長野・松代
Matususiro

真田公園
   所属している写真クラブの恒例の撮影会が長野で「北国街道撮影会」として行われた。その第1日目の集合場所がこの松代駅前の真田公園であった。
  西は神戸から東は東京まで、総勢11名参加の撮影会であった。
  初めて長野新幹線で、東京より長野に向かったが、1時間半で長野に到着したのには驚いた。運賃は高いが便利になったものである。 
  真田宝物館前の駐車場に朝の10時半集合であったが、東京よりの車組みが渋滞で遅れ、のっけから波乱含みの撮影会となった。
  真田公園は旧真田邸、真田宝物館のある所で、松代駅より3分の所にある。線路を挟んで反対側が千曲川に面した松代城跡のあるところだ。
  松代城跡といっても、明治維新で城は取り壊され、苔生した本丸の石垣が残るのみであったが、今、復元工事が行われている。   
旧真田邸
  松代城は、武田信玄が上杉謙信との戦に備え、山本勘助に造らせた城(当時の名前は海津城)で、川中島の合戦では信玄の本陣となったところである。
  この松代は北西側が千曲川で遮られ、後は西から妻女山(さいじょ)420m)、象山(ぞうざん、475m)、舞鶴山(559m)、皆神山(みなかみ、642m)、尼巌(あまざかり)山(780m)の山でぐるりと取り囲まれた袋谷となっており、自然の要害地となっている。  
  1622年、真田信之が上田城より移封されてから城下町として整備され、明治まで10代(約250年)にわたり、真田氏が松代藩10万石の城主を務めた。
  旧真田邸は、9代藩主真田幸教(ゆきのり)が、江戸より戻った母親の居宅として、城外に立てた御殿で、大名屋敷として現存する貴重なもの。部屋の数が53室もあるとのことであった。 
松代藩文武学校
  藩士の師弟のために文武両道の学校を建てたもので、9代藩主幸教の時に開校(1855年)した。特に、兵学、医学、西洋砲術に力を入れたとのこと。明治になって、一時松代小学校の校舎としても利用された建物。
  この文武学校の庭の大きな銀杏の木が見事に黄葉していた。今回は11月1日に行ったが、松代地区は丁度紅葉の真っ盛りと言う感じであった。  
象山神社
  幕末の佐久間象山(しょうざん)を祀った神社。境内には、象山が生まれてから29年間を過ごした住居跡、吉田松陰の密航事件に連座し、蟄居の身となって使用した高義邸(こうぎてい)が残されている。
  近くの象山(ぞうざん)記念館には、佐久間象山ゆかりの品が展示されている。
  佐久間象山は、幕末の思想家・兵学者で蘭学、砲術に通じ、海防の急務を主張。日本で始めて、電信の実験を成功させたり、写真機、大砲、火薬を作ったりした人としても有名。  
象山神社境内
   佐久間象山の名前の象山(しょうざん)は「ぞうざん」との説も有り、地元の観光案内書等は「ぞうざん」をとっている。本名は啓(ひらき、通称修理)といい、地元の山の名前、象山(ぞうざん)を号したことから「ぞうざん」の方が尤もらしい。
  神社の境内の大モミジが見事であった。この後、象山の東麓に沿い、竹山稲荷、恵明寺を経由して象山地下壕に向かった。
恵明寺
  松代象山地下壕は、第二次世界大戦末期、軍部が国体護持と本土決戦最後の拠点として、大本営を松代に移す計画のもと、掘られたもの。着工は昭和19年で、計画の75%が完成していたが、昭和20年8月終戦で中止。
   松代地下壕は、この象山のほか、舞鶴山、皆神山の3ヶ所に、碁盤の目のように掘り抜かれ、全長10kmに及ぶと言う。
象山地下壕
  この象山地下壕(延べ5.9km)の一部(約500m)が、見学できるようになっていた。入り口でヘルメットを借り、入ってみた。灯りが灯され、中を歩く事が出来た。
  20m間隔に掘られ、50m毎に横の連絡抗が出来ている。強制連行された朝鮮人により、人海戦術で掘られたものと言う。   



ルート


上信越自動車道 長野IC
又は長野電鉄河東線 松代下車

松代城跡〜真田宝物館〜真田公園
〜真田邸〜松代藩文武学校
〜象山神社〜竹山稲荷
〜恵明寺〜象山地下壕

歩行 2時間

駐車場
 真田宝物館 無料

休憩所・トイレ
あり

0311/0312
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