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No.2 「分断された音の記憶」


カブール。この破壊しつくされた都市を歩く時、僕は必ず描写しがたい奇妙な感覚を おぼえる。 それは何かある言葉を度忘れした時の、あの感覚に似ていると言えばいいだろうか。 知っているはずだが、思い出せない、あの気持ちの悪い感触。

壊れた建物が延々と続く、と書けばいいだけかもしれない。 しかし、その言葉と目の前にあるものの間にすっきりとした関係を見出せないでいる。 「壊れた建物」という概念も「破壊」という概念もずっと前から知っているものである。僕はそれを利用して今、目の前にあるものを了解しようとしている。 しかし、それがうまくいかない。

最近見たビデオに僕の嵌っている事態を象徴するかのような話があった。(*下記参照) こんな話だ。生後ほとんどすぐに視力を失い、何も「見た」こともなく育った青年が 手術を受けて視力を取り戻す。しかし、彼はパニックに陥った。目の前にあるものが、つまり今、視覚で認知しているものが何であるか彼には分からないのだ。りんごを差し出される。彼はりんごを「知っている」はずだ。何度も食べたこともあるだろう。しかし、彼はそれがりんごであるとは、触ってみるまで分からなかった。これま で彼は触覚によってすべての物体を認知していたのだ。だから、今突然、映像として 入ってくる情報---りんごの姿・形---は、彼にとって意味をもたないのだ。今、目で見えるものを、彼がこれまでに蓄えた知識と「関連づける(associate)」ことができれば、彼はそれを「知っている」ものと了解できる。しかし、触るまで彼にはそれができない。彼の知っているすべての物体に関してその作業が終わるまで、彼は意味のない膨大な視覚情報に困惑し続けざるを得ない。

おそらく僕は、膨大な言語情報(正確には言語というより、音の羅列でしかない情報 なのだが)を「知っている」と思っている。しかし、それらを触ったことも食べたこともない。より根本的には考えたこともない。僕はこれまでほとんどすべての情報をその実際と関連づけることができなかったのではないだろうか。

カブールの風景、それは端的に言えば、破壊の姿だ。その「破壊」という言葉と僕が 見ているものの間には、途方も無く距離があり、そしてそれは直線ではなく、非常に ねじれた距離でもあった。概念としての「破壊」と現実の「破壊」との圧倒的な差は、その二つを関連づけることをほとんど不可能にしている。だから、僕は頭の芯が歪んでしまったような感触を持ったのだろう。りんごのようにはうまく行かないの だ。

僕が知っている言葉というのはほとんどがそのようなものではないか。

初めて外国の教育機関に所属し、外国人と生活を共にするようになった時、僕はすぐに気がついた。自分は彼らに比べて圧倒的に広い範囲で大量の言葉を知っている、と いうことにだ。

僕が日本で特別モノシリだったわけではない。すべて教科書に出てく るような言葉に過ぎない。程度の差はあれ、日本人なら誰もが通過してくる言葉の群れである。しかし、どの言葉一つをとっても、僕が言えるのは「ああ、それ知っている」以上のものではなかった。議論にもなんにもならない。知っている、というだけである。それが果たして「知っている」ということに値することなのだろうか。言葉一つをきっかけに延々と議論を続ける彼らとの間に、僕は途方もなく分厚い壁があるのを感じた。

アフガン人の10歳の少年が書いた、こんな文章がある。

 


僕は、戦車、カラシニコフ、地雷を知っています。 でも、「平和」というのがどんなものか知りません。 見たことがないからです。 でも、他の人から聞いたことがあります。

僕はたくさんの武器を知っています。 ほとんどの武器は、バザールや、街や、学校の壁や、家の前や、バスの中や、その他 どこでも見られるからです。

「平和」というのは鳥のようなものだと教えてくれた人がいます。 また、「平和」というのは運だと教えてくれた人もいました。 でも、それがどうやってやってくるのかは知りません。 でも、「平和」が来ると、地雷の代わりに花が植えられると思います。 学校も休みにならず、家も潰されなく、僕も死んだ人のことを泣くことがなくなると思います。

「平和」が来たら、家に帰るのも自分の家に住むのも簡単になると思います。 銃を持った人が「ここで何をしている?」とか訊かなくなると思います。

「平和」が来たら、それがどんなものが見ることができると思います。 「平和」が来たら、きっと僕が今知ってる武器の名前を全部忘れてしまうと思います。


 

この少年は、自分が何を知らないかを認識している。僕は自分が何を知らないかを認識できているだろうか。

民族大移動、冒頓単于、キプチャク・ハン国、ヒエログリフ、カノッサの屈辱、国 家、近代・・・ ソフォクレス、アイスキュロス、カント、カミュ、ジンナー、司馬遷、毛沢東・・・ 讒謗律、キリシタン、2・26事件、講和条約、高度成長・・・ ドップラー効果、ケプラー、カントール、微分・積分、ボイルの法則、三半規管、ミ トコンドリア・・・

なんなのだろう、この言葉どもは? すべて、標準的な教科書で10代の日本人が「知っている」つもりになれるものであ る。 現役の10代の日本の学生であった頃、我々がやっていた勉強というのは、これらの言葉を場所・時にマッチさせることだけだったのではないか。縦軸に場所を、横軸に 時間(年代)をとって、マトリックスを作ってみよう。そこにすべての言葉を当ては めることができれば、最も優秀な学生となれただろう。それ以上のことに時間を割く のは端的に無駄なのだ。

論述試験?それはマトリックスを文章に起きかえれば満点が 取れる程度のものに過ぎなかった。それ以上のことを要求すれば、採点者が困るから だ。 これらのいくつかは、ある種の道具として身につけることが必要な人もいるかもしれない。しかし、ドップラー効果の計算ができることがすべての人に必要なのだろうか ?僕は分数の計算でさえ、過去20年やった覚えがない。 しかし、例えば、ヒエログリフについて一度でも考える機会を与えられた記憶なない。いや、考えることによって時間を失い、失点を増やし、脱落する。不思議なことにそうやって考えないことによって、エリートが選別されていく。 エリートと呼ばれるカテゴリーに属するすべての人が何も考えたことがないとは思っていない。ここで言っているのは、日本の制度では、何も考えなくてもエリートにな れるということだ。エリートは過去の蓄積を最大限に生かして、未来をデザインするべき人々のカテゴリーではなかったのか。日本にはエリート養成制度が存在しないことに気づかざるをえない。

日本の新聞を読んで、テレビを見て奇妙な既視感におそわれるのは僕だけだろうか。そ れらを読んで見て聞いて、しばしば僕は同じ疑問を持つ。何が言いたいのか?何かを言う気があるのか?という疑問だ。それらは、現実との接点を完全に失った、本質的 には音の羅列に過ぎなかった教科書、学校教育のリメイクではないのか。

僕は頭の芯が歪んでしまったような感触に耐えつつ、静かなカブールの街を歩きながら、自分とはあまりに遠く離れてしまったある同級生のことを思い出す。確実にエリートの道を歩みながら、どこかで「宗教」にのめりこみ、テロと呼ばれる行為を行 い、結局本人も殺されてしまった。戦争しか知らない子供たちが「平和」を了解でき ないように、彼には現実が了解できなかったのではないだろうか。恐ろしい事実は、 僕と彼の間、あるいは我々と彼らの間にはほとんど見えないくらいの薄い境界線しかないはずだ、ということだ。インターネットで日本の新聞を読み、分断された音の記憶だけが舞っているのを見 る。それに僕はぞっとし続けている。

(*)映画『At First Sight』のビデオより。実話に基づいた映画。この青年はその 後また視覚を失う。アルジャーノンの哀しみ。

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本文で表明されている見解はすべて筆者個人のものであり、筆者の所属する組
織の見解とは一切関係ありません。