相生
Aioi


JR相生駅
  赤穂を訪れた後、JR赤穂線に乗り、相生駅で下車した。相生駅は赤穂線の終点であるが、現在は山陽本線姫路方面と運用が一体化され、当駅始発(終着)の列車は無くなっている。
  なお、相生駅は明治23年に開業した当時は、那波駅であった。ここは、旧街道の那波宿であったからである。昭和17年に今の相生駅に改称されている。
相生駅前
  2001年から相生駅前が整備され、その一環として相生市の象徴である、港町、造船に肖った二つのモニュメントが出来た。
  一つは船のマストをイメージした白い柱(写真中央右)で、ステンレス柱に軽量のチタンをアンテナ状に取り付け、風の向きにより方向が変わるようになっている。京都・亀岡市の彫刻家西野康造氏の作品とのこと。
  もう一つは、実際に使用された高さ2.5mの大きな碇(上写真)そのものが黒く塗られ設置されている。
狐塚古墳跡
  相生駅を出て、南に向かうと、狐塚古墳跡がある。この前を旧山陽道が走っており、ここに一里塚があったというが、その痕跡は無かった。
  埴輪を模った真新しい狐塚古墳跡記念碑が、出来ていた(写真右端)。
相生市街、栄町
  狐塚古墳跡から南の港方面に向かう。かつての那波宿、相生港に向かう旧道筋である。
  相生は、播磨灘に臨む金ヶ崎(かながさき)と釜崎(かまさき)を湾口とする相生湾の一番奥にある町だ。
  湾の水深が6〜7mと深く、また三方が山で囲まれている為、大型船舶が出入りできる古くからの天然の良港で、内海航路の風待港であった。   
相生市街
   江戸時代は赤穂藩の港として、また山陽道の宿場町として栄えて来た。また明治40年には播磨船渠が創設され造船の町として繁栄し、現在は石川島播磨重工業を中心に大小の造船関連工業が立地している。 
  なお、相生の地名は、長治元年(1104)、大嶋に城を構えた、播磨海老名氏の祖、家季の生国が相模国であったことから、ここの浦名として呼ばれていた「おお」に相模の「相」を組み合わせて「相生(あいおう)村」としたのが始まりと伝えられている。
  昭和14年に、元宿場の那波の町を編入した時に「相生(あいおい)」と呼び方を代えた由。
  全くの蛇足であるが、筆者が結婚式で利用した披露宴会場が「相生(あいおい)の間」(東京・明治記念館)であった。

鮎帰川、鮎帰橋
  市街を歩いた後、旧街道沿いの鮎帰川(あゆかえりがわ)の鮎帰橋袂に来る。なんとも洒落た川名である。
鮎帰川上流
  鮎帰橋より上流を見た写真である。かつては蛍が飛び交い、子供達の水遊び場であったそうだが、自嘲気味に、今は「鮎帰る 水もない 鮎帰川」とか。
  佐多稲子の「素足の娘」は、大正期の相生が舞台で、この川沿いの道がでてくるそうだ。



ルート

JR相生駅〜狐塚古墳跡〜栄町
〜鮎帰川〜相生駅


0802/1003
(兵庫県相生市)


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