長浜城址
Nagahama


JR長浜駅西口(琵琶湖口)
  東海道新幹線の米原で下車して、JR北陸本線で、3駅、約10分で長浜駅に着く。長浜は北陸街道の宿場町として、また琵琶湖湖上交通の要衝地として古くから発展してきた町である。
  長浜の旧市街とは反対側の西口(琵琶湖口)に出る。目の前の琵琶湖に沿って、長浜城址・豊(ほう)公園があるところだ。
長浜駅駅舎
  長浜駅は明治15年に開業した古い駅である。この駅舎の300m右側(米原より)にある鉄道保存展示施設「長浜鉄道スクエア」には、現存する日本最古の駅舎として、初代長浜駅舎が保存されている。
  英国人技師が設計した洋風2階建てで、第1回の鉄道記念物にも指定された。駅長室や待合室など、当時の面影がそのまま残されている。  
長浜城御馬屋跡
  西口を出ると、県道2号線の交差点右側に「長浜城御馬屋跡」と刻まれた、大きな石碑が建っている(写真中央右)。
  この信号を渡ると豊公園である。豊公園は長浜城主であった豊太閤・豊臣秀吉に因んで名付けられたとのこと。
長浜・豊公園入口
  この豊公園は明治42年に長浜城の本丸、二の丸跡に整備された総合公園で、長浜城資料館や洋風庭園、児童公園、プール、テニスコース等が設けられている。
  公園に入り、木立を抜けると、本丸跡に出来た石段と石垣、そして城郭様式の長浜資料館が目に飛び込んでくる。
長浜城石垣
  この石垣には、ここで掘り出された往時の石が利用されているとのことであった。
  長浜城は、延元1年(建武3年)(1336年)に京極導誉(どうよ)が築いた今浜城を前身として、浅井氏滅亡の後、天正2年(1574年)、秀吉が此処に築城し本拠とした。その時地名を今浜から長浜に変更された様だ。長浜の長は、織田信長の長を用いたらしい。
  琵琶湖に面し、三方には堀を巡らしたものであった。城の東側(現長浜市街地)には碁盤目状に道路を造り、小谷城下から寺や商人を移住させて城下町を作った。
長浜城資料館
  本能寺の変の後の清洲会議で、柴田勝家の甥である勝豊が入り、賎ヶ岳の戦いの後には山内一豊が城主となった。
  江戸時代に入ると、内藤信成が5万石で入封したが、大阪の陣の後、廃城となり、彦根藩領となった。
  その時、建物や石垣は解体され、殆どが彦根城築城の為に運び去られたという。  
  昭和58年に、この城郭様式の長浜城資料館が造られた。2層の大屋根に望楼をのせた初期天守閣の様式であるが、秀吉時代の長浜城よりは一回り大きいとのことであった。

太閤井の碑
  太閤井と呼ばれる井戸跡の碑。湖の中にも石碑(写真右端)があり、水位が下がった時には当時の井戸の遺構が姿を現すとのことであった。
琵琶湖竹生島方面
  太閤井の石碑越しに微かに竹生島が見える。右手奥は姉川の河口に開けた三角州である。姉川は長さ39km、流域面積686平方kmで、滋賀県では最大の河川である。
  姉川の中流の扇状地は、元亀1年(1570年)の姉川の合戦で有名なところだ。信長・家康の連合軍3万3千人と、朝倉・浅井の連合軍2万人が激突したところで、この時の両軍の死者は数千人に及んだという。
長浜城石垣出土地
  据付の説明板によると、湖の底に長浜城の石垣の用石と伝えられる30数個の巨石が30mに亘り、整然と列になって残されていた。
  現在は埋め立てられて公園の一部になっているが、巨石はこの石碑の下辺りにあった様だ。
豊公園より長浜港へ
  豊公園を抜け、湖岸沿いを長浜港に向かう。

  寛永5年(1628年)に廃城となったからも、長浜は陸上、水上交通の要衝で、商工業都市として発展し、近江商人を多数輩出してきた町である。
  そんな面影を求め、この後、長浜港、長浜旧市街地を訪ねてみた。

ルート

JR北陸本線長浜駅西口
〜豊公園
〜長浜城歴史資料館

歩行60分

 メ モ

駐車場、トイレ 豊公園内 

(滋賀県長浜市公園町)
0705/0904

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