鉄橋を渡るキハ58003の単行を流し撮り |
1988年(昭和63年)の晩秋の昼下がり、ふらっと有田鉄道の撮影に行きました。
人気の無い終着駅の「金屋口」では色褪せた気動車が昼寝をしているようでした。
左側のホームにはキハ58003が、
真ん中の車庫で背中を見せているのが国鉄から部品確保用に買ったキハ58136
右側の車庫から顔を出しているのはキハ58001とキハ58002の2両連結です。
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気動車の車庫の反対側には可愛い機関車DD353が顔を出していました。
この機関車は今は隠居生活をしていますが昔はきっとみかんを満載した貨車を牽引していた
事でしょう。
貨物輸送のさかんな頃は駅構内に貨物ヤードがあり |
今運用されているキハ58ですが、1975年に富士急行から譲受した車両で、富士急の頃は
急行として国鉄線に乗り入れ、新宿まで足を伸ばしていた車両です。
有田鉄道で使用するあたってエンジンを1つ降ろしています。
片運転台の001と002は2連で朝夕のラッシュに、キハ58唯一の両運転台の003は単行で
昼間に運用されています。
金屋口を出発し「有田川」と県道に沿ってみかん畑の中を走り、「御霊(ごりょう)」駅を通り、
下津野駅の手前の今は使われていない腕木式の信号機の横を通過します。
下津野駅は急なカーブのところに作られていますが、線路の敷地も広く駅の前後に腕木式の信号機が
ある所からして、以前は対向設備があったのかも知れません。 |
下津野駅に到着した単行の気動車
この日の乗客は老婦人たった一人だけでした
近くには県立吉備高校があるのだが、この時間には下校する生徒がいないのでしょうか。
駅舎にはたくさんの落書きがあり、腕木式信号機を操作するレバーがある小屋が残されていました。
次の駅は「田殿」駅で、この駅はみかん畑の中にポツンとあり、周りはにはみかんの集荷場しかなく、
構内が広い所からして、ここにも貨物ヤードや側線があり、そこから貨車にみかんを満載にしていた
名残のような気がします。 |
列車はこの後、海南湯浅有料道路の高架をくぐり、JR紀勢線と併走し終点の「藤並」駅に到着します。
藤並はJR紀勢線との接続駅だが1992年の11月30日まではJR紀勢線に乗り入れ
JR湯浅まで走っていました。
しかし信楽高原鉄道の事故を契機にJR線への乗り入れは廃止されてしまいました。
理由は安全性と乗客減のためだったのでしょうか。
紀勢線が開通するまではこの先湯浅を経由し海岸まで路線があったが、昭和9年に湯浅−海岸間廃止、
昭和19年不要不急路線として藤並−湯浅間が休止し現在の姿になったようである。
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現在の有田鉄道ですが新たに樽見鉄道からレールバス ハイモ180−101が譲受され運用されているため
キハ58003は予備車に、残る車両は廃車されてしまいました。
そしてダイヤの方も全国的にも珍しい存在で、列車は休日運休、バスで運行となっており、
平日も列車は、朝3往復、午後1往復となっています。
平成9年9月9日には「サンキュウ列車」としてキハ58003が久々に線内を2往復し、その間主要駅で写真撮影時間を設け、鉄道ファンにサービスをしてくれました。 |