秋田城跡
Akita Citadel

外郭東門と築地塀
  秋田駅北西4kmの高清水丘陵上にある古代の城跡。と書いてくると、先ず気になるのが、駅近くにある久保田城(千秋公園)のことである。
  久保田城は関ヶ原の戦いの後、水戸の佐竹氏が転封され、この地に城を築いたものだ。そして明治維新まで、この久保田城20万石の城下町として発展したのが現在の秋田市である。
外郭東門
  それに対し秋田城は、かつては出羽柵(いではのき)と呼ばれていた。当初は、庄内地方にあったらしいが、天平5年(733年)にこの地、秋田村高清水岡に移転した。そして、760年頃から秋田城と呼ばれる様になった。
  なお、出羽(いでは)は、「出端」のことで、越後国の端に突き出した郡と言う意味である。当時この地は畿内の政権に服属しない蝦夷(えみし)の土地であった。その後、畿内勢力が北方向に拡大され、それに伴い出羽経営の拠点がここに移転した。  
古代沼
  律令国家の北方拠点として、国府が置かれ、政治、軍事、文化の中心地となった。また津軽、渡嶋(わたりしま、北海道)や渤海国(ぼっかい、中国)との交易の拠点ともなった。
  天平宝治3年(759年)には、雄勝城(おかちのき)も築かれた。律令国家の勢力範囲が急速に拡大されてきた様子が伺われる。もっとも、律令国家の支配に反対し、地元の人々の反乱が何度もあった様だ。
  大規模な反乱として、元慶(がんぎょう)2年(878年)、そして天慶(てんぎょう)2年(939年)などが記録に残されている。特にこの天慶の大乱では、城の中心部の政庁域が焼け落ちたとのこと。    
平安時代の井戸跡
  左上の写真は沢が堰き止められて出来た沼で古代沼と呼ばれている。右手の赤い屋根の建物は平安時代の井戸で、その右手付近には古代式水洗厠舎(かわや)跡がある。3基の便槽があり、そこから傾斜して木樋(もくひ)が取り付けられ、沈殿槽に導かれていた。
  流れ出た排泄物は、この沈殿槽に溜まり、上澄みだけが沼地(雨沼)に流れ込むようになっている。その沈殿槽に堆積した土から、未消化の種や実の他、寄生虫卵が発見されているとの事。    
鵜の木地区建物跡
  その寄生虫卵の種類(豚を常食する人に感染者の多い寄生虫卵が多く、当時の東北地方の人が好んで食べた鮭、鱒等の魚介類により感染する寄生虫卵が殆ど発見されなかった)から、この厠の利用者が地元の人ではなく、大陸の人であったろうと推測されている。
  従って、この建物の跡は、迎賓館の類ではなかったかと考えられている。使用された木桶の測定から、奈良味代に作られ、平安時代の始め頃には使用されなくなっているとのこと。  
出土品収蔵庫
  まだ、多くの謎に包まれているが、こうやって物証から古代を推測していく方法は今後が楽しみである。なお、当初は国が直接発掘調査をしていたが、現在は市の教育委員会により継続して続けられているとのこと。
  左の写真は出土品の収蔵庫で、このすぐ西側に城の中心部である政庁跡のあるところだ。収蔵庫には、発掘時に発見された多くの木簡、瓦、土器などが陳列され、無料で公開されている。
築地塀
  復元された築地塀(ついじべい)は、土を突き固めたもので、長さ約50m、高さ4mの規模だ。実際の秋田城の塀は、周囲560m四方の外郭塀に囲まれていたとのこと。
  復元されたものは、そのうちの本の一部であるが、なかなか見応えのあるものであった。



ルート

奥羽本線 土崎駅下車

〜タクシー 秋田城跡公園
〜秋田城東門
〜鵜の木地区史跡公園
〜政庁跡〜出土品収蔵庫
〜築地塀
〜タクシー 千秋公園・久保田城跡


歩行時間 1時間


駐車場
秋田城跡公園 無料

トイレ・休憩所
秋田城跡公園内 トイレ有
休憩所 無し

参考文献
秋田市教育委員会編
「史跡秋田城跡」
秋田城跡調査事務所発行


0407/0409/0903

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