*PROFILE*
守住貫魚(もりずみ つらな)
生没年月日 文化6年7月11日〜明治25年2月26日(1809〜1892)。画家。
生誕地・姓名 徳島東富田掃除丁(現・徳島市中央通)で生誕。
貫魚の家は父の代から藩の鉄砲方(銃卒)であった。
姓は清原。字は士済。通称は徳次郎・幼名は伸美。

雅号 初号は輝美、後に定輝、貫魚。別号・是姓斎、回春斎、寄生軒。
修行時代 江戸に出て藩の絵師渡辺広輝に入門、住吉派の絵を学ぶ。
文政12年(1829)師より輝の字をもらって輝美と号す。
天保4年(1833)江戸の住吉広定(弘貫)に入門、師の定の字を貰って定輝と改名。
ところが後に広定は弘貫と改名したので、その貫の字を授けられて「貫魚」と称するようになった。

活動情況 天保8年(1837)藩命により摂津、山城、近江、三越、加賀、信濃、上野の諸国を遊歴、各地の風景を写生。
天保9年江戸に帰り、ついで東海道各地の名勝を探り徳島に帰った。この頃の作「全国名勝絵巻十巻」は、県指定文化財に指定されている。同9年、藩の絵師となる。
天保15年(1844)アメリカから帰ってきた漂流者・初太郎の記録「亜墨新話」のさし絵を藩命で描く。
安政元年(1854)号を貫魚と改名、同2年京都御所紫宸殿の賢聖障子に「朝賀(ちょうが)の図」を補写、一橋家の寝殿にも障屏画を描く。
明治維新後一時、現在の徳島市明神町に住み、地名の由来となった「大麻比古(おおまひこ)神社」(弥吉明神)の宮司に就いた。
明治11年(1878)頃から、同13年頃大坂に転居。
同15年(1882)東京で開かれた第1回内国絵画共進会が開設された時に「船上山遷幸図」を出品して藍授銅印を賜り。
翌16年の第2回共進会に出品した「宇治川先陣図」「登竜図」は全国でただ1人紫綬金印を受賞した。その頃より日本画壇の重鎮として知名の存在となる。
同23年(1890)10月に創設された帝室技芸員制度創設にあたり、最初の帝室技芸員の1人に選任され。 その翌月、絵画展覧会を上野で開催されるや「紫式部石山に月を観る」の密画を出品、その色彩描写巧緻華麗を極め観る者をして絶品と称賛せしめ、同会に於いて賞牌授与式の日に有栖川一品殿下が席に臨まれ「翁は老体なるを以って特に椅子に凭るべき」との厚遇を辱のうし、金牌賞を賜る。貫魚は有職故実にくわしく、精密描写の歴史画が得意であったが、写実力の優れた人で花鳥、山水、肖像画等にも多くの名作を残した。

文化財指定 1.「全国名勝絵巻十巻」
2.「新町橋渡初之図」(絹本着色、縦84センチ・横115センチ)、昭和34年(1959)県指定文化財に指定された。
この作品は、元治元年(1864)に新町橋の修復ができて渡り初めがあった情況を描いたもので、画面左下から中央部にかけて新町橋、右上辺に城山、その裾に広がる城下の町並を、極めて精密に極彩色で描き、鶴と日輪が寿ぐ気分と気品を高めている。
この作品と同筆者・同じ構図の作品が歴史資料として県指定を受けているが「元治紀元十一月八日新町橋重修成始渡人図」と書き入れがあり、下絵になったことがうかがえる。

後継者・墓所 子は11人生まれたが、1男(洋画家の勇魚(いなさ))1女(父と同じ日本画家、周魚(ちかな))だけ残って、あとは皆若くして死没。明治25年2月26日、病により大坂で没したが、2人の子が建てた墓が徳島市伊賀町3丁目の神葬墓地にある。
参考文献 「大日本人名辞書」。「徳島県百科事典」河野太郎氏、「徳島県人名事典・別冊徳島県歴史人物鑑」河野幸夫氏、各記述統合。