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No.3 「超国籍者の誘惑」


タリバンは今、世界で最も「評判」の悪い集団の一つだろう。超イスラム原理主義、 「人権」蹂躙、女性差別、部族浄化、頑迷固陋等などのレッテルがしっかりとタリバ ンには貼られている。

ところで、「評判」には常に政治性がつきまとうが、僕は、この政治性から逃れたい と思っている。そのためにはタリバンの「評判」を一つ一つ淵源にまで遡って検討す ることが必要だ。僕がアフガニスタンを巡る歴史を勉強しはじめたのは、そういう動 機であった。

書物で知ったことを自分が直接見たり味わったりしたものと衝き合わせてみる。そし て、また書物に戻る。こういう繰り返しを経て、徐々に自分の目ができあがってき た。そして、タリバンの「評判」の政治性は、より明確な輪郭をもって現れるように なった。端的な例は、「評判」が前提とする、アフガニスタンにおけるタリバン・反 タリバンの対立関係という図式である。これを前提にして、「評判」は笛を吹き、鐘 を鳴らし、鼓を打ち鳴らす。この対立の図式自体が部外者の引きつった目が創り出し たものである、と思うようになった。

アフガニスタンに対立・抗争がないと言っているのではない。その歴史のほとんどはありとあらゆる種類の対立と抗争に埋め尽くされている。しかし、そのプレーヤー達 に色をつけて善玉と悪玉を創り出したのは、アフガニスタンに口を差し挟む権利も正当性ももたない「部外者の政治」であったということだ。

そういう「評判」をまったく無邪気に、あるいは無反省にメディアは流す。そんなメ ディアの垂れ流す「評判」によって「部外者の政治」はまた力を得る。それによっ て、一つの国家の存続が危機に陥っている。これは恐ろしいことではないか。

今、僕が見ているものは、アフガニスタンという国家が再生しようとしている過程で はなく、一つの国家が消滅する過程なのではないか、と思うことさえある。「オマー ル!マスード!このままでは国を失うぞ!」と直談判に行きたい衝動に僕は駆られ る。

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大勢の人が集まっている。そこではたくさんのグループが出来て、それぞれいろんな 話をしている。僕もそのうちの一つのグループに入って何か話をしている。ガヤガヤ ザワザワ、いろんな話が一つの騒音となって聞こえている。そんな時、ふと自分の名 前がクッキリと浮かび上がって聞こえることがある。自分がいるところより、ずっと 遠くのグループの誰かが一言、僕の名前を出しただけだ。僕の周りでは他の誰もそれ に気づいていない。でも、僕は自分の名前が発音されたのをしっかりと聞き取った。 不思議な話だが、自分の名前だけはどんなに騒音があってもはっきりと聞き取る能力 が人間にはあるらしい。こんな経験は誰でも何度かあるんだろうと思う。

同じようなことを外国に居ても経験する。但し、自分の名前ではなく、国の名前で。 「Japan」という音がどこかで発せられるとやっぱりそれが、クッキリとした輪郭を 持って僕の耳に到達する。その前後の音はまったく聞き取れないのに。 新聞をパラパラとめくっていても、同じようなことが起きる。隅から隅まで読んでい るわけではないのに、ふと「Japan」という単語が目に入る。何千、何万という単語 が並んでいるのに、それだけをしっかり僕の目がとらえる。視覚にもそういう能力が あるのだろうか。

それがどうした?って思う。たまたま会話の成り行きによって、たくさんある国の中 の一つ、「Japan」が言及されることはあるだろう。新聞に「Japan」が出ない日はな いだろう。それがどうした?

しかし、そんな会話に自分の意志とは関わりなく、巻き込まれることもある。そんな 記事はたいてい最後まで読み通してしまう。 そして、僕は、あっ、カブールの街だ、と思う。 そこに現れている「Japan」は僕のまったく知らない何かグロテスクな畸形の生物の ようだ。僕の頭の中にある「日本」とその「Japan」は一致しない。その二つの間に は、あまりに遠くてねじれた距離がある。僕が「破壊」を了解できなかったように、 外国人は「日本」を了解していないのだろう。「破壊」が僕の頭の中で捏造されてい たように、「Japan」が彼らの頭の中で捏造されているのだろう。僕は「Japan」に頭 の芯が歪む気持ち悪さを感じる。

それがどうした?ってまた思う。「僕」=「Japan」ではない。そもそも「僕」= 「日本」でさえないではないか。「僕」=「僕」でしかない。僕は「Japan」からは もちろん、「日本」からも逃げ切ろうとする。自分が美しい、正しい、善い、と思う 人間像を作り、それに「僕」を一致させようと努力する。「Japan」?「日本」?そ んなことに関わっている暇はない。暇だったら、彼らと一緒に「Japan」を賛美して やってもいい、糾弾してやってもいい。しかし、そんな暇はない、僕は「僕」だけで 手一杯、忙しいのだ。勝手にしてくれと。

外国に住む「僕」の中に、あるいは他の日本人の中に、このような超国籍者であろう とするモーメンタムを僕は見てきた。「Japan」と「日本」の間の距離がもはや埋め ようもないほど大きく、かつねじれているということ、たとえその距離を埋めようと しても、そもそも「日本」が何であるかを説明する言葉も知識も持っていないこと、 この二つの条件が超国籍者の誘惑を形成する。

僕は超国籍者を醜いと思う。彼らは虚構に住み、虚構を根拠に現実を審判するから だ。彼らにその資格はない。

しかし、そもそも現実の問題として、超国籍者というのは存在し得るのだろうか。大 昔、あるいは遠い未来の話ではなく、現在の「日本」のこととして考えれば、それは あり得ない。にもかかわらず、超国籍者の誘惑に耽溺している人はいくらでもいる。 日本でも外国でも。超国籍者の行きつくところは、せいぜい「Japan」人でしかない のだが。

「国際人」や「国際化」というスローガンにも超国籍者の誘惑が潜んでいないだろう か、と僕は思う。もしそうなら、それは、「Japan」人というグロテスクな畸形のさ らなる変態に過ぎないだろう。虚構に立脚した人の言葉を国際社会が、いや誰も必要 とするわけがない。「Japan」を本籍とする「国際人」は日本からだけでなく、国際 社会という現実からも最も遠いところにいる。

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カブールの街を見ていて、あの頃の日本人は何を思い、何を考えていたのだろうと思 うことがある。敗戦直後の日本人のことだ。僕はその風景を実際には見たことが無 い。白黒の写真で「焼跡」というものを見たことがあるだけだ。石と泥を基本にして 作ったカブールのようにデコボコしていなかったような気がする。何もかも焼け落 ち、もっとのっぺりとした風景という印象が残っている。そののっぺりとした風景の 中に立って、その頃の日本人は何を考えていたのだろう。

僕とその風景の中に立っていた日本人の間には、もう恐ろしく長くて、捻れた距離が 出来てしまっている。僕がカブールの破壊の風景を了解できなかったように、当時の 日本人が何を思い、何を考えていたかを僕は想像さえできない。そして、そこから今 の僕へいかにして日本人は辿り着いたのか、それも説明できない。結局、「Japan」 に本質的な違和感を感じながら、僕には「日本」を説明できないのだ。僕とカブー ル、「Japan」と「日本」、この二つの距離は等距離なのだ。

この二つの距離が埋め尽くされるまで、僕は二重の虚構に住み続けなければならない だろう。超国籍者という醜悪な罠に嵌らないためにも、僕はその二つの距離を埋めた いと思う。

(続く)

 

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本文で表明されている見解はすべて筆者個人のものであり、筆者の所属する組 織の見解とは一切関係ありません。