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No.2 「戦争しか知らない子供たち」


カブールの夏は快適だ。涼しくて過ごしやすい。
すでにイスラマバードは摂氏40度前後だから、よけいに快適に感じるのだろう。
カブールは内戦により、徹底的に破壊された都市だ。
そこには奇妙な静寂が漂っている。アジアの都市に特有の喧騒というものがな
い。破壊と静寂。この二つが現在のカブールを象徴している(※参照1)。

最前線は北方35キロのところにある。車でとばせば20分ほどだ。
その緊張が喧騒を許さないのか。

1979年のクリスマスイブにソ連がアフガニスタンに侵攻した時から、ほぼ20年、
この国は戦時下にある。その間、戦争しか知らない子供たちがたくさん育った。
そして、その子供たちもまた戦争の犠牲になり、あるいは戦闘に参加し、そし
て戦死してきた。

カブールの街を歩くと、子供は振りむき外国人の僕を見る。そのうちの何人か
は、恥ずかしげに何かモノをねだるしぐさをする。
僕に同行している大人のアフガン人は必ず僕を守るように間に入り、何か早口
で子供を叱って、追い払おうとする。しかし、あまり邪険な様子でもない。叱
りながら、幾ばくかのお金をやっている。
それから僕の方を振り返って言う。

「アフガニスタンには物乞いという習慣がなかったんですよ。」

それが今では・・・と戦争を罵り始める。アフガン人は物乞いをするには誇り
高すぎたらしい。今でも非常に誇り高い人々だと思う。しかし、20年の戦闘は
物理的な破壊だけでなく、伝統やしきたりなど目に見えないものも破壊してき
たと、アフガン人は説明する。

おそらく僕がこの子供たちと同じ年齢の頃ではなかっただろうか、日本中で
「戦争を知らない子供たち」と大合唱していたのは。
そういう子供が大きくなって、今、「戦争しか知らない子供たち」を見ている。
僕と彼らとの間に共通の言葉はありえるのだろうか?コミュニケートが成立す
る可能性があるのだろうか?彼らの算数の教科書を見てみよう。

「カラシニコフ2本とカラシニコフ3本を足すと、カラシニコフは何本になりま
すか?」

「あなたはロシア人を3人殺しました。私はロシア人を4人殺しました。さて全
部で何人のロシア人が死んだでしょう?」

彼らはこうやって足し算を覚えてきたのだ。「2本のバナナ+3本のバナナ=5本
のバナナ」が僕の教科書だったろう。カラシニコフとバナナの差はとてつもな
く大きい。いや、ロシア人の死体とバナナの差は人間の生きる次元を変えてし
まうのではないか。外から「援助」という名の下でやってきたよそ者とアフガ
ン人の間には、想像をはるかに超える大きなギャップがあるはずなのだ。国際
社会によるアフガン援助、その全体の中に決定的に欠けているものがあるよう
な気がしてならないのはそのせいではないか。我々の多くはそのことを感じて
いながら、あえて考えようとしていない気がする。無知が傲慢となるのはそん
な時なんだろう。

ソ連はアフガニスタン侵攻当時、アフガニスタン政府の要請によって、軍をア
フガニスタンに送った、と主張した。しかし、ソ連のてこ入れによって発足し
た新政権は傀儡政権と呼ばれた。多くのアフガン人は、それを自分たちの政権
とは認めなかったのだ。
ここに聖戦(ジハード)が始まった。
ソ連軍及びアフガン政府軍(傀儡政権の下の軍である)に対して、イスラムの
大義を守るために、アフガニスタン各地の指導者が立ち上がったのだ。聖戦を
戦う者、聖戦士(ムジャヒディン)の誕生である。

当時の聖戦士達が合同で決議をとり、一斉にこの聖戦を始めたという記録はな
い。自然発生的にあちらこちらでソ連軍・アフガン政府軍に対してゲリラ戦が
始まったというのが真実に近いようだ。もっとも、その後、この聖戦は冷戦下
の西側の援助により、つまりイスラムの大義とは別の論理により、組織化され
ていくことになるのだが・・。

その頃、ごく普通のアフガン人達はどうしていたか。
これに関する記録で公刊されているものは非常に少ない。概算であるが、アフ
ガン人口の5%は都市部に住み、95%が農村部に住んでいる。都市部はソ連・
アフガン政府軍が牛耳っていたので、そこへの攻撃が聖戦士の一つの重要な使
命であった。アフガン人の自発的意志によって始まった聖戦であったが、聖戦
士の組織化、聖戦士の訓練、武器・弾薬の調達・配分、戦略立案など聖戦士の
本部的役割を担っていたのはパキスタンのISI (Inter Services Intelligence
Directorate)という組織であった。
これは、アメリカのCIAや旧ソ連のKGBのような諜報機関であるが、パキスタン
ではISI は「国家の中の国家」と呼ばれるほど強大な権力を持っている。
1979年から1987年、つまり聖戦時のほとんどの期間であるが、この時期にISI
の長官であった男がいる。彼はその在任中ほとんど公の場に出ることはなく、
そのためサイレント・ソルジャーとも呼ばれた。彼の名をアフタル将軍という。
当時の彼の口癖は「Kabul must burn.」であったという。
「カブールを焼き陥とせ」とでも訳せばいいのか。敵の本拠地を叩けという
意味なのだろう。当然、都市部の普通のアフガン人達は、逃げ惑うはめに
なったのだろう。

そして、農村部には各中心都市を囲むような形で聖戦士の前線基地が置かれた。
ラインが最前線にまで延びていたために、アフガニスタン東部には、多くの聖
戦士の基地が置かれた。そのため、ソ連・アフガン政府軍に最も徹底的に攻撃
されたのが、このアフガニスタン東部であった。

ごく普通の農民達はその頃、どうしていたか?農作業どころではなかっただろ
う。ある者は、聖戦士に生まれ変わり、ある者は家族を引き連れて隣国に避難
した。これが史上最大と言われる大量難民の発生した経緯だ。

大量の人口が一斉に災いを避けるために居住地を離れてよその場所へ移動する、
これをエクソダスと呼ぶ。1981年、このエクソダスはピークに達した。国境を
超えてパキスタンに流入するアフガン人の数が1日平均4700人に達していた。
イラン側へも同様のエクソダスが起きていた。

イラン、パキスタンに逃げてきたアフガン人達、彼らはその後「アフガン難民」
と呼ばれて生きていくことになる。それから20年そんな生活が続くとは、彼ら
の誰が予想していただろう。しかし、多くの「アフガン難民」はその後20年、
「難民」というレッテルを背負って生きてきたのだ。アフガン難民の数は
ピーク時には、イラン国内に約250万人、パキスタン国内に約350万人、合計約
600万人に達していた。(※参照2)

1989年2月、最後のソ連兵が撤退した。その頃、やっとアフガニスタンに平和
が回復するかという希望を見たものも多かったであろう。
実際、それは難民数の減少という形で象徴的に現れていた。
1992年4月、共産主義政権が倒れ、92年と93年の2年間だけで、イラン、パキス
タンの両国から合計200万人近くのアフガン難民が母国に戻ったのだ。しかし、
この2年をピークとして、その後はパキスタンから帰国するアフガン難民は年1
0万人前後、イランからは数千人前後という状態が続いていた。現在のアフガン
難民数は推定、イラン国内に140万人、パキスタン国内に120万人である(※参照3)。

それでも、合計260万人。これは世界最大の難民数である。アフガン難民の数は
過去20年、常に世界最大という記録を維持し続けている。この驚くべき惨劇に
世界はもっと注目するべきなのだが、事実はほとんど忘れられている。

なぜ93年以降、母国に帰るアフガン難民が激減したのか。それは、母国に戻っ
た元アフガン難民を待っていたのが、ソ連との戦いよりさらに複雑化した激し
いアフガン人どうしの戦闘だったからだ。皮肉なことだが、カブールが瓦礫の
山になったのはソ連が撤退した後である。1992年、グルバディン・ヘクマティ
ヤールというかつての聖戦士のヒーローの一人が権力闘争の過程で、カブール
を徹底攻撃したのがその破壊の発端であった。

1992年以降のアフガニスタンというのは、比喩ではなく、文字通りアナーキー
な状態であった。アフガニスタンという国家を実効支配できる権力が存在しな
い状態で、各地を局地的に支配する元聖戦士達が互いに戦闘を続けていたのだ。
そこには、英語圏でいうところの、Law and Order (法と秩序)は存在しない。
暴力のみが支配の道具になっていた。そこへ大量のアフガン難民が戻ってし
まったのだ。彼らはまた戦火の下を逃げ惑うはめになった。自分の出身地へ辿
り着けず、あるいは辿り着いても、そこから逃げるはめになり、アフガニスタ
ン国内をさまようアフガン人が大量に発生した。彼らは国際法上、難民の定義
に当てはまらない(※参照4)。

隣国に逃げ出すこともできす、母国内で、実質的に難民と同じような境遇に
陥っている、このような人達のことをIDPs(Internally Displaced Persons)
と呼ぶ(※参照5)。

ソ連の撤退と共産主義政権の消滅によりイスラムの大義が達成されたと信じ、
母国へ戻ったアフガン難民達の多くが、IDPsになり、あるいはまたパキスタン
やイランに逆流していった。現在、アフガニスタン内のIDPs数は150万人前後
と推定されているが、実際のところ、推定することさえ、ほとんど不可能な状
態である。そして、彼らのほとんどがかつてのヒーローであった元聖戦士達に
幻滅しはじめた。彼らが母国へ戻って見たもの、それは地獄であった。このへ
んの状況に関する情報もまだ整理されていない。が、母国へ戻ったけれど、ま
た隣国のパキスタンへ戻ってきたアフガン人や、ずっとアフガニスタンに踏み
とどまり続けたアフガン人の話、そして国連職員やNGO職員の体験を記録した
報告書などの形であちらこちらに散逸して残っている。元聖戦士による略奪と
強姦は必ず、アフガン人の話に出てくる。女の子供を持つ親は、彼女達を学校
にやるのを止めた。登下校中にさらわれ、強姦され、ボロクズのようになって
捨てられる、ということが繰り返されたからだ。治安という概念がまったく存
在しない状態、自衛しか望めない状態、それがアナーキーの象徴であるのだろ
う(※参照6)。

元聖戦士達は、各地にチェックポイントというものを作っていた。それは日本
風に言えば関所だ。それは第一には軍事的理由によるものであったかもしれな
い。しかし、一般のアフガン人にはそれは通行人から、お金を巻き上げるため
の口実にすぎないように見えた。カブールでは辻々にチェックポイントが作ら
れ、そこを通過するたびに一般人は通行税というものを徴収された。カブール
だけではない。その他の各地でそういう記録が残っている。

例えば、アフガニスタン南部のカンダハルという都市とパキスタンのクエッタ
という都市を結ぶ道路は長い歴史を持つ交易路である。その道を使って商用ト
ラックがパキスタンとアフガニスタンの間を往来する。当時、クエッタからア
フガニスタン国境までは問題なく通行できたが、国境を超えてからが問題で
あった。国境からカンダハルに着くまで数キロごとにチェックポイントが置か
れていたのだ。それぞれの局地支配者が通行税を巻き上げるためである。商人
にとってこれは大打撃であった。何度も関税を払うようなものである。

元聖戦士達の評判は地に落ちて行った。元聖戦士と僕は書いてきたが、彼ら自
身はいまだに自分達のことを聖戦士と呼び、聖戦を戦っているつもりであった。
しかし、僕は覚えている。その当時(1993年)、僕の会う普通のアフガン人達
は彼らはもう聖戦士ではないと言っていた。ただの戦争屋だと。普通のアフガ
ン人から僕が受け取るメッセージは、もう戦いをやめてくれ、それだけだった。

しかし、1994年秋、劇的な状況の変化が起こった。
タリバンの登場である。
そして、彼らもまた「戦争しか知らない子供たち」だった。

※参照--------------------------------------------------------

(1)カブールの状況についてもう少し詳しくは、
http://www.os.xaxon.ne.jp/~nishi/afu.html

(2)これらは推定である。イラン、パキスタン以外にも、ヨーロッパ、アメ
リカ、インドなどにたどり着いたアフガン難民もいる。大量難民が発生した
場合、完全に正確な難民数というのはおそらくつかめない。国連難民高等弁
務官事務所(UNHCR)は最大の努力を払って統計を出しているが、それでも難
民を受け入れている政府、あるいはNGOなどが、UNHCRとは別の数字を採用する
場合がある。この背景には、難民の数を数えることの困難さだけでなく、政治
的思惑なども絡んでくるが、この詳細については別の機会に書くことがあるだ
ろう。

(3)これも、後に詳述するつもりだが、アフガン内戦の激化により、アフガ
ニスタンへ戻る難民と同時に隣国へ避難するアフガン人の流出も起こり、つま
りアフガン人の双方向の流れが置き、正確な数を把握するのがさらに難しく
なった。

(4)国際法上の「難民」の定義に当てはまるには、「国籍国の外にいる」こ
とが必要。「難民の地位に関する条約(1951年)」第1条及び「難民の地位に
関する議定書(1967年)」第1条。

(5)国内で居住地を追いやられた人というような意味。定訳があるのかどう
かは知らない。母国内にいるため、上の難民の定義に当てはまらない。しかし、
人道上、援助するべき人々のカテゴリーとして使われている。ソ連が撤退する
直前の1988年当時で、アフガニスタン内のIDPsの人口を200万人以上と国連は
推定していた。つまり、その時点で、600万人の難民と合わせて、800万人のア
フガン人が自分の居住地を追われる生活をしていたのだ。

(6)その当時の典型的な話を二つ載せておく。

ガズニ県から逃げてきたあるアフガン女性の話

「顔を隠した12人の男達が家に来ました。みんなカラシニコフを持っていまし
た。彼らは私達の娘を出せと言いました。私達は拒みました。でも、彼らは娘
と直接話をさせろと言って、ききませんでした。それで私達は娘を隠していた
ところから連れてきました。娘はあなた達について行くのは嫌だと言いました。
そうすると12人の男のうち1人がカラシニコフを娘に突きつけ、撃ちました。
娘は死にました。彼女はほんの12歳でした。もうすぐ上の学校へあがるところ
でした。私達はその日、娘を埋葬しました。」(1993年頃)

パルワン県から逃げてきたあるアフガン女性の話

「私は二人の赤ん坊の母でした。夫は死に、私以外に誰も赤ん坊の面倒を見る
者はいませんでした。まだ二人の赤ん坊が寝ている、ある寒い日の早朝、いつ
ものように私は家に鍵をかけ、朝食のパンを買う長い列に並ぶために出かけま
した。突然、軍用ジープが止まり、二人の男が私を中に引きずりこみました。
私は狂った女のように叫びましたが、まだ辺りは暗く誰もいませんでした。私
はその後気絶したと思います。
目を覚ますと、銃を持ったたくさんの男に囲まれていました。私は汚いマット
レスの上に寝かされていました。男達は次から次に私を強姦しました。私は
ずっと私の二人の赤ん坊のことを考え続けていました。何日間そこに閉じ込め
らていたのか分かりません。何日も何日も同じことが続きました。でも私の頭
の中は二人の赤ん坊のことを考えることだけで忙しかったのです。何日そこに
いたか思い出せません。ある晩、彼らが私を通りに捨てた時、私は立つことが
できませんでした。私はゆっくりと這って家の方に向かいました。二人の赤ん
坊は死んで凍っていました。飢えて死んだのか、寒さで死んだのか私には分か
りません。」(1993年頃)

"In Search of Peace:Afghan Women's Diverse Voices Against violence",
AfghanWomen's Network in Islamabad and Peshawar.より、拙訳。

(続く)


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本文で表明されている見解はすべて筆者個人のものであり、筆者の所属する組
織の見解とは一切関係ありません。