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No.1 「・・・」


「どこか遠く離れたところ、そんなところに行きたい」
そういう思いを最初に持ったのはおそらく高校生の頃だろうと思う。それは
「外国」、「海外」に対する単なる憧れとその後、自覚するようになる、現実
遊離感から来る焦燥が入り混じり、自分でもその二つの区別がつけられない、
そして結局、たわいのない子供の憧れと自分で結論づけるようなものだった。

しかし、20代の終わり頃には、そのような欺瞞は限界に来ていた。自分はまっ
たくリアリティのない世界に住んでいる。いや、他の人達は知らない、少なく
とも自分には何にもリアリティが感じられない。

ある日、突然未知の宇宙からメッセージを受けとって
「これはみんな冗談です。いや、そういう言い方は失礼かもしれません。ちょ
っと実験をしていただけなんです。ですから、あなたの生活はすべて架空のも
のでして・・・」
などと伝えられたら、まったく憤りもせず、信じただろう。僕は現実から遊離
していた。僕は病気だったのだろうか。そして、それは僕だけだったのだろう
か。

インターネットがまだアカデミズムでの実験段階に過ぎなかった、その頃(80
年代後半)、僕の生活は単純に三分割できた。アルバイト、飲酒、そして大学
の書庫の三つだ。書庫には全世界の大学から定期刊行物が毎月届いていた。
そして、それらに目を通すことによって、世界のどこで、誰が、何を考えてい
るかをうっすらと知ることができたのだ。

薄暗く、年中湿っぽい書庫だけが、世界を覗く小さな覗き穴だった。そこで、
僕は時間的にも空間的にも「世界」を共有しようともがいていたのだろう。
ちょうど今、インターネットの「ほとんど現実・でも現実でもない(virtual)」
空間でもがく人達のように。

言うまでも無く、僕の病気(現実遊離感)は悪化した。ますます、この日本の
自分の生活している空間がリアリティを失って行った。なんかこの人の言って
ること変じゃないか、という感覚を共有する人達がほとんどいなくなっていた。
反対にお前は変だというメッセージにすっかり疲労していた。そういう疲労は
飲酒でごまかしつづけられるものでもない。もっとも、そんなことに気がつく
のはずっと後になってからだが。

書庫でのどこかの見知らぬ人々との架空の対話だけが、自分の現実となってい
った。それは明かに危険な状態だと思われた。書庫から出よう、日本から出よ
うと思った時、僕は30歳になっていた。

そして10年があっという間に過ぎた。

僕は今、何を見ているのだろうか。極めてねじれた政治空間の一つ、あるいは
極めて悲惨な戦場の一つではあるだろう。で、リアリティはここにあった、と
言いたいのだろうか。そんな気はさらさらない。そうではなかったからだ。
書庫を出て、日本を出て、僕は今、何を見ているのか、それだけを書こうと
思う。

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本文で表明されている見解はすべて筆者個人のものであり、筆者の所属する組
織の見解とは一切関係ありません。