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No.8 ネイビーブルー・チルドレン


窓から見える風景は真っ白だった。これで着陸できるのだろうか、と思う。先週、雪のために着陸できずに国連機が一機、カブールから戻ってきたのを思い出す。機は下降を始めたがまだ地上は真っ白だ。雪の上に着陸するのだろうと僕は考えていた。やがて地上に灰色の一本の糸が見え始める。やはり飛行機は雪の上には着陸しないらしい。しかし、こんな細い糸の上にうまく着陸できる
だろうか。諦めるなら早く諦めて欲しいと思う。(1)

糸の幅はちょうど主翼の幅くらいしかない。雪の中に突っ込まなければいいが、などと考えている間に、ほとんどショックもなくきれいに着陸した。見事なもんだ。白い雪原の中に飛行機の通り道だけが除雪され、それが空港ビルまで続いている。関係ないところを除雪してもしょうがないものな。雪の空港というものはどこでもそうなのだろうか。

機の外に出ると冷気にバシッと頬をぶたれる。生ぬるい機内から出たところなので、もっとぶって欲しいと思う。

空港と境目なく続く何もかも真っ白な平原、遠くに見える真っ白な山、こんな風景を何かの映画で見たことがあるような気がする・・・ソ連のどこかにアメリカの飛行機が事故で着陸してしまうような・・・。そう言えば、ここはアメリカよりも日本よりも旧ソ連にずっと近い。この地域の当たり前の風景の一つなのかもしれない。

飛行機の外で迎えの人達と挨拶をし、自分の荷物が機内から降ろされることをチェックし、降りたばかりの飛行機の主翼を下敷きに入国カードを記入するうちに、これはかなり寒いと感じ始めた。しかし、ズボンの下に寒防用タイツをはいてきたので大丈夫と思ってみる。

氷で滑らないようにほとんど地面ばかり見ながら空港ビルまで歩いて移動する。タリバンにパスポートを渡す。すぐに通過する。が、一緒に来たUNICEFの職員が止められた。あれれ、と思ううちに国連のアフガン人現地職員とタリバンの間で口論が始まる。何があったのか知りたいが両者とも口論に熱中していて通訳してくれそうな気配はない。

そのうちにタリバン側が誰かに問合せに行く、戻ってくる、また行く、ということを繰り返して事態はなかなか進展しない。どうやら彼のヴィザの期限が切れているので入国できないということらしい。が、彼のヴィザを見てみたが期限はまだ三日あった。どういうことなのか?

そんなことは、徐々にどうでもよくなってくる。僕はその頃、寒さに耐え切れなくなってきていた。空港ビルの窓もドアもガラスは割れたままだし、そんなところに暖房施設があるわけもない。寒防タイツの効き目はもうなくなっていた。腰のまわりが寒くてしょうがない。足の指先も寒くて痛くなってきた。つい足踏みをしてしまうが、なんの効き目もない。ああ寒い、ああ寒い、と声を出して言ってみるがこれも効き目はもちろんない。それを見てタリバンの一人が笑いながら、ああ寒い、ああ寒いをリピートする。僕も一緒に笑ってみるが、なんの効果もあるはずない。手の甲が痛くなってきた。指が動きにくい。指がかじかむというのだったか。手袋をチェックインするバッグに入れてきてしまったのを真剣に悔やむ。ああ寒い、なんとかしてくれ。クソ、寒いぞ、寒過ぎる!いったい、何度なんだ、今?!

マイナス15度、
という返事が現地職員からすぐに返ってきた。それは寒いぞ。この格好では無理だ。僕はTシャツにセーターを一枚、その上にアノラックという格好であった。アホではないか。

やっとUNICEFの職員が通された。ヴィザの期限を示すアラビア数字とダリ語の数字が一致していなかったらしい。ダリ語が読めない我々には分からない話だった。それにしても自分が住む国の文字くらい、どこでもせいぜい 2, 30個なのに、どうして我々の多くはは覚えようとしないのか、と思う。(2)

空港の前にはサウナのように暖められたランドクルーザーが待っていた。暑い室内から見る寒いカブールの街はもちろん真っ白だった。街を歩く人々の格好に夏とあまり変わりがないのに気づく。特に女性はブルカを頭からすっぽりかぶっているのでそんな印象を持ってしまうのだろう。しかし、あの下にごっそりと着こんでいるのだろうと希望的に思って見る。男は毛布のような分厚いショールで上半身を覆っている人が多いが、その下は夏でも見る普通のシャルワー・カミーズと変わりがない。シャルワー・カミーズは相当にゆったり作られていて、要するにだぶだぶなのであの下に何かいっぱい着ているのだと思いこもうとしてみる。そして、雪の上を歩く子供の足元に目が行った。

素足にゴムのサンダル。
夏と変わりがない。ズボンの下にタイツを穿き、分厚い靴下に分厚い皮の靴を履いて、ほんの30分、空港で立っていただけで凍死するかと思った僕には信じられない光景だった。凍傷にならないのだろうか。アフガン人は特別寒さに強いのだろうか。

最近、読んだ本の一節を思い出した。

・・・私は薄手のズボンの上にもう一枚厚いウールのズボンをはいた。その下に一つはシルク、もう一つは綿の、長い下着を二枚重ねてはいていたので、これで四重になった。それから私はシャツを二枚、セーターを二枚、上着を二枚着て、その上にパトゥを巻きつけて、七重にした。狼の皮の帽子で頭を覆い、スカーフで顔を覆い、長い靴下を首に巻きつけ、手袋に重ねて靴下を手につけた。私は完璧に凍っていた。・・・私はまともなコートに投資しなかった自分のバカさかげんを呪った・・・アリ・カーンは、夜であろうと昼であろうと、着ているものを減らすことも増やすことも決してなかった。彼はストイックに前に向かって歩きつづけた・・・(3)

これはあるイギリス人がアフガン人(アリ・カーン)を道案内に雇ってカブールから北へ向かっていく時の描写。イギリス人は寒くて、ありとあらゆるものを身につけてみるのだが、それでも耐えられない。しかし、同行のアフガン人は旅の最初から最後まで服装がまったく変わらない。アフガン人はほんとに寒さに強いのか、あるいはなんにでも強いのか。厳しい環境で生まれ育ち、そこで暮らす人達はその厳しさに対抗できる強い身体になるのかもしれない。あるいは、強い者だけが生き残る・・・

アフガニスタンでは今、寒さで子供が毎日死んでいる。

現在のアフガニスタンの状況を考えると、靴下や靴が手に入るアフガン人は、もうほんの数%しかいないはずだ。西部のヘラートでは8万人のIDP(国内避難民)がキャンプに住んでいる。キャンプといっても、かろうじてテントがあるだけで暖房施設がない。夜はマイナス25度にまで下がる。1月29日から31日の三日間だけで150人が死んだ、という報告があった。そのほとんどは子供であった。毎日、死者の数は増加し続けている。今、500人を超えている。これが日本で読まれる頃にはもっと増えているだろう。凍える寒さの中で親は子供を寝かしつける。明日の朝、目を覚ますことを祈りながら。耐えられない話だ。(4)

栄養不足も原因だ。マイナス25度、テントのみ、暖房なし、毛布なし、食料不足。日本人なら全滅ではないか。いったい国連は何をしているのか。テントを買う資金も、毛布を買う資金も、子供のミルクを買う資金も、何もかも不足している。ほんとに幸運な一部の人にしか行き渡らない。そうでない人から死んでいく。

現地のレポートを読む。
援助関係者がIDPテントに入る。薄暗い中に子供が三人横たわっている。青い肌をしている。光のかげんかと思い、もっと近づいて見る。やはり青い。死んでいる?いや、生きている。極度の栄養失調と暖房のないマイナス25度のテント生活がこのような青い顔の子供を作る。医学的な説明は読む気もしない。レポートの筆者はネイビーブルーになった子供の顔に凍る思いをしている。

このままではみんな死んでしまう。アフガン人は絶滅してしまうのではないだろうか、と思うこともある。鯨が絶滅するよりずっとひどい話だ。しかし、捕鯨反対のニュースほどにもアフガン人の危機はニュースにならない。増えすぎた種の鯨の肉をアフガン人の子供に配給できたらどんなに助かることか。日本のニュースには出ているのだろうか。

絶望は考えを現実からひどく離れたところへ運んでいく。

* * *

午後2時の国連合同会議で現在の財政危機とその改善の見通しの暗さとそれによる現場の悲惨な予測を説明する。この5ヶ月間、イスラマバードでやっていたのは、金策に走り回ることだけだった。9月の時点で200万ドルの資金が足りなかった。もう逃げるしかないと思ったが、逃げてもつかまるのでやめた。「浪花金融道」を手元においていなかったのを悔やんだ。

しかし、たったの2億円ではないかとも思う。日本の経済ニュースに出てくる数字とは桁がいくつも違う。バブル経済、不良債権、倒産、企業買収、インターネット株、所得隠し、汚職、贈収賄、どんな話題にせよ、そこで出てくる数字と比べると2億円なんてゴミみたいな数字に見える。ゴミならゴミで誰かここに捨ててくれないだろうか?

整合性のまったくない感覚に惑わざるを得ない。ゴミに見える2億円と何万人もの生命に直結する2億円。この感覚の不整合を統一するのはもはや不可能だ。
それは規模の違う経済の数字だから、などと説明を始められたところでこの崩れた感覚の助けになるだろうか。そもそも規模の違う経済とはいったい何なのか、あるいは規模の違う経済が同居する一つの世界とは何なのか。

世界銀行によると、世界のもっとも裕福な人、200人の資産を合計すると、もっとも貧しい人、20億人の資産の合計よりも多いそうだ。世界の約三分の一の人口と200人・・・?これは確かに現在の話で、古代ローマやエジプトの話ではないのだ。明確に貴族と奴隷が区別されていた時代と現在のどちらがましなのか判定できないではないか。歴史の教科書は世の中はだんだん平等に近づいてきたという印象を与えてくれたはずだが、あれはどうなった?

指標をもう一つ。海外投資は過去2年で7倍も増加した。そう、世界は一つに近づいているのだ。グローバリズムはかけ声だけではない!?

確かに。しかし、海外投資の70%は裕福な国どうしの間で行われている。20%はたった8つの、民主的というよりほとんど独裁的な発展途上国に流れている。そして、残りの10%がもっとも貧しい100カ国に分散されている・・・こういう数字は特権クラブの繁栄を示しているだけにしか見えないが、それをグローバリズムと呼ぶのだろうか。

ダボスの世界経済フォーラムに抗議に集まった人達、99年末にシアトルのWTOサミットを崩壊させた人達、彼らの中にはいろんな主張があるし、それぞれがいったいどういう主張をしているのか正確には知らない。しかし、彼らは、生活の様々な局面で僕と同じような感覚の不整合に直面している人達ではないだろうか、とふと思う。

もちろん、僕の崩れた感覚は極端なものかもしれない。あるいは狂っているのかもしれない。あと一枚毛布があれば凍死しつつあるアフガン人の子供を一人救えるかもしれないと思いつつ、破綻している企業を救うためにアフガン人の子供全員を救うよりはるかに巨大な金が投入されているのを見るのは、あるいは極端な経験なのかもしれない。

しかし、ダボスを取り巻いたヨーロッパの若者がCD一枚を買う時にもつ金銭感覚と、インターネット上でそのCDを売る企業の株価がどうのこうのというニュースに出てくる金額を見るときに持つ感覚がどうも整合性をもたないと感じていたとしてもおかしくない。何かおかしいという直感がはじめにあり、それが共有されているからこそ、あれほど種々雑多な集団が一つのターゲットを相手に集まることができるのではないだろうか。

ダボスの情景を日本のメディアはなんと伝えたのだろうか。僕の頭には、「特権クラブが奴隷の氾濫を鎮圧する」という見出しが浮かんだ。そうやって、僕は自分の感覚の不整合性を整合的に説明してみる。奴隷の感覚と特権クラブの感覚が一致するはずはないのだと。

これらの挑発的な言葉を否定しもらってもしょうがない。あるいは、経済学の講義をしてもらってもしょうがない。グローバリズムというキャッチフレーズの有効期限はもう切れている。感覚の整合性をとりもどす現実を作り出せるかどうか、それが本来の問題であり、それを迂回するように世界が動いているかぎり、挑発的な言葉を使っておこうと思う。狂った感覚がもっと集団化し、暴発する危機があるかぎり。危機には道化が鐘を鳴らして踊らなければならない。

さて、僕が書いているのは世界銀行の指標のどこにも位置付けられない、海外投資が流れる最後の10%にも属さない、それよりさらに外の国についてである。

そういう国の99%を支配するタリバンに対して、国連安全保障理事会は2000年12月19日、国連事務総長の懸念にも現地国連人道機関の代表者の反対にもとりあわず、制裁をさらに強化する決定をした。国連安保理決議1333号。

制裁決議と同時期、WFP(世界食糧機関)は、今年アフガニスタンで50万人から100万人の人が飢餓で死ぬ可能性があると発表した。

これで国連のイメージが少しリアルになるであろうか。国連内の政治と人道、二つの部門の意見が正面衝突する。国連の制裁決議はそれを鮮明な形で示す。
制裁の有効性についても、制裁が達成しようとする政治的目標についても、人道援助関係者は個人的意見はともかく、とりあえず沈黙する。彼らが制裁に反対する理由は、今、それどころではない、まったく政治に関係ない人が大量に死につつある、制裁はそれを加速する、それだけである。

去年「イラクからの手紙」を書いた直後、イラクにおける国連人道援助の最高責任者が国連制裁を批判して辞任した。それに続き、WFPの現地代表も同様の理由で辞任した。今、アフガニスタンの現地国連関係者で国連制裁に好意的な人は僕が知るかぎり一人もいない。 (5)

* * *

会議が終わってオフィスに行くと、タリバンの公衆衛生省から手紙が届いていた。今日の午後2時に着て欲しいと。受け取ったのは午後3時。もう遅い。連絡して翌日の午後2時に行くことにした。

出席者はWHO、UNICEF、国際赤十字委員会、国境なき医師団など、主に医療関係の援助団体だった。タリバンの公衆衛生副大臣が会議の目的を説明し始めた。副大臣といっても、とても若い。まだ30代だろうと思う。タリバンはみんな若い。彼は西部のヘラートと北部のバグランのIDPキャンプの状況を、もはや手におえない状況だと言った。

珍しい・・・
と僕は思った。何々ができない、とか何々が手におえないとか、自分の能力の限界を率直に示す表現は、この地域の人、特にアフガン人はほとんど使わない。
誇りがそうさせるのだと思う。
それは良い方向に働けば、自分の言葉に現実を合わせる努力へ向かわせるが、悪い方向に働けば、希望的認識と現実認識の乖離が広がるばかりで改善とか進歩というものの可能性がなくなっていく。コントロールしない誇りは自滅を導く。

副大臣は助けを求めていた。
「ヘラートとバグランのIDPキャンプで死ぬ人の数は増えていくばかりだ、もう手におえない、なんとか死者が増えるのをくい止めたい、カブールから援護を出したいのだが、我々にはトラックも救援物資も何もない、そこで各機関から供出できるものを出してもらえたらありがたい、それを集めてカブールから送りたいと思う」ということだった。

そして、副大臣は出席者一人一人に何が出せるかを問うた。
すべての出席者の返答がほとんど同じものだろうということは、僕に限らずすべての出席者がお互いに分かっていたと思う。誰も答えたくなかった。が、副大臣の一番近くに座っていた出席者から答えざるを得なかった。

「ヘラートにもマザリシャリフにも我々の支部があって、彼らが西部、北部を担当しているので、カブールからは何もできません」と。

僕はこの人に同情した。国連機関もNGOも大きなところはみんなそうなのだ。
しかし、ああ、なんという官僚的、紋切り型の回答。副大臣が一瞬いらついたように見えた。

「公衆衛生省にもヘラート、マザリシャリフに出先機関がある。彼らは全力を尽くしている。それでも手におえないからカブールから援護を出そうと思っているのだ。ある地域が危機に陥っていたら、他の地域が助けるべきではないか。救援物資や資金を融通しあうべきではないか」

と副大臣は腹の底からこみ上げる何かを押さえ込むように低い声でゆっくりと言った。そのとおりなんだよなあ、と思う。でも組織、特に国連機関の内部では予算の配分がどうたらこうたらで何もスムーズに動かない。なんだかんだ言ってるうちに常に後手後手になる。緊急援助機関なんて名称は実際ほとんどお笑いとしか思えない。

神戸で大地震が起こった時、ヤクザ系の人達が公的機関よりはるかに効率よく動いていたけど、なんか副大臣の意気込みには彼らに近いものを感じる。

次々に、同じ返答を聞きつづける副大臣がかわいそうな気がした。しかし、さて、自分は何かできるかといえば、同じことなのだ。何かないだろうかと懸命に考えて見た。ペシャワルの倉庫に7000枚の毛布があったのを思い出した。それを去年の11月にヘラートに移して、イランから帰ってくる難民に渡す予定だったが、間に合わなかったような記憶がある。あれを全部IDPに渡せないだろうか。イスラマバードに問合せしないと、なんとも言えない話だ。でも、今これ以上に優先順位の高いことはあるだろうか、と考えてみる。ない。説得できるはず。
ええい、ままよ、

「ペシャワルにあるか、もしくはすでにヘラートに運ばれている毛布7000枚をヘラートのIDPに配給したい」

と僕は言った。これはもうはったりだ。組織がだめなら、自分で毛布7000枚買うしかない。かなりの借金になりそうだ。

全員の返答が終わり、結局、副大臣が思い描いていたような救援物資を満載したトラックの派遣という事業はできないことが明らかになってしまった。自分の意気込みが空回りに終わり、失望したような、あるいは何かの失敗を恥じるようなそぶりで、誰とも視線を合わせず、副大臣は言葉少なく会議を終えた。

わさわさとみんな立ち上がり、談笑しながら退席していく。僕はなんか忘れ物をしたような、やりのこしたことがあるような妙な気分でまだソファーから立ち上がる気分にならず、ぼやーと皆を見ていた。ななめ横にいる副大臣は、何かを見るでもなく、前を向いたまま座っていた。何か後味が悪い。僕は立ち上がった。挨拶をしようと思い、もう一度副大臣の方を見てみた。

副大臣は靴下を履いていなかった。(6)


(Kabul, February 2001)

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(1)アフガニスタンの中ではカブール空港が一番ましな空港だと思う。西南部のファラというところへ着陸しようとしていた時、着地のショックを覚悟した頃に突然急上昇するショックで驚かされたことがあった。何事かと思っている乗客に国連機のパイロットは、滑走路が見えなかったと丁寧に説明してくれた。親切な人だ。着陸後、地上に降りてみて彼の言葉に納得した。滑走路らしきものはなかった。平地をならしてあるだけだった。

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(2)例えば、3ヶ月以上日本に滞在する外国人はひらがなとカタカナを覚えなければいけないという法律を作ると問題だろうか。世界中の国がそんな法律作ってしまえば、インターネットのおかげでさらに図に乗っている英語帝国主義に一撃くらわすことができると思うのだが。

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(3)“An Unexpected Light ? Travel in Afghanistan - ”, Jason Elliot, 1999. pp.153-155. から拙訳。
 著者は19歳の時、ソ連相手に戦うムジャヒディンに同行して初めてアフガニスタンに入る。当時、多くの西側ジャーナリストが彼のようにムジャヒディンをガイドにアフガニスタンに“潜入”し、“自由の戦士”(彼らはムジャヒディンをそう訳した)が悪魔の帝国、ソ連と戦うルポを書き出版した。しかし、それらのルポの多くが描くのは、実際の戦闘ではなく、敵のいないところでムジャヒディンが戦ったふりをしてくれる“現場”であったことが、後に明らかになった。しかし、厳しい自然環境の中をムジャヒディンに同行するだけで熱く死に思いをめぐらし、赤い悪魔を相手に果敢に戦うアフガン人の勇気を絶賛し、西側の勝利を願ってやまない大量のルポが出版されたこともまた一つの歴史を語っている。それらはほぼすべて泡のように消えていったのだが。

 この著者も19歳で最初の作戦行動に同行した時の経験を書いている。近代人である著者は地雷の恐怖を克服するため論理を放棄し(?!)、銃撃とロケット砲の爆発音の中で前後左右が分からなくなり地面でのたうちまわり、川の中をはいずりまわり、死を覚悟する。しかし、その作戦の目的は「りんご盗り」であった。クスクス笑うムジャヒディンに助けられ、陣地に無事たどりつき、我々も食わなければならないという指揮官に不服そうな顔をする著者は、次はもっと本格的なところへ連れて行くと言われ、喜ぶ。次はカボチャ盗りであった。

 しかし、この書は著者の三度目の訪問時、10年後のアフガニスタンが中心になっている。共産政権が倒れ、ムジャヒディンどうしの内戦が続くカブールに著者はやってくる。アフガニスタン南部にタリバンが登場し、北上を続け、カブールが陥落する直前の頃である。彼の主題は政治にあるのではなく、人々にある(政治に関する記述は不正確なものがある)。最初の訪問から10年間の間にペルシャ語をマスターし、この地域の歴史や文化を相当に深く勉強したであろうことがうかがえる。中断するのが難しい書物であった。どなたか翻訳してくれたらありがたいと思う。原書の注文は、ここでもできます。

 引用文中に出てくるパトゥというのは、毛布のように大きいショールのようなもの。

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(4)死者の数はメディアに出てくる数字も国連が発表する数字もかなり揺れている。原因はどこからどこまでをキャンプ内の死者として扱っているか、凍死とそれ以外の原因による死の分け方などが一定していないからのようだ。しかし、この数字が増えつづけていることには変わりない。

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(5)「イラクからの手紙」は、ここで読むことができます。

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(6)これを書いた数日後、救援物資が届き始めた。UNHCRの7000枚の毛布も配給された。ある国の援助はメディアに大きく取り上げられ、ある国の援助はまったくとりあげられていない。いずれにしろ、凍死し続ける子供というニュースはいくつかの国の重い腰を動かした。しかし、ごく一部の人が救われるだけという事実にはまだ変わりがない。30年来最悪の旱魃に見舞われ、今年の農業からの収穫は絶望的だと言われている。そして、タリバン支配地域のみの制裁強化が発効したため、北部連合軍が一斉反攻に出ると予測されている。

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