ショスタコーヴィチ



交響曲第5番
交響曲第7番「レニングラード」
交響曲第9番

 ショスタコーヴィチの音楽を語る際には、もう、『証言』を避けて通ることはできない。『証言』とは、ソロモン・ヴォルコフ編、水野忠夫訳で、中央公論社から中公文庫の一冊として出版されている『ショスタコーヴィチの証言』(以降、『証言』と略す)である。日本では、1980年10月に単行本で出版されたのが最初である。世界最初の出版は、1979年アメリカだ。
 さて、1980年以降に録音されたショスタコーヴィチの音楽で、『証言』の影響を受けていないものは無いだろう。『証言』の内容を真実とするか、虚偽とするか。その録音の良く書かれた解説には、必ず何かしらの『証言』の内容が抜粋して掲載され、演奏がどのような影響を受けているか云々などと書かれている。普通の皆さんは、『証言』を読むわけではなく、解説書の引用で、その存在を知る程度だろう。
 『証言』は文庫本にしてはかなり厚い書物で、読むには骨が折れる。内容は、ショスタコーヴィッチがさまざまな思い出を話し、それについて論じていくという流れを取っている。その思い出を語る様が、じつに淡々としている。当時の為政者の非難中傷を声高にわめき告発するというものではなく、社会の深い部分、苦しみ、嘆きをこと細かに描写し続け、ショスタコーヴィチ自身の意見を述べていく。それは、真実を誠実に忠実に書き残し、歴史に埋もれさせてなるものかという意思に満ちている。
 この『証言』を偽書(つまり、嘘ばかり)と断言する人も多いし、そんな意見に傾いているという説明をする解説者もいるが、日本に住む小市民の私としては、ショスタコーヴィチとヴォルコフではない人がどれほど偽書であると叫んでも、全く納得できない。なぜなら、いつ、どんな立場のどんな人が、どこで、どのように、それを偽書であると判断したのか、さっぱりわからないからである。詳細を知らずに、自分が出会ったことも無い人が書いた「『証言』は偽書であるという非難の文章」を、私は客観的に判断して鵜呑みにはできないのである。それがたとえ学者であっても、学者にもいろいろいることは大学生になったときにわかった。イデオロギーに浸食された学者は、かなりいるのである。学者という肩書は「公平さ」を担保するものではない。『証言』が世に出るのを快く思わない人なら、何があろうと偽書と言うだろう。(そして一般人は学者の言うことを正しいと信じる。信じる根拠なんてどこにも無いのに。)
 だから、『証言』が偽書かどうか判断するのは、評論家でもなく、見ず知らずのジャーナリストでもない。それを読む人自身なのだ。少なくとも、暗く重苦しい時代であり、人権を踏みにじる政権であり、民衆はいじめられぬいた、そんな時代であることは確かです。ショスタコービチが実際に証言したというよりは、ショスタコービチという人物の威を借りて書きまくったというのが正しいかもしれない。なぜなら、名も無き人物の証言を記した書物なんて、各国で翻訳されそうにないし、読まれもしなかったに違いない。読ませよう、歴史に刻もうと考えたとき、じつに賢いやり方ではなかったかと思う。
 私は、『証言』が真実であると思う。自分としては、ショスタコービチが証言したかどうかなんて、はっきり言ってどうでもいい。しかし、そこに書いてある内容は、読めば、そう思うしかない。怒りに狂った、常軌を逸した、あるいは、狂信的な、という言葉で表現できるような書き方をしていないからである。政治とは関係無い純粋に音楽に関わることも、多く書かれている。困窮、苦難を極めた人々、それを救うために奔走する人々の話がいたるところにある。偽書が、そこまでするだろうか。そして、以下の記事を見つけたとき、自分の考えが正しい事を知った。

洋泉社「クラシックの快楽2」 発行日 1989年12月1日 渡辺和彦氏の執筆ページから、引用

 この一文を入稿したあとで、私は来日中のレニングラード・フィルハーモニーの新しい音楽監督であるユーリ・テルミカーノフにインタビューした。その席で彼は、S・ヴォルコフによる『証言』について「あれは百パーセント真実」と断言していた。「あそこに書かれていることは、私がショスタコーヴィチじしんの口から常日頃きかされていたことです」。またヴォルコフはテルミカーノフの「親しい友人」で、テルミカーノフはヴォルコフ本人から、ショスタコーヴィチのサイン入りロシア語『証言』原稿を見せてもらっていた、と語っていた。

この内容は、じつに細かく内容を規定している。それは、
 いつ:レニングラード・フィルハーモニー(*1)の来日時(1989)に、
 どこで:日本国内で、
 誰が:指揮者ユーリ・テルミカーノフ(1938〜)が
 どのように:渡辺和彦氏のインタビューで、
 何を:S・ヴォルコフによる『証言』が真実であることを
 どうした:断言した。
という、客観的に判断できる5W1Hが全て揃った発言だからである。テルミカーノフを信じるなら、『証言』を真実の書であるとそのまま断言できる。あなたにとって『証言』を真実と判断できるかどうかは、テルミカーノフがどんな人物なのかに集約されるのである。


 曲について、書いてなかった。どの交響曲も、それほど好きではない。交響曲第7番は、さすがに全曲を通して聴くのは、つらい。第9番も、途中で印象がうやむやになる。第5番の魂をえぐるような第1楽章、深い苦しみの第3楽章は、ベートーヴェンの交響曲第5番の第1第2楽章と比べてみるとよい。恐ろしさを含んでいるのは、ショスタコーヴィチのほうのみである。両方の第4楽章を比べたとき、喜ばしいのはどちらか、苦しみを乗り越えるのはどちらか、悲しみを隠して歩くのはどちらか、改めて考えることもない。こういったことを聴き取れない当時の音楽的教養人は間抜けもいいところである。私も、そんなことが言える歳になった。

*1 現在の名称は、サンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団

[完]