(文庫について)
著者:ドルトン・トランボ(ダルトン・トランボ)Dalton Trumbo(1905-1976)
発行:角川書店
(映画について)
原作・脚本・監督:ドルトン・トランボ(ダルトン・トランボ)Dalton Trumbo
主演:ティモシー・ボトムズ、ドナルド・サザーランド
公開:1971年(米)1973年(日本)
配給:ヘラルド映画
一言:一度は観て(読んで)欲しいと思う書物である。
映画として紹介するべきか、書物として紹介するべきか、かなり悩んだ。
正直に言えば、僕は映画については小学生の時に一度見たきりである。
なんとかビデオで入手したのだが、実は未だに観ていない。
見る側に覚悟を要求する・・・そういう映画であり小説なのである。
あらすじをできる限り、あっけらかんと書いておこう。
舞台は第一次世界大戦です。
アメリカから戦場に行ったジョニーは戦場で負傷しました。
彼は両手両足を失っただけではなく、顔そのものも失いました。
彼は「身元不明の負傷兵」となってしまったのです。
彼に出来る事は「考える事」だけです。
彼の思索は負傷する過去(アメリカでの生活)そして今(自分の置かれている立場)を往復します。
ところがある事をきっかけに現在の自分の周囲のニンゲン達と「通信」する手段を手に入れます。
彼は自分の周囲のニンゲン達に有る事を要求します。
「俺を人々に見せろ。見世物にしろ。それができないのならば殺してくれ。」
僕はこの映画との対比に二つの映画を引き合いにだす。
一つは「火垂るの墓」他方は「プライベート・ライアン」である。
多分、この二本の映画を「好き」と言う人は多いかもしれない。
だが、「ジョニーは戦場に行った」を「好き」と言う人にはついぞお目にかかった事が無い。
しかし、見た人の多くは「一度は観ておくべき映画だ。しかし二度も観る事はできない。」と言う。
実は僕は「火垂るの墓」、「プライベート・ライアン」、そして「ジョニーは戦場に行った」のどれも嫌いである。
「火垂るの墓」はオープニングですでに兄妹の末路(ゴール)を暗示している。
物語はそのゴールにひた走るのであるから、その間のエピソードを笑う事も出来ない。
#実は同様の理由で現在のスターウォーズのシリーズも嫌いである。
「プライベート・ライアン」よく「感動した」という言葉を聞くのだが、僕には理解不能である。
スピルバーグは「戦場をできるだけ正確に描写する」つもりだったのではなかろうか?
ノルマンディー上陸作戦で上陸する連合軍に情け容赦なく銃弾が浴びせられる。
次々に兵士が(それもあっけなく、残酷に)死んで行く。
死ぬのは連合軍だけではない、ドイツ軍の兵士達も死んで行く。
負傷して泣き叫んでいる兵士に止めの銃撃。
神の言葉を口にしながら次々に敵兵を撃つ狙撃兵。
この映画のどこに「感動した」という言葉を贈れる?
多分「感動した」という言葉はミラー大尉(トム・ハンクス)がライアン二等兵(マット・デイモン)に対し、
死ぬまぎわに「しっかり生きろ」と言った事をさしているんだと思うんだが。
ライアン二等兵を助ける為にあんなに人が死ぬ(殺す)のを見せて「しっかり生きろ」と言われてもなぁ・・・。
多分「感動した」という言葉はスピルバーグを困惑させると思うなぁ。
もののついでだけれどもマット・デイモンは「戦火の勇気」の演技はすばらしい。
主演のデンゼル・ワシントンもメグ・ライアンも観る必要は無いが、マット・デイモンを観るだけの為に「戦火の勇気」を観る価値はあるだろう。
でもまぁ、「ジョニーは戦場に行った」とはまるで関係ない映画なんでまさしく「蛇足」だねぇ。
さて、話を戻そう。
「ジョニーは戦場に行った」なのだが、僕は未だに好きでは無い。
しかし、「無視できない」のである。
小学生の時、僕はこたつに隠れながらこの映画を観ていた。
子供心に恐かったという事は事実だが、目を離せなかったのも事実である。
「観ておかないといけない」という義務感みたいな物だったんだろうか。
後述するこの映画の生い立ちを知れば納得できるだろうけれど、
その頃は原作者のダルトン・トランボの名前さえも知らなかったのである。
彼の名前を知ったのは小説を手に入れた時、そして彼について興味を持って調べてからである。
原書では著者本人の前書きがある。
翻訳のあとがきに訳者(信太英男氏)が掲載してくださっている。
本来ならばこのような引用は謹むべきであろうが、どうしても読んでおいて欲しい。
「本書は悪夢のような政治史をもっている。
パシフィズム(平和主義論)がアメリカ左翼団体の主流となった1938年に脱稿し、1939年春印刷所に渡り、同年9月3日に刊行された。
その十日前独ソ不可侵条約の調印がなされた。
そして第二次世界大戦は本書の刊行される二日前に勃発したのである。
すわなち本書は第二次世界大戦勃発直前に、第一次世界大戦について書かれた、アメリカンのベルでは最後の作品である。
その後連載権はニューヨーク市『ザ・デイリー・ワーカー』に渡り、その数ヶ月後には、左翼の示威運動の旗印となった。
軍検閲について述べたポール・ブランシャードの、1955年に出版された『読書の権利』によると「発禁本や発禁雑誌のなかに、独ソ不可侵条約が締結された頃に出版された、反戦小説『ジョニー』がある」としるされている。
1945年、私は激戦さなかの沖縄へコピーを送った。
交戦が激しくなるにつれて本書はついに絶番となった。
本書はようやく同年以後、二版、三版を重ねたが、朝鮮戦争当時にはまたも絶番となった。
戦時中に禁書となり、戦後出版できるということは、私にとっては喜ぶことでは無い。」
1950年代のアメリカではマッカーシズムが吹き荒れる。レッドパージ(赤狩り)の季節である。
今となってはこのマッカーシズムがいかにいい加減な物であったかというのは多くの人が述べている。(僕はレッドパージはユダヤ人迫害に匹敵する愚かな行為ではないかと思う。両方とも扇動者に一般人がまんまと乗せられたという点である。)
曰く「過去に於てアカ(共産党系)の集会に参加すれば、そいつはアカである。」
曰く「原爆に反対する者、平和主義の唱える者はアカである。」
レッドパージは映画界にも影響を与える。
「ハリウッド・テン」という言葉がある。
レッドパージの際に一切の証言(そして密告)を拒否したアメリカの映画関係者10人を指す。
その「ハリウッド・テン」の筆頭に常に挙げられているのがダルトン・トランボである。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/4362/sk-tyaginuma-1.html ハリウッドテン
http://www.face-movie.net/special_41_004.html 歴史は繰り返す?/赤狩りについて
(上記リンクにも明記しているが、実はチャールズ・チャップリンもレッドパージで被害を被っている。
チャップリンは「独裁者」という最高傑作と言える映画−コメディでもあり反戦映画でもある−を発表したが
これがアメリカでは痛烈な批判を受けた。この当時アメリカでは実はナチスに対して友好的でさえもあったのだ。)
ダルトン・トランボの名前は知らなくとも「ローマの休日(1953年)」というラブロマンス映画を知っている人は多いだろう。
この脚本家はイアン・マクレラン・ハンターとクレジットされている。
イアン・マクレラン・ハンターはこの映画で脚本にてアカデミー賞を受賞したが、授賞式に出席する事は無かった。
実はイアン・マクレラン・ハンターはダルトン・トランボの偽名であり、すばらしくつまらない理由「レッドパージにて強力をしなかった者はあらゆるアカデミー賞を受ける資格を失うものとする』というアカデミー賞の受賞規則(今では既に廃止されていると思うが)により、ダルトン・トランボは授賞式に出る事が出来なかったのである。
「ローマの休日」は実はレッドパージとダルトン・トランボについて少々エピソードがある
配給元のパラマウントがこの原案を、フランク・キャプラ(ラブストーリーが得意とされていた)に依頼。
しかしフランク・キャプラは、この話が追放されたトランボの原案と思い辞退。
まだマッカーシズムが吹き荒れるアメリカではハリウッドテンに関るのは勇気が必要だったのだ。
次に指名されたのがウィリアム・ワイラーである。彼と主演のグレゴリー・ペックはこのストーリーのタイトルを「Roman Holiday(ローマの休日)」と決める。
「ローマの休日」とは実は隠れた意味を持っている。
ローマ時代、コロシアムで奴隷達の殺しあいを見て喜ぶ人たちというネガティヴな意味である。
これをラブ・ロマンスの映画に使うという事でレッドパージに対する痛烈な皮肉にしたのだ。
そして、ワイラーはお話のラストを変更した。
異国で燻り、本国アメリカでの成功を願う主人公に最後に選択を用意する。
それは・・・内緒(笑)
是非「ローマの休日」を観て、ストーリーに泣くだけでなく、ウィリアム・ワイラーとグレゴリー・ペックの心意気に泣いてくれ。
またダルトン・トランボは1956年の「黒い牡牛」でもアカデミー原案賞をロバート・リッチ名義で受賞しているが、これも出席することが出来なかった。
ちなみにこの時の受賞を受け取ったのは1975年(!)である。
その後も名だたる名作の脚本を幾つも手がけている。
さて、「ジョニーは戦場に行った」はダルトン・トランボが唯一監督をした作品である。
この映画も時期に恵まれていない。1971年と言えばベトナム戦争の真っ只中である。
案の定、アメリカでは圧力を受け(メジャーな配給を受ける事が出来なかった)全く評価されなかったが、ヨーロッパでは高い評価を受けている。
つくづく、時期に運が無い人である。
しかし、ダルトン・トランボが1976年に亡くなった事を思えば、「なんとか間に合った」とも言えるだろう。
それとも「燃えつきた」とも言うべきか。
そして、ここまで頑固なおっさんだからベトナム戦争の真っ只中だこそ作ったのかもしれない。
この映画はダルトン・トランボの執念の作品なんである。
この映画、そして、小説を通して未だに涙するシーンがある。
それは主人公のジョニーと彼を看護する看護婦の関り合いのシーンである。
看護婦が彼の胸に文字を書く
「M・E・R・Y・C・H・R・I・S・T・M・A・S(メリークリスマス)」
彼は外の世界を知る事を熱望していたが、それはとても難しい事だった。
それを知る事が出来たのだ、これほどの喜びはあるまい。
多くの人はこれを反戦映画−それもとても残酷な−と受け取るだろうし、多分ダルトン・トランボもそのつもりだったのかもしれない。
彼は右翼か、左翼かと問われれば、多分左翼だったんだろうと思う。
でもこの映画と小説はそれ以上の物を僕に突きつける。
「生きているとは何か?」
多分答えなんか出ないんだろうけれど。
この映画も小説も読む事も観る事も覚悟を要する、と、最初に書いた。
だが一度は目を通す価値のある物だと思う。
特に簡単に「お国に為に戦う」とか言う奴は読んで欲しい。
お国の為に戦う(戦わせる)という事はこういう人達を簡単に(双方に)産み出すという事である。
安易に言うべきことでは無い。
そして、この本を、映画を観た後で特に何の感慨も無い人とは、付き合いを遠慮させて欲しい。