会津若松城
Aizu Wakamatu  

若松城
  久しぶりに、また会津若松に訪れた。そして訪れるたびに、この名前が気になっていたので調べてみた。ご存知のように会津(盆地)地方の中心であるのに、何故若松という名前がついたのであろうか。
  調べてみると、秀吉の命で、この地に入封した蒲生氏郷が郷里近江にあった地名に因んで若松と命名し、城を鶴ヶ城としたとのことであった。
  明治の市制施行の時も若松市となっていたが、その後昭和26年になって周辺の村と合併した時に会津の名前を入れ、「会津若松市」となった。
  因みに、若松と命名される前の地名は黒川である。葦名(あしな)氏の城下町で、黒川城と呼ばれていた。
  従って、伊達政宗がここを落城させた時は、若松城ではなく黒川城であった。その後、秀吉に取り上げられ蒲生氏が入封した。そして、上杉、蒲生(再入封)、加藤、保科(後に松平と改名)と領主が変わり、この保科氏が最後の領主となり明治を迎えた。
  保科氏が秀忠の隠し子(家光の異母弟)と言う事で、不遇を囲っていたが、保科氏の養子となり、大名になったという経緯から、この会津は親藩として東北の要として、厳しい風土の中、最後まで文武に励み、徳川家に忠誠を尽くした。
  そんな会津を幕府から見込まれ、最後の藩主である松平容保(かたもり)は、京都守護職に任じられた。結果的にこれが会津の悲劇の始まりでもあり、また歴史上有名にもなった経緯である。
  戊辰(ぼしん)戦争に参加した会津藩は、新政府軍と激しく戦い、賊軍の汚名を受けた。会津を訪れると、この戊辰戦争の影響が到る所で今でも散見させられる。それほど、その瑕は大きかった様である。
    なお、現在の若松城は昭和40年に復元されたもの。本丸・二の丸の石垣や掘りは昔のままとのことであった。  



ルート

JR磐越西線 会津若松駅 バス
磐越自動車道 会津若松IC
〜鶴ヶ城公園

見学 1時間

駐車場
あり、無料

トイレ・休憩所
あり

名 物
会津塗り

  

8208/0402
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