ぼくの選んだ歌(2)進め、ぼくらの海ぞく旗(U)
進め、ぼくらの海ぞく旗(U)
すすめ、ぼくらのかいぞく旗
ぼくらのはたは どくろのマーク
なにがきたって こわいものないぞ
ゴリラに ゴジラに クジラに モスラ
ぞう かば らいおん まんとひひ
じしん かみなり かじ おやじ
さんぞく かいぞく ゴリラ団
みんなの ちからで やっつけろ
すすめ ぼくらのかいぞく旗
 
「すすめ、ぼくらの海ぞく旗(U)」は、『すすめ、ぼくらの海ぞく旗』に出てくる。この劇は、海ぞくのゴリラ団が、友だちのタケちゃんをさらうところから始まる。子どもたちは、大人に助けを求める。が、ゴリラ団という名をきいたとたんに、大人たちはみな頭痛や腹痛におそわれる。頭痛や腹痛というものは得てして精神的なものであるらしい。仕方なく、しかし元気に、子どもたちは、大人なんか当てにならないと、自分たちでゴリラ団をやっつける旅に出る。そのとき歌うのが、この「すすめ、ぼくらの海ぞく旗(U)」だ。歌のタイトルの後に(U)と付いているのは(T)があるからだ。(T)の方は、進む動機づけ風な歌で、ちょっとかっこうをつけている。「子どもたちは野を越える。とげだらけのいばらを越える。ススキの白い波を越え、子どもたちは海をめざす……。」と続いていく。学芸会が秋だったので、ススキの白い波を越え……、となっている。作ったときは、いぬいとみこの「川とノリオ」の三角の白い旗のススキを頭に浮かべながら書いていた。それから何年もあとになって箱根の仙石原のススキを見た。そのとき、こんなススキの中で子どもたちを走らせたら気持ちがよかったろうなと思った。でも、大人のぼくたちもススキの中に入ってしまったら、わけがわからなくなってやっとこさっとこ茶店の前にたどりつき、うれしくなってわいわいと甘酒を飲んだくらいだから、子どもたちがほんとうに仙石原で走ったら、ススキの背が高くて姿は全く見えなくなるにちがいない。現実とイメージのギャップはけっこう大きくておもしろい。ぼくは甘酒を飲みながら、この歌のことを考え、「ススキの白い波を越え……」と歌っていた。
 話を「すすめ、ぼくらの海ぞく旗(U)」に戻そう。(U)の方は、行進曲風で、とにかく元気に前に向かって進めばいいという歌になっている。強くてこわいゴリラ団が相手なので、強そうなもの、こわそうなものをいっぱいならべたてている。一言でいえば「みんなでゴリラ団をやっつけよう」ですんでしまう中身を、ゴリラからおやじまで全部で十七個もの言葉を羅列している。この羅列が自分ではけっこう気に入っている。
 羅列といえば、ふつうには「これはただ羅列しているだけだ」みたいに否定的に使われることが多い。ぼくのこの歌も、歌っている子ども自身が「これ、意味ないじゃん。ただ、いっぱい言って、ふざけているだけじゃん。」と、よく言う。そして、よく歌う。
 この歌を作ったときは、ぼくは、それほど羅列の効用を感じていなかったが、子どもたちがこの歌を歌うのを初めて聞いたとき、言葉の羅列が子どもたちの歌をぐいぐいと引っぱっていると思った。そのとき、ぼくは「羅列は力になる」と思った。それ以来、ぼくの歌には羅列という技が多く使われている。
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 ところで、羅列という技は、何でもかんでも羅列すればいいというものではない。羅列の詩の生命線は、第一に、何を羅列するか(羅列するものとして何を選ぶか)にあり、第二に、羅列されたものの間におかれた作者自身の言葉の良し悪しにあると、ぼくは考えている。
 ぼくのこの歌は、ゴリラ団をやっつけに行くときの景気づけの歌なので、中身はさほどない。それでも、強いものをやっつけに行くのだから、いちおう強そうなものを「ゴリラにゴジラにクジラにモスラ……」と脚韻をふんでならべている。「ぞう かば らいおん まんとひひ」のところでは、中川李枝子の『いやいやえん』の「くじらとり」に出てくる「ぞうとらいおんまる」のことを考えながら作った。
「ぞうとらいおんまる」は星組の男の子たちが積み木で作った立派な船だ。「これから、ふねのなまえをきめます」とキャプテンが言い、「ぞう!」「らいおん!」と、二人がいっしょにどなり、ぞう派とらいおん派で、しばし言い合いになる。結局「どっちもつよいんだから、いっしょにしよう」ということで「ぞうとらいおんまる」になる。強いものを二つくっつけたから、これは羅列ではなく並列だ。子どもたちは、この「ぞうとらいおんまる」に乗って、海へ出て、くじらをつれてきてしまう。ちゅーりっぷほいくえんの子どもたちは、つれてきたくじらの頭に花輪をのせて、みんなで記念写真まで撮ってしまう。見立ての船は、「くじらとり」の冒険をうみ、記念写真まで撮ってしまう。この冒険を進めていく力のひとつに「ぞうとらいおんまる」という名前の良さがあったと、ぼくは思っている。
 さて、ぼくの歌の方は、語呂合わせのためにぞうとらいおんだけでなく、かばとまんとひひも入れた。かばはほんとうに強そうだが、まんとひひがどのくらい強いのか、ぼくは知らない。「じしん、かみなり、かじ、おやじ」みたいな使い古されたこわいものを、つい入れてしまうのは、ぼくの悪いクセかも知れない。最後に「山ぞく、海ぞく、ゴリラ団」と戻して、「みんなの力でやっつけろ」とつなげる。全くのところ、子どもたちが言うように「ゴリラ団をみんなの力でやっつける」という意味以外は何もない。それでも、おもしろい言葉を機関銃のように並べ立てていったときに、子どもたちは、その並べられたものたちのおもしろさの積み重なりに、けっこう喜ぶのだ。だから、ぼくも羅列という技をけっこう気に入っている。
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 谷川俊太郎は、羅列することで世界を俯瞰する詩人だ、と、ぼくは考えている。ぼくは、羅列の詩の生命線は、何を羅列するかと、羅列されたものの間におかれた作者自身の言葉にあるといったが、ぼくは、このとき、谷川俊太郎の「生きる」と「朝のリレー」の二つの詩を頭に浮かべていた。
「朝のリレー」は、このところ、ネスカフェのテレビCMや電車のつるし広告で、よく見かける。ネスカフェの「ちがいがわかる、ゴールドブレンド」のCMはゴールドブレンドがうまいというより、CMをやっている人間の芸の方がインスタントに思えてきてきらいだが、谷川俊太郎のこの詩は好きだ。「カムチャツカの若者が/きりんの夢を見ているとき/メキシコの娘は/朝もやの中でバスを待っている……」と続いていく詩だ。このあと、ニューヨークの少女は寝返りをうち、ローマの少年は朝日にウインクするのだが、言ってみれば、谷川俊太郎は四人の若者をただ羅列しているにすぎないのだ。しかし、だれが、カムチャッカの若者とメキシコの娘とニューヨークの少女とローマの少年を羅列できるだろうか。しかも、彼らはキリンの夢を見たり、朝もやの中でバスを待ったり、笑いながら寝返りを打ったり、柱頭を染める朝陽にウインクしたりしているのだ。
 ひとつひとつでは意味のないものたちを、羅列することで、ぼくらはある種のイメージの連なりを体験することになる。そうしたイメージの積み重ねを経て、谷川俊太郎は、総体としての意味を持たせることに成功している。それが「朝のリレー」ということなのだ。谷川の言葉を経て、あらためて振り返ったとき、ぼくらの前に、羅列したひとつひとつのものたちの意味がもう一度見えてくる。
 ぼくが羅列という技を好きなのは、ひとつひとつの取るに足らないものたちを並べていったとき、並べられた瞬間から、新しい意味が生まれてくるからだ。ものとものとを、こととこととをつなげていくとき、徳目や教訓や法則さえ抜きに、意味なく(!)新しい意味をつくり出してくれる。そんな明るく前向きなアナーキーさを羅列という技は持っていると、ぼくは考えている。
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 もうずいぶんとむかしになるが、自民党が国語の教科書に載っている文学作品を批判したことがある。正確に言うと、一九七九年十月二五日付けの『じゅん刊・世界と日本』に載った石井一朝の「新・憂うべき教科書の問題」が始まりで、翌八〇年一月二二日から八月一二日にかけて『自由新報』に一九回にわたって連載された「いま教科書はーー教育正常化への提言」が中心になる。その中で、石井一朝は、「谷川俊太郎の次の詩(生きる)などは、こどもたちにはなんのことやらわかるまい。」と非難して、次のように「生きる」の詩をあげた。
 
生きるということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
怒れるということ
自由ということ
 
 これが、石井という人があげた「生きる」という詩の全部なのだが、谷川俊太郎の「生きる」を知っている人は(おや?)と思うにちがいない。よく覚えていなくても、(こんなに短かったかな?)ぐらいは感じるだろう。石井は九行だけを引用して、わけがわからないと批判した。が、谷川の「生きる」は全部で五連、三九行からできている。しかも、石井の引用したのは第二連で、その最後は「すべての美しいものにであうということ/そして/ かくされた悪を注意深くこばむこと」でむすばれる。石井が書いている「怒れるということ/自由ということ」は二連ではなく三連目のむすびで、ほんとうの第三連は次のようになっている。
 
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ
 
 石井一朝が、一連目を前略し、四連、五連を後略し、二連目から三連目にかけても中略して、二連目の前半に三連目の後半をくっつけて、九行の詩にまとめ上げ「なんのことやらわかるまい」という力業をやってくれたおかげで、ぼくらは、谷川の「生きる」の詩の羅列の意味をあらためて見直すことができる。羅列されているものたちが、ただ意味なく並べ立てられているわけじゃないと知ることができる。ミニスカート、プラネタリウム、ヨハン・シュトラウス、ピカソ、アルプスのあとには、やはり「すべての美しいものにであうということ」が似つかわしいし、「怒れるということ、自由ということ」は泣ける、笑える、怒れると続く自由なのだと、ぼくは思う。
 まあ、ヨハン・シュトラウスやピカソのあとに「怒れる」や「自由」を持ってきても、ピカソの「ゲルニカ」なんかを思い出しつつ、深読みすればいいわけだから、まんざら捨てたものじゃない。という風に話を広げてしまうと、わけがわからなくなるから、そろそろまとめにはいると、ぼくは羅列という技が好きだ。徳目抜きで人生や世界を俯瞰することができる明るいアナーキーさが好きだ。谷川俊太郎の「生きる」と「朝のリレー」が好きだ。並べられたものたちとその間に差し挟まれた作者の言葉が好きだ。だから、ぼくは、ゴリラやゴジラやクジラやモスラが大好きだということになる。