年11月1日
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11月18日 研究発表会を開催します。
研究発表会を開催 11月18日(金)13:10〜15:30
於・大舘中央公民館
発表テーマ・発表者
1、秋田・茨城両県「だいご」地名の今昔
・・・・・・丸屋 悧 氏
2、明治維新による武士の身分の変遷について
・・・・・・・千葉 克一 氏
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■10月6日、第52回実地研修会終了。「三蔵鼻の残照と豪族三浦氏の変遷を尋ねる」
◎琴丘歴民資料館、中門造り・曲屋の民家がなど。◎赤沢薬師森戦死の田中多助墓碑へ慰
霊の読経。◎織田信雄配流地、先祖織田氏の後裔との地元の方に出会いました。◎三倉鼻
公園、現在も結構よい眺望です。文治六年大河兼任の軍勢氷割れで死亡云々の地と覚える。
◎浦城・城郭跡一部の視察に終り残念。◎三浦家住宅、重要文化財、相模の豪族三浦氏の
流れをくむ。屋敷全体も整備されており、三浦家の三人が夫々説明案内、二時間ほどじっ
くり見学、終えて美味しいお茶にお菓子がだされて懇談となる。『三浦家代々記』も紹介。
■羽州街道交流会・大館大会 11月12日(土)於・道の駅・矢立ハイツ
12:30受付 13:00開催〜セレモ〜13:50基調講演・まげわっぱの話・荒谷由季子氏14:50」
1分科会15:10 羽洲街道と吉田松陰17:10、 2分科会15:10 廃校を活用した食づくり、
17:10。〜以上の参加会費無料です。 17:40〜街道談義(宴会)19:40。有料3500円。
△翌13日は、@矢立峠・大館郷土博物館、A大館市内めぐり、などがあります。(有料) w
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◆史話 増毛での秋田藩 金沢 長一郎
10月10日秋田放送テレビ「幸福の黄色いハンカチ」は、何年か前にみた映画
のリメークで題名にひかれて見た。舞台は羽幌町焼尻島になっていた。ここは「
暑寒別天売焼尻国定公園」である。
幕末、秋田藩が出兵したとき元陣屋のあった増毛の近くであり、先頃水害のあっ
た奈良県十津川の人々が明治22年(1889)の大水害のため移住した新十津川町も隣
町である。INで見ると増毛町は現在5,000人余り40年で半減している。
秋田藩元陣屋跡・第一台場跡・第二台場跡が町指定史跡となっている。
蝦夷地(松前藩)は、米が取れないので漁業区域を定めて藩士に知行させていた。
これを場所制度といい、増毛場所の知行主は、松前氏の家臣となり残った茂別館主
家政を祖とする下国氏であった。
さて、幕末ロシアの南下に苦慮した幕府は、文化4年(1807)蝦夷地を直轄とし松
前氏を福島県粱川に移封した。 それに伴い秋田藩(函館に591人)をはじめ奥羽
諸藩が蝦夷地・北蝦夷地(カラフト)に出兵した。津軽藩は1002人が出兵し603
人が越冬したが、特にソウヤ越冬組(230人)の半数以上が極寒と栄養失調で死亡
したという。
文政4年〈1821〉ゴローニン事件が解決をみたことを等により直轄廃止・松前氏
復帰となり派兵も廃止された。
安政2年〈1855〉幕府は、再度直轄地とし仙台・秋田・津軽・南部・松前の5藩に
分割して警備を命じた。秋田藩は西蝦夷地神威岬より知床まで、及び樺太並びに
島〃、礼文利尻。元陣屋は増毛。出張陣屋宗谷、北蝦夷地白主及び久春古丹となる。
増毛・宗谷は常詰め、カラフトは3月から8月まで出張。冬李は増毛宗谷に引揚げ
て越年することとなった。(カラフトは二藩で一年交替)
安政三年の派兵は横手給士53名であった。本藩よりも大筒方医者等90名が出
発している。足軽小者を含めればその数倍の人数であると推定されている。以後交
代で派兵された。大館給人は安政6年5月、旗奉行沼田助八・鉄砲隊長根本幾之助
・中田順吉、目付茂内政吉で士37人、卒96人で三厩から乗船した。
安政6年9月には藩領となった。(従来の守備区域からは庄内藩に浜益・留萌・苫
前を割譲)。朱印状はのちにニセ金事件で責任をとった佐藤時之助が受取っている。
(佐藤時之助は得難い人材で彼を失ったことが秋田低迷の一因とも言われる。
大館戊辰戦史でも一章を設け激賞している)。
秋田藩の蝦夷地派兵は、本国兵力の四分の一を割いたと言われ、藩財政に苦しみ
ながら行われた。慶応2年2月財政困難と京都守護のため北蝦夷地警備の免除を願
い出たところ慶応3年(1867)3月蝦夷地全面撤収となった。かくして安政3年以降
12年に及ぶ出兵が終わったのである。
ここで疑問に思ったことは、この出兵は秋田藩にとってどんな意味があったのか
と言うことと、その翌年の秋田戊辰戦争での秋田兵の芳しくない状態との関連である。
派兵である以上軍事活動である。ロシアとの戦闘になることも予想されることで
兵器の調達・戦闘訓練は欠かせないものだと思うが、それについて書かれたもの
は目にしない。 」終
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◆蛇足 例年と違いこの十月は秋晴れの良天には恵まれなかった。土曜日曜長根山運動場も雨降り
多く、負けずと競争の選手達もお気の毒の次第、がんばりには感心する次第でした。当歴研実地研修
の出発も雨、ツイテ無いと嘆いたが予定先では雨なしとなり、履いた長靴がトンマの如し。雨後の恵
みか途次キノコ収穫の方あり先ず目出度しでした。さて11月寒さに向う天候の安穏を祈る。 W
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