| 1999年3月雑誌掲載 <芸名「ふみえ」が背負った運勢>
女としての幸せか、
芸能界での成功か
細川ふみえ
高校を中退して
芸能界に入って9年目になります。デビューのきっかけは、雑誌が主催するミス・コンテストのグランプリに選ばれたことでした。たまたま雑誌で見つけたミスコン募集の告知に、19歳だった私は、ほんの運だめしと10代最後の記念のつもりで写真と履歴書を送りました。読者投票で最後の20人に残ったと知らされたときも、「これで充分満足しなきゃ」という気持ちでしたから、グランプリに選ばれたときは、自分はなんて運がいいんだろうと、すごく嬉しかった。
それまでは、芸能界に進むなんて考えたこともありませんでした。それがグランプリ受賞を機に事務所(*1)を紹介され、思いもよらなかった芸能界への道が開かれたのです。私以上に驚いたのは両親です。ミスコンヘの応募は誰にも言ってませんでしたから。それでも事務所の社長(*2)と会った結果、父は私に「やりたいのなら、やってみろ」と。長く続けられるとは思っていなかったようで、とりあえず気がすむまでやらせてみるか、くらいの気持ちだったのではないでしょうか。
両親には、これでひとまず私が落ち着いてくれるんじゃないかという安堵感もあったと思います。というのも私は高校を1年で中退し、その後は家を出てひとり暮らしをしたり、アルバイトをしたりという生活を送っていました。両親にしてみれば、私がいったい何をしているのか、何を考えているのかわからず、心配続きの日々だったのです。デビュー後、親から冗談めかして、「芸能界に入ってから、かえって安心した」と言われたことがあります。テレビ欄に私の名前が出ていて、それが生放送だったりすると、その瞬間、私がどこで何をしているかがわかる。その姿を見ると、ホッとするのだと。
高校を中退したのは、学校に行くのが無駄なことのように思えたからです。高校は義務教育じゃないですよね。それなのに、ほとんどの人が当たり前のように進学する。そして高校に行かない人のことを、まるでアウトサイダーか落ちこぼれ人間のように見るでしょう。だけど、それって変です。早く手に職をつけたくて中学卒業後すぐに弟子入りする人もいるし、働きながら目標を見つけようとする人もいる。みんながみんな、高校に行く必要はないと思うんです。
私も親の言うとおり高校に進学したものの、何のために学校に行くのかがわかりませんでした。勉強は好きじゃない。大学まで進んで研究してみたい何かがあるわけでもない。みんなが行くから自分も行く。落ちこぼれと言われないために行く。そんな考えにはなじめないし、かといって、自分に合う道もまだ見つけられない。私はどうしたらいいんだろうかと、ずいぶん悩みました。だけど、そういうことを親には相談できない。私は子どもの頃から自分の言いたいことを表現するのが不得意で、ひとりで考え込むタイプ。それに親に相談しても結局、言いくるめられるような気がしたのです。
もう退官しましたけど、私の父は自衛官でした。しつけには厳しく、国家公務員ということもあって、子どもたちには”普通の人生”を歩むことを望んでいました。私には姉と妹がいますが、父は娘たちに対し、学校を出たあと、いい相手を見つけて早く結婚することが女の幸せだと考えていたようです。今でもそういうことを手紙に書いてくることがあります。
ともかく、その頃の私は、自分に合うものが何かはまだ見つけられないけど、親の言いなりのままだと自分がつぶれてしまうような気がしました。ただ、親の世話になっているうちは、子どもはその意見には従わなくちゃいけない。それで私は、自立しなくちゃ、家を出なくちゃと一大決意をし、高校を中退してひとり暮らしを始めたのです。内気だった私が起こした、はじめての大胆な行動ですね。
いろいろなアルバイトをしました。ファーストフード、ホテルの清掃や食事の配膳、キーパンチャー、喫茶店のウェイトレス……。それは、本当にやりたいことを見つけるためであり、また、自分の生活を支えるためでもありました。
父も母も、そんな私のことをとても心配していたようだけど、怒ったり、責めたりはしなかった。でも本当は、ずいぶんつらかったと思うのです。わが家は官舎住まいで、ドアを開ければ、まわりのお父さんもみんな自衛官。そんな環境の中で、あまり変わった子なんていないから、私のように高校中退して家を出ているとなると、不良っぽい子だと思われていたでしょう。近所の人から「ふみえちゃん、どうしてるの?」と開かれるたびに、両親は肩身が狭かったはずです。
大好きな人たちにつらい思いをさせている。そのことはとても悲しかったけど、私には自分の意志で生きる道を探ってみたい気持ちのほうが強かったのです。
そのうち私はレタリングの学校に通い始めました。何かを自分の手で創りあげるという作業は大好きだったから、学校は楽しかった。だけど、「自分がしたいのはこれ」というところまではいかない。ミスコン募集の広告を目にしたのはそんなとき。応募したのは運だめしだけでなく、何か自分の道を見つけるきっかけがほしかったのかもしれません。
過去への復讐
デビューして最初に自分の写真が載った雑誌のグラビアを見たとき、ちょっと傷つきました。「バスト94センチの……」という大きな見出し。その後も、胸の大きさばかりを取り沙汰されることに、イヤだなと思うこともありました。けれど、私を引き受けてくれた事務所に「この子やっぱりうちで預かってよかったね」と思わせたい。それだけを考えて、どんな仕事も夢中でこなしていました。
はじめて芝居の仕事を経験したのは、デビューから3、4ヵ月たった頃です。Xシネマの主役(*3)でした。いざ始めてみると、演技の訓練など受けたことのない私には、まったく芝居ができない。それまでは、一所懸命にやってできなかったということがなかっただけに、そんな自分が悔しくて、悔しくて・・・。と同時に、上手にできるようにならないと気がすまない、もっと芝居の仕事をしたいと思ったのです。
その思いを抱えながら、現実は雑誌のグラビアに写真集、イメージビデオの撮影やバラエティ番組の収録に追われる日日。スケジュールがいっぱいの中、事務所に頼んで何とかドラマの仕事を入れてもらっても、充分な準備もできないままのぞむわけですから、納得のいく演技ができるはずもありません。そして、自己嫌悪。
その頃は、本当に死にそうなスケジュールでした。たとえば深夜の生放送を終えてうちに帰ると朝の4時。翌日のドラマ収録のための台本に日を通しているともう6時です。7時にはスタジオに入るために家を出なくてはなりませんから、べッドに横になれるのはわずか1時間。寝るというよりも、目を閉じているだけ。ドラマを撮っている間も、途中で抜けて別の仕事をいくつもこなし、スタジオに帰ってまた夜遅くまで収録。そういう生活が来る日も来る日も続くのです。芸能界のことを何も知らなかった私は、「他の人も、同じことをやっているのだろうか」「だとしたら芸能人って超人かサイボーグみたい」と思ったものです。
92年から94年にかけての3年間はとくにハードで、その間、7時間続けて眠ったことは一度もなかったですね。休日は年に5日とか、せいぜい10日。写真撮影のストロボに絶えずさらされていたため、目の奥はいつもジンジンし、人と会話しているのに、自分ではしゃべっている意識がなかったりして、本当に消耗していました。今でも、その頃のことは思い出したくありません。それでも仕事を断わったり、休みがほしいと要求したことはありませんでした。どんなにキツくても、与えられた仕事をまっとうすることが自分の役目だと考えていたのです。
芸能人としては「売れている」ことは喜ぶべきことです。その一方で、勉強する余裕もなく、体も精神も疲れ切って自分を充分に発揮できないことに苦しみました。あれほどやりたがっていた芝居の仕事も、自分の力を出せないつらさから、「もうやりたくない」と気持ちが萎えてしまうのです。恋愛に似たものに迷ったりしたこともあって、「私はいったい何をしたいの?」と不安と焦りばかりが募るようになりました。悩んで、泣いて、それでも朝になるとタレント「細川ふみえ」をやらなきやいけない。そういった状況が何年か続いたでしょうか。
このままじゃ自分がダメになる───。女優としての仕事に本気で取り組みたい、そのためにも勉強の時間が欲しいし、仕事も選びたい。一つの方向が見えてきたとき、自分の意志を事務所にはっきり伝えることを決心しました。でも事務所には私をこれまで愛し、育ててもらった恩があります。迷惑をかけることだけは避けたい。それに要求を一つのんでもらうには、こちらも折れなきゃいけない部分がある。そういうことを自分なりに時間をかけて考え、整理し、社長と話し合ったのが1年前のこと。事務所は私のことをどう考えているのか、自分自身はどうしたいのか、3回にわたり、クビも覚悟で、社長と1対1でじっくり話しました。
結果、私の希望は受け入れられました。悩んだ時間が長かった分だけ、私の叫びは大きく、だから事務所も理解してくれたのだと思います。それからは何にも縛られることなく、自分が選んだことを自由にやらせてもらっています。芸能界に入ってはじめて味わう心からの解放感。
現在、私はタップと英語を習っています。表現力を身につけるために始めたのですが、面白くてハマっています。スケジュールに最初から組み込んであるので仕事の都合でレッスンを休むこともありません。これまで勉強不足のため、芝居の仕事ではさんざん悔しい気持ちを味わってきました。そんな過去の蓄積された自分の思いに対し、なんだか復讐しているみたいな感じですね。でもそんな毎日がとても充実していて、楽しいのです。
27歳という今の私の年齢は何だかおさまりが悪くて、早く30歳になりたいと思います。そうなれば役柄の幅はもっと広がるだろうし、今の私は年を重ねていくことで新しい自分を見つけられる期待感のほうが大きいのです。セクシーなイメージばかり言われるのに反発した時期もあったけど、もうこだわってはいません。作品として面白ければどんな役でもやりたいし、イメージは見てくれる人が決めればいい。そう思えるのも、気持ちに余裕が出てきたからでしょうか。
19歳でデビューしたとき、私は姓名判断の本を買ってきて、自分で芸名を考えました。そして、本名の漢字をひらがなに変えた「ふみえ」に決めたのです。その姓名判断の本を見たときはじめて、母親がつけた本名が、「夫に愛され幸せな家庭に恵まれる」というものであることを知りました。先々のことまで考え、女性としての幸せを手に入れられるようにとの願いを込めて名前をつけてくれた親の愛の深さ、ありがたさに涙が出ました。
私が芸名に選んだひらがなの「ふみえ」は、生涯孤独だし、男運も悪いんです。ただ、芸能運と悪運だけは強いとありました。この芸名に決めたときから、私は女としての幸せより、芸能界で成功することのほうを選んだのです。だからずっと仕事が大事と思ってきましたが、今は仕事という言葉のもつ重みがうんと違ってきています。長いトンネルを抜けて、ようやくたどりついた今の自分。悩んで苦しんだ日々を無駄にしないためにも、これからの一つひとつの仕事に、真剣に取り組んでいきたいと思っています。
注:
*1 当時の「イエローキャブ」。
*2
当時の「イエローキャブ」社長、野田義治氏。現在「サンズ・エンタテインメント」社長。
*3 「プリティガール」 |