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No.6 「アフガニスタンの女たち」
一言でいえば、それはアフガン女性のDignity をひどく傷つけた。 僕も読んでみたが、アフガニスタンという国を見たことも聞いたこともない、いかさまコンサルタントが、日比谷の図書館でこっそり書いたといっても信じそうになるようなものだった。 アフガン女性はアフガニスタンに人権侵害がないと言っていない。彼女達は調査に期待をしていた。しかし、報告書に糾弾されているのは、---書いた本人は気がついていないかもしれないが(!)---アフガン文化であった。 アフガン女性固有の価値は無視された。それだけなら、アフガン女性は諦めたかもしれない。しかし、報告書は徹頭徹尾トンチンカンにアフガン女性を「助けてあげよう」とする善意に興奮していた。 誇り高く美しいアフガン女性が怒るのも無理はない、と僕は思った。 現在、人権をめぐる言語空間はやりきれないほど非人権的になっていると僕には思える。自分の人権以外眼中にない連中が人権をレトリックとして使い、他者の言論を封殺しているうちは、これは改善しようがないような気がする。滅入る話だ。アフガニスタンの人権に関する議論も同様、とても歪んだ話になっている。これ以上、その歪みについて書いても生産的ではなさそうだ。いつかストレートな議論ができる時に少しは足しになるように、アフガニスタンの女性に関する情報を追加しておこうと思う。 アフガニスタンの女性を語るに際して、アフガニスタンの人口の5%が都市に住み、95%が村落に住むという事実をまず確認しておこう。そして、おそらくどこの国でも、都市と村落では、いろんな面で違いが見られるだろうが、アフガニスタンの場合、その違いは際立って大きいということにも注意する必要がある。 アフガニスタンでは、ほとんどの村落地域が長い歴史の間、外の世界と隔絶され、外からの影響が最小に維持されてきた。そのために、アフガニスタンの伝統が非常によく残っている。 これに対して、都市、特にカブールは、頻繁な外敵の往来、帝国主義者にさらされた歴史、宮廷を通して入ってきた外の文化などによって、アフガニスタンの伝統とは異質なものも発展させてきた。村落では考えられない習慣があったりする。 そのような経緯によって、アフガニスタンの都市と村落の生活様式、習慣、人々の意識、社会規範などに、大きな差ができたと思われる。 ●都会の女たち(1) カブールには、外の地域から様々な人々が流れ込んできている。彼等は、部族、宗教、親戚関係、出身地などのつながりを基礎に集団を作り、固まって住む。 カブール市はその固まりにしたがって、いくつもの区域に分かれてきた。 アメリカの大都市にあるリトル・トーキョーやチャイナ・タウンのようなものを想像すればよいかもしれない。これらの集団の社会的凝集力は非常に強い。 家屋は中庭を囲んで、内側を向くような形で建てられている。この中庭を囲んで建つ一連の家屋に囲まれた一区画、これが女性の世界であると言える。 1970年代にいたっても、中・下層階級の女性達のほとんどは男性の同伴者なしでここから外へ出ることはめったになかった。彼女たちの夫、兄弟、息子達が外へ出て、役所や工場などで働く。家にいる女たちは男のやっている仕事についてはほとんど何も知らなかった。男たちと家族との関係は、家庭の物事によってのみ成立していた。 都会に住む女たちの役割というのは、まず第一に男と子供たちの世話をすることであった。 ●都会の女たち(2)宮廷 最初に女性の権利を公にとき始めたのは、1880年にカブールで王位についた「鉄のアミール(王)」として知られるアブドゥル・ラーマン王であった。 彼はその独裁的なやり方で非常に嫌われた王でもあった。 しかし、初めて女性のためにスピークアウトしたのも彼であった。彼はコーランを引用し、子供の結婚と強制的な結婚を禁じ、女性の相続権、離婚する権利を擁護した。同時に彼は、姦淫には死刑を科した。彼は、女性の振る舞いは一国の名誉、および家族の名誉を象徴するものであるという強固な信念を持っていた。 それゆえに、家族に不名誉をもたらす危険がある敵対的な外の世界から女性は厳重に守られ、隔離されなければならないと彼は信じていた。 彼の息子である、ハビブラが1901年、彼の後を継いだ。 彼は女性の権利にはあまり関心がなかったが、意図せず女性のための運動を推進するような役割を担った。というのは、彼は父であるアブドゥル・ラーマン王の下で国外追放された家族たちに恩赦を与え、アフガニスタンに呼び戻したのだが、これらの外国生活経験者がアフガニスタンに新しい風を吹き込んだのであった。 その中でも最も有名な家族にムサヒバン家があった。このムサビバン家との友好関係のしるしにハビブラはムサヒバン姉妹の一人を第四の妻として迎えた。 この女性、ウリヤ・ジナーブはインドで育ち、洋服のみを着用する、非常にエレガントな若い女性であった。また、彼女は優れた作家でもあり、ウルドゥー語作品のダリー語への翻訳などもした。 この女性に関する全てが当時のカブールのハーレムにおいて新しい現象であった。彼女には政治的野心がまったくなく、社会に新しい波を起こすというようなことはなかったが、「女性の教育」という当時は存在しなかった概念が彼女の存在そのものによって初めて知られることになった。 恩赦によって帰国した、もう一つの有名な家族は、マフムド・ベグ・タルジの家族であった。すでに有名な作家であり、著名な新聞の編集者であった彼は、若い頃をシリアで過ごした。そこで彼は女性の解放、女性の社会参加を説く青年トルコ運動に影響を受けた。 タルジとシリア人の妻は1904年頃、カブールに帰ってきたのだが、すぐに女性の教育と勤労の機会の必要性を説き始めた。 彼は「セラジ・ウル・アクバル(The light of the news)」という新聞を発行し、世界の有名な女性についての記事を連載した。彼はそれによって女性がいかにして国家の発展の推進力になるかを説明しようとしたのだった。 タルジは宮廷において大きな影響力を持つことになった。というのは、娘のうち二人がハビブラ王の息子と結婚したからだ。 この娘二人は非常にファッション・コンシャスで、常に洋服で着飾っていた。二人は数多くの衣裳をインドに注文し、また宮廷の若い女性たちにも、洋服をデザインし縫製するために専属の裁縫師を雇っていた。 この頃(1906年頃)から、洋服が徐々に女性の教育と解放を象徴するものとなっていった。 タルジの娘、ハイリヤと、ハビブラ王の長男、イナヤトゥラの結婚式は壮大なものであった。この結婚式でハイリヤは西洋式の白いウェディング・ドレスを着て登場した。 インド、パキスタン、アフガニスタンを含むこの地域では、花嫁は華やかな色彩の伝統的な衣裳で着飾るのが普通であるが、この二人の結婚を機に、カブールの花嫁は西洋式の白いウェディング・ドレスを着るという習慣が始まった。 今でもカブールの街を歩けば、ショーウィンドウに白いウェディング・ドレスが飾ってあるのを見て驚愕することができる。服装にうるさいタリバンも取り締まらない。 タリバンは個々の地域の固有の伝統にはうるさいことを言わない。つまり、白いウェディング・ドレスはカブールの伝統として認められているのだ。 ハイリヤとイナヤトゥラは、白いウェディング・ドレス以外にも新しいものをアフガニスタンに紹介した。 それは一夫一婦制という概念である。 イナヤトゥラの父、ハビブラ王は、政治的な配慮からイナヤトゥラにももっと多くの妻をめとるようにと説得し続けたが、この若いカップルは拒否し続けた。 ハビブラ王はこれを非常に奇妙なことだと思った。ハビブラ王は4人の正妻の他にも、ハーレムに何人もの女を囲い、23人の息子と25人の娘をもうけ、全ての子に完全な嫡子の地位を与えていた。 しかし、若い王子と王女は頑固であった。このカップルは自分たちの家族(13人家族になった)の世話だけに専念し、ハイリヤの生涯は家の飾り付けと家事のやりくりに捧げられた。 タルジのもう一人の娘、ソレイヤはハビブラ王の三男、アマヌラと結婚した。 アマヌラは父が1919年に暗殺された後、王の地位を継承することになる息子である。ハイリヤとイナヤトゥラが自分たちの家庭に引きこもっていたのとは対照的に、この新しいロイヤル・カップルは積極的に、女性のベールの廃止や、女性の国家発展への寄与、女性の権利を説き始めた。 乗馬をする、姉妹で車に乗ってピクニックに出かける、夫と狩に行く、公式の集まりで女性の権利を説くなど、ソレイヤは、当時としては極めて革命的なことをしていた。 しかし、これらの宮廷の子供たちは外部の世界とほとんど接触をもたずに成長することになった。彼等は西洋的な思想を持ち、西洋服を着、おもちゃまで西洋のものであった。 これはアフガン人の95%が生活する村落の価値観を知る機会をまったく持たずに成長していったということである。その結果、成人してからも彼等は自分たちを取り巻く環境の動きをまったく理解することができなかった。 1978年、社会主義勢力によるクーデタが起こり国外逃亡することになるのはこのようにして育った宮廷アフガン人であった。 ●都会の女たち(3)反動 1919年、アマヌラが王位を継承し、ソレイヤは女王となった。 1921年ついに、ソレイヤ女王はアフガニスタン最初の女学校を作った。校長先生にはタルジの妻、ラスミヤ(つまりソレイヤの母親)になってもらった。 この女学校の最初の卒業生が出る時、アマヌラ王とソレイヤ女王のカップルは、彼女たちをトルコに送って、さらに上級の看護学の教育を受けさせようとした。 しかし、このアイデアは凄まじい反対に会った。 当時のアフガニスタンでは、女を学校にやるというだけですでに十分とんでもないことだったが、さらにそれよりも進んだ教育というのは聞いたこともない発想であった。その上、男の親族の同伴なしで彼女たちを外国に、しかも将来の職業訓練のために送るとは言語道断であった。 「女性が職を持つ」というコンセプトが当時のアフガン人には飲み込めなかったのだ。 しかし、アマヌラとソレイヤはこのアイデアを決行した。1928年10月、アフガニスタン最初の女学校の最初の卒業生が史上初めて親族の同伴なしで外国、トルコに向けて出発した。すべてが前代未聞の出来事であった。 アフガニスタン最初の病院が開設されたのも同じ年、1928年であった。 トルコで看護学を学ぶことになったアフガニスタン最初の女学生たちは、この病院の、最初の正規教育を受けた看護婦として帰国することを大いに期待されていたのであった。 ●村の女たち アフガニスタンの国土のほとんどは山岳地である。その結果、村の多くは基幹道路から遠く離れた地域に存する。一つの谷が一つの村という形になっていることが多い。隣の谷はまた別の一つの村である。 これらの村は普通、非常に小さく、たいてい一つの村は一つの親族によって占められている。つまり、住民はたがいに親戚関係にあり、一つの村が大家族のようなものである。 これが意味するのは、女性はこの村の中を自由に動き回れるということである。 カブールの女性が非常に狭い区画の中でのみ生活していることに比べれば、大きな違いである。 このような移動の自由と、地理的な隔絶により敵対的な外の世界から守られていることによって、都会にはない、安心感を村の女たちは持っている。 しかし、平原部にある村は山岳部の村よりも大きく、生活の形態もカブールに似ている。村人は村の中の区画ごとに生活し、一つの区画は一つの親族関係者で占められている。 村でも家屋の構造は、外の世界から女性を守るように設計されている。普通は入り口が一ヶ所しかなく、そこは男達が来客を接待するための部屋に直結している。ここで、若い少年達は礼儀、客への応接作法、エチケットなどを学ぶ。 この部屋にあるドアのうち一つが、女性のいる部屋につながっている。女性の部屋のドアはそれだけである。 「一ヶ所に隔離されたかわいそうなアフガン女性」については、しばしば憐憫を持って語られてきた。しかし、ナンシー・ドュプレ女史は、この女性のための特別のスペースは女性にとって非常に重要だと強調する。 「ここで、女性は女性自身になることができる、ここであなたは男性と女性の間の本当のインターアクションを見ることができるでしょう。公の場所では、男性も女性も社会が適切とみなすやり方で振舞います。女性は、穏やかに、物を言わず、男性の後をついて歩く。しかし、この女性の部屋では違います。ここでは、思う存分、女性と男性がふざけ合い、からかいあい、楽しみます」 現在もパキスタンのペシャワルで活動を続けるナンシー女史は、1950年代にアフガニスタンでの研究を始めたというから、かなりの高齢である。 彼女の夫は有名な文化人類学者で、アフガニスタンに関わる者なら誰もがまず手にするであろう書物を残している。 ナンシー女史はアフガニスタンの共通語であるダリ語を自由に操り、アフガン人からの信頼も非常に篤い、西洋人としては稀有な存在でもある。ナンシー女史は、しばしば歪んだアフガン女性観がばら撒かれていることを嘆いている。 「アウトサイダーによってばらまかれたアフガン女性に関する固定観念によれば、アフガン女性は、朝から晩まで過酷な生活を強いられる、無知な動く物体に過ぎないというものです。男の情報提供者から得た情報を元に、男の文化人類学者が形成してきたこのような固定観念は何年にも渡ってくり返し、くり返し、喧伝されてきました。私はアフガニスタンに行く前にこれらをすべて読みました。その後、文化人類学者である夫が私をアフガニスタンの村に連れていき(私たちはインディ・ジョーンズにでてくるような考古学キャンプに住んだことはありません。いつも村の家に住みました)、私は村の女性たちが持つ強さ、自信に気が付くようになりました。私が見たもの、経験したもの、それらすべては、私が書物から知り得た固定観念とはまったく似ても似つかないものだったのです。」 最初アフガニスタンにやって来た時、僕には予備知識がまったくなかった。しかし、アフガン社会との接触を実際に体験するにつれ、メディアが発するアフガニスタン像に違和感を持つようになった。 その後、ドュプレ夫妻の書物を読むようになって、ようやく納得の行く話に出会ったと感じることができた。 腰を抜かしそうな美貌を持つアフガン女性に出会い、彼女達の威厳に満ちた態度を知ると、どうしても「虐げられた可哀想なアフガン女性」という像はしっくりこなかったのだ。 村落地域のアフガン人家族は、その成員みんなが相互に依存し連携した役割を担っていると、ドュプレ女史はいう(Inter-connected/dependent roles)。 村の女性たちは、みんな自分たちが家族全体の幸福にとって必要不可欠な存在であるということを知っている。男性もそれを理解している。それが村の女性たちの自信につながっている。 男たちは田を耕す、種を蒔く、作物を取り入れる。女たちは豆や木の実を獲り、綿を摘み、メロン狩りに励む。メロン狩りの季節は女性たちにとって、特に楽しい外出の時期だ。女性たちは毎年その季節を楽しみに待っている。 収穫が終わると、作物のいくらかはバザールで売られ現金になる。残りは冬越えの間の家族の食糧として蓄える。次の収穫までこの食糧をもつように管理するのは、女の仕事だ。これに失敗すると、家族は借金に落ち込む、もしくは飢えることになる。 近代人が忘れた「食糧の管理」という重大な仕事がここには残っている。 男と女の相互連携・依存関係は、絨毯作りに最も典型的に現れる。 男たちが羊の世話をし、やがて羊の毛を刈る。女たちが羊毛を紡いで毛糸を作る。毛糸は男たちにもう一度戻り、染色される。その染色された毛糸を使って、女たちが絨毯を織る。出来上がった製品はまた男たちに戻り、彼等が絨毯のマーケティングに励む。 村の生活はこのような男と女の相互関係に依存しており、その結果、自然に男と女が尊重しあう関係が出来上がる。家族の成員の誰もがお互いの存在なしでは生存できないということを知っている。 この村の男と女の関係は、都会の状況とは際立って違っている。 都会では、男は外に働きに出て、女は家にいる。その結果、男と女の間の絆は、村に比べるとずっと希薄なものになる。 しかし、村でも都会でも、女の最も重要な役割は、結婚と子育てであるという点では変わりはない。 アフガニスタンにおける結婚は極度に重要な事業である。その準備は大変なことになる。 日本の風俗と良く似た、婚約から結納の儀式を経て結婚式に至るまで、細かい取り決めが無数にあり、またそれは地域によって、あるいは民族によって少しずつ違っている。 花嫁にとって、婚姻後の生活に決定的な影響を与える準備がある。それは刺繍である。結婚に先だって、花嫁は、衣裳はもちろんスプーン・ホルダーまで、ありとあらゆる刺繍製品を作ることになる。 花嫁が初めて嫁ぎ先の家に入って遭遇するのは、花婿側の女達による花嫁衣裳その他の刺繍の徹底検証である。刺繍の出来が良ければ良いほど、花嫁の地位は上がる。そして、その後の花婿側の女たちによる花嫁の扱い方も良くなるというわけである。 アフガニスタンにおける刺繍は、女の「個人としての尊厳」のシンボル的機能を果たしている。従って、これを市場で売るなどということは考えるだけで恐ろしい行為である。実際、かつては家族の一員である女が作った刺繍をバザールに行って売り飛ばすような不埒な男はいなかったそうだ。 しかし、長い戦乱が状況を変えた。 どうしても売るものがなくなるほど困窮する家族がパンを買うために刺繍を売るはめになった。しかし、それはあくまでもアフガン文化の中では非常事態の下での例外的措置に過ぎない。 ところが、困った事態が発生した。外人は刺繍を喜んで買った。「虐げられた可哀想なアフガン女性を助け」たい欧米NGOがめざとく、これに気がついた。 そして、難民キャンプ周辺で、アフガン女性に刺繍を作らせ、それを売りとばす「女性の収入向上プロジェクト」というものが大量発生したのだった。 男も女もまったく収入源を失ったアフガン人家族に選択の余地はなかった。彼等は非常事態として彼等の尊厳の一部を換金するプロジェクトを受け入れた。 欧米NGOは、”アフガン女性をこんなに助けています”というパンフレットを作る。ドナー国はそういうNGOに資金を流し、刺繍プロジェクトはますます増加していった。 首都のイスラマバードに店舗を開き、アフガン難民の手仕事をシステマティックに流通に乗せるNGOまで現れた。 こうやって、アフガン女性はいつのまにか家内制手工業の女工になり、アフガン女性の尊厳は完全に産業構造に組み込まれた。 これは悲しく難しい話だ。誰かが止めようとしても、どうにもなるものでもない。村から放り出されたアフガン人にとってマーケットの力は強過ぎる。 アフガン文化が難民キャンプで近代化の洗礼を受けるという見方もできるかもしれない。しかし、あまり見たくはない風景だ。やむにやまれぬ事情で始めたようなことが定着するとは思えない。いずれ母国に帰ることができたとしたら、刺繍はやはり家庭の中に戻るのではないだろうか。 これはアフガン難民をめぐる憂鬱な話の一部に過ぎない。 ●難民キャンプの女たち 1979年のソビエト侵攻以来、アフガニスタンから逃げてパキスタンにやってくるアフガン人は増え続け、ピーク時には350万人に達した。 92年に共産政権が倒れてから、アフガン人は母国に帰り始めたが、内戦が続き、今もパキスタンには120万人のアフガン難民が住んでいる。 村の中では自由に歩き回ることができたアフガン女性が難民キャンプに来て、最初に困ったことはその窮屈さであった。都市から来たアフガン女性にとっても程度は違っても事情はよく似ていた。つまり、自分のいる場所がない。 夏は摂氏45度を超えるパキスタンで、当初は水も、日陰もなく、砂埃がひどく、食糧も燃料も圧倒的に不足するキャンプに女たちはやってきた。 アフガン難民はこの状況に我慢がならなかった。やがて彼等はキャンプ地に自分達で家を建て始めた。この建築にアフガン女性は参加した。 ほとんど全てのアフガン女性にとって、このような肉体労働は初めての経験であった。というのは、アフガニスタンでは伝統的に女性が肉体労働をすることをお家の恥とみなす。これはアフガニスタン以東の南アジア文化とは異なる点であるらしい。 しかし、お家の一大事だ。この文化も棚上げされた。若い都会出身の女性の中にはこの建築を楽しんでいた者もいたらしい。 今では、難民キャンプといっても、まわりの村との違いが分からなくなっている。同じように泥壁の家が並んでいる。住んでいる人が違うだけである。 アフガン難民に提供された土地はだいたい貧しい土地であった。 地元住民とアフガン難民は、水、焚き木、家畜のための草地をめぐって、競争状態になった。潜在的には敵対的な関係にならざるを得ない。 ここでアフガン女性は活躍した。最低限必要なものを確保するために地元住民との交渉に出ていったのがアフガン女性であった。 ここで特記しておくべきことは、地元住民とアフガン難民の間に、今まで20年間もの間、大規模な暴力的衝突が起こらなかったことだ。 難民の多数派も、受け入れ側の土地の住民もパシュトゥーン族であった。彼等の誇り高く、激しい気性を考えると、これは驚くべきことだ。 これは、パシュトゥーンの部族規範、及びイスラムの教えがよく機能した結果と解釈されている。パシュトゥーンの部族規範は、同じパシュトゥーン族が困っている時は彼等を助けることを教えている。イスラム教も同じイスラム教徒が困っている時は助けるべきことを教えている。 住居は完成しても、アフガン女性は新しい種類の困難に直面することになった。 それは家の男達がほとんどいなくなったということである。 男達は難民キャンプからジハード(聖戦)に出ていった。 これまで、男と女共同で、あるいは男だけで決定していたような事を、男が不在のため女だけで決定しなくてはいけなくなったのだ。 アフガン女性はこの新しい責任をよく果たした。聖戦中、男たちは時々戦場から難民キャンプへ休息をとりに帰って来た。しかし、男たちが戦場へなかなか戻らず、ぐずぐずしていると、男たちの尻を叩いて「聖戦の義務を果たせ」と戦場へ追い返した。 アフガン女性は聖戦において非常に重要な役割を果たしたといえる。彼女たちが男たちが戦うモーティベーションを刺激し続けたのだった。 アフガン女性たちは自分たちが国の名誉のシンボルであることをよく認識していた。女たち、そして子供達がアフガニスタンの名前を汚さないように振舞わなければいけないと覚悟していた。 アフガン人を野蛮人といってけなすようなチャンスを狙っている地元住民もたくさんいたのだ。しかし、アフガン女性は名誉ある振る舞いで高い評判を維持した。 特に都会の上流階級のアフガン女性が難民になったケースでは、これは複雑な様相になる。 カブールなどに住むアフガン人に比べると難民キャンプ周辺に住むパキスタン人はずっと保守的であった。この地域のパキスタン女性はブルカで頭のてっぺんから足元まで覆っているが(*)、カブールの上流階級の女性は70年代にはもうブルカを着用していない者も多かった。しかし、アフガン女性の評判を維持するために彼女たちも難民キャンプでブルカを被り始めたのだった。そして、彼女たちは子供達に、アフガン人の伝統的な正しい作法、振舞い方、価値観を難民キャンプで教え続けたのだった。 (*)龍声感冒の『カブール・ノート』扉ページにある写真は、実はアフガン人ではない。パキスタンのアフガン難民キャンプ周辺に住むパキスタン女性の写真である。比較のためアフガン女性の写真もそのうち載せてもらおう。 参考文献 |
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