久保田城堀 外町(町人町)であった現大町より秋田市の中心を南北に流れる旭川を渡り、内町(武家町)に入る。現在の中通である。 左手に広い堀がある。かつての久保田城堀跡である。 |
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千秋公園 千秋公園は羽後国(旧出羽国)秋田郡久保田にあった久保田藩主佐竹氏の居城跡を整備したものである。 園内には、御物頭御番所、御隅櫓、八幡秋田神社、弥高(いやたか)神社、秋田蕗園等がある。 なお、「千秋」は秋田出身の漢学者狩野良知による命名とのこと。秋田の「秋」に、長久の「千」を冠し、長い繁栄を祈ったものとか。 土地の関係で秋田城と呼ばれることもあるが、古代に出羽国府が置かれた秋田城とは全く別物であり、場所も異なる。 |
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千秋公園売店 久保田藩初代藩主である佐竹義宣は、始めは安東氏(秋田氏とも)の居城である出羽湊城に入ったが、54万石規模の家臣団を抱えていた佐竹氏にとって、安東氏5万石の城は狭く、また防衛上に不向きだったので、ここ久保田明神山の地に、新たに築城したのが久保田城である。 完成したのは慶長9年(1604年)であった。久保田城は本丸、二ノ丸、北ノ丸、三ノ丸より構成され、天守閣は築かなかった。 |
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久保田城跡 戦国時代の佐竹義宣は、常陸水戸の54万5千石の城主であった。関ヶ原の戦いの時、家康に与せず、石田三成への義理立てで中立を保ったことにより、慶長7年(1602年)に秋田20万5千石に減封国替えと成った。 なお、出羽湊城城主の安東氏は、代わりに常陸に転封となっている。 |
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本丸表門 厳重な守りを固めていた本丸の表門で、木造2階建て瓦葺きの櫓門となっている。現在の門は、平成13年に再建されたものだ。 久保田藩は、戊辰戦争の時は官軍に与したため、明治になって、久保田城の破壊は免れたが、秋田県庁が別な所に築かれたため、城は無人となり、明治13年の大火で殆どの建造物が焼失してしまったとのこと。 |
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御隅櫓 御隅櫓(おすみやぐら)は本丸北側の高台にあり、見張り場と武器庫の役割を担っていた。 なお久保田城は天守閣が無く、事実上、この櫓が城のシンボルであった。写真は、平成元年に再建されたものである。 |
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久保田城跡 庭園となっている。ここに佐竹藩12代目の佐竹義堯の銅像が建っていた。佐竹藩最後の藩主で、戊辰戦争では、新政府軍に属して戦った人物である。 佐竹藩は関ヶ原の戦いでは中立で苦い水を飲まされているが、戊辰戦争ではしっかり官軍側についている。 ここで休憩をとった後、秋田駅に向かう。秋田より羽越本線で酒田に向かう。 |
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ルート JR奥羽本線 秋田駅下車 赤レンガ郷土館〜久保田城濠 〜久保田城址(千秋公園) 〜JR秋田駅 歩行時間 2時間 |
駐車場 千秋公園 14台 |