鶴ヶ城(会津若松城)


写真1
写真:福島県会津若松市 鶴ヶ城
鶴ヶ城は、加藤明成が寛永9年(1632年)から
行った大改修により、現在の姿になりました。

戊辰戦争を戦った天守閣は、明治政府によって
明治7年(1874年)に解体されてしまいました。

写真の天守閣は、昭和40年(1965年)に復元さ
れたものでです。


幕末の混乱期(黒船来航〜開国)、京都の町
は荒れていました。

京都の治安回復のため、文久2年(1862年)、
会津藩主の松平容保が京都守護職につきま
す。

そして、会津藩のもと新撰組が組織されまし
た。
写真2
写真:福島県会津若松市 鶴ヶ城


写真3
写真:福島県会津若松市 鈴木屋利兵衛商店
慶応4年(1868年)、薩摩藩と長州藩がクーデ
ターを起こし、鳥羽・伏見で旧幕府軍と武力衝
突が起きて戊辰戦争が始まります。

この戦いの最中、朝廷が薩長連合軍を官軍とし
て認めたため、旧幕府軍の会津藩は賊軍とさ
れ、会津藩は薩長をはじめとした官軍に攻め込
まれます。

※左の写真は、官軍の屯所となった商店です


戊辰戦争(会津戦争)では白虎隊(16才〜17才
の少年で編成された会津藩の軍隊)の話が有
名です。

白虎隊は勇敢に戦いますが、官軍の圧倒的な
兵力の前にやむなく飯盛山に退却します。

そこで城下町にあがる煙を鶴ヶ城炎上(落城)と
見誤り、少年達は全員自刃してしまいます。
写真4
写真:福島県・飯盛山 鶴ヶ城の天守閣より


写真5
写真:福島県会津若松市 鶴ヶ城 茶室麟閣
会津藩は一ヶ月にわたり籠城戦を戦い抜いきま
したが、降伏ののち開城しました。

新撰組を含む一部の旧幕府軍は蝦夷地(北海
道)に移り、五稜郭を拠点として官軍と戦いまし
たが、明治2年(1869年)5月18日に降伏、戊辰
戦争は終結しました。


鶴ヶ城は、「春高樓の 花の宴(はるこうろうの
はなのえん)」という歌詞でおなじみの「荒城の
月」のモデルだといわれています。

写真の「荒城の月碑」は、本丸の東南隅にあり
ます。
写真6
写真:福島県会津若松市 鶴ヶ城 荒城の月碑


福島県