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ざらざらとひどい雑音まじりだったが、柔らかな声に微笑が含まれているのが分かった。緊張している。何を話せばいいのだったか? 始めてですね、やっと話せた、の語尾にクスクスという笑い声。 壁に向って立っている僕のうしろでは顔のほとんど半分が髭に覆われたアフガン男性職員達が仕事をしている。彼らのことが妙に気になる。僕は照れているのか。アホか。僕はカブールにいて、35キロ北方に最前線があって、街には武装兵を満載したトラックが走り回っていて、多筒ロケット・ランチャーを搭載したトヨタのピックアップが雑貨屋の前に駐車していて、市街地のあちらこちらにまだ地雷が散逸していて、先週市内にある弾薬庫が爆発して、ミサイルだかロケットだか知らないが試し撃ちのたびに空気が揺れて、鞭を持った宗教警察が街をパトロールしていて、十万人を越える未亡人が餓死寸前で、街は物乞いだらけで、水も電気もガスもまともに供給されてなくて、国連制裁のおかげで郵便もストップしていて、インターネットはもちろん使えるわけはなくて、ここは職場なのだ、と思ってみたところで僕の頭はすでにぎこちなく硬直していた。 彼女が発するどの言葉の語尾にもいつも微かな笑みが含まれていた。僕は何も飾りのない冷たい壁に彼女の微笑を見ながら受話器を握り締めている。電話で女の子とかわす、甘く爽やかな春風のような会話、つまり小説と現実の区別がつかない、そんな一瞬だけを食ってこの先一生、生きていけるような気分になれた遠い昔。そんなフラッシュバックに襲われる。僕は現実とはまったく無関係に勝手に気恥ずかしさに陥っているのだった。 しかし、彼女は僕の恋焦がれる女性でも恋人でも愛人でも妻でもない。 それから、僕はなんとかレポートの内容に話を向けることに成功したが、実は手元にそのレポートはなく、記憶はあいまいで、相手の誘導にまかせながら、話を進めざるを得なかった。 「私達も同じ組織のスタッフだということを忘れないで欲しいの」 アホな、と思った。 だから、どうなんだ?とさらに問えば、まあそんな青臭いこと言わないで、まだまだ尻が青いですな、生きてるっていいですね、みたいなカビの生えたぬか味噌みたいな話に引きずり込まれる。だからといって、帰国するたびに自閉・抑鬱気味になる自分に関して心配しているわけでもない。腐ったぬか味噌に頭を突っ込めば誰だって多少は落ち込むだろう。いや、カブールの話だった。 3年以上も給料だけもらって自宅待機。ブルカで全身を包み、女性対象の援助プロジェクトの現場にのみ女性スタッフだけで直接出向き(男性スタッフは女性とのコンタクトを許されないから)、彼女達はかろうじて仕事の一部を継続してきた。 それにしても、ほとんどの期間は自宅から出ることのない生活。家でブラブラしてるだけで給料がもらえていいな、あるいはケシカランという人もいる。そうじゃないだろうが。全世界にこういうタコは散らばっている。ついでに今思い出したことを書いておくと、カブールの女性の間で抑鬱症、神経症など精神疾患が爆発的に増えているという調査報告があった。 とにかく、僕は週一回、ドキュメントのセットを女性スタッフの家に送ることを約束した。 「ほんと?うれしい!」 「そのオフィスの電話おかしいの。受信しかできないのよ」 なんか変な話だ。男性上司と女性部下が定期電話の約束をする。普通こういうのは・・・いや、やめとこう。つまり、同じことでも文脈が変われば、なんと意味がことなることか。 電話も使わずほんとに仕事してるのかと疑われそうだから、念のため事情を書いておこう。 基本的にはアフガニスタン全土の電話線は寸断されて使いものにならないというのが現状と説明するべきだと思う。 外国とはもちろんつながらない。外国との交信には衛星電話を利用するしかない。最近の衛星電話はノートパソコン程度の大きさで、かつ緊急連絡程度ならバッテリーで交信可能なので、非常に便利だ。しかし、その通話料はバカ高い。 電話がこういう状況なので、アフガニスタンではもっぱら無線を利用する。国連職員は必ずウォーキートーキーを携帯することが義務づけられている。 例えば、デルタ、シエラ、チャーリー、タンゴ、オスカー、フォックストロット、パパ、ベクター、ロミオ、アルファ、ノーベンバー、ゴルフ、インディア、マイク、ハロ、エックスレイ、ズールーなどが各組織に与えられたコールサインで、その後にナンバーがついてその組織の特定のスタッフのコールサインになる。ロミオ・ワンと呼び出しがあれば、僕は応答しなければならない。 もちろん国連車にも必ず無線機を積載することが義務づけられている。これはもっと強力で国境を越える通信も可能だ。カブール、ペシャワル、移動中の国連車の3点を同時に繋いで会話するなんてこともある。 というわけで、カブールで市内電話をかけた経験は一度もなかった。 話を元に戻すと、その日から彼女は5人いる女性スタッフの代表として、毎週日曜日の午後4時にオフィスに電話をしてくることになった。一番覚えやすいタイミングを選んだつもりだ。アフガニスタンでは金・土が休日で、仕事は8時から4時まで。つまり、週最初の日の終業時刻が定期電話の時間。それぐらい記憶しなくては。 国連はそんなに少ししか仕事しないのか、と思う人に対してあらかじめ言い訳がましいことを書いておくと、仕事を午後4時に終えることはまずない。金・土を休むこともまずない。宿舎に戻ってもまだ仕事している。それが普通だ。 なぜ、そんなことになるかというと、アフガニスタンのオペレーションに関わっている国連機関全般に言えることなのだが、恒常的に予算不足のため、人員も常に不足していて(雇う予算がない)、かつ20年の戦乱の結果アフガニスタンには根本的・長期的・大規模な「開発援助」というカテゴリーに入る活動が必要なことは誰の目にも明白なのだが、95%を支配しているタリバンが政府として承認されていないため(パキスタン・サウジアラビア・アラブ首長国連邦の三カ国をのぞいて)国連が加盟国から受取る援助資金はほぼ全部、緊急・短期的・小規模な「人道援助」というカテゴリーに入る活動に使える資金のみで、言わば氾濫する大河を石ころを積み上げて修復しているようなもんで、どんだけ頑張っても間に合うわけはなくて、かつタリバンの信条と国連の原則はしばしば真っ向から対立するため、実際の援助活動よりも様々な活動のディテール(例えば人権!)をめぐる交渉に膨大な時間を奪われてしまい、かつアメリカによるアフガニスタンへのミサイル攻撃、パキスタンの核実験、パキスタンでのクーデター、ハイジャックされたインド航空機の飛来、アフガニスタンを空爆するというロシアの威嚇、アメリカのオサマ・ビン・ラディン引渡し要求、その拒絶に対する国連制裁、それに対するアフガン群集の国連事務所への攻撃など現場の援助活動とはなんの関係もない外的要因による「事件」がひっきりなしに起こり、かつ関東大震災規模の地震が年一回のペースで発生し(誰も注目しないが)、おまけに今年は30年来最悪の旱魃で家畜はばたばた死に、南部の田畑は絶滅し、住民まるごと棄村して移動するケースがでる始末で、そんなこんなで常に仕事に追われているからだ、 仕事以外にすることがないと書いてしまったので、その事情も若干説明しておこう。アフガニスタンに滞在する国連職員はアフガン人を除いて全員、国連の指定するスタッフ・ハウスという施設に強制収容される、もしくは宿泊することを義務づけられる。それは言わば牛舎のようなもので、一人あたり三畳ほどの人糞の悪臭で満ちた空間を与えられ、アルミニウムの食器に入った食事が定時に配給され、鐘の音できっかり午前6時に起床し、全員一緒に護送バスに乗って仕事の現場に向う、と言ってみたら信じる人もいそうな気がするが、もちろんそんなわけはない。ただ気分的にはそんなものなのでそう書いてみたかった。 愛「国連」者(変な言葉だ)が気分を悪くするといけないので実際のことを書いておくと、カブールにある国連のスタッフ・ハウスは砂漠のオアシス、地獄の中の天国、醜女の中の紅一点、山村に勘違いして作ったリゾートホテルみたいなもの、と三日間だけ滞在する人には見えるかもしれない。 もう少し詳しく書くと、スタッフ・ハウスは極めて閉鎖的・排他的・外人居留地的・植民地的・租界地的に運営されている。原則として国連職員以外はスタッフ・ハウスに宿泊することは許されない。いや敷地に入ることも許されない。 例外は、国連のパトロンである政府の役人で、当たり前だが、この人達が出張でやってきた時は宿泊することができる。半分例外的なのは、NGOの外人職員(非アフガン人)で、彼らは宿泊することはできないが、メンバーシップ・フィーを払ってスタッフ・ハウスの敷地内の施設を利用することはできる。 スタッフ・ハウスの敷地は高い塀で囲まれ、外からは中の様子は分からない。ゲートは24時間、内からは国連のガードが守り、外からはタリバンのガードが守っている。一歩中に入れば、まったく別世界になる。日本の都会の小学校の校庭には負けない程度の広さの芝生の庭に白いテーブルとイスが散らばり、その気になればメルヘンチックな感傷にひたることも不可能ではないだろう。 そして、20世紀最後のこの年にアフガニスタンに存在する唯一のスイミングプールがここにある。蔦科の植物が花を満開にさせつつ日陰を作る遊歩道が芝生と宿泊施設とスイミングプールを繋いでいる。簡素だが一応六本木のアスレチック・クラブと同じ機材を揃えたジムがあり、スカッシュコート、ビリヤード、卓球台なんかもある。 また恐ろしいことに、ここだけの話だがウルトラ・イスラム原理主義などと呼ばれるタリバンの目を盗んで、メイン・ビルにはバーが堂々と運営されており、まっとうなスコッチで泥酔することも可能である。バーは非宿泊者のメンバー、つまり外人NGOスタッフには週四日、宿泊者にはいつでも開放されている。バーにはいかにもアメリカンなポップ・ミュージックが流れ、タバコの煙でもうもうとした中でダーツをやる人、ナンパを決行する人、一人で勝手に泥酔する人、仕事の話に熱中する人、何をしたらいいか分からない人など、世界中のたいていのバーで見られるのと同じ光景が再現されている。違うのはここがカブールのど真ん中にあるということだけだ。 宿泊設備はメイン・ビルディングの他に4棟のアネックスがあり、短期滞在者はメイン・ビルに、長期滞在者はアネックスに泊まる。それぞれのアネックスにもやはりプライベートな庭があり、キッチン・リビングルーム・ダイニングルームが付いている。各アネックス専従のスタッフが掃除・洗濯・料理をする。 職員一人につき一部屋が与えられ、もちろん相部屋なんてことはない。部屋は普通のホテルと同じようなものだ。床に衣類を脱ぎ捨てたまま仕事に行って夕方戻ると洗濯済みでアイロンがきっちりあたった衣類になっている。ベッドやイスの上に脱ぎ捨てたものはそのままになっている。つまり、「床に」置くというのが洗濯してほしいという合図である。 各棟のリビング・ルームにはテレビがあり(念のため書いておくとアフガニスタンではテレビは禁止されている)、衛星放送でBBC、CNN、その他インド発信の番組を見ることができる。ビデオ、VCDを見る人もいる。いろんな国籍の人がいるのでサッカーのインターナショナルマッチがある時などは各国の職員が二手に分かれてちょっとした騒動になる。 食事は朝・昼・晩、好きなときにダイニング・ルームに行って、めしっ!と怒鳴るか、黙って悲しそうに座っていると出てくる。メニューはない。メイン・ビルのダイニングルームで日替わりで出てくるものを食べるか、アネックス専用のコックに注文して作ってもらったものを食べる。標準的なメニューは、朝は、コーヒーかグリーンティー・生フルーツジュース・トースト・卵二個、昼はスープ・サラダ・メイン(肉料理)・フルーツ・コーヒー/ティー、夜はスープ・サラダ・メイン(肉料理)・デザート・コーヒー/ティー。栄養的には文句のないメニューなのだろう。 さて、それですることがないとは、どういうことなんだ?てめえら、リゾート・ホテルで年中遊んでいるのか、えっ?。プール?旱魃はどこ行った?だいたい戦争はどこ行った?と怒り出す人がいても不思議はない。地中海クラブが好きな人にはたまらない仕事環境かもしれないし。 しかし、我々は鬱屈している。どうしようもなく。アメリカは戦争にコカ・コーラの自動販売機を持っていくという話があるが、きっとアメリカ兵はそんなもので騙されないと思う。我々は兵隊さんとは比較にならないほどいい境遇にいるとは思うが、それでも鬱屈している。なぜか?典型的な一日を辿ってみれば、読むだけで鬱屈する人もいるかもしれない。いや、怒りが収まらない人もいるかもしれないが。 * * * * * 朝7時に起きる。8時前には各国連機関の車が職員を迎えに来る。外人職員は自分で運転することは禁じられている(もちろんみんなチョコチョコとこの規則を破ってはいるが)。 午後4時の終業時刻にはアフガン人職員を送迎するシャトルが一斉に街の中を走り回る。シャトルに出た車がオフィスに戻ってきた頃には、我々外人職員もなんとなくオフィスに居づらくなる。ドライバーが早く家に帰りたいからだ。仕方ないから、どんなに中途半端に仕事が残っていても遅くとも6時半にはオフィスを出る。 仕事帰りにちょっと一杯飲みに行ったり、食事に行ったり、ショッピングに行ったり、映画を見に行ったりすることを夢想しながら、また車に乗せられて帰途につく。 車の窓から街の人々を見る。カブールでは過去3年の間に街を歩く女性の姿が増えた。タリバンが住民になめられ始めたという解釈が一般的だ。まだまだ宗教警察は怖いのだが。 頭からすっぽりブルカで覆われていても、目のあたりだけ網目状になっているので、ひょっとしたら顔が見えるかもしれないと、女性を発見するたびに、ついその網を凝視してしまう。車に乗っている外人に気づき、こっちをじっと見る女性もいる。僕も彼女を見る。視線があったかどうか判定することもできないのだが、僕はドキドキする。ややしあわせな気分になる。きっと視線は合ったのだろう。車は僕の淡い恋心を無視して雑踏を蹴散らして進んで行く。 網の目ごしに微かに見えるか見えないか分からない女性の目を意識してほとんど欲情している僕はどこかおかしいのだろうかと思いながら、車窓に流れる景色を見つづけている。そして、隔離されている、と思う。 通勤時間は5分だ。たまには散歩しながら帰りたいと思う。ひょっとしたら、もっと近くでブルカの網の目の中を凝視して、彼女の視線を捉えるチャンスがあるかもしれないと思うと猛然と興奮してくる。 しかし、この希望は決して実現しない。外人国連職員は街の中を歩行することを禁じられているからだ。買い物に行きたい場合は、目的の店にドライバーに頼んで車で直行し、降車したら店の中にすぐ入ること、なんてインストラクションもある。要するに、自分の姿を極力外部にさらさないということが原則になっている。 スタッフ・ハウスに着く。芝生に散らばっている白いチェアーにぽつり、ぽつりと他の機関の外人職員が座っている。本を読んだり、ぼんやりしていたり。こちらは簡単に視線が合う。やあ、と言う。やあ、と返ってくる。毎日同じ顔を見ているから、長い挨拶はしない。僕も白いベンチに腰掛けてみる。カブールの夏は涼しくて快適だ。今頃イスラマバードは40度を軽く越えているだろうなと思う。 プールから小さな子どもの声が聞こえる。NGOの外人職員が国連のスタッフ・ハウスに子どもを連れてきて遊ばしているのだ。彼らのためにブランコや滑り台も最近備え付けた。2、3歳の子ども達が楽しそうにはしゃぐ姿を見て、我我はなんとなくまた鬱屈する。アフガニスタンでは国連職員は家族を連れてくることを禁じられている。全員単身赴任だ。NGOにはそんな規則はない。だから、家族全員で赴任してくる。彼らの子ども達だけがここで遊ぶことができる。 芝生の上で空を見ていると、高いところを猛スピードで移動する物体を発見する。近くに座っているバングラデシュ人の職員がジェット戦闘機だと言うと、別のオーストラリア人の職員がクルージング・ミサイルだという。議論が始まる。湾岸戦争、旧ユーゴスラビア紛争、コソボのNATO空爆などの体験談で盛り上がり、ミサイルだか戦闘機だかなかなか決着がつかない。どっちでもいいや、要するに武器だと思いながら僕はアフガン名物グリーン・ティーを飲んでいる。 ペンディングになっている仕事の山が頭の中からなかなか出て行かないがなんとか忘れようと努力する。ビリヤード好きなネパール人の職員が帰って来る。一発撃とうかと彼が聞く。オーケーと僕は言う。彼と僕は毎日ビリヤードをしている。別に好きなわけでもかつてよくやったわけでもないが、習慣になってしまった。 一時間ほどやってほとんど全敗して、また芝生の庭に戻る。また白いチェアーに座る。三々五々みんな集まってくる。ドイツ人、フランス人、スリランカ人、エジプト人、オランダ人、イギリス人、スウェーデン人、ネパール人、バングラデシュ人、日本人等が長期滞在者の国籍だ。たわいのない話を延々として時間をつぶす。仕事の話をすると5ドル罰金を取ることにしている。 日が暮れ始めるとプールの周辺で遊んでいたNGOの家族達が帰り始める。子どもの邪魔にならないように遠慮していたのか、あるいは子どもが邪魔だったのか、それまでプールに姿を見せなかった国連の職員達がポツポツとやってくる。僕もたまに泳ぐ。なんとなくヤケクソで1時間くらい泳いでみる。ゴーグルを付けないので、プールから上がれば世の中が真っ白になったままなかなか元に戻らない。 ラウンジに行ってみる。同じ顔が見える。BBCをちらっと見る。バーに行ってみる。同じ顔が見える。ダイニング・ルームに行ってみる。同じ顔が見える。ディナーはいらないから、チーズサンドウィッチを作って庭に持ってきてほしいとウェイターに頼む。芝生に戻ってみる。同じ顔が見える。今は気候が良いので、みんな庭のテーブルでディナーをとる。 ディナーのメニューは一週間ですべて出尽くす。二週目にはまったく食欲をなくす。みんな文句を言う。しかし、贅沢すぎるメニューであることは確かなので文句を言う気にはなれない。ただ、肉というものを見ると食欲をなくす。 ここの食事はカブール市内の最高級レストランの20倍以上の値段、一日の食事代がアフガニスタンの公務員の3ヶ月分の給料に相当する。それでも文句を言う。ドレッシングがどうのこうの、鶏肉のブレストをレッグと代えてくれ、トマトペーストが多すぎる、デザートのケーキの焼き具合がよくない・・・・あげくのはてにほとんど残す。馬鹿げている。嫌なら食べなければいいのだ。 僕はチーズサンドウィッチを食べながら、囲い込み型リゾートが好きな人は不幸な人なのだろう、なんてことを考えている。同僚の食い散らかしたディナーの残滓が白いテーブルから下げられ、お茶を飲んだりスコッチを飲んだりしなから、10時頃までみんなでまた、とりとめのない話をして庭で時間をつぶしている。一発撃とうかとまたネパール人が言い出す。オーケーと言って30分ほど全敗して一日が終わる。部屋に戻る。いくつかの仕事に手を付けるが挫折してベッドに入る。 そうスタッフ・ハウスに一度戻ってきたら、もう二度と外には出ないのだ。門限が午後7時だから、出てもしょうがない。我々はUNスタッフ・ハウスを「天国の監獄」と呼んでいる。 * * * * * プロジェクトに関して彼女達が直面している問題はいろいろあった。女性達が顔を世間にさらすことも、一人で外出することも、ましてやオフィスで働くことなど禁止されている国で、なおかつあの手この手を使って、仕事をしようとしているわけだから、各方面からのありとあらゆるハラスメント、具体的な身の危険に彼女達は常にさらされている。 ・・・ある日、女性3人がアイスクリーム屋に入った。ブルカで完全に全身を覆っていたが、親族の男性を伴っていなかった。これはタリバン支配下では違法行為である。女性3人は宗教警察に見つかった。一人ずつ外に出るように命令された。回りの男性客は全員硬直して微動だにしなかった。今から起きることをすでに知っている女性達は泣き始めていた。宗教警察の一人が革の鞭を大きく振り上げた。すべての怒りをこめて西瓜でも叩き潰すように思いきり革の鞭を女性の背中に振り下ろした。一瞬泣き声が消えた。女性の姿も消えた。道の上に転がっている物体から気管支を隙間風がこするようなヒュ〜という変な音が聞こえた・・・ 僕のオフィスの女性スタッフもみんな一度は逮捕・拘禁されている。それでも、会話は彼女達をもっと仕事に巻き込む方策を考えるという僕の約束で収束にむかった。もっと危険な方向へ?もっとまともな方向へ?両者が同じ方向の場合どうするか、ここでは日常的な意志決定のほとんどがこれに関わる。 たぶん、我々のストレスは、地雷を踏んでしまうかもしれないとか、寿司が食えないとか、家族と話ができないとか、映画を見に行けないとか、夜間外出できないとか、女性の顔も形も忘れてしまうとか、ネットサーフィンをできないとか、日本語(日本人の場合)を話す相手がいないとか、そういうことに発するのではなく、我々の意志決定がコストではなく原則を優先しなければいけないからだろう。 ところで、僕は彼女達に何を送ればいいのだろう? 「なんでも。なんでもいいんです。オフィスに行っていた頃はいろんなドキュメントが回ってきてとても勉強になりました。仕事に直接関係しないものでも、送って欲しいんです」 世界から孤立した、こんな場所でも、オフィスにはありとあらゆる報告書やニュースレターの類がニューヨークやジュネーブから回ってくる。1週間に送られてくるドキュメントを積み上げると平均して20センチくらいだ。その中のほんの数通が仕事に直接関係するもので、後はアフリカでどうしたこうした、コソボでどうしたこうした、東チモールでどうしたこうした、シエラレオネでどうしたこうした、安全保障理事会でどうしたこうしたみたいなもの。全部読んでいる暇のある人はいないと思う。 「そう、そういうの全部送って欲しいんです」 ランドクルーザーの内と外にはまったく何の繋がりもなく、国連スタッフ・ハウスはそれにとどめをさして、二つの世界を完璧に遮断している。日本と世界の間の都合よく忘却された遮断よりはたちがよいかもしれないが、我々の鬱屈がここに発するのは明らかだ。 そして、僕のいる世界の外側にも同じ鬱屈を抱えた彼女がいた。世界との繋がりをなんとか求めようとする彼女の中に、僕は暗い書庫の中から世界を覗こうとしていたかつての自分を見ていた。僕は急速に親近感を増加させていた。 僕はなかなか電話を終えることができなかった。 最後に彼女はゆっくり I hope to see you
と言った。 <彼女とは決して会えない。彼女を見ることはできないのだ。> 常に垂れ流している単なる音に過ぎない「アイホープトゥシーユー」が突然意味ある言葉になった。その時、僕は本当に to see you を I hope していた。でも、ただ「僕も」という決り文句を返す気にはならなかった。恐ろしく陳腐な言葉でありとあらゆる「事件」を無化するマスメディアに鍛えぬかれた日本人としては、そんな決り文句で彼女を壁の向こうに突き飛ばすようなまねはとてもできない。ゆっくり喋ったのは決り文句としての I hope to see youではない、というメッセージだ、と僕は解釈した。 「君に会いたい(I want to see
you)」と僕は言った。一瞬照れる自分。 「Let's meet sometime. We can do that somewhere」 「Will you give me a chance ?」 「I will. Sure I will」 僕は静かに受話器を置いて、もう一度目の前の冷たい壁を見ながらうっかり I love you と口走らなかったことを安堵していた。 |
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