いつもの通り、言いたい事は沢山在る。
でもそれぞれがきちんと文章として組みあがらない。
自分の文才の無さを痛感する。

前回の書き込みで、某氏より指摘を受ける。
「キチガイって放送禁止用語になります。」との事。

マジ?、知りませんでした、私(滝汗)
でも、まあ、多少反省してはいる、って頃で堪忍してください。

今、ネタとして書きたいものは3つあって、
そのうちの一つは参議院選挙について、
で、これは参議院選挙の後に書きます。
「選挙妨害って難癖つけられちゃかなわない」からね(笑)
今回は書き物としてはタイムリーには書けないけれど、
次回以降のお楽しみ(またはお目汚し)って事で、お願い。

閑話休題
 

2001年7月21日に明石市の大蔵海岸の花火大会で起こった事故の詳細は
ここで再録する必要はないでしょう。
詳細を知りたい方はニュース関係のサイトに行って検索してください。

僕がこの事故を知ったのは、事故の翌日だった。
その晩に、何気なしにTVスイッチを入れた。
TVでは歩道橋のアクリルの側板に
拳を打ち付けていた父親の姿が放送されていた。

その姿にやりきれない気持ちになったのは確かだ。
でも、それと一緒に沸き上がった疑問が在った。
 

「あなたは危険を予測する事ができなかったのでしょうか・・・?」
 

無論、これに対する回答はわかっている。
「その場所に行くまでは危険を察知する事ができなかった。」筈なのだ。
家族をわざわざ危険な場所に連れて行くような人は親では無い。
拳を打ち付けた父親も、子供の告別式で号泣した父親も、
その場所に行くまでは危険を察知できなかったに違いないのだ。

警備計画がずさんであったことについて、明石市、警察、警備会社は
その責任を逃れられまい。
だが、逆説として考えるならば、
市(行政)や警察がその大事な瞬間にあてにならなかった事は、
今回の事故が初めてでは無いのだ。

今回の事故の前にも阪神大震災の時でもこの二つの組織は
行政と警察はあてにできたわけでは無い。
#無論この場合は災害の大きさを割り引く必要はあるが

自分の、そして自分の家族を守れるのは
結局は自分である、という事なのだ。
行政や警察を頼りにする事はできない。
どのような事例を見ても、彼らが動くのは
「コトが起こってしまった後」と誰も気づかないのか?
#俺が感じているのだから、絶対にみんな気がついているはずだ。
 

重ねて申し上げるが、行政と警察はそのずさんな警備計画に対して
責任の追求を逃れ得まい。
そして、遺族、特に幼い子供を事故で失ってしまった親御さん達に、
かける慰めの言葉も無いし、何を言っても陳腐なだけである。
ましてや「親として、危険な場所に連れていった責任」を求めるのも
違うような気がする。

#重ねて言うが、「そこが危険な場所である。」または
#そこが「危険な場所になり得る。」という意識が無ければ
#僕だって息子を連れて行くだろう。
#多分、親御さんだって、その時は「対して危険とは思わなかった。」
#に違いないのだ。
#危ないとわかっていて子供を連れて行くのは親ではない。
#僕は甘い人間なんで、事故で亡くなった子供達の親御さん達は
#そのような人たちではない、と考えているし、信じたい。

明らかに言える事は、今回の最大の教訓は
「最後に自分と家族を守るのは自分自身しかいない」
と、思えるのだ。

だから、父親になってしまった、俺は
息子を、家内を守るためにも「危険に対する嗅覚を研ぎ澄まさなければいけない。」と強く思うのだ。
 

切ない・・・・
うまく心の動きを表現できない事件については
怒り、とか恐怖とか哀れみとか、そういう物ではなくて、
それでも自分の心を旨く言い表せないことが多い。
そういう時、僕は「切ない」という表現を使うことが多い。
個人的につらいと思うのは、「切ない」としか表現できない事件が
どんどん多くなっているような気がするのだ。
 
 

2001/07/29