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1902 3月2日,シレジア地方カットヴィッツ(現ポーランド領カトヴィツェ)に
     生まれる.エンジニアの父はブルジョワ道徳を体現する家庭の暴君であり,
     のちには熱烈なナチス支持者となる.ハンスと弟フリッツは幼い頃から父に
     対する憎悪を募らせる一方,暴君たる夫の犠牲者であった母からは甘く優し
     い愛情を注がれて育つ.引越し先のカールスルーエで,冒険小説や奇術セット,
     旅芸人の猥雑な見せ物などの魅力に溢れた少年時代を送る.学校では哲学・
     文学・美術から数学・理科まで熱心に学んでいる.
          
1921 社会への服従心を身につけさせようとした父によって,炭坑と製鋼所で働かさ
     れる.しかし父の意図に反して,この経験をきっかけにマルクス,レーニン
     の著作を読み,社会主義思想に接近する.          
 
1922 ゲオルグ・グロッスの社会風刺画に影響を受けてグワッシュ絵画の制作を始め
     作品展を開く.展示作品が反体制的なテーマを扱っていたために警察に逮捕
     されそうになるが,危うく難を逃れる(当時の作品は紛失)

1923 社会に有用な技術を学ばせようという父の意向で,ベルリン工業大学に入学.
     このとき父と共に夜行でベルリンに到着したハンスは,夜の間に化粧を施し,
     ゲオルグ・グロッスの作った真赤な表紙のパンフレットを持って列車を降りた.
     父は破廉恥な風体の息子を連れて駅から宿泊先のホテルまで歩くはめになった.

1924 大学を中退.当時の急進左翼文学の拠点であったマリク出版社で,書物の表紙
     絵・挿絵を書く.年末から1925年にかけて冬の3カ月をパリで過ごし,
     スーラパスキンの作品に関心を持つ.

1925 この頃,人形作家ロッテ・プリッツェルと知り合う.プリッツェルの夫は
     ハンスのかかりつけの医師であった.

1926 生活の為に商業デザイナーとして独立.ベルリン=カールスホルストに事務所
     を持つ.
	
1928 病弱だが若く魅力的なマルガレーテと知り合い,最初の幸福な結婚をする.

1931 父が脳出血を起こして退職し,これを機にベルリンで両親や従妹ウルスラの
     家族と同居を始める.母が引越しの時持ってきた少年時代の思い出ーおもちゃ
     箱から強烈な印象を受け,その影響は後の創作活動にも及んでいく.
     カイザー・フリードリヒ美術館の所蔵作品や,アルトドルファー,ハンス・
     バルドゥンク・グリーンの絵画に魅了される.
     		
1932 妻の療養のため,チュニジア,イタリアを旅行.また,マティアス・グリュ
     ーネヴァルトの祭壇画を見るためコルマール(アルザス地方)に滞在.
     年末に妻,弟,従妹ウルスラとともにマックス・ラインハルト演出のオペラ
     「ホフマン物語」を観劇.人形師コッペリウスと自動人形オリンピアから
     インスピレーションを得る.
     
1933 政権を獲得したナチスに抗議するため,国家の利益につながら一切の営業
     活動を放棄する.年末に,最初の人形製作に着手する.やはり職業を放棄した
     弟と協力し,父の工具を使って行われたこの作業は,エンジニアという
     <有用性>の権化でありヒトラー支持者であった父に対する,息子達の
     <無用性>による徹底的な反逆でもあった.さらにハンスは祖母がユダヤ人
     だという話をでっちあげ,恐れた父は真偽の確認に大金を投じたという.
     
1934 自らの序文を添えた人形の写真集「人形」をカールスルーエで自費出版する.
     ソルボンヌ大学に留学したウルスラが持ち込んだこの本をパリのシュル
     レアリストたちが絶賛,人形の写真は「ミノトール」誌第6号に掲載される.

1935 ポール・エリュアールの詩「アップリケ」,ベルメールとマン・レイの写真を
     添えて「ミノトール」誌第7号に掲載.新たな人形製作を開始.
     プリッツェルとともに訪れたカイザー・フリードリヒ美術館に展示されていた
     デューラー派の人形からヒントを得て<球体関節>を採用.

1936 ロベール・ヴァランセの訳による「人形」仏語版,GLMより刊行.

1938 2月6日,妻マルガレーテが結核で死去.ナチスの脅威を避けてベルリンを
     去り,パリでシュルレアリスム運動に参加.

1939 球体関節人形に想を得たエリュアールの詩「あいまい遊戯・人形」,人形の
     写真と共に「メッサージュ」誌に掲載.詩人ジョルジュ・ユニェと共同制作
     した挿絵入り詩集「枝状に刻みこまれた流し目」,ジャンヌ・ビュッシェ
     より刊行.第二次世界大戦が始まり,敵国人としてマックス・エルンストら
     芸術家の友人とともにエクス・アン・プロヴァンスのミルの収容所に監禁
     される.

1940 外国人労働連盟の一員として召集され,フランス軍将校の肖像画家の職を得る.
     ドイツ軍侵攻を避けてカストル(タルン県)に逃れ,ドイツのパスポートを
     下水に投げ捨てる.

1942 身の安全のために仏国籍を得る目的でフランス人女性と再婚.翌年,双子の娘
     ドリアンヌ,ベアトリス誕生.この結婚は完全な失敗だったが(相手の女性は
     品行が悪く,後々までハンスを苦しめた),娘,とくにドリアンヌを熱愛する.

1944 ジャン・ブラン,ジョー・プスケ,ヘルタ・ハウスマン(ハンスの生涯の親友
     となった女性)と知り合う.カストルで亡命者を援助していたフックス一家と
     親交を結び,デザイナー時代の技術を生かした身分証明書の偽造などでレジス
     タンス活動に協力.

1945 妻と別居(離婚成立は翌年).双子の娘と生き別れになる.

1946 戦争中は音信不通となっていたベルリンの家族と連絡をとり,父が1941年
     に死去していたこと,母とウルスラは健在,弟がロシアで捕虜となっている
     こと(1948年に釈放)などを初めて知る.パリでノラ・ミトラニと出会い,
     1947年から1948年にかけてトゥールーズで同棲.ただし二人の関係は
     1950年に終わっている.

1947 パリ,マーグ画廊で行われたシュルレアリスム展に協力.

1949 創作活動に有利なパリに移り,ムフタール街に居を構える.球体関節人形の
     着色写真とエリュアールの詩(「あいまい遊戯・人形」)を収録した
     「人形の遊戯」,ハンス自身の序文を添えてプルミエールより刊行.
     

1950 最初の本格的な作品集をパリで自費出版.ノラ・ミトラニのベルメール論
    (未完),ピエール・マンディアルグ,イヴ・ボヌフォワ他のテクストが収録
     される.

1952 ジャン・ジャック・ポーヴェールの画廊で個展.

1953 戦後初めてベルリンに滞在.母国では初の本格的な個展をシュプリンガー画廊
     で開く.ウニカ・チュルンと出会い,彼女を伴ってパリへ戻り,ムフタール街
     で同棲を始める.

1957 「イマージュの解剖学」,テラン・ヴァーグより刊行.

1958 シカゴのウィリアム&ノーマ・コプリ財団賞を受ける.ウニカ・チュルンの
     緊縛写真を撮影.

1959 12月から翌年2月にかけて開催されたパリ,ダニエル・コルディエ画廊の
     シュルレアリスム国際展に参加.ゾンネンシュターンの作品を紹介する.
     ベルリンで母の死を看取る.

1963 ダニエル・コルディエ画廊で個展.

1966 ドゥノエルよりデッサン集を刊行.

1967 1月,コルマールに住んでいたドリアンヌが彼の作品を紹介したTV番組を
     見て連絡をとり,22年振りに父娘の再会が果たされる.この夏,娘ふたりと
     ウニカ,さらにウニカの娘と息子も加わってカヴァレール・シュル・メールで
     ヴァカンスを過ごす.翌年のヴァカンスにはウルスラが,1969年には結婚
     したドリアンヌの夫と生まれて間もない息子が加わり,ハンスにとって久し
     ぶりの幸福な家族体験となった.

1968 「道徳小論」,ジョルジュ・ヴィザーより刊行.

1969 9月,ドリアンヌの夫に招待されてコルマールを再訪.約40年振りに
     グリューネヴァルトの祭壇画を見たハンスは,跪いて涙を流したという.
     パリに戻ってから脳卒中で倒れ入院,左半身が麻痺.後,彼の作品の版画化
     作業はセシル・ドゥが行った.

1971 11月から翌年1月にかけて,パリ,CNAC(国立現代美術センター)で
     大規模な回顧展が開催される.

1975 2月23日,長い闘病生活の後死去.72歳.遺言に従い遺体はペール・
     ラシェーズ墓地のウニカ・チュルンの墓に埋葬された.



ウニカ・チュルン

1916年7月6日  ベルリン=グルーネヴァルトの裕福な家庭に生まれる.
1953年      ベルメールと出会ってから,アナグラム詩の創作を始めた.
1957年      精神分裂病の症状を示し,1960年精神病院に収容され,
            この時自殺未遂を起こす.その後,5回の入退院を繰り返す.
                    
1970年10月19日午前10時 ベルメールのアパート(6階)より投身自殺.

悲嘆に暮れるベルメールに代わって,葬儀の準備はリュト・アンリが行った.
無神論者のベルメールは棺に十字架をつけないことを要求し,部屋中に蝋燭を灯して
赤い薔薇のリースに「私の愛は永遠におまえを追うだろう」というメッセージをつけた.
ベール・ラシェーズのふたりの墓にも,この言葉が刻まれている.


     主な作品:1966年「ジャスミン男」
          1969年「暗い春」
                 

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