クルマ

  「街道を行く」の司馬遼太郎氏は、プロの運転手による車に乗っての移動である。今の世では、道での移動手段は車が主流であり、それが当たり前となっている。私もドライブが好きで西は広島県の三原市から北は青森の恐山まで、とにかくあちこちを走った。今思うと、本当に良く走ったものだと思う。当時は金が無く、必ず友を誘ってのドライブであった。ガソリン代を割り勘にするためである。そして、旅館に泊まれないときは、良く車で野宿をした。

  今の車と違い、当時の車は小さい上に、リクライニングシートが無かった。それで、一夜を過ごすのであるから、いくら若くても楽では無かった。テントや寝袋は、昔に比べれば今はただみたいに安いが、当時は高値の華であった。着るものは、信じられないほど高かった。背広が一着3〜5万円もした。昭和40年代、当時の大卒の初任給が2〜3万円の時の話である。

  さて、私が始めて乗った車は
セドリックであった。そして、自分の足のように乗り回したのが、会社の丸っこいクラウンであった。当時のクラウンは今ほど立派なものでは無かった。休みに、許可を取って持ち出した会社の車は、コロナや発売されたばかりのマーク2であった。
  
  当時は、会社から車を借りてドライブすることが、極く普通に行われていた。今思うと、のどかな世界であった。この借りた車で会社の仲間と、それこそいろんな所に行った。免許取り立ての頃であるから、車に乗るだけでも楽しかった。その免許も、会社の費用で取ったのであるから、今思うと隔世の感がする。

     

  はじめて、マイカーを持ったのが、私の場合は三菱の
コルト600(空冷式600cc、写真上)であった。この経緯は、街道:「山陽道・東海道」の所で述べてあるので仔細は省略するが、この車ではいろいろな勉強をさせられた。
  
  勉強しないと、途中で、車を放棄せざるを得なくなった。ジェネレーターの発電力が弱く、夜に良くエンストした。そのたびに、人に押してもらい、エンジンを始動した。坂道では、必ずオイルが無くなり、補充した。走行中にブレーキが効かなくなり、エンジンブレーキとハンドブレーキで走ったこともある。ブレーキの効きが悪いため、よその車に軽く追突したこともある。
  
  また、今の車と違い、ブレーキを踏むと車体が大きく沈むのである。急ブレーキを踏むと、車の先端が、地面に衝突する感じであった。ギアが入りにくく、ダブルクラッチ(ギアのシフトの度に、2回クラッチを踏む)を踏むことも、当たり前であった。そして、エンジン始動の時は、必ず点火プラグをボロ布で掃除しないと、火花が飛んでくれなかった。バッテリーがあがることや、クラッチが滑ってスピードがでないことも良くあった。

  オーバーヒートも良くあった。坂道では、良く蒸気を吹き出している車が路肩に停まっていた。今思うと信じられない光景である。従って、予備の水やブースターケーブル、牽引用ロープ等は必需品であった。道路は舗装されているところが少なかった。

  車の三角窓は必要不可欠のものであった。クラーはもちろん付いていなかった。走行中の風は貴重な暑さしのぎであった。その風を効果的に車内に取り入れるのが、この三角窓であった。

  こんな状態であるから、車のメカには強くなった。そして、あらゆる場合を想定した安全運転も、自然に身に付いた。車は良くパンクした。従って、いつパンクしても良い運転をしたものだ。何が起きても良い運転をした。

  今思うと、今までに事故は起こしたことが無かった。こすったことや、速度違反はあったが、その程度で済んでいた。だが、今は全く違う。私に言わせれば、車のことを知らない人(動物?)が、自分勝手の、恐ろしい運転をしているとしか思えない。今の車はアクセルを踏めばスピードは出るし、ブレーキを踏めば車は停めることが当たり前に出来るのである。ハンドルは回せば、向きを変えることが出来るのである。以前は、パワーステアリングなんて無かった。速度に応じ、自分で力を加減して、ハンドルを切ったのである。

      


  私の運転歴は、まもなく40年になる。思えば早いものである。ここまで、良く無事故でこられたものである。ちなみに、2代目のマイカーは、発売したばかりの
カローラ(2ドア、水冷式1100CC、写真上)であった。この車はいい車であった。爆発的に売れた車であった。性能も良く、音も静かで、おまけにリクライニングシートもついていたのである。この車を買ってからは、もう会社の車を借りる気がしなくなった。形(なり)は小さくとも、快適であった車中泊のドライブにもちょうど良かった。

  この車で、私の行動範囲は飛躍的に広がった。「道と写真」のホームページのなれそめである。ただ、残念なことにすべての行動で、写真を撮ったわけではなかった。従って、またこれから出直しと思っている。写真も、長いブランクがあった。そのブランクの所は、後で再訪問し、まとめてみたいと考えている。大概の街道は、自分の車で一度は走っているが、今度は時間を気にせずにゆっくり走ってみたいと思っている。

  本当の意味で、文字通り、この車が今でいう行動の足となったのである。その後はずっと新車を買っては乗りつぶしている(9年以上乗っている)が、買い換える度に、故障は劇的に減少していた。日本の車の進歩は素晴らしいと思った。今、車は完成した道具である。そして、車は、道路を走ると、車が走る前よりも、空気が綺麗になることを目標に、各社とも莫大な投資を継続して行っている。私も会社で、その開発の一端を担っていたのである。いかに低速から高速まで、効率良く、そしてクリーンな走りが出来るかが、これからの嫁せられた課題となっている。

  あとは、願わくは、運転される方一人一人が、今の車の素晴らしい性能を十分に活かし、安全運転に心がけてもらいたいと思っている。道路は、みんなのものである。自分勝手な運転ではなく、他の車を常に意識し、譲り合いの気持ちを持った運転を今後とも心がけていきたいと考えている。
                         


0006/0610
 
Hitosh

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