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平等と全員参加
私が調べた「日本文化」を表すキーワードを示すと、それは平和(治安)・学識・平等・全員参加・勤勉・文明輸入・自由(昔)・美徳・みえ(形式重視)・柔軟性・実際主義・無原則・規律・本歌取り・集団主義(もたれ合い)・性善説(人間教)・貧困・暗・好奇心などです。名著『菊と刀』の著者で人類学者ルース・ベネディクトを虜のしたのが、この日本人の多面性でした。たとえば、形式を重視するのに実際主義・柔軟性があり、規律を尊重するにもかかわらず無原則、自由がある集団主義、貧困にもめげない好奇心など―が、日本には混在し同時進行しているからです。
そこで先ず、「平等社会」の中の「全員参加」を見ていきましょう。『万葉集』には上は天皇から、下は一般庶民に至るまで区別なく、各人各様の歌が集められています。男女の差・年齢の差・身分の差などのない、このような歌集は世界に類例がありません。サラの驚くべきことに、後白川上皇は乙前という身分の低い老女の弟子にさえなります。このように身分が低くても日本社会では、能力があれば認められるので、比較的広い範囲から人材が出る歴史を持っています。いわば能力社会、努力が認められる社会です。
このような社会では上昇志向が芽生え、だれもかれも同じバスに乗ろうとします。この「全員参加」によって引き起こされる現象の一つに受験戦争があります。一流大学を出て一流企業に就職すれば、出世の可能性は大きく、しかも有名・無名、金持ち・貧乏の差によって、その可能性が変わることはありません。このような土壌から芽生えるべくして芽生えた花、それが受験地獄であって、これは一面では日本に民主主義が定着していることを証明しているのですが、その土壌を考えに入れずに、咲いた花のみを呪っているのが評論家諸氏。
ヨーロッパで悪魔の言語といわれている言葉が2つあり、1つはバスク語で1つはフィンランドです。それぞれ別の意味で日本語に似ているそうです。であれば、日本語は悪魔の言語を通り越して、魔王の言語ということになるでしょう。しかし、それはお互い様で、こちらから見たらヨーロッパ語こそ魔王の言語です。
ギリシア語のロゴスは、言葉・論理の意味ですが、日本ではそのロゴスは好まれません。結婚式で「真実を言うときは気をつけましょう」と、30歳前後の若者がスピーチしました。なるほど、こちらの論理が正しければ正しいほど、相手の逃げ場がなくなります。相手に対する気遣いのルールを青年は説いたのです。これが日本の美徳「忖度」なのです。このほか「斟酌」は、法律の中にも使われています。「腹芸」・「以心伝心」になるとテレパシーの世界です。向き合って酒を酌み交わし、「沈黙は金」、「以心伝心」・「腹芸」によって意思の疎通が図られます。ここでは言語という伝達手段を必要としません。
「言外の言」は、これくらいことは言わなくてもわかるでしょう、というテレパシー語類に分類されます。しかし「理外の理」はテレパシー語類とは違うものです。論理的(あるいは合理的)には(A)なのだけれど(B)を選択する、という『超論理』だと思われます。しかも奇妙なことに、この『超論理』を適用して導かれた決定(B)は日本社会では有効に機能します。特に企業経営の実践ではそのようにいえると思います。経営理論をそのまま実践した結果、倒産した企業の例がいくつもあるからです。
一方、合理に則し、率直にいい合うのが欧米文化です。彼らから見れば、日本文化は気味の悪い、奇妙なものに映るでしょう。であろうとなかろうと、この超論理や超言語もひとつの日本文化。その奥底には、単一社会に基づく平等と全員参加および信頼・共感・同朋意識が根を張っているのです。したがって、もしなんらかの危機、たとえば環境破壊に遭遇した場合、一部エリートのみが危機感を抱く「階級社会と」とは異なり、この国では国民全体が「全員参加」の共通意識を持ちます。
生きるための生活の知恵?、集団主義
稲作のための村落共同体生産制度によって自然に醸成された生活様式、これが集団主義と呼ばれるものです。この集団主義の下では、個性を発揮するのは「悪」です。全体の和を乱し、それが生産の減少、ひいては飢えにつながるからです。古来、日本人は村落共同体の中で自分を殺して、皆といっしょに肩を寄せ合って生きてきました。
一般にこの集団主義は、日本文化の「負」の部分として論じられています。つまり、日本には「個人主義」がないから劣った文化だという論調です。日本人論を論じるとき、特に日本の研究者は、欧米文化というメガネを通してみて、それに合わないのは遅れている、あるいは「悪」だといった見方をします。そのメガネに色がついているかもしれにとか、もう度が合わなくなっているかもしれないとか疑いもしません(この新しいもの好きと自虐性も日本文化の一面ですが)。
さてところで、欧米型の近代化が普遍的だとすれば、日本型の近代化も普遍的であると、国際日本文化センター教授濱口恵俊は主張し、「あくまで日本型『集団』主義を想定するのであれば、それは組織に対する成員の全面的な服従ではなく、自発的な組織参加や他成員との強調が結果として自分のためになると信じて、組織活動に懸命になる傾向を言うのであり、---------」と述べています。そして、全体主義と集団主義は相容れない概念であるとした上で、依存、従属といった〈特殊〉な国民性を示す「集団主義」という用語をやめ、「共同団体主義」と呼ぶべきだと提案しています。
このように見てくると、「共同団体主義」と「運命共同体主義」および「間接個人主義」は同義であることがわかります。ともあれ、生と死さえも共有するこの村落共同体が成り立つためには、少なくとも人間は裏切らないという信頼関係がなければなりません。いつ寝首をかかれるかもしれないという不安を抱えたままでは 有効に機能しませんから。しかしだからこそ、そこから「和」「自己規制」「平等」「義理」「閉鎖性」「他人の目」「世間体」などという規範が派生しました。
「他人の目」と世間体、日本人の規範
宗教も持たない民族という通説に反して、「日本人ほど宗教にどっぷり浸かっている人々は他にいない」という人がいます。その宗教の神は、摩訶不思議にも「自身を含む信者集団の構成員全員」です。《人間教》と呼ばれるこの宗教の下では、成員を信じて同一行動をとれば、村八分に遭うことも飢えることもありません。命の守り神、それに当たるのが自分自身を含む人間だったわけです。
いつでも、どこにでも「神々の目」=「他人の目」が光っているこの国では犯罪は行われにくい。また「義理を欠く」ことも「人情を欠く」事もできません。世間体が悪く、恥ずかしい行為に当たるからです。この観点から日本文化を見たのがルース・ベネディクトの『恥の文化』ではないでしょうか。とすれば、《人間教》の一断面を見たに過ぎません。というより《人間教》から生まれてくる現象の一部分を説明しているに過ぎないともいえます。
さて、日本人にとって「他人の目」は社会的強制に当たります。その故もあってか、多分、日本人は世界中で最も自己規制する国民であろうと思われます。規律正しさ、礼儀正しさなどはその良い面ですが、「和」を守るためにガマンを強いられ、時には泣き寝入りするのは悪い面です。平和があり、ホームレスは少なく、平等が日本にはあります。しかし、この長所を帳消しするほどの抑圧もあります。たとえば、心の平安を求めてA教団の会員になったBさんは、癒されたのと入れ替わりに「他人の目」という重みにのしかかられました。この「他人の目」は日本人の道徳・規範に深く関わっています。
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