ぼくの選んだ歌(1)ひとりぼっちのテーマ
ひとりぼっちのテーマ
ぼっち ぼっち ぼっち
ひとりぼっち ふたりぼっち さんにんぼっち
ふたりぼっち けんかばかり
さんにんぼっち なかまはずれ
ひとりぼっちが いちばんいいぞ
ひとりぼっちで くちぶえふこう
 
ぼっち ぼっち ぼっち
ひとりぼっち ふたりぼっち さんにんぼっち
ひとりきえて ふたりきえて
さんにんきえたら だれもいない
ひとりぼっちが いちばんいいぞ
ひとりぼっちで ゆびぶえならそ
 
「ひとりぼっちのテーマ」は『進め、ぼくらの海ぞく旗』の最初の方に出てくる歌だ。これは、ぼくの作った戯曲としては、わりあい初期のものになる。友だちと「かごめかごめ」をしていたタケちゃんが、鬼になる。すねる。ひとりぼっちになる。そこに海ぞくのゴリラ団があらわれる。しめたとばかりにタケちゃんをさらっていく。そのときに、ゴリラ団がうたうのが「ひとりぼっちのテーマ」だ。
「ぼっち、ぼっち、ぼっち、ひとりぼっち、ふたりぼっち、さんにんぼっち……」とつづいていく。
 この「ふたりぼっち、さんにんぼっち」とつづいていくのが、ぼくは好きなのだ。とくに、「ふたりぼっち」という言葉が自分でもけっこう気に入っている。「ふたりぼっち」という言葉が浮かんだとき、(やったねっ!)と思った。そうすれば、「さんにんぼっち」はすぐに出てくる。「ひとりぼっちのテーマ」というタイトルだが、この歌の目玉は、「ひとりぼっち」ではなく、「ふたりぼっち」の方にある。
「ひとりぼっちはつまらない」とか「ひとりぼっちはかなしい」とか、いっても、それこそ、つまらないし、かなしいものだ。それが、ひとりぼっちのあとに、ふたりぼっち、さんにんぼっちと続いたら、どうなるか。最初にあった「ひとりぼっち」のさびしくかなしい意味はきれいにふきとばされ、1,2,3のリズムの中で、世界までが広がって見えてきてしまう。おまけに「ひとりぼっちがいちばんいいよ」とうたってしまう。悪役キャラのゴリラ団がうたう歌だから、これが逆接のパラドックスだということぐらいは、子どもたちもみんな知っている。知っていながら、元気にうたう。知っているから、たのしくうたう。劇は元気でやればいい。このあたり、完全な自画自賛になっている。
   *
 そんなわけで、「ふたりぼっち」という言葉がけっこう気に入っている。ずいぶんとむかしに、さねとうあきらの『じべたっこさま』(理論社1972年2月)を読んだとき、その民話仕立ての作品群に圧倒され、共感したものだったが、それからまた、かなりの時間を経て、さねとう作品のキャッチコピーとして「ふたりぼっちへの渇望」という言葉が浮かんだ。この言葉が浮かんだとき、ぼくはさねとうあきら論を書きたいと思った。タイトルは「ふたりぼっちへの渇望」と決まっている。もうずいぶんとむかしから、タイトルのキャッチコピーだけがしっかりとできあがり、本文はいまだに全くできていない。
 民話風創作の多くは、そのよりどころを「民」つまり民衆においている。民衆のエネルギー、民衆への限りない信頼感が、民話風創作を支えているといってもいいだろう。そこで、さねとう作品が異質なのは、民話仕立ての作品でありながら、民衆への信頼感が全くないからだ。さねとう作品の主人公たちは、自分が信じていた民衆たちに次々と裏切られ、死んでいく。
 例えば、「かっぱのめだま」の河童は、炎天下の岩の上でこうら干しを続ければこうらがとけて人間になれるという商人の話を信じて、岩の上で身をこがし、こうらとふたつのめだまだけになる。それでもなお、商人に「おらのこうら、なくなったかね?」と、たずねる目玉だけになった河童の言葉に、ぼくらはびくっとさせられる。「くびなしほていどん」もそうだ。百姓たちは、一揆の旗持ちに、こじきのほていどんを選び、自分たちの身を守る。多くの村では大勢の百姓が磔になるが、ほていどんの村ではほていどんの他はだれも死なない……。
 さねとうあきら論を展開するのが、ここの本意ではない。でも、もう少しだけ書くと、次のようになる。さねとうあきらの作品たちは、民衆を信じていない、その多くは民衆に裏切られ死んでいく。で、ありながら、なぜ切ないのか。それは、民=みんなを信じることは最初から捨てていても、たったひとりの共感者を求めているからだ。たったひとりの自分をわかってくれる人間を求めている姿に、ぼくらは胸をうたれるのだ。ぼくがさねとう作品の基調を「ふたりぼっちへの渇望」と呼ぶわけは、ここにある。とにもかくにも「ふたりぼっち」という言葉を、ぼくは好きなのだ。
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 好きついでにいうと、ぼくは、谷川俊太郎の「ひとくいどじんのサムサム」という詩が好きだ。「ひとくいどじんのサムサム、おなかがすいた、うちにかえって、かめの中の、かめのこを食べる、ななくち食べたら、もうおしまい……」と続いていく詩だ。むかし、NHKのみんなのうたでも歌われていたし、谷川俊太郎自身もこの詩が好きなようで、詩の朗読会でよく読まれているようなので、中身がへんてこりんなわりには、よく知られている詩のように思う。
 好きだと言いながら、ここからの記憶が曖昧になる。この詩をはじめて読んだのは、ずっとむかし、ある雑誌の巻頭だった。ある雑誌と書いたのは、べつに秘密にしているわけではない。ぼくの記憶がはっきりしないためだ。たぶん、やなせたかしの『詩とメルヘン』の創刊号あたりだったように思う。
 NHKのみんなのうたでは、3番までで、かめのこ、ともだち、自分と食べていって、終わりになる。が、ぼくの読んだサムサムは、もっとずっと長くて、お父さんやお母さんや、とにかくいっぱい食べていた記憶がある。かめのこを「ななくち」で食べて、友だちのカムカムを「ふたくち」で食べて、自分を「ひとくち」で食べるのは、やはり、5口くらい「もとうた」より少ない気がする。どこかで、あと5口食べてくれないと、どうも腑に落ちない。(といっても、この辺は、ぼくのあやふやな記憶の中でのことなので、あとで、まちがっていたり、はっきりしたことが出てきたら、また、なおしたい。とりあえずの記憶を大事にして、ともかくも、いま思いつくとことを書き留めておこうという魂胆なのだ。)
 さて、こんな「ひとくいどじんのサムサム」という詩を、ぼくは好きなのだ。「ひとくいどじん」という言い方が、メディアの放送コードに引っかかるとか、自主規制の対象になるとかならないとか、そういうことには、ぼくは全く関心がない。ぼくが気に入ったのは、サムサムが自分に近いものたちを次々に食べていって、おしまいには自分自身も食べてしまうという、谷川のあっけらかんとしたアナーキーさに、ぼくは感心し、小気味よさを覚えたのだった。
 ここでようやく、ぼくの「ひとりぼっちのテーマ」に戻る。ぼくは、「ひとりぼっちのテーマ」を作るとき、頭の中に谷川俊太郎の「ひとくいどじんのサムサム」を思い浮かべていた。2番の「ひとりきえて、ふたりきえて、さんにんきえたら、だれもいない……」というところを書いていたとき、ぼくの頭の中には、ひとくちで自分を食べていなくなったときのサムサムのイメージがあった。
 べつに、頭に浮かべていたからといって、サムサムをマネしていたわけではない。サムサムはひとくいどじんだから、すぐにおなかがすいてしまう。どんどんと身近な存在を食べてしまう。食べるほどに心がさむくなる。いうなれば、この詩にはひとくいどじんの悲哀というものがこもっているのだ。しかし、詩だから、そんな悲哀などというひわいな言葉を口に出したら、もうおしまいなのだ。谷川の詩は、そんなつなわたりを、あっけらかんと楽しくやっている。全くのところ、拍手喝采ものだ。パチパチ、パチパチ!
 ぼくの「ひとりぼっちのテーマ」は、もっとストレートだ。とにかく元気でやればいい。海ぞくのゴリラ団が気勢をあげて、ひとりですねているタケちゃんを見つけ出し、しめたとばかりにさらっていく。もともと元気でわんぱくな子どもたちが「やりたい、やりたい」といってできあがったゴリラ団グループなのだ。「ひとりきえて、ふたりきえて、さんにんきえたら、だれもいない……」とうたっていくのに、くら〜くなるはずもない。「ひとりぼっちがいちばんいいぞ」と楽しく歌いきってしまう。劇は元気でやればいい。
 それにしても、「みんななかよし、ぼくらはなかま」という決まり文句で、いつも劇を締めくくっているぼくが、その一方で「ひとりぼっちがいちばんいいぞ」としゃあしゃあとやってしまうのも、なかなかたのしくて、おもしろいものだ。ぼくは、けっこういいかげんなのだ。
 ぼくの劇は、5人でも10人でも、ときには1000人でもやることができる。「ひとりぼっちのテーマ」の歌だって同じようにひとりでも、1000人でもうたうことができる。その気になれば、ひとりぼっちグループというグループだって作れてしまうのだ。ぼくは、詩の芸では谷川俊太郎に遠くおよばないが、そのいいかげんさでは十分あらそえているような気がする。と、そんなわけで、ぼくは、谷川俊太郎の「ひとくいどじんの」サムサム」と、さねとうあきらの『じべたっこさま』が好きなのである。