一応、私は、広義には「自然科学」の研究をしている者です。では、「自然科学」とは、何でしょうか。狭義には自然現象に関する知識を「仮説→実験」のプロセスで得ようとする学問ですが、広義には、「数学」や「コンピュータ科学」のように、それを記述するメタ科学、およびそれと同等の論理構造を持つ学問も自然科学に含まれるようです。いずれにせよ、自然科学の大原則のひとつとして「客観性」があり、(充分な論理的能力と実験装置を備えておれば)誰でも同じ結果を得られることだけが、自然科学における議論の対象として認められます。ここでの「論理的能力」は、説明不可能なものではなく、論理学や数学基礎論によって、その土台が固められたものです。で、自然科学とは違う方法で自然現象を論る方法を、一般には「オカルト」といいます。(「オカルト」の定義には諸説あるかもしれませんが、ここではこのように定義します。) **ここから先、かなり思い入れの入った宗教的文章になります** ということで、「オカルト」は「自然科学」の敵であります。イスラム教が偶像崇拝を禁止しているように、「自然科学」の研究者となった以上、「オカルト」は叩き潰すべき対象であり、決して手を貸してはなりません。そして、(「自然科学」と「オカルト」を峻別することができない)無知な一般市民を「オカルト」の魔の手から守り、一人でも多くの人間に対して(「オカルト」とは厳然と区別された)「自然科学」こそが正等な自然現象の記述方法であると理解させねばなりません。 さて、人間が自然現象の知識を探求する場所として最大の拠点は、大学における理学系学部であります。(「自然科学」信奉者にとっては)幸い、現在、「自然科学」は世界各地の理学系学部のほぼ全てを制圧しており、「オカルト」は大学から排除されるべきものという考え方が大学において普遍的勢力を誇っています。(もちろん、人文系科学として「オカルト」と人間との関わりを研究するようなことは認められます。敵を知り己を知れば…ですから。)そして、「自然科学」の信奉者にとって、「自然科学」によって研究していると自称しつつ「オカルト」によっている者は、裏切り者、あるいはスパイであり、特に厳しく排除されるべきものであります。「オカルト」勢力に大学の権威を利用させては決してなりません。 **ここから突然下世話な話になるのですが…** 今日の読売新聞夕刊を見て驚きました。新聞の報道が真実であるならば(実際、真実だと信ずる根拠も充分にあるのですが)、こともあろうに、Q州大学の教官が物理学会で「オカルト」な話を堂々と発表したというのです。いや、「こんな大学教員はクビにしろ!」と強く思ったのは、初めてです。(自分自身の能力不足を知っていますから、業績ゼロ程度ではそうは思いません。)最近新聞紙上をにぎわせている論文の捏造や虚偽報告は「自然科学」の枠組みの中の犯罪で、「自然科学」の敵に手を貸したわけではありません。しかし、「オカルト」の権威づけを「自然科学」の枠組みを利用して行おうと試みた行為は、「自然科学」にとって、敵に手を貸す最低の行為なのです。 **とまあ、かなり極端なことを書きましたが** さて、冷静に考えると、「表現の自由」や「大学における学問の自由」というものがあり、上記のことは直接に実行できるものではありません。ただ、現実問題として「オカルト」が相当に商業活動に組み込まれ、中には相当に悪質なものが存在すること、また、それに手を貸す大学関係者がいることは事実です。「大学における学問の自由」は極めて重要なものでありますが、例えば生命倫理に関しては、それを制限する議論がなされています。いわゆる「オカルト」に関しても、同様な議論が必要なのではないかと、個人的には思っています。拙速はよろしくないですけどね。 #「オカルト」で権威付けに利用される大学といえば、定番は「イオンド大学」、 #他には怪しげな(場合によっては実在しない)外国の大学、というのが相場で、 #日本の大学ではほぼ無名な大学があがることがほとんどです。 #旧帝大でのこのような事態が新聞報道されるということには、本当に呆れました。 |
昨日の私の記述は、わざと面白可笑しく書きましたが、実際にはそこそこ深刻な事象だと思います。 もっとまともな論説は、たとえば http://www.chemistry.or.jp/kaimu/ronsetsu/ronsetsu0609.pdf などをご覧ください。 |
猛烈に歩きました。 ゼスト御池(市役所前)で昼食の後、南禅寺側から哲学の道を散策。銀閣寺道のセカンドハウスで休憩。吉田山に登った後、京大構内をひととおり散策。出町柳に出て鴨川の遊歩道を散策。烏丸五条の近辺で夕食。その後京都駅へ。移動手段は、すべて「徒歩」です。なんだかすごいですねえ。 さすがに疲れて、京都駅からは地下鉄で家に帰りました。 京大では研究室内も見ていこうと思ったのですが、あいにく某君は不在。こんな大事なときに研究をサボっているとは(爆)。 ついでにひとこと。吉田山山頂の広場から見下ろすと、見えたものは絡み合った男女。確かに遊歩道とは反対側で、広場の中ほどまで行かないと見えない場所ですが…。不快な思いをさせないでくれ。休憩できなかったじゃないか。 |
今日はちょっとまともな話を。 最近、中高教員による様々な問題が新聞紙上をにぎわせています。飲酒運転問題と同様、新聞が意図的に掲載記事を選択することによって世論を操作していると感じる部分はありますが、少なくとも、一部の教員については、その資質を欠いていると判断されても仕方がないとは思います。ただ、中高教員に関する各種の問題について、現状の議論ではまったく無視されている点を、ひとつ指摘しておきたいと思います。 類似の問題が企業で起きた場合、企業はどのように対処するでしょうか。過去の様々な不祥事で明らかなように、一般社員は「ノーコメント!」あるいは「その点は広報に聞いてください」と応えるのが通常であり、それなりの企業ならば、広報部か総務部が一手に対応を引き受けるのが常です。企業において、業務の遂行は、上層部が方針を明示したうえで、その方針を社員が遵守すれば、その結果責任は上層部が引き受けることで機能しています。そうであれば、公立学校の教員に関しては、文科省か教育委員会が方針を示し、結果責任を負うのが適切であると考えます。例えば、国旗国歌問題に関して、私は東京都の方針にはまったく賛成しませんが、ただ一点、「教員に対する国旗国歌の強制の義務は業務命令でり、東京都の教育委員会がその結果責任を負う」と明示したことだけは、評価に値すると思います。多くの県では「校長さん、ちゃんとしてくださいね、その結果であなたを評価はします(が結果責任は持てませんからね)」という指示が行われており、その結果、、精神的に参ってしまった校長先生が多くいたと報じられています。わざわざ国旗国歌のような微妙な問題を持ち出す前に、教育委員会はその責任をもって指示すべきことが多くあるように思います。学校において起きる問題のなかには、保護者の背後に、あまりよろしくない組織の存在が見え隠れするケースが多々あると聞きます。そのときに、教員がひとりで対処することは極めて困難です。このような場合には、組織には組織で対抗し、指揮系統が明確になっていなければなりません。この点、現職教員も教育委員会も認識が甘すぎるように感じるのは、私だけでしょうか。 #要するに公務員体質であり、私が見てきたいくつかの私学では、多くの教員は適切な認識を持っていると感じます。 某SNSでは、教育に関する問題において、某(自称)学者氏がおよそ学者とは思えない論理構成で教員批判を行っていて呆れたのですが、それに対する教員の人達の反論はさらに拙劣なものでした。劣悪な批判に対しては専門家の適切な反論が出ており、それだけで放っておけば、それでおしまいの話です。劣悪な議論(しかしディベートの技術は上手)に対して、自分の能力を省みずに出て行く人達に、現在の教育における諸問題の解決を任せて良いのかどうかは、少々気になりました。 #私は人生の半分以上を私立学校で過ごしていますので、ポジショントークではありますが。 #僕ですか?子供は絶対に私立か国立ですね、ま、もっとも、その前に…。 |