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No.4 「オサマ・ビン・ラディンという現象」


●戦争は土木工事でもあった

去年8月のアメリカのミサイル攻撃以前、僕は月一回アフガニスタンに行き、
現地で実施されているプロジェクトをモニターしていた。農村部に入って行く
と、村人に熱烈に歓迎される。アフガニスタンでは、客を厚くもてなすことが
一つの規範になっている。人類学者の書物を見ると、アフガニスタンの多数派
であるパシュトゥーン族の行動規範(Code of conduct)として「Revenge
(復讐)」と「Hospitality(歓待)」が必ず出てくる。他にも色々あるよう
だが、それらは法典のような形で整理されているわけではなく、いろいろな民
話として代々伝えられているようだ。その中で「復讐」と「歓待」が特に有名
になったのは、よそ者がやってきて、この二つの規範によって、痛い目に会っ
たり、いい思いをしたりしたからだろう。僕の個人的な「いい思い」という体
験から推察すれば、少なくとも「歓待」に関しては、パシュトゥーン族だけで
なく、アフガン人全体に共有されているように思う。しかし、「歓待」に喜ん
でばかりはいられない。「歓待」はよそ者を村の伝統の奥深くまで侵入させず、
玄関口で止めて喜ばして返してしまうという効果も持っている。「歓待」は
伝統社会の一つの防御法でもあるのだ。

僕がモニターするのは、パキスタンから帰還した直後の難民が再定住するのを
手助けするプロジェクトである。それらは、だいたい山岳部の農村地域にある。
というのもアフガン人の約9割は農村部に住んでいるからだ。そういう農村部
に至る道というものはほとんどないと言ってよい。干上がった川底をドライブ
する時もあれば、雪解け水の流れる川をランドクルーザーで渡ろうとして、立
ち往生することもある。標高差1000mの峠もランドクルーザーで越えて行く。
やっと現地に着いた頃には、もうクタクタになっている。ちょっと休憩したい
と思うが、その現地からまだ先があるのだ。

農村部の構造というものを僕はまったく知らなかったのだが、一つの谷が一つ
の「村」になっていて、いくつかの谷が集まってまた一つ上の階層の「村」に
なっている。どっちも「村」という言葉を使っているから非常にややこしい。
そして、上の階層の「村」がいくつか集まって、また一つ上の単位「マンテガ」
というものを構成する。これは英語では、便宜上、Zoneと訳しているが怪しい
もんだ。次に、この「マンテガ」がいくつか集まって「ディストリクト」にな
る。ここで始めて近代的な意味での行政単位となるのだけど、肝心の住民はこ
の階層まで少なくとも日常的には帰属意識を持っていないというのが僕の実感
だ。彼らの帰属意識はせいぜい「マンテガ」どまりのような感じなのだ。最後
にいくつかの「ディストリクト」が集まって「プロヴィンス(県)」となる。
(日本の「大字」とか「小字」というのは、これらのどれかに近いのだろうか?)

ところで、僕が「現地」と言ったのは、二番目の階層の「村」のことだ。そこ
から、最小単位の村、つまり谷を一つずつ見て回るわけだ。この移動がまた難
行苦行なのだ。何度行っても思うのだが、人間はなんでこんなところに住み始
めたのだろう、と思うようなところにも代々人が住んでいる。山にはほとんど
木がない。そのため洪水が繰り返されて、田畑は流されている。大きな岩がご
ろごろしていて、ランドクルーザーでも進みようがない。ロバも立ち往生して
る。そんなところなのだ。そういうところへ難民達は帰って今から村を作りな
おそうとしている。母国へ戻るというのは感動的な事業なんだろうなと思う。
他人の土地なら、とてもじゃないけど、手をつける気にならないのではないか。

ある日、僕はシェルター・プロジェクトの進捗状況をモニターする決意を固め
ていた。難民は自分の村に帰ってもとりあえず住むところがない。こんな山奥
の村でも、いやこんな山奥だからこそ、かつて聖戦士の隠れ家となり、ソ連の
ヘリコプターに攻撃されて、ほとんどすべての家屋が破壊されてしまったのだ。
まず、母国に帰った難民は自分の棲み家(シェルター)を作るのに忙しい。
シェルターといっても、かなり立派なもんだ。日本風に言えば2Kで、壁は石か
レンガを積み上げて作られる。窓枠と玄関のドア、及び屋根にだけ木材が使わ
れる。木材及び設計図は国連(UNHCR)に支給されるが、石やレンガは難民自身
が調達しなければいけない。また、実際に建築作業を行うのは帰国した難民自
身だ。冬が来ると作業ができないので、かなり頑張って急がないといけない。
同時に農作業も始めないと来年の食糧に困るから、帰還難民は非常に忙しい。
当分の間は、シェルターを建築するという労働の対価として一軒当たり350キロ
の小麦粉が国連(WFP)から支給される。こういう形式のプロジェクトを
「Food For Work 」という。援助依存症を発生させないために、また何より彼
らのdignity を傷つけないために、まったくの無償給付というのは余程の緊急
事態でない限り、行わない。建築途中のシェルターを設計図と照らし合わせて
指導をしたり、材料の調達を手伝ったり、小麦粉の配分をしたり、細かい仕事
が色々発生するのだけど、こういうのは国連が地元NGOに依頼する。彼らが言
わば現場監督となって、進捗状況をモニターしているのだ。僕が受け取るのは
彼らのリポートである。

一つの村に数百のシェルターの建築が進行中であった。もちろん全部見るのは
不可能なので、一番奥まったところにあるのを見ることにした。つまり、
リポートと実際の差が一番大きくなりやすいところを見ておこうと思ったのだ。
ランドクルーザーを降りて、ロバが捻挫するような道を1時間くらい歩いただ
ろうか。「あそこに一軒ある」、と案内してくれるNGOの現場監督が指さす
方向を見ると藪があり、その向こうに小高い丘があった。また登るのかとぞっ
としたが、我々はその藪の中に突入した。
息を切らせて藪を抜け、ふと顔を上げて僕は「うわっ!」と思わず声を出しそ
うになった。目と歯だけが光っている巨大な埴輪のようなものが目の前で動い
たのだ。それは、上半身裸で全身泥まみれになって家作りをしている帰還難民
であった。顔まで泥だらけなのでよく分からなかったが、どうやらニコニコと
笑顔で迎えてくれているらしい。彼は50歳くらいだろうか。一人で作業をして
いた。妻と子供は農作業かなんか別の仕事をしなければいけないので、人手が
足りないがなんとか一人で完成させると言っていた。壁が半分ほど出来上がっ
ていた。壁を作る石を加工するところから自分でコツコツやっているので大変
な作業だ。しかし、なんというか、故郷に帰って自分の家を作るという嬉しさ
が彼の全身から滲み出ていた。今はどこで寝ているのかと聞いたら、ビニール
シートを木陰に敷き、そこに家族で寝ているということだった。帰還していく
難民に貸与するテントが国連には全然足りないのだ。予算がないのでどうしよ
うもない。

しばらく彼の苦労話、いやむしろ幸せ話を聞いた後、彼がいいものを見せてや
ろうと言い出した。ニコニコしながら、こっちこっちと手振りで僕を誘導する。
僕に同行していたNGO一行は何か知っているらしく、やはりニコニコしている。
彼の作りかけの家がある丘を降り、また藪の中に入っていった。しばらく藪を
進むと林になっていた。木陰が続き、直射日光が避けられ少し楽になる。その
林に並行するように丘が続いている。しばらく歩くと、その丘に大きな洞窟が
並んでいるのが見えた。林に遮られて、これらの洞窟は外から見えないように
なっている。へええ、洞窟か、原始人でも住んでいた遺跡かなと思ったが、
彼らはここで「ムジャヒディン、ムジャヒディン」と言い始めた。ソ連と戦っ
た聖戦士のことだ。それは聖戦士の基地だったのだ。
中に入ると、ひんやりとしている。直立して入っても十分余裕があるくらい天
井は高い。横幅も5mくらいある。奥行きはどれくらいあるのか分からない。
20mくらい進んできりがないので引き返した。非常に立派な、しっかりした構
造のように見えた。武器や弾薬が入っていたであろう木箱があちらこちらにま
だ残っていた。こういうのがアフガニスタンの農村部の方々にあり、聖戦士は
武器や弾薬をここで補給して転戦していたのだ。ここにあった武器・弾薬はタ
リバンが来た時に全部持っていったそうだ。

戦争というのは土木工事でもあるのだということをアフガニスタンに来て始め
て知った。工兵隊という言葉を小説なんかで見ても、まったくピンと来なかっ
たが、それがようやく実感として分かるようになったのだ。このような基地や
トンネル、そして聖戦士が作った道路というのを僕はアフガニスタンのあちこ
ちで教えてもらった。高い峠を越える道は普通、グネグネとなんどもUターン
を繰り返してゆっくりと登るように作られているが、聖戦士の作った道路は恐
ろしく急勾配で一気に頂上まで駆け上るような直線なのだ。遠くから見ると山
肌をカッターですっと斜めに切った線のように見える。最短距離だけを考えて
作ったのだろうか。そんな道路を我々は今利用させてもらっている。そういう
聖戦士の土木工事を見るたびに僕の頭には一人の男の名前が浮かんでいた。
ソ連相手の聖戦が最盛期の頃、トンネル作りの天才と呼ばれていた男がいたの
だ。それが、オサマ・ビン・ラディンであった。


●オサマ・ビン・ラディンという男

世界最強のテロリストなどという仰々しいタイトルをつけてマスメディアが書
き散らすオサマ・ビン・ラディンという男は元々建設会社の経営者であった。
サウジアラビアの建設王である養父から3億ドルの資産を相続し、それを元手
にさらに事業を拡大し利益を増やしたと言われている。彼の一族は巨大な財閥
でもあり、オサマがサウジアラビアから追放された今も一族は世界各国で事業
を展開している。メディアの伝える彼の年齢は40代前半から後半までまちまち
ではっきりしない。FBIの指名手配書は彼を1957年生まれとしているから、
それによると42歳くらいということになる。

オサマが戦闘的なイスラムへと傾倒していくのは、彼がまだ10代の少年であっ
た1970年代であった。その頃、サウジアラビアでは原理主義運動が吹き荒れて
いた。
彼はイスラムの文献を貪欲に読み漁り、聖なる都市メッカの説教を毎週必ず聞
いた。彼の親戚の一人は、19歳のオサマが一族のある者の葬式で部屋いっぱい
の大人を相手に非常に雄弁に演説したのを覚えている。それは、イスラムの教
義に非常に精通した、自信に満ちた演説であった。

オサマは、シリア人の母の一人息子として、サウジアラビアの商業都市である
ジェッダの保守的な家庭に生まれた。建設事業の有力者である父、モハメッド
・ビン・ラディンは54人の子供を作ったが、その中でオサマは最も敬虔な息子
としての評判を早くから得ていた。兄弟の多くが欧米先進国に教育を受けに行
ったにもかかわらず、オサマはサウジアラビアに留まって教育を続けるという
選択をした。よりイスラム的な環境を望んだからだ。彼はジェッダのキング・
アブドゥル・アジズ大学で土木工学を学んで卒業した。

20代前半に結婚したオサマは、巨大な富を有しているにもかかわらず、質素な
アパート暮らしをすることを選んだ。現在、彼はシリア人の妻一人、サウジア
ラビア人の妻二人、そして約15人の子供と一緒にアフガニスタンのどこかで生
活している。

これまでの生涯に渡って、オサマは質実剛健とも言える生活を続けている。
スーダンで生活をしていた時でも、彼は火傷しそうな暑さにもかかわらず、
エアコンを使うことを拒否していた。「イージー・ライフに慣れることは慎み
たい」とオサマは言う。


●聖戦時のオサマ・ビン・ラディン

ソ連がアフガニスタンに侵攻した1979年、アメリカの大統領はジミー・カーター
であった。カーター政権下の唯一の硬派と言われていたブレジンスキー国家安
全保障顧問が、アフガニスタンのムジャヒディン(聖戦士)に対する隠れた支
援を実施していた。CIAは、まず、エジプトとパキスタンを通じて聖戦士の
支援を始めていた。その経費は年間7500万ドルに達していた。

1981年1月、レーガン政権が誕生した。ウィリアム・ケーシーがCIA長官に就任
した。彼はカーターの軟弱外交に不満を持っていた男だが、アフガニスタンの
聖戦士を支援しているという点は気に入った。そして彼がCIA長官をやっている
間にアメリカからアフガニスタンへ流れる資金は倍増したと言われている。
彼はまた、聖戦士のセールスマンであるかのように、西ヨーロッパ、エジプト、
サウジアラビア、パキスタン、中国などに飛びまわり、アフガン聖戦士への支
援を呼びかけ、アフガニスタンがソ連のベトナムと化していくことに熱狂した
のだった。

パキスタンへは莫大な資金と膨大な数の武器・弾薬が流れ込んだ。これらを使
って、ソ連を撃破する戦略を立案し、兵站ラインを整備し、最前線の聖戦士に
武器・弾薬を配分するなど、実質的な司令塔になったのがパキスタンの情報機
関、ISIであった。パキスタン国内には聖戦士用の訓練キャンプがいくつも作
られた。新しい武器の使用法をアメリカ人の教官がパキスタン人の軍人に教え、
それらのパキスタン人がアフガン人聖戦士の訓練キャンプの教官となった。

ソ連に対する聖戦時、アラブ諸国やその他のイスラム諸国から数千人の義勇兵
がパキスタンにやってきた。その中には熱狂的な反共産主義者、いわゆる右翼
の日本人も数人含まれていた。オサマがアフガニスタンに到着したのは早くも
1979年という説もあるし、1982年という説もあるがはっきりしない。いずれに
しろ、彼の回りにはその後、4000〜5000人のエジプト人、イエメン人、スーダ
ン人、サウジアラビア人などアラブ人の崇拝者が集まり、強力な戦闘集団が出
来上がったと言われている。

オサマには他の多くの義勇兵と違っているところが一つあった。それは彼が自
前の資金をもってやってきたということである。当初、オサマは彼の一族の企
業を使ってアフガニスタンに聖戦士のために新道建設を申し出た。ソ連のヘリ
コプターに攻撃されるのを恐がって誰もブルドーザーに乗って作業をしようと
しない時、オサマは自分でブルドーザーに乗りこみ作業をした。山腹を水平に
掘ってトンネルを作り、武器庫を確保し、道路を作り兵站ラインを整備して
いった。そうやって作られた道や武器庫が今も残っているのだ。

オサマは聖戦で少なくとも2回負傷した。1987年にオサマが関わった戦闘に関
するエピソードが残っている。パクティア県南部で、敵のソ連軍に兵士の数で
も武器の質でも圧倒され、彼と彼の部下は絶対勝ち目のない状況に追いこまれ
た。しかし、オサマは恐れ知らずにも逃げることを選ばず、この闘いに勝利し
た。今でもテレビのインタビューや写真で見ることができるが、彼は常に自分
の横にAK-47 カラシニコフを立て掛けている。これは、この戦闘でたおれた
ソ連の大将から奪ったものだ。この戦闘の後、オサマはますます恐れ知らずに
なったという。彼は死ぬまで闘い、名誉を持って死ぬことを望んでいるのだと
言う。

聖戦の後半、パキスタンの情報機関、ISIのヘッドであったハミド・グル少将
は、オサマのことを「人に強い印象を残す人物で、容貌がよく、背が高く、や
せていて、黒い大きな瞳が輝いていた。とてもソフトな話し方であった」と語
っている。聖戦時すでに、オサマは軍事的な役割を越えたカリスマ的な地位を
獲得していた。聖戦が終わって6年後の1995年、スーダンにいたオサマをハミ
ド・グル少将は再び訪ねている。彼はオサマの賛美者であり続けたのだ。
「彼は抵抗のシンボルであり、イスラム教徒全体のヒーローである」と彼は
言う。

オサマはサソリとネズミのはびこるような湿気た洞窟にあっても、規律正しい
生活を維持していた。夜明け前に祈りのために必ず起き、デーツ(乾燥ナツメ
ヤシ)とパンだけの質素な朝食を食べ、毎日、マーシャル・アーツの訓練を欠
かさなかった。それでも、昼も夜も贅沢を避け、油の少ない質素な食事で済ま
せていた。

約10年に渡り、オサマはソ連を相手にアフガニスタンでアラブの義勇軍の指導
者として聖戦を戦った。サウジアラビアに帰った彼は賞賛と寄付金のシャワー
を浴び、あちらこちらのモスクで演説をしてほしいという招待を受けた。彼の
演説のカセットテープは発売されると同時に売りきれた。25万本以上のカセッ
トテープが売れたと言われる。このテープは現在、発禁処分になっているが、
これに含まれた演説で彼は、アメリカ外交を痛烈に批判し、アメリカ商品の
ボイコットを呼びかけている。

「我々がアメリカの商品を買うことによって、我々はパレスチナ人を殺す共犯
者となっているのだ。アメリカの企業はアラブ世界で莫大な利益を上げ、そこ
からアメリカ政府に税金を払っている。その金を使って、アメリカ政府は年間
30億ドルもの大金をイスラエルに送り、イスラエルはその金を使ってパレスチ
ナ人を殺しているのだ!」


●湾岸戦争とオサマ・ビン・ラディン

オサマ・ビン・ラディンがサウジアラビアの国籍を剥奪されるきっかけになっ
たのは湾岸戦争であった。イラクがクウェートに侵攻した際、彼は異教徒であ
るアメリカの軍がサウジアラビアというイスラムの聖地に乗りだしてくること
を阻止しようとした。イラクの問題をイスラム諸国間で解決するべきだと彼は
考えていた。サウジアラビアの防衛長官、サルタン王子にオサマは10ページの
リポートを持って行き、自説を展開した。オサマはサルタン王子の前に地図を
広げ、アメリカ軍の援助なしにイラクを撤退させるあらゆる計画を説明した。
オサマとその仲間が自国を守るために、サウジアラビア人をどのように訓練す
るか、オサマ一族の建設会社の装備を使ってイラクとの国境を防衛する塹壕を
どのように作るか、侵入者を捕らえる罠をどのように作るかなどを説明した。
サルタン王子は、イラクの戦車、航空機、生物化学兵器にどうやって対処する
つもりかと尋ねた。オサマは答えた。「我々は信仰によって彼らを破る」と。

結局、同盟軍とはいうものの、圧倒的なアメリカ軍の指導の下に湾岸戦争は行
われた。異教徒、アメリカの軍がイスラムの聖地に駐留し続けるということは、
オサマにとって許しがたいことであり、また、異教徒によって、イラクの一般
市民が殺されることにも彼は非常に怒りを覚えた。それを許容するサウジアラ
ビアの王室はオサマにとって腐敗した為政者であった。

湾岸戦争後、オサマは王室批判を理由に、サウジアラビアの国籍を剥奪され、
ビン・ラディン一族からも勘当された。その後、彼はスーダンに渡った。
しかし、アメリカとサウジアラビアはスーダン政府に懲罰の脅しをかけ、結局
オサマは1996年スーダンからも追放され、アフガニスタンに戻ることになった
のだ。

その後、アメリカを標的とするテロが発生する度に、オサマ・ビン・ラディン
の名前がメディアに登場することになった。1993年、ソマリアにアメリカから
30万人の大軍が送りこまれた時も、ソマリアを援護するための義勇兵がパキス
タンから5000人、インドから5000人、バングラデシュから5000人、エジプト、
セネガル、サウジアラビアなどから5000人やってきた。アメリカ兵は惨憺たる
戦闘に陥り、撤退することになったが、この背後にもオサマがいたと言われる。
その他にも、エジプト大統領とローマ法皇の暗殺計画、アメリカのボーイ
ング747、6機の太平洋上での爆破計画、1995年、パキスタンのエジプト大使館
の爆破、1995年、リヤドのサウジ国民兵訓練センター爆破、1996年、ダーラン
近くの軍事兵舎爆破(アメリカ人19人死亡)、また、1993年、ニューヨークの
世界貿易センター爆破(盲目のラムジー・ヨウセフは逮捕済み)、1997年11月、
エジプト・ルクソールでの旅行者虐殺、等など、すべて背後にオサマ・ビン・
ラディンがいるという話が出てくる。これらに関して、オサマは自分が指揮し
たとも関与したとも言わないが、これらを実行した者を常に賞賛している。

皮肉なことに、これらのテロに関連して逮捕される者がほとんどの場合、
「アラブ・アフガン」とか「アフガン・ベテラン」とか呼ばれる、アフガニス
タンでのソ連との戦闘の経験者である。彼らは当時、CIAの供与する武器、資
金、訓練によって、戦闘のスペシャリストとなった者たちなのだ。


●アメリカ人の死刑宣告---ファトワ

98年2月、オサマ・ビン・ラディンの支援により結成された新しいグループが
ファトワを発表した。このグループの名前は『ユダヤ人と十字軍に対する聖戦
を行うイスラム国際戦線』(The Islamic International Front for Jihad
Against Jews and Crusaders)というものだ。ファトワというのは簡単に言
うと宗教的命令である。このファトワにはオサマ・ビン・ラディンはもちろん、
エジプト、パキスタン、バングラ・デシュのイスラム教徒グループの指導者達
も署名していた。

このファトワが命令しているのは、軍人、民間人にかかわらず、すべてのアメ
リカ人とその同盟者を殺せ、ということである。これは、それが可能であるか
ぎり、イスラムの聖地を彼らの支配から解放するために、すべてのイスラム教
徒にとっての個人的な義務であると述べている。

1989年、『悪魔の詩(The Satanic Verses)』を書いたサルモン・ラシュディ
がイランのホメイニ師によって死刑宣告されたと報道されたが、あれもファト
ワである。『悪魔の詩』の日本語訳者は何者かに殺害され、イタリア語訳者も
何者かに襲われ重傷を負った。現在、サルモン・ラシュディはイギリス政府に
よって、どこかに匿われている。

つまり、オサマのグループが発したファトワによって、アメリカ人全員が死刑
を宣告され、全アメリカ国民がサルモン・ラシュディと同じくらい危険な立場
にあるのだ。一般のアメリカ人がどれくらいこれを深刻に受け取っているか分
からないが、少なくともCIAは、これが世界のどこにいるアメリカ市民に対す
るテロ行為も正当化するものであると警告している。この危機感が、第三者の
立場から見れば、ほとんど神経症的とも見える最近のアメリカの行動を引き起
こしているのではないだろうか。去年8月のアメリカによるスーダン、アフガ
ニスタンに対するミサイル攻撃も、今年7月6日にアメリカが発令した、アフガ
ニスタンに対する経済制裁も、何ら実際的な利益があるとは思えない。まさに、
火に油をそそぎ続けているようなものだ。将来、これらはアメリカ外交の大失
策として記録されるかもしれない。

ヨルダンの戦略研究所所長のムスタファ・ハマルネーは、アメリカのスーダン、
アフガニスタンに対するミサイル攻撃に関して次のように言っている。
「この爆撃は、アメリカが中東においてダブル・スタンダードを適用している
という見方を定着させるだろう。アメリカ人は歴史から学ぶことがない。こん
なことをすれば、反米感情・反米行動をさらに煽り、この地域のアメリカの友
人に墓穴を掘ることになることくらい、歴史を見れば分かっただろうに」

「オサマ・ビン・ラディン」というのは一人の個人というよりも、アメリカが
受け継いだヨーロッパ諸国の負の遺産、つまり、「オリエント」を発見し、
それを知とする過程で、「ヨーロッパ」という権力を作りだし、その権力の地
理的拡大、薄っぺらく言えば帝国主義なのだが、それに抵抗する現象として理
解するべきだろう。オサマの一人や二人殺したところで、どうにかなるもので
もないのだ。次々に新しいオサマが続くだけだ。それを全部殺すつもりだとし
たら、どっちがテロリストだか分からない。

未来の歴史家は、湾岸戦争を非常に重要な画期であったと見るかもしれない。
東と西の対立が消滅すると同時に、「イスラム対西洋」という構造を顕現して
しまったのが湾岸戦争だったと。現在のサウジアラビアやエジプトのようにあ
からさまにアメリカ寄りの政策をとる国は内部に不満分子を抱え込んで、どん
どん不安定化していくのではないだろうか。現にオサマの信奉者にはそういう
国の出身者が多い。公的にはオサマを非難しているサウジアラビアからも、資
産家が個人的にオサマに資金援助を続けていると言われている。

非常に身勝手に、いや愛国的に考えれば、日本がその「イスラム対西洋」とい
う対立構造に巻き込まれるのはなんとしても避けるべきだと思う。日本人を殺
せというファトワなんて出されたら、日本人はものすごくあっけなくあっち
こっちで殺されてしまうんじゃないか。少なくとも海外旅行は諦めた方がいい
だろう。湾岸戦争の時は、日本は大金を出したのに、新聞一面を使ったクエー
ト政府の感謝広告に名前も出されなかった、全然貢献を認められなかったと騒
いだが、儲けものだったかもしれない。
アメリカ側に付いていたのが、目立たなくて良かったではないか。少なくとも
日本は反イスラムというレッテルをまだ貼られていないと思う。別にアメリカ
と喧嘩する必要もないだろうが、この「イスラム対西洋(アメリカ!)」とい
う構造の中で日本が無闇にアメリカについて行くと、思わぬ墓穴を掘るかもし
れない。むしろ忠告する立場に回るべき時ではないか。あんまり他人の家に顔
突っ込むなと。

98年のあるインタビューで、オサマはアメリカ国民に何かメッセージはあるか
と訊かれて次のように答えたことがある。

「一国民としてのアメリカ人に告げる。兵士の母たちに、一般のアメリカの母
親たちに告げる。自分の命と子供たちの命を大切に思うなら(中略)、自らの
国益を求めて、他人、他の土地、他人の名誉を攻撃しない、まともな政府を求
めよ。それがアメリカ国民への私のメッセージだ」

オサマ・ビン・ラディンはアメリカの批判をする時、よく日本の話を出す。
広島と長崎に原爆を落として、罪のない一般市民、女、子供を虐殺するような
国、それがアメリカだと非難するのだ。これがまた、アメリカ人の軍人・民間
人を区別せず無差別にテロの対象とする理由としても語られる。オサマは日本についてどう思っているんだろう?きいてみたいものだ。


●次世代のオサマ

パキスタンで今、最も人気のある名前の調査結果が最近、新聞に出ていた。
一番人気は「オサマ」だった。アフガニスタンとの国境近くのある村では、
去年8月のアメリカのミサイル攻撃以来、500人以上の「オサマ」という名前の
赤ちゃんが生まれたそうだ。同じ記事によると、「オサマ」人気は赤ちゃんの
名前にとどまらないらしい。ビジネス、あるいは公的機関にも「オサマ」とい
う名前が急増しているということだ。「オサマ養鶏場」、「オサマ・ベーカ
リー」、「オサマ薬局」、「オサマ服飾店」、「オサマ時計店」、「オサマ公
立学校」などの例が出ていた。

なぜ息子を「オサマ」と名付けたのかと聞かれた人が次のように答えていた。

「アメリカに挑戦し、アメリカを無視し、虐げられたイスラム教徒の代弁をし
てくれるオサマ・ビン・ラディンの勇気にみんな感銘してるんだ。自分の息子
もオサマ・ビン・ラディンの志を継いで、イスラムの大義を支えて欲しいと思
う。」

同じ日の新聞に、オサマ・ビン・ラディンがFBIの最重要指名手配人物トップ10
に入ったという記事が載っていた。賞金は500万ドル(約6億円)だと。

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