被爆の歴史を残す
山王神社と片足鳥居 |
1837()年の島原の乱の後、徳川幕府老中松平伊豆守信綱が、
この地が近江琵琶湖岸の坂本に地名や景色が酷似しているとして、
かの地の山王日枝の「山王権現」を招祭してはと思い、
それにより時の長崎奉行、代官が寺町の延命寺の龍宣法印師に依頼して建立、
延命寺の末寺「白厳山観音院円福寺」として運営されました。
明治時代になり、神仏分離令により、本来の「山王日吉神社」と改称しました。 1945(昭和20)年8月9日の原爆で壊滅的被害を受けましたが徐々に再建し、 1988(昭和63)年にぼぼ旧来の姿に再建されました。 | |
片足鳥居の倒壊部分
かつて山王神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居までありました。 1924(大正13)年に建立されたこの二の鳥居は、原爆爆心地からは南東約800mの所にあり、 高温の熱線で上部は黒く焼け、爆風で左半分は倒壊しましたが、 右半分だけは笠石を載せたまま奇跡的に残りました。爆風で笠石の部分は約5cm横にねじ曲げられましたが、笠石と貫の一部で微妙にバランスを保って立っています。 | |
被爆後の山王神社
原爆被爆で、一帯は瓦礫の原となりました。一の鳥居は倒壊せずに残りました。 一の鳥居の中央に小さく片足となった二の鳥居が見えています。 一の鳥居は1962(昭和37)年3月までは原型をとどめていましたが交通事故で倒壊し、行方不明になりました。 2000(平成12)年まで一の鳥居の小さな碑がありましたが、それも撤去されて痕跡はなくなりました。 写真所蔵:長崎原爆資料館(撮影;H.J.Peterson氏) [写真は長崎原爆資料館の使用許可を得ています。] |
山王神社の大楠(クス)(長崎市天然記念物)
山王神社境内入り口にある2本の大楠。向かって左側の楠の木の胸高幹囲は約8.2m、右側のは約6m。 原爆の爆風で主幹の上部は折れ、熱線で幹肌は焼けて、一時は全く落葉して枯木同然になりましたが、生き残り次第に樹勢を盛り返しました。 | |
旧長崎街道
神社境内前の道は、かつて長崎街道が通っていました。 京都から歩いてきた日本26聖人も、1597年2月5日に時津の港から西坂の処刑場へと歩いた道です。 | |
防空壕跡(銭座町電停横)
第二次世界大戦中、市内には多くの防空壕が掘られていました。 原爆の日、この界隈の防空壕でも被爆して逃れた多くの人々が息絶えました。 |
所在地 | 長崎県長崎市坂本町 |
電 話 | |
アクセス | バ ス:坂本町から徒歩2分
電 車:浦上駅前から徒歩5分 |