少年ジャンプ、高橋俊昌編集長 追悼

2003年1月現在の週刊少年ジャンプの編集長、高橋俊昌さんが2003年1月24日金曜日の午後16時41分にご逝去されました。

多くのニュースサイトや新聞で報じられた通り、高橋さんはたくさんのジャンプの連載作品の担当を歴任されました。

私の知る限りでも、『魁!男塾』(宮下あきら先生)、『ついでにとんちんかん』(えんどコイチ先生)、
『きまぐれオレンジロード』(まつもと泉先生)、『BASTARD!』(萩原一至先生)の担当をされました。

そして我らが冨樫義博先生を
第20回10月期ホップ★ステップ賞・最終候補の初投稿作『センセーは年下!!』を、一番最初に見出された
編集者でした。

この『センセーは年下!!』という作品は冨樫先生、高橋さんも明かされているように、既存の作家の影響を多大に受けた作品でした。
私個人はオリジナリティは乏しい作品だと思います。
(ホップステップ賞は投稿して力を培うコーナーであり、まずはマンガを投稿してみることが大切なので、オリジナリティに乏しくても
最初は仕方のないことでしょう。多くの人々は練習や模倣などを経て、力は培われるものです)

また、この回のホップステップ賞では全部で9本の最終候補が残り、入選作品なしというとても厳しい結果が掲載されていました。

しかし、※ 冨樫先生が週刊少年ジャンプに初投稿したその原稿の裏には
『ぜひ漫画家になりたい。わたしをかって損はさせません』というようなメッセージを残していたのが後、
読切4作品・『狼なんて怖くない!!』、『てんで性悪キューピッド』、『幽☆遊☆白書(一部)』を担当する
多くの作品の荒選考をしていた高橋さんの目に留まったのです。

この自己ピーアールの文章を面白いと思った氏が冨樫先生に連絡を取られたのです。
他にも、この作品から線のあたたかさを感じられたとお話されています。ひょっとしたらスゴクなるんじゃないかと。

※ このエピソードは1993年(平成5年)12月8日火曜日発売の週刊少年ジャンプ1994年NO.3・4号
(1月10・17日特大号)の懸賞品(限定2000名)・ジャンプオリジナルCDで 『幽☆遊☆白書』の担当
及びアニメ出演者が裏話を語った時に高橋さん自身に明かされました。

実際に冨樫先生が書いた文章は「これから漫画家を目指す者ですがその出鼻を挫く厳しい批評をお願いします」
とヘタッピマンガ研究所Rで後に明かされています。冨樫先生も覚えていらっしゃったのですね……。


冨樫先生は以前応募したヤングジャンプでは反応がなかったことから週刊少年ジャンプに投稿されました。
ここで冨樫先生の作品をただ影響を受けただけの模倣に近い作品と切り捨ていていたら冨樫先生は漫画家に
なられていたでしょうか。

冨樫先生は初投稿時にはペンネームを使用されていらっしゃいましたが、次作以降は本名で投稿され
作風も自分のものを確立していき、おそらく先生の夢であった教師からの漫画家への夢の変遷の一番大切な時期の
決意が見られ、それから、この投稿マンガの席次も着々と上がっています。

冨樫先生は後に明かされますが、この担当氏に何度も何度もボツをもらいます。ここでマンガを楽しむ人の視線から
マンガを描く人への視線を冨樫先生は培われたことでしょう。

この担当氏も『てんで性悪キューピッド』を担当される頃には『魁!男塾』(宮下あきら先生)を同時に担当されていたのですが
『魁!男塾』の担当は変わっても『てんで性悪キューピッド』の担当はかわりませんでした。

当時大人気を誇り、ジャンプの看板作品だった『魁!男塾』の担当に据え置かれるよりも、冨樫先生を伸ばしていく人材として、
新人としての冨樫先生を漫画家として固められるのに大役をかっていらっしゃったのです。

初の連載でとても緊張していると思われる冨樫先生には初投稿時代からの担当であり、
自分の作品をプロの作品へと導くために言葉をくれる高橋さんの存在はとても心強かったことでしょう。

そして高橋さんが『BASTARD!』を担当されたから冨樫先生は新人時代に萩原一至先生の生原稿を見ることもできました。



高橋さんは幽遊白書連載半ばにして担当がかわられました。(暗黒武術会前半ごろまで)

幽遊白書が終了した平成6年、新しくレベルEが始まった平成7年9月。平成7年10月には高橋さんは副編集長となられ、
担当よりは総括的な立場に近づき、実質的には編集者として一からご自分で探し、見出し、担当し、世に送り出し
ジャンプで大人気を得ている漫画家では冨樫先生が最後になられたのではないのでしょうか。


冨樫先生が審査員の回の今はなきホップ・ステップ賞で入賞したのが『ONE PIECE』で有名になられた尾田栄一郎先生です。

高橋さんの見る目は確実にジャンプの未来につながっていたと思います。


残念ながら少年ジャンプは1996年以降部数を落としています。
その一番苦しい時代に、2001年7月から編集の長としての座につかれ、誰よりも内情を知る分さまざまなお気持ちが交錯されたことでしょう。

2001年10月にはドイツ版ジャンプ創刊、2002年11月にはアメリカ版ジャンプの創刊…編集長に就任されて以来
ジャンプの方向性がかわる大きな出来事が続いていました。

高橋さんは80年代初めに入社され、ジャンプの黄金時代に第一線で活躍され、ジャンプの殿堂入りした代表作と通じる
数多くの大人気、大ヒット作品を担当されています。大きなプレッシャーもあったことでしょう。

そのようななか、週刊少年ジャンプの目次コメントで唯一、高橋さんが編集長に就任されたことを冨樫先生は言葉として残されています。
当時お子さまやダイエットに関するコメントを中心的に残されていた冨樫先生にとってよほど印象的な出来事だったのでしょうね。

また、さりげなく昇進にふれてくれた冨樫先生のことが、自分が見出して大きくなった先生が初代担当と忘れないでいてくれたことが
高橋さんは嬉しかったでしょうね。先にあげたジャンプのオリジナルCDでも冨樫先生を語るときの高橋さんの声は個人的に
すこしはにかんでいらっしゃって優しい言葉に聞こえました。特別な思い入れと愛おしさを感じられていたのではないのでしょうか。

私は高橋さんの担当されてきた作品の『ついでにとんちんかん』、『きまぐれオレンジロード』、冨樫義博先生の作品が個人的に
私は特に好きです。ジャンプの作品で何が好きでしたか?って聞かれたらあがるマンガのほとんどが高橋さんの担当作品でした。

(当サイトはリンクの許可をいただいていないので、また、内容も作品や先生の内容を取り上げているわけでもございませんので、
リンクをはり、直接のご紹介はできませんが、『きまぐれオレンジロード』のまつもと泉先生の公式ホームページのトップページ掲載の
過去の日記で高橋さんの人となりに触れるお言葉が偶然にも残っています。)


漫画家と編集は私にとっては切れない関係だと思います。すばらしい作品が生まれるためには面白い作品をかかれる先生だけではなく
その先生に客観的な感想や意見や時として要望などの的確な打合せ、執筆環境を整えるサポートのできる編集が必要だと思っています。

少年ジャンプにまだ編集部とマンガの顔写真が載っていた時代、
担当と漫画家が一緒になって作品を盛り上げていこうとした気迫と意思が強く感じられる時代の空気をもつ
編集者は私にとっては高橋さんでした。


謹んでご冥福をお祈りいたします。




高橋編集長率いる編集部とジャンプ連載作家陣の功績

ジャンプの1995年までの売れ行きは鳥山明先生の力が大きかったように思います。
しかし鳥山先生が抜けた以降のジャンプは総崩れでジャンプ650万部は数年で350万部強にまで部数を落としてしまいました。
多くの評論で評されるように、鳥山明先生がジャンプでドラゴンボールを連載を開始した年1984年の発行部数は318万部、
ちょうどドラゴンボールの読者がいなくなってしまったときの部数に戻ったといわれる時代になりました。

1997年以降発行部数が653万部から毎年急速に激減していたこの5年間で、ジャンプは屋台骨を立て直しにかかりました。

後に注目を集める新人発掘、今、ジャンプを代表とする作品がでてきたのもこのころです。

現在では毎週6本ものジャンプ作品のアニメが放映され人気を博しています。『ヒカルの碁』は囲碁ブームの火付け役になるなど
新聞にも何度も何度も取り上げられ、文化・社会的な貢献も見られました。

その結果、単行本の売れ行きは600万部時代に遜色を取らないほどにまでに復調し、問題は本誌の発行部数の伸び悩みにあったようです。

現在、350万部、340万部とも言われる少年ジャンプの発行部数。今、少年ジャンプのライバルともいわれる講談社の少年マガジンの
98年4・5号で事実上発行部数が日本一となり445万部と発表され、ジャンプに差を広げるばかりの時代もありました。

その発行部数が大きく差をつけられていたのが、2002年10月には10万部まで差を縮めていたのです。

アメリカ合衆国で発売されている『SHONEN JUMP』は発売日に即日売切れの店も相次いでいます。なんと、創刊号だけではなく第3号が発売されている
2003年2月1日現在さえもです。

すでに発売1年が経過するドイツ版も売れ行きの高い号はなかなか手にはいりません。私個人も実際手に入れることが出来なかった号も3冊ほどあります。

今のジャンプにあえて言うならば、少年ジャンプで鳥嶋さんが編集部で活躍していた頃、“マシリト”の手下として“サマシト”として
愛称までつき、ホップ・ステップ賞ではコメントを残して新人発掘に燃えていた時代、もうこんなフウに読者と編集部が一緒になって
先生や雑誌を応援する時代は終わったのでしょうか。

私はね、本当に本当にこの人の編集担当の作品が好きだった。高橋さんが担当した作品が一番水があって、好きだった。

ラブコメ作品の担当やギャグ作品の担当がすごく多くて、ラブコメの中でも健全な笑いがあったり、思わずホロリとしてしまったり
純粋に読者の感動をとらえている作品が多かったと思います。その反面ジャンプの方向性が変わる作品も多かったのも特長でした。

まつもと泉先生のホームページの

『連載作品っていうやつは担当編集者とのうちあわせ、ノリが反映されるから(高橋さんいわく、担当は第1番目の読者である、
読者の意向を反映せさよ)作品の色が担当の色になる。』

という言葉を借りるならば、ジャンプの私が好きな作品の殆どが高橋さんがいなかったら読めなかったんです。

『高橋さんは超完全主義者だけど物静かでシャイな人だった』

まつもと泉先生、そのアシスタントだった萩原一至先生、そして萩原一至先生の原稿を見て感銘を受けたのが冨樫先生でした。


2003年1月26日 かよー(2014年1月10日一部加筆)