No.3 「神の戦士たち」
タリバンには伝説がつきまとう。その一部はほとんど神話化し、あるいはミス
テリーとして語られる。ようやく最近になって、タリバンに焦点を絞った出版
物が出てきた(*)。
しかし、おそらく全貌が明らかになるのは、ずっと後のことだろう。タリバン
自身、自分たちの出自を説明するということに興味を示していない。そして、
メディアには歪んだタリバン像が蔓延している。まるで、メディアの歪みが鏡
に映っているかのようだ。
バランスを失わずに、タリバンという現象の総体を理解するためには、
(1)アフガニスタンの置かれた歴史的文脈、(2)アフガニスタンの部族文化、
(3)この地域の政治力学、そして(4)イスラム教、少なくともこれら四つの
パースペクティブが必要だろうと僕は思っている。
『カブール・ノート』でそのような壮大な「タリバン研究」に挑戦するつもり
はない。これからもてんでばらばらの話が続くだろう。しかし、その中で、
タリバンにも正当な位置を与えるつもりだ。とりあえず、タリバン伝説の起源
から書いてみよう。
*****
イスラム教神学を教える学校をマドラサと言う。パキスタン内のアフガン難民
キャンプには、パキスタンや他のイスラム教国の援助によりマドラサがたくさ
ん作られた。
難民キャンプで生まれた子供たちの多くがそこでイスラム教を学んだ。
マドラサで学ぶ神学生をタリブという。タリバンはその複数形だ。
アフガニスタン南部のカンダハル県マイワンド区シンギサール村の簡素なマド
ラサでイスラム教を学んだ少年がいた。彼はやがて、聖戦士中のヒーローの
一人、ユニス・ハリスの率いる一派に入り、ソ連軍との戦闘で片目を失ったも
のの、聖戦士として素晴らしい名声を打ちたてた。
1994年、ソ連の撤退から5年が過ぎていたが、彼の故郷、カンダハルは元聖戦士
達に分割され、恣意的な「税」の徴収、略奪、強盗、強姦が日常化していた。
彼とその仲間、計30人が、元聖戦士の腐敗を一掃し、アフガニスタンに平和と
秩序を取り戻す決意をし、武器を持って立ちあがったのは、その年の夏であっ
た。しかし、彼らのうち、その時、武器を持っていたのはわずかに14人だけで
あった。彼らがその約2年後に歴戦の元聖戦士達をことごとく打ち破り、
カブールに入城することになるとは誰が予想しただろうか。彼の名前を
ムッラー・モハマッド・オマールという。現在のタリバンの最高権力者である。
その年の10月29日、薬品、食品、消費物資等を満載した30台のトラックがコン
ボイを組んで、パキスタンの町、クエッタを出発した。行く先は、アフガニス
タン南部のカンダハル、西部のヘラートを通過して、ずっと先のトルクメニス
タンであった。この頃、パキスタン政府はアフガニスタンを通過してトルクメ
ニスタンに入る交易路を確立しようとしていた。この30台のコンボイはその最
初の実験であり、パキスタン政府は万全の準備を整えたはずであった。
コンボイの出発に先立ち、パキスタンのベナジール・ブットー首相はトルクメ
ニスタンに飛び、ヘラートを支配しているイスマイル・カーン及びアフガニス
タン北西部、つまりトルクメニスタンへの入り口を支配しているアブドゥル・
ラシッド・ドストム将軍と会い、コンボイの安全な通過に協力するという約束
を彼らから取りつけていた。また、パキスタンの内務大臣である、ナセルラ・
バーバルは、10月20日、アメリカ、英国、中国、イタリア、韓国の五カ国の
大使を引きつれてクエッタ、カンダハル、ヘラートを案内し、アフガニスタン
を通過して中央アジアとパキスタンを結ぶ、『トランス・アフガニスタン・
ハイウェイ構想』をぶち上げ、その整備のため3億ドルの援助を頼んでいた。
つまり、この30台のコンボイはパキスタン政府にとって、非常に重要なショー
であったのだ。
出発から3日後、11月2日、このコンボイに事件が起こった。アフガニスタンと
の国境を無事通過し、カンダハルの35キロ手前の街、タフテ・プルまで来たと
ころで、そこの支配者、マンスール・アチャクザイに停止させられたのだ。
このコンボイの停止には、いまやカンダハル周辺の戦争屋(warlord)と化し、
互いに抗争を繰り返していた元聖戦士達も、同盟を組み、協力していた。
パキスタン政府は怒っただろう。交渉による解決も試みられたが、この戦争屋
連合軍を説得するのは不可能に思えた。
11月3日、そこに突然、別のグループがコンボイの救出に現れ、元聖戦士の
連合軍をあっという間に撃破してしまった。彼らはコンボイを解放しただけで
なく、さらに前進し、24時間も経たないうちに、カンダハル県から元聖戦士の
すべての派閥を一掃し、カンダハルの武装解除を決行した。このグループが
タリバンであった。この戦闘でのタリバンの死者はたった9人だったと言われ
ている。これがタリバン伝説の始まりである。その後、タリバンには常に神秘
性がつきまとい、無敵というオーラが漂うことになった。この段階でタリバン
は規律とモーティベーションに満ちた2500人〜3500人の戦士集団になっていた。
しかし、彼らはいったいどこから来たのか?
数ヶ月前は、たった30人で武器は14丁しかなかったのだ。
パキスタンのコンボイを解放し、カンダハルを急襲したタリバンの多くは、
クエッタ周辺の難民キャンプにあるマドラサで学ぶ若い神学生であった。
カンダハルに突撃するタリバンのほとんどが新品のカラシニコフを持っていた。
その時、タリバンとは逆方向にパキスタンに逃げ出す外国人のジャーナリスト
や援助関係者達はその道中に無数のグリース紙が舞っているのを見て帰ってき
ている。神学生達が新品のカラシニコフを包んでいたグリース紙をはがしなが
らカンダハルに急行したからだ。
武器はどこから来たのか?
実は、このコンボイ救出劇はタリバンの緒戦ではなかった。クエッタと
カンダハルを結ぶ道をアフガニスタン側へ少し越えたところに、スピン・
ボルダックという街がある。ここにパキスタンとアフガニスタンを往復する
商人を悩ます、悪名高い関所の中でも最大のものがあった。ここにはヘクマ
ティヤール派のムッラー・アフタル・ジャンが率いる兵士が陣取り、通行する
商人から金を巻き上げていた。コンボイが出発する約2週間前の、10月12日、
200人の無名の戦士がこの街を襲い、彼らは2時間でここの守備隊を殲滅し、
関所を廃止した。これが後にタリバンと呼ばれるようになるグループの緒戦で
あった。スピン・ボルダックには、パシャ武器庫と呼ばれるアフガニスタン最
大の武器庫があった。92年以前の共産党政権軍から奪取した武器・弾薬及び西
側の援助により送られた武器・弾薬がここには大量に蓄えられていた。ロケット
砲、戦車砲弾、小火器の弾薬など数年分はあるとも言われたが、おそらくそれ
は誇張だろう。しかし、ここでタリバンは少なくとも1万8千丁のカラシニコフ
を獲得したと言われている。
この経緯を見て、パキスタンがタリバンのバックについていると考ても不思議
はないだろう。コンボイ通過のために予めスピン・ボルダックの関所を骨抜き
にするようタリバンに頼んだと思われるし、何より国境通過の配慮がパキスタ
ン政府になされていない限り、これほど簡単に多くのタリバンが一気に国境を
通過できなかっただろう。
パキスタン内の或る勢力とタリバンとの間に協力があったのは、今では明らか
になっている。しかし、かといって、タリバンがパキスタンの傀儡として動い
てきたかというと、その後の展開で明らかになるように、それも事実とは言い
がたい。カンダハル制覇直後の11月16日、既にタリバンは次のような声明を出
している。
(後にタリバンの外務大臣になるムッラー・モハマッド・ガウスの声明)
「パキスタンが今後カブール政府もしくはカンダハル政府の許可なくコンボイ
を送ることを禁じる」
「パキスタンが個々の局地支配者と取り引きをすることを禁じる」
パキスタンがタリバンをサポートする意図がなんであれ、最初からタリバンは
パキスタンの傀儡となるような集団ではなかったのだ。
カンダハルを制覇した後、もはやタリバンを止めることは誰にもできなかった。
その後たった4週間で、タリバンはカンダハル県に隣接するヘルマンド県、
ウルズガン県を支配し、さらに西方のファラ県、北方のザブール県、ガズニ県
にも進出していった。ヘルマンド県は、アフガニスタン最大の麻薬生産地だが、
そこから麻薬商人を叩き出し、けし栽培を違法化する宣言をした。
この間にもパキスタンの北西辺境州及びバロチスタン州のマドラサで勉強して
いたアフガン難民の神学生がトラックやピックアップバンに乗ってタリバンの
本拠地となったカンダハルに続々と駆けつけた。タリバンに参加したのは、
アフガン難民だけではなかった。パキスタン人の神学生達もタリバンに参加す
るためにパキスタンの全州からやってきた。1995年1月の段階で、12,000人の
神学生がアフガニスタン、パキスタンからカンダハルのタリバンに参加したと
言われている。この神学生の殺到に応じるため、タリバンはカンダハルと
スピン・ボルダックに戦士の訓練所を開いた。そこで2ヶ月のコースを終了す
ると、一通りの武器の操作ができるようになる。
僕はその頃、クエッタに住んでいたが、何か新しいことが始まる、奇跡のよう
な何かが起こる、救世主が現れたのかもしれない、そのような期待で、異様な
雰囲気があったのを覚えている。しかし、誰にも何が起ころうとしているのか
は、はっきり分かっていなかった。ただ、タリバンの進撃のあまりの速さに
驚くばかりであった。すでにその時で、ソ連侵攻から15年、ソ連撤退から5年
も経っていた。あらゆる期待が裏切られ、「戦争疲れ」、「援助疲れ」という
言葉が頻繁に使われ、アフガン内戦は「忘れられた戦争」と呼ばれ始めていた。
そこにあっという間に南アフガニスタンを制覇してしまう無名の戦士たちが現
れたのだ。それは衝撃であった。しかも、彼らはアナーキーな状態を利用して
私利を追求するのではなく、治安の回復を最優先していた。援助関係者の中に
も「私はタリバンのファンだ」というものが出てきた。
アフガニスタン内でも、タリバンの正体が分かるにつれ、住民は彼らを歓迎す
るようになった。タリバンは略奪、強姦をしない、タリバンは住民を虐めない、
タリバンは秩序と治安の回復に専念する、タリバンは進出地の武装解除をする、
こういう情報が広まるにつれ、住民は警戒心を解き始めた。それぞれの局地支
配者であった元聖戦士の方も、タリバンと戦うことなしに、タリバンの進軍を
認める者がこの頃少なくなかった。タリバンは新しい地域に進出する際、まず
交渉によって無抵抗の中を進軍しようとした。進軍には現金も大量に使われた。
金をもらった局地支配者は丸腰にされ、その地域から放り出された。交渉にも
買収にも応じない場合は殲滅する。これがタリバンのやり方だった。実際のと
ころ、94年の後半から95年初頭までタリバンはほとんど戦闘する必要がなかっ
た。戦わずして進軍していくタリバン。無敵神話ができつつあった。
しかし、94年後半の段階では、タリバンはまだアフガニスタン南部を進軍中で
あったことに注意する必要がある。タリバンの主流を構成するのはパシュトゥ
ーン族であるが、アフガニスタン南部はパシュトゥーン族の心臓部である。
同部族ということもこの頃のタリバンの進出を容易にした理由の一つであった
だろう。アフガニスタン西部の都市、ヘラート、及び、北部にある首都、
カブールは、タリバン主流の属する文化圏とは別の文化圏である。そこでは
アフガニスタン南部のようには簡単にいかなかった。
ヘラートはイランに近く、ペルシャ語文化圏である。タリバン主流はパシュ
トゥーン語を話す。また、彼らの主流である若い神学生のほとんどはパキス
タンの難民キャンプで育ったため、パキスタンの共通語であるウルドゥー語を
話す者も多い。一方、カブールはアフガニスタン最大の都会であり、首都であ
るから、民族構成は多様である。タジク族、パシュトゥーン族、ハザラ族、
ウズベク族などが混合して住んでいるが、共通語はペルシャ語のアフガン方言
であるダリ語である。しかも、カブールのような都会では、農村部に残る各部
族それぞれの習慣・規範がかなり希薄になっている。しかし、タリバン主流は
農村部出身かあるいは難民キャンプ出身である。都会の洗練とはほど遠い集団
である。
1995年、タリバンの支配地域拡大は第二段階に入った。タリバンは異文化圏の
ヘラート及びカブールへの侵攻を開始した。
タリバンの本拠地となったカンダハルから北へ向けて伸びるハイウェイがある。
この道はガズニ県を越え、カブールに至る。カブールに入る直前には聖戦史上、
最大のヒーローの一人、ヘクマティヤールが陣取っていた。この頃のカブール
は、92年の共産党政権追放後、元聖戦士の合同政権の下にあった。といっても、
それは名目だけで、ラバニ大統領の右腕である国防大臣、マスードがかろうじ
て抑えているというのが実態であった。カブール市の西南部はマザリが率いる
シーア派の軍とドストム将軍の分派が支配し、たえずマスードを脅かしていた。
彼らよりさらに大きな脅威は、同じ政権の首相であるはずのヘクマティヤール
であった。彼は合同政権の権力の分配に満足しておらず、カブール市南部の
外側に陣取り、92年から95年にかけて、そこからカブール市内に無差別に
ロケット砲を撃ち続けていた。ヘクマティヤールの目的は、ラバニ・マスード派
の信頼を崩し、合同政権を瓦解させることであったが、このロケット砲撃により、
カブール市はほとんど破壊され、2万5千人以上の一般市民が亡くなったといわ
れる。その結果、ヘクマティヤールはまったくカブール市民からの支持を失い、
カブール市民はマスードをカブールの守護神として支持していた。しかし、聖
戦士中、最も戦上手と言われるマスードにしても、カブールを防衛するのが手
一杯で、ヘクマティヤールをロケット砲の射程距離の外へ追い出すことができ
なかった。
そこへタリバンが南から北へ上ってきた。ヘクマティヤールは、タリバンは
カブール政府軍(ラバニ・マスード派)とつるんでいる、北と南から挟み撃ち
をするつもりだ、ずるいっ!と叫んだが、タリバンはすぐに声明を出した。
(後にタリバンの内務大臣になるハイルラ・ハイルフワの声明)
「我々はラバニとヘクマティヤールの間の権力抗争には中立である」と。
ヒステリックなヘクマティヤールの叫びは無視され、タリバンは北上していっ
た。95年1月30日、タリバンとヘクマティヤール軍の最初の衝突が起こった。
この戦いはその後のアフガニスタンの運命を大きく左右するものになることは
誰の目にも明らかであったし、長期に渡る大激戦が予想された。が、2週間後、
ヘクマティヤールは壊滅的な状態でカブールから75キロ東にあるサロビという
街に向かって敗走していた。大量の武器・弾薬・Mi-17輸送ヘリコプターまでも
置き去りにして行かざるをえない遁走ぶりであった。タリバンはカブールの35
キロ南にある街、チャリアシアーブに到達していた。このタリバンの圧倒的
勝利は、タリバンの無敵神話を決定的にした。かつてソ連の最強の敵であり、
聖戦士合同政権を3年間悩まし続け、カブール市民を恐怖に陥れた、あのヘク
マティヤールをたった2週間で片付けてしまったのだ。
しかも、あの30人の有志が立ち上がってから、まだ半年しか経っていない!
このタリバンの急激な興隆の要因として、よく出てくる説明は、戦争にうんざ
りした一般人の強い支持、つまり平和と秩序を回復してくれるなら誰でもいい
という願望、元聖戦士の政治的破綻、略奪・強姦に代表される道徳的な崩壊、
これがタリバンの急成長の基盤にあったというものである。つまり、改革者
(crusaders)としてのタリバン、という見方だ。
これに対して、タリバンの軍事的側面に焦点を当てるアナリストもいる。
タリバンは長いアフガン戦史に革命を起こしたということだ。軍事アナリスト
によると、タリバンの軍事行動は、(1)非常に効率的なコミュニケーション、
(2)流動的な状況で乱れない指揮・統制、(3)緻密な計画行動、そして
(4)圧倒的なスピードという点で、際立っているという。これまでタリバン
は常に敵よりかなり少数の戦士で戦ってきている。しかし、かといって、タリ
バンの戦闘は、ロバの背中に武器を乗せて、山中を密かに移動し、ヒット・
アンド・ラン---物陰から一発撃って、その結果を見る暇もなく逃げ去る---
を主体とする伝統的ゲリラ戦、とはまったく異なっていた。
タリバンは、100人から200人の中隊規模の、高度に機動的な部隊をいくつも作
り、素早く敵の側面や背後に展開する。この機動部隊は戦士をピックアップに
乗せ、トラックにZU-2対空砲やBM-21多筒ロケットランチャーを備えつけて、
敵を文字通り四方八方から攻撃するのだ。敵は敗走さえ、まともに出来ていな
い。ほとんどの場合、武器を投げ捨て秩序も何もなく、逃げ去るのみだ。
95年9月にタリバンがヘラートを陥した時は、あまりの混乱で政府軍には撤退
命令が出ていることさえ分からない部隊があった。この部隊はヘラート市中の
路上で眠り、目を覚ましたらタリバンが市内に入ってくるところだった。
彼らは全員戦死した。これまで秩序立って敗走できたのは96年9月にカブールを
撤退した時のマスード軍だけだ。99年6月現在、タリバンの敵として残ってい
るのは、このマスードだけである。
ヘクマティヤールを破った95年初頭、タリバンは既に三種類の異なった構成要
素から成り立っていた。
(1)真のタリバンと呼ばれる、若い神学生
(2)タリバンに寝返った、元聖戦士
(3)共産党政権下の正規軍の元将校達
この三種類である。92年4月まで存続した共産党政権の与党であるアフガニス
タン人民民主党(PDPA)は二つの派閥に分かれていた。その一つハルク派を中
心とする将校達が90年3月、元国防大臣のシャナワズ・タナイ将軍に率いられ
てナジブラ政権を倒そうとして失敗したという事件があった。彼らはその後
パキスタンに逃げ、ISI
(パキスタンの情報機関)のゲストとして生活してい
たのだが、この将校達がタリバンに参加したのだった。90年のクーデター未遂
も、彼らのタリバン参加にも、ISIが絡んでいることは間違いない。
この将校達がタリバンに洗練された軍事技術をもたらした。
タリバンは決して一枚岩ではないと言われる。それはこの構成を見ても明かだ。
しかし、これほどバックグラウンドが違う三者が見事な連携を保っていること
は驚異である。互いに摩擦を起こし、バラバラになってもまったく不思議では
ない。何が彼らを結びつけているのか。歴史、部族文化、政治、宗教、これら
の要素を駆使すれば説明できるのかもしれない。先走った結論は避けたいが、
この5年のタリバンの行動を振り返って感じるのは、彼らに漂う「確信」である。
それはどのような「確信」なのか。例えば、それは自分の国を取り戻すのだと
か、平和と秩序を回復するのだとか、そういうものだと、外国人が簡単に解説
してはいけないもののように感じる。
僕は97年以降、アフガニスタンの各地でいろんなタリバンに会って話をしたが、
彼らに共通しているのは、非常に礼儀正しいということだ。そして、生活が
質素で態度が謙虚だ。歴戦の元聖戦士達をほとんど一掃してしまった恐ろしい
戦闘集団というイメージとどうも一致しない。国連関係者がタリバンとの会談中
に、タリバンにティーカップを投げつけられた、ちゃぶ台をひっくり返された、
ひっぱたかれた、というような事件があるが、いったい何を言って彼らをそん
なに怒らせたのだろうか。真相は分からない。しかし、アフガニスタンにやっ
てくる我々よそ者は、ほとんどの場合、タリバンに関して、いやアフガニスタン
に関して恐ろしく無知である。
不幸なことに、メディアの情報を鵜呑みにするナイーブな者も少なくなからず
いる。その中に傲慢に滑り落ちるものがいても全然不思議ではないだろう。
タリバンとの話が終わり彼らが去った後、ふと自分がどこか違う世界にいたよ
うな不思議な気分になる時がある。彼らの静かな態度の裏に、決して揺るがな
い「確信」のようなものがあったことに思いつく。これが「神の戦士」と呼ば
れる人達なのか、とぼんやり思いながら、僕はまた変わりない日常に戻る。
彼らと本当にコミュニケート出来るまでには、はるかに遠い道のりがあるよう
な気がする。そこに到達するまで、我々は何一つ解決できないのかもしれない。
(続く)
(*) タリバンを主題とした文献。
William Maley ed., “Fundamentalism Reborn ? :
Afghanistan and the Taliban”, 1998, Vanguard Books
Peter Marsden,
“The Taliban : War, Religion and the New Order in Afghanistan”, 1998,
Zen Books
Kamal Matinuddin, “The Taliban Phenomenon : Afghanistan
1994-1997”, 1999,Oxford University
Press
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本文で表明されている見解はすべて筆者個人のものであり、筆者の所属する組
織の見解とは一切関係ありません。