生誕年月日 | 弘化2〜昭和4年(1845.7.24〜1929.2.10)薬学者。日本の薬学を基礎づける有機化学の創始者。 |
生誕の家 | 長井琳章の長男として、徳島市中常三島町に生まれ。 初名は直安、のちに長義と改名した。 旧徳島藩医。幼時から漢方医薬術を修めた。 |
活動情況 | 慶応2年(1866)藩命で長崎留学。長崎精得館に学び、蘭医ボードイン Antonius
F. Bauduin(1822〜85)、マンスフェルト C.G. Van Mansvelt に師事したが、寄宿先の写真術の祖、上野彦馬の感化で化学を志す動機が芽生えた。 明治2年(1969)大学東校(現東京大学医学部)入学、英医ウィリス William Willis(1837〜94)に学んだ。間もなく学制改革でドイツ医学導入に変わり、第1回医学留学生に選ばれた。 明治元年(1868)、ベルリン大学に入学、ホフマン教授の実験によって理論づける化学講義に感動、医学をやめて化学に熱中し、卒業後同教授の助手に選ばれ13年間ドイツに留まった。その間、丁子油成分オイゲノールの構造決定研究によって1981年学位を得た。 明治17年(1884)政府の招きで14年ぶりに帰国。東京大学医・理学部教授、大日本製薬会社技師長、内務省衛生局東京試験所長を兼任、近代化を急ぐための化学教育と応用部門の開発に主力を注ぎ。試験所では漢薬成分研究を始めた。 明治18年に漢薬麻黄(ぜんそく薬)の有効成分エフェドリンを発見、これがわが国の天然物有機化学と合成化学研究の出発点となった。その他、漢薬牡丹皮(ぼたんぴ)成分ペオノール、苦参(くじん)成分マトリンなど各種漢薬成分の研究、ピローン属、徳島産藍の研究など多数の業績を残した。 明治19年(1886)ドイツ生まれのテレゼ夫人と結婚。同年東京化学会会長。 明治21年(1888)日本薬学会会長(終身)、1893年から28年間東京帝国大学教授として薬化学講座を担任。 明治40年(1907)東大名誉教授。 また第一次大戦による医薬品の国産化の要請にこたえ、官民合同の内国製薬の顧問として合成研究指導に尽力した。一方、東京女子大学講師として女子化学教育の先がけをなした。 独逸学協会中学校長、日独協会副会頭をもつとめ、夫人とともに日独親善に功績があった。 日本最初の理学博士(1885)、同薬学博士(1899)である。 |
没年・胸像 | 昭和4年、85歳。湘南腰越の長井家墓所に葬る。 長井長義博士胸像は、日本薬学会により昭和29年11月27日に徳島公園内徳島県立図書館の傍らに建設され、除幕式が挙行された。 その後、昭和48年11月23日に、徳島大学薬学部開設50周年を記念して、徳島市蔵本町の同学部前に移転され現在に及んでいる。 |
参考文献 | 「天半藍色」三木文庫、昭和49年11月3日発行。 「阿波藍譜」三木産業株式会社、昭和36年11月25日発行。 「万有百科大事典−15・化学」小学館、昭和49年10月20日発行。 「徳島百科事典」徳島新聞社。 |