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平和主義
2002年8月1日、(『私たちが書く憲法前文』角川書店)が出版され、そのなかには、偶然が重なりあって投稿した拙文が掲載されています。本書は投稿を募り、それを「女性たち」若者たち」などに区分し編集されています。ですが、投稿内容を@平和 A共生(愛・平等)B地球環境 Cその他に分類することが可能で、占める割合は@平和約30%、A共生約30%、B地球環境約30%、その他が約10パーセントでした。その中でも「地球環境」の多さが瞠目されます。たぶん、30年前なら〈へそ曲がり〉や〈はみだし〉を中心に1〜2パーセント、10年前でも、せいぜい10パーセント前後しか選択されなかったと思われるのに、投稿者たちが「地球環境」を30%も選択しているからです。このことは、生活環境の変化にすばやく反応する日本人の感性の鋭さと、知性および志の高さを物語ります。
上に見たように、または各種世論調査に現れているように、日本人は『平和』を希求し、それを確かなものにするために『共生』と『環境』を選んでいるのです。そして、それを夢見ているのです。
平和ボケの歴史
661年(斉明7年)、実母の斉明天皇とともに中大兄皇子(のちの天智天皇)は、那の津に行き、国運を賭けて百済救援軍の前線基地を築きました。遠征の途中、伊予の熟田津に長期間停泊します。博多に向けて出航する当夜、儀式の席で詠われたのが「熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」という万葉の名歌でした。詠んだのは、大海人皇子(のちの天武天皇)の皇女、十市姫の生母にあたる額田女王です。
663年、救援軍は白村江で、新羅・唐の連合軍に惨敗します。もともと救援軍を派遣したのは、百済が新羅・唐の連合軍に壊滅されたことに、ショックを受けたからでした。新羅・唐の連合軍が日本に攻めてくるという恐怖感です。軍備も戦略もなく、ただ突っ走ったようです。熟田津の長期滞在がそれを物語ります。敗戦の後、恐怖のため大宰府に水城を築いたりしますが、とうとう近江へ遷都します。
大陸では秋になって農民の取り入れが終わると、今度は遊牧民が取り入れに出かけます。農村を襲って収穫物と家畜すべてを奪うためです。遊牧民にとって、この取り入れは当然の営みであり、良心の痛みなどもちろん感じません。大陸での戦争は、敗れれば民族皆殺しにされるか、奴隷として一生家畜なみの扱いを受けます。こうした経験を繰り返してきた民族は、常に危機感を持っていて、突然ヒステリックに陥るようなことはありません。
その点日本は、他民族とは自然の要塞、海で隔てられています。大陸の民族がつねに抱いているような危機感など芽生えようがありません。日本がいかに平和だったかを見てみましょう。中世以前の大陸の都市は、城壁で囲まれていましたが、そのような都市は日本にはありませんでした。付近の農民が手弁当で見物したといわれている、関が原の日本最大の天下分け目の戦いは、半日で終わります。大陸における異民族・異教徒間の戦争に比べたら、運動会の騎馬戦を大きくしたような戦争ごっこだったかもしれません。
イエズス会の宣教師は当時、世界のほとんどを見た人たちですが、彼らは「世界中でもっとも平和で安全な国」である旨を、戦国時代の日本について本国に書き送っています。江戸時代の260年は、世界史に類をみない平和な時代でした。
人類普遍の理想、平和憲法
平和と安全は人類の理想です。平和の国に生まれた幸運に私たちは、大いに感謝すべきです。平和憲法の理念の中でも、特に、憲法前文ならびに第9条の平和主義を私は、熱烈に支持します。「憲法上軍隊は認められない」というのが、わが国の憲法学者の多数説です。そのため、再軍備論者から憲法を特別の条文ではなく、前文を含めて総体的に解釈しようという考えが出てきました。これが、いわゆる解釈改憲といわれるものです。「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」と憲法前文には書かれています。
この名誉ある地位を占めるためには、血を流すことを恐れてはならない。と、再軍備論者たちは主張します。しかし解釈が限界を超えれば、「攻撃は最大の防御なり」という論理が成立し、法律は形骸化され、侵略さえも合法化されます。それは賛成論者が主張する世界貢献の意図とは逆に、世界平和を乱すことになります。さて侵略戦争を永遠に放棄するための歯止めを、憲法の前文および特定条文に透明・明確に定めるのを絶対条件にして、自衛のための軍隊を保持しうる旨、憲法に明記すべきだと私は考えます。刃物を振りかざして襲いかかる賊の手を、払いのけるのが専守防衛。その行為まで否定するのは、理想に走りすぎではないでしょうか。
1946年6月28日、共産党の野坂参三は、「侵略戦争の放棄」だけにすべきで、「正しい戦争」をやれるようにせよと発言しました。この発言に吉田首相は、真っ赤になって怒り「国家正当防衛権による戦争」が正しいという考え方は「有害」で、「戦争を誘発するゆえん」と反駁したことは語り草になっています。古今の感がしますね。
今日、憲法は拡大解釈され、憲法違反の海外派遣がなされています。外国、特にアジア諸国は、この憲法と実際とが乖離している日本に不気味さを感じ、不信の目を向けています。自衛のための軍隊は持つべきであるという私の考えは、「憲法違反をやる国」「わかりにくい国」「気味の悪い国」という世界の、特にアジアの疑問にも答えることができます。
ところで、100カ国以上約1万人が参加して開かれた「ハーグ平和市民会議」は最終日、「日本国憲法9条を見習い、各国議会は自国政府に戦争をさせないための決議をすべきだ」との文言を盛り込みました。日本国憲法の理念が世界の平和運動の旗印として前面に掲げられたのです。
中米の小国コスタリカの自然はすばらしく、「生物多様性研究所」を持っていて、生物の新種の発見や重要種の保存に力を入れています。このコスタリカも「戦争放棄」を憲法に定めています。自然環境によって文化は育まれますが、奇しくも両国は共に、美しい自然に恵まれています。人類の理想「戦争放棄」の定めがあるのは偶然ではなく、この自然の美しさとかかわりがあるのではないでしょうか。たとえば、《大いなるもの》の作用、または《つながり》によるのでは?と、思いたいものです。
しかし憲法に平和と書けば、平和が達成されるものではありません。日本は第二次世界大戦時、あれよあれよという間に一億玉砕精神で突っ走りました。当時の軍を責めるのは簡単ですが、突っ走りの根っこには日本人の血に流れている独特な防衛感覚がありました。司馬遼太郎が杞憂し、恐れ、警告を発していたのがこの亡霊でした。遥か1300年前、斉明7年のパニックと集団ヒステリーが、脈々と日本人の血の中に流れていたのです。
したがって、つねに原点に立ち帰り、問い直し、それを誠実に支えていく社会的合意と行為は欠かせません。もし欠けたなら、憲法の条文は邪教よろしく単なる呪文に過ぎなくなります。
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