私は昭和10年、今で言うところの出抜小路で生まれた。
当時の所番地は南浜町4丁目8番地である。第2次世界大戦の終結の年の6月、敵米国の空襲を予想し臨港地帯と街の中の木造住宅密集地域は焼夷弾の被害を最小限に食い止めるため強制疎開によりこの地区の木造建造物は撤去された。
出抜小路も、この為住民の大半は住居を失い、ここから去ったが私の家は大部分が石造なので何とかここに止まった。
従ってこの小路で戦前の生まれで未だこの小路に住みついているのは私だけとなり出抜小路の歴史の語り部となってしまった。お陰で、この地域に関する古い資料が出て来ると目を通す機会が多くなった。以下の話もその様な事で私が知り得た事である。
3年前かつて色内大通りの大店(ヤマサン)梅屋商店の蔵より梅屋商店創業50周年記念誌が出て来た。梅屋さんの御当主よりその記念誌を見せていただいた。今回は紙面の都合でこの記念誌の詳細を紹介出来ないのが誠に残念であるが、その中に発行年より50年後の小樽は、どうなっているか11名の人達に質問をしている。ちなみに発行は大正12年であるから、その50年後は昭和48年となる。11人の方々は小樽の有名人或いは東京の大口仕入先の社長とか御主人である。
大正12年の小樽の状態は、人口は日本で13番目 札幌より上位であり港は横浜神戸と共に日本の三大港と称され登り竜の如き時代である。
11人中9人は小樽は人口40万か50万 札幌小樽間は地下鉄となり 防波堤は祝津より張碓に拡大されている、中には花園公園は住宅地となり公園は天狗山の山麓に新しく出来ていると言う予測迄もある。
その中で2人だけは全く反対の予測をしている。その内の1人は板谷順助氏で『今小樽は北海道産品の内7割の流通に係わっているが、こんな事は夢物語である。
全小樽市民が、挙げて将来を考えないと小樽は現在の勢いを保つ事はむずかしい。人口は25万位が小樽としては最も幸な規模である。』
残り1人の井上氏(氏については詳細不明)は『これからの小樽は太平洋側の港との激烈な競争にさらされるだろう。
それは室蘭釧路との戦いである』と言い切っている。
この意見の前後も紹介したいが、前述の通り紙面がない。50年後 小樽はその間、適切な対策を見い出せないまま過ごした事と時代の流れの急激な変化の波に呑み込まれて、不本意な事に両氏の予測が当たった結果となり一時は、斜陽都市の代名詞に使われる様になった。
然し近年、中国の変貌により世界の流通経路の中で、中国発 日本海津軽海峡経由 太平洋横断 米国着と言う航路が大幹線となった。
この事は、小樽発 上海行の定期航路の盛況を見てもわかるのである。今日本海に抱かれた港に陽が当たり出したのである。
大正12年今から見ると比較にならない程の少ない情報量を基にしてても50年後の小樽の状態を正確に見据えた先人もいるのである。
世界は混沌として先の流れも又、不透明ながら情報量は十分である。
全市民の智恵を集め小樽の未来のため何をなすべきか、今真剣に考えたいと思うのは私一人だけであろうか?
諸賢の英知と郷土愛に期待したい。