叔父はまだまだ若かった。
上の娘は僕の一つ年上だったのだが、まだ未婚であったし、
下の息子は高校を出たばかりだった。
そして、僕は就職をするかしないか、について最終決断を迫られていた時期だった。
 

家業を手伝い、そして昼休みになったとき、お袋が「さぁご飯食べなきゃ」とそそくさと食卓に入ってきた。
「あれっ?」と思った。
母はとても忙しく動く人間でもあるのだが、食事の時はゆっくりとこなすタイプの人間だった。
それが今日はがつがつを飯を詰め込んでいる。

「本当に・・・PONTA?健康には気を使わないと駄目だぞ・・・本当に・・・こんな事になって・・・
 なんで・・・・二人ともまだ若いのに・・・なんで・・・なんで・・・癌なんかに・・・。」

母はこらえていた物に耐え切れずに泣き出した。
この時に、僕は叔父が肺癌になってしまった事を知ったのである。
 

現在では癌であっても告知する事例は以外に多い。
一つは「患者の知る権利」というのがある。
「インフォームド・コンセント」は、一般には「医療側が訴訟を避ける為に行っている」と曲解している人達もいるが
元々は「患者の知る権利、治療を選択できる権利」を最大限に尊重した概念である。
また、実際に癌である事を患者に知らせずに治療しようとするとその治療手段が限られている。
#例えば胃癌であれば「重大な胃潰瘍」という事で手術が出来るだろうが、肺癌はどのような理由をつけるのか?
また、家族が患者に病状を隠しながら看病するというのは実際にはものすごい心理的負担を要する。
なによりも、現在において早期発見できる限り、癌は完治可能な病気という認識があるからではないだろうか?
 

叔父の場合、肺癌だった。
そして手術は行われなかった。
既に末期状態であったのかどうかについては僕は知らされていない。
#ただ、早期であったのならば医師は摘出を選んでいてくれているだろう・・・と今でも思っているのだが。
そして叔父は自分が肺癌である事を告知されずに「良性腫瘍が非常に大きくなった」という事になった。
制癌剤の投与と放射線治療を行う事になったらしい。
「らしい」というのは、叔父は当然別世帯なので、我が家に知らされていなかった事は多数あったのだ。

正直に言えば、この当時の制癌剤というのは大きな効力は無かった。
だから「延命以上の意味」は無かったと思う。
 

僕は叔父に会わないように意識してしてきた。
それは「癌という事を本人に言わない」という事を守る自信がなかった事。
そして一部の制癌剤の副作用について調べた時に、・・・叔父を正視できるか?という事があった。
 

制癌剤の投与が始まってからある日、叔父が我が家にやってきた。
叔父の頭は丸坊主であった。
驚いて問いただすと、なんでも薬の副作用で頭髪が抜け初めてうっとおしいので丸坊主にした、という事だった。
「なんか癌の薬みたいだねぇ。」といわれた時に、僕はどんな顔をしていたんだろう?
即座に言ったのか、ちょっとためらったのかは覚えていないのだけれども、
「そうだねぇ」と苦笑いをした事だけは覚えている。

そしてその数日後、叔父が「ちょっと手伝ってくれないか」と言って我が家にやってきた。
僕は叔父と話をする時は少々目をそらしがちだ。
なんでも息子が自分のトラックで脱輪したのだが、そのまま放置して会社に出勤してしまった、という事だった。
引っ張り出すから手伝ってくれないか?という事だった。
「なんでおっちゃんがそんな事まで面倒を見ないといけないのか・・・」と心の中で従兄弟に呪いの言葉を投げる。
僕の思いを知ってか知らずか叔父は言う。
「本当にどうしようも無い息子だねぇ・・・、俺が死んでしまったら、誰が面倒見るんだろう。(苦笑)」
僕は笑えばよかったのだが、うまく笑えなかった記憶が残っている。
 

僕はその年大学を中退した。(正確には除籍された事になる。)
度重なる留年(まぁ理由はあるんだけれども、それはまた機会が有った時にでも)の為に、
大学に残らずに就職をしようと思っていた時だった。
そして紆余曲折があって、就職が決まった月の事だった。
 
 

叔父が倒れた。

入院中に脳梗塞が発生(病気・制癌剤との因果関係は聞かされていない)したとの事だった。
一命は取り留めたものの、言語障害が残ったとの事だった。
 

「今、会わなければ」僕は大きな悔いを残す事になる。

近所に運転免許の試験場があるので、免停の講習会の受講するついでに、という理屈を一応用意して見舞いに行った。
覚悟はしていたがとても辛い光景となった。
付き添っていた親戚が「こっちの言っている事はちゃんとわかっているけれど、うまく聞き取れないから」
と言われたが・・・・なぜかちゃんと聞き取れる。
 

「きてくれたのか、すまないなぁ」
いや、免停になったんで、ちょっと講習会に行くついでだよ。
「免許取り消しにならんように注意しろよ」
まったく・・・気をつけるよ。
「まぁ・・・事故をおこすよりはましか」
うん、確かに。
「就職は決まったのか?」
うん、コンピュータの会社に就職したんだ。
「頑張って、仕事をして、結婚して、親に安心させろよ」
うん、うん。
「こんなんになってしまって・・・おっちゃんはもうあかんわ」
何気弱な事をいってるんだい。
 

「息子の事を頼むわ」
 

僕はなんと返答したんだろう、何か気の利いた事を言えたのだろうか?
僕はなんと返答したのか、今でも思い出せない。
その返事の中に(早く病気治さないとね)と、言っていたのは覚えている。

「すまないなぁ、家庭教師もしてもらって、大学を辞める事になってしまって。」
いや、家庭教師と中退の件は全く関係無いと思うよ(笑)
 

僕は逃げるようにして、病室を後にした。
付き添いの親戚(実はおばの親戚なので、その日まで面識は無かった)が心細げにいう。
「もうこうなっては・・・・」

「いえ、直ります。絶対に直りますって。」

これは親戚に投げた言葉では無かったように思う。
これは自分自身に言い聞かせた言葉ではなかったか?
心の底では僕も「もう助からない」と言うのは感じている。
それを表に出したくない。
そんな風に叔父の家族に接したくない。
その気持ちの現れではなかったのか、と思う。

車に乗りエンジンを掛ける。
「ここにいられない」という思いから逃げるように駐車場から車を出す。

不意にカーステから浜田省吾の「DARKNESS IN THE HEART」が流れてきた
この時に聞く歌としてはあまりにも辛すぎる・・・。
思わず車を路肩に寄せて止め、大声で泣いた。
 

そして叔父は死んだ。
少しだけ不可解なエピソードを残して。

その晩、僕は会社からの帰宅途中だった。
ある駅で途中下車してしまった。
「?」なんでここで下りたんだろう?、と思いながら次の電車に乗って帰宅する。
家に着いた時、はっと思い出し兄貴の家に電話をする。予想は当たってしまった。
30分前に危篤の連絡が入ったのだが、たった今亡くなったとの事だった。
途中下車した駅は実は叔父が入院していた病院に一番近い駅だったのだ。
途中下車した時に、その足で病院に行けば看取ってやる事が出来たのではないか、と後悔した事を覚えている。
 
 

親父(叔父の兄であり、唯一の肉親だった)は少なくとも僕の目の前では泣かなかった。
もしかしたら、最後の対面の時には泣いたのかもしれない。
その時は僕はとても叔父に顔を合わせる事が出来ず、叔父の亡骸に「じゃあ」と言ってすぐに引っ込んでしまった。
 

親父はお骨を納める時に、喉の骨を拾った後、すぐに火葬場を出た。
駐車場の片隅で火葬場に背を向けて、煙草を吸っていた。
親父は泣いていなかった。ただ必死に見開かれた目が充血していた事は覚えている。
僕もまるで涙が出なかった。

「・・・癌の塊・・・残っていたね・・・」
「・・・ん・・・・」
「あのな・・・おっちゃんの見舞いに内緒で行ったんや」
「・・・就職の話はしたか?・・・気にしていたと思ったけど・・・」
「うん、伝えた」
「・・・そうか・・・」
「おっちゃんがな、俺にゆうとったんやけど・・・」
「・・・・・」
「・・・『息子を頼む』って・・・」
「・・・・わしもお前ももう少し生きないといかんな・・・・」

滝の様に涙がこぼれた。
泣くのを悟られまいと、親父にも、火葬場にいた親戚にも背を向けた。
 
 

叔父の遺言は特に残っていなかった。
あの叔父の言葉は僕と親父しか知らない。
親父にとっても僕にとってもあの言葉は遺言となった。
彼は僕から見ても立派な社会人になった。
親父は「結婚するまではなぁ、・・・本当に死ねないなぁ。」と愚痴を言う。
 

誰にだって、父親はいる。
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2003/09/30