ぼくの選んだ歌(4)すすめ、ブロッケンへ
すすめ、ブロッケンへ
すすめ、ブロッケンへ、ぼくらのゆめさ
青い空、白い雲、緑の森をこえて、すすむ
ぼくらはすすむ、みんなとすすむ
ぼくらはみんな、手と手をつなぎ
頭をつなぎ、足をつなぎ、心をつなぎ
力を合わせて、未来をつなぐ
すすむ、すすむ、未来へ、すすむ
すすめ、ブロッケンへ、ぼくらのゆめさ
青い空、白い雲、緑の森をこえて、すすむ
 
「すすめ、ブロッケンへ」は「小さな小さなまほうつかいたちの大きな大きなぼうけんの話」に出てくる。小さな小さなまほうつかいのたまごたちが、一人前のまほうつかいになるためにブロッケン山へとむかうときにうたう歌だ。
 ぼく自身は、この歌を「つなぎ虫の歌」と呼んで、よろこんでいる。「手と手をつなぎ」のあとで「頭をつなぎ」ということばが浮かんだとき、正直いってうれしくなった。頭をつなげれば、足だって何だって、つなげてしまう。心をつないで、未来をつないで、もうこわいものなしだ。
 自分で作っておきながら、こんなことをいうのは何なんだけど、みんなと手と手をつないだり、心をつないだり、未来までつないでしまおうという文脈は、大きなお世話だという気がする。そんな決まり文句やめてくれというか、はっきりいって、どこかうそがある言い方だと、ぼくは考えている。きれいな花にはトゲがある。耳にやさしいことばにはうそがひそんでいる。
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 それじゃあ、いったいどうしたらいいんだ、ということになる。ぼくらには、仲間はいらないのか。手と手をつなぐ必要はないのか。心をつなぐ必要はないのか。ぼくらには、つなぐべき未来はないのか……。
 なかなか、こわい問題になる。が、この場合、ぼくは次のように答えることになる。ぼくには、このような文脈でつながる未来は必要ない、と。では、「このような文脈」とはいったい何か。なかなか、理屈っぽくて、しつこくて、まわりくどい言い方になってきた。ぼくは今、とてつもなく冴えているか、それとも、ちょっと疲れているかの、どちらかにちがいない。
 さて、「このような文脈」とは、ぼくの歌でいえば「ぼくらはみんな手と手をつなぎ、心をつなぎ、力を合わせて未来をつなぐ」というところになる。もう一度いうと、耳にやさしいことばには、うそがひそんでいる。うそも方便というけれど、うそは、やっぱりうそなのだ。うそは、ほんとうのように耳にやさしく語ってはいけない。うそはうそらしく語りきることでキラリと光る真実に変身する。
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 「すすめ、ブロッケンへ」に戻ろう。ぼくは、「手と手をつなぎ」のあとに「頭をつなぎ」と書いた。「足をつなぎ」と続けた。もちろん、ほんとうに頭や足をつなげるわけではない。これは、説明をすると馬鹿らしくなってしまうのがギャグの常だが、それでもしつこく説明すると、「手と手をつなぎ」の「手」という体の部位にひっかけた「頭」と「足」のギャグなのだ。
 ぼくの場合、心をつなぐためには、とりあえず頭や足のギャグでつなぐ必要があったということになる。このギャグがなければ、心はつなげないし、心がつなげなければ、未来もつなげないという流れになる。
 この歌を歌うとき、子どもたちは必ずうれしそうに「頭をつなぎ」のところで頭と頭をくっつけあう。「足をつなぎ」のところでは足をくっつけあう。ぼくは、そんな子どもたちを見ながら、頭突きや足払いにならなければいいなとケガの心配をする。それほどまでに子どもたちは元気に動き、そして歌う。もちろん、頭や足を「つなげない」ことぐらいは、子どもたちだって知っている。知っていながら、わざと頭や足をくっつけあう。うそはうそらしく語りきることで、キラリと光る真実に変身する。
 「手と手をつなぐ」あるいは「心をつなぐ」ということばは、それだけでは、単なる徳目にすぎないものだ。そして、徳目というやつは、だいたいこっちの事情なんか考えもせずに、向こうから勝手にやってきて「ああしろ、こうしろ、これが正しい」と言いたいことだけ言って、自分の気がすんだら、またどっかへ行ってしまうものだ。まあ、心の中にずっと居着いてしまうよりは、どっかに行ってしまう方がよほど助かるにはちがいない。が、とにかく徳目というやつは、図々しく臆面もなくわがままで厄介な代物にちがいない。
 「さあ、みなさん、手と手をつなぎましょう。ついでに、心もつなぎあいましょう」と突然言われたら、だれだって一歩下がるにちがいない。ことばは浮くし、身は引くし、といったところだ。子どもたちだって同じはずだ。そんな子どもたちが、あいだに頭と足をつなぐということば=ギャグを入れただけで、よろこんで頭をくっつけあい、足をつけあう。手なんか、当たり前のようにつないでいる。ぼくの場合、途中のギャグは絶対必要条件ということになる。誤解をおそれずにいえば、いま、ギャグ抜きで語れる真実はない、と、ぼくは考えている。
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 スーパーエキセントリックシアター(SET)という劇団が好きだ。とくに「コリゴリ博士の華麗なる冒険」に出てくる〈よわとり〉が好きだ。1988年11月に池袋のサンシャイン劇場で見た。見てから15年以上もたっている。月日のたつのは早いものだ。と、自分が年をとった感慨にひたっている場合ではない。
 SETは、「100個のギャグの中に一つの真実を」をモットーにした劇団だ。「コリゴリ博士の華麗なる冒険」は、バクドナルドの産業スパイに扮した三人の忍者(三宅祐司演じる子宝金太郎、永田耕一演じる馬飛福助、小倉久寛演じる馬飛三助)が、フライドチキンが半値になった秘密をさぐるためにヘンタッキーの社長の屋敷に忍び込むという設定になっている。半値になった理由は、遺伝子組み換えの結果、二本足の〈にわとり〉を四本足の〈よわとり〉にすることに成功したからで、足が二倍になったから値段が半値になったというわけで、「なるほど」とあきれていると、八木橋修演じるコリゴリ博士には、もう一つのたくらみがあることがわかってくる。それは〈にんげん〉を〈よんげん〉にしようという試みだ。二本の手よりも四本の手の〈よんげん〉方が武器の操作が自由にできる。強力な兵士を大量生産していろいろな国に売りつけて大もうけをしようというのが、博士の最終的なねらいだということが明らかになる。ラストは、まちがって〈よんげん〉にされて死んでしまった小倉久寛を残った三宅裕司たちが偲ぶ場面で、二本首のキリン、ヨワトリなどが歩いている……。
 と、こうやって、ストーリーを書いていっても、どうもギャグの連続の中でシリアスな社会性を語っていくSETの手法は、なかなか伝えられるものではない。が、ぼくは、〈にわとり〉を四本足の〈よわとり〉にし、〈にんげん〉を四本手の〈よんげん〉にしながら語っていくSETのギャグ的ヒューマニズムが好きなのだ。
 ヒューマニズムを声を高くして主張することばが、必ずしも真にヒューマンな言動になっているわけではない今の世の中で、この〈よんげん〉的発想は、ぼくにとって、むしろ好感が持てるものだ。コリゴリ博士のような〈よんげん〉製造はもちろん否定しなければいけないが、ぼくらのヒューマニズムはもうあまりにも自己の認めるヒューマンの範囲が限定され、硬直化しているのではないか。アメリカ的ヒューマニズムも、もう勝手にしやがれという状態だ。世界平和のためと言いつつ、イラクで多くの人々を殺し続けている。かっこよく正義や大義の名の下で人を殺すのは、最初からうそ話だとわかっているスパイ映画の中だけにしてくれと、ぼくは言いたい。
 世間に流布するヒューマニズムが、すでにヒューマンではない以上、ぼくらはもう〈よんげん〉的ヒューマニズムを獲得するしかないのかも知れない。〈よんげん〉というギャグを並列することで際立って輝いてくる〈にんげん〉のイメージが、そこにはある。もう一度、誤解をおそれずにいおう。いま、ギャグ抜きで語れる真実はない。一〇〇個のギャグが一つの真実を際だたせる。(この辺りのぼくの考えを、もっと詳しく知りたい人は『日本児童文学』1992年4月号に載せた「ある日、ぼくらは笑いの渦の中をひた走る」を、さがしだして読んでほしい。SETの「コリゴリ博士の華麗なる冒険」「メガ・デス・ポリス」に始まり、新美南吉の「ごん狐」、斎藤隆介の「べろ出しチョンマ」、ウルトラマンの変身のギャグ、プロジェクトナビの「雪をわたって」に出てくる「セロひきのゴーシュ」と「幸福の王子」の読み違え、「不思議の国のアリス」のウサギ穴から落ちる場面、最後は明治の児童文学作家、巌谷小波の「蛙の腹綿」の笑いまで、大風呂敷を広げている。読んでも損にはならないだろう。)
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 「手と手をつなぎ、心をつなぎ、未来をつなぐ」ということは、いってみれば大義だと思う。大義は、そのことばだけをとりあげると、全くのところ正しいとしか言いようのないものだ。しかし、その大義を正しいものとして押しつけられたら、たまったものではない。ぼくらは毎日、大義を生きているわけではない。ぼくらは、ねて、おきて、メシを食い、あくびをし、くしゃみをし、テレビを見て笑ったり、泣いたり、ときに怒ったり、寝ころんだり、走ったり、飛び跳ねたり、おしっこしたり、うんちしたり、考えたり、ぼんやりしたりして、毎日を過ごしている。そのいつもに大義を考えているわけではない。
 大義や徳目が、ぼくらの日々の暮らしのところにまでやってくるためには、かなりの紆余曲折を経ねばなるまい。寄り道、道草、回り道、その紆余曲折抜きの大義は大義というよりは全くのところ大儀なものにちがいない。寄り道、道草、回り道、その紆余曲折を、ぼくは、とりあえずギャグと呼ぶ。一〇〇個のギャグがあってはじめて人が生きことばが光るのは、そこまで来て、やっと語るべきひとりひとりの人間の暮らしが見えてくるからだ。
 はじめから言うと浮いてしまうことばが、いくつものギャグを経ていうと、それが妙にキラリと光ってカッコ良く見えることがある。だから、ぼくらが視点をおくべき場所は、大義や徳目の方ではなく、どうすれば光るのか。何を加えればカッコ良くなるのかという方にちがいない。ぼくが、スーパーエキセントリックシアターという劇団を好きなのは、これでもか、これでもかというギャグの連発の中で、役者が光る一瞬をねらっているからだ。
 「手と手をつなぎ」と「心をつなぎ」のあいだに「頭をつなぎ、足をつなぎ」ということばが加わることで、子どもたちは実際に頭をつけあい、あしをからませあう。おおげさに言えば、そうすることで、子どもたちは、いっしょに生きる時間を共有していることになる。いっしょに生きる時間を共有するからこそ、心もつなげるし、未来もつなげるかも知れないということになる。ギャグ抜きにつなげる手も心も未来もない。
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 「手をつなぐ」ということでは、古田足日の『おしいれのぼうけん』や『へび山のあい子』も気になるところだ。保育園のおしいれの上の段と下の段にわかれて入れられたさとしとあきらは、手をつなぐことで元気を取り戻し、ねずみばあさんをやっつける。二人とも、何回かへこたれそうになるが、そのたびに「てをつなぐ」ことで切り抜ける。『へび山のあい子』には、「つなぐこと」自体がモチーフになっている「つなぎ鳥」が出てくる。あい子たちは、つなぎ鳥になって夕焼けの空を飛び、赤い大蛇と一体になって、青い竜をやっつける。まさに、連帯の作家、古田足日にふさわしい作品だ。
 さて、ぼくにとってこまったことは、この二つの作品には、ぼくが今まで言ってきたような意味でのギャグがないことだ。古田は、まじめに連帯を語る。さとしとあきらは手をつなぐことで危機をのりこえ、ねずみばあさんをやっつける。あい子たちも、「自分をささえてくれている何百何千の人びとの手をかんじ」つつ、空に上る。ここにギャグはない。ここにあるのは、言ってみれば、呪文だと、ぼくは思う。
 では、ギャグと呪文とでは、どうちがうのか。それと大義は、どうからんでくるのか。そこまで話を広げるのは大儀なので、呪文について考えるのは、またこの次ということにしよう。最後に、もう一度呪文のように同じことばをくりかえし、きょうはこの辺でさよならだ。
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 きれいな花にはトゲがある。耳にやさしいことばにはうそがひそんでいる。うそはうそらしく語りきることでキラリと光る真実に変身する。いま、ギャグ抜きで語れる真実はない。