51   力を抜くという事
更新日時:
H19年11月11日(日)
 私が新人の頃でした。厳しく怒鳴る先輩がいまして、その頃私は道場で一番若かったものですから、ずいぶん怒鳴られました。
 良く言われたのが、「力抜け!!」でした。「ちゃんと取りに来い!」と言われるので、しっかり手を握ると、「力抜け!!」と怒鳴られ、バターン、バターンと叩きつけられ、次は「ほら腰に力が入ってる。腰の力抜け!!」という具合でした。
 
 しかし実は、「力を抜け」と言っても、力の抜き方を覚えない限り、それは自転車を漕いだ事が無い人に「自転車を漕げ」と言うのと同じで、理不尽な言い方になるのです。
 
 しかしですね、それでもそのくらい怒鳴る人がいないと、なかなか「力を抜こう」と真剣に考えられない人も結構いるもので、私はその先輩に感謝しているのです。
 
 力を抜くという事は、やはり自分がどう感じるか、どう自覚するかという事によります。そしてそれが出来るようになったと感じたとしても、まだまだ上には上が有って、正に自分の余分な部分を削ぎ落としていく作業の連続だろうと思います。

 52   山あり谷あり
更新日時:
H19年11月12日(月)
 合気道は生涯掛けて修行するものですから、その間には色々有る事でしょう。無事此名馬のごとく、何も問題なくずっと一生懸命稽古を続けられる人ばかりとは限りません。
 怪我をした、病気になった、はたまた仕事が忙しくなった、あるいは子育てに忙しい等々…。
 
 こういう時、スポーツの世界では引退という事になるのでしょうが、合気道ではそうはいきません。それらの事情が一段落したら、また復帰する事です。
 
 ここの道場にやってきた人達は、私にとって、子供のような存在です。だから本人達が合気道を嫌いになったのでない限り、ずっと稽古していただきたいと願うわけです。
 
 また、初心を忘れて志が低くなってしまった人は、またその心を思い出す事です。「今からでも世界最強になれる」とか言っていた人もいるわけで、その心はその人にとって大切なものです。
 
 かく言う私も、現在はというと、初めて熊野塾に行った頃のような気持ち、彩新道場を旗揚げした頃の心を思い出して、「よし、これから今までの何倍も実力を伸ばしてやろう!道場生達も増やしていこう!彼らをしっかり仕込んでいこう!」という気持ちで一杯なんです。合気道はそういう気持ちに応えてくれる武道だと思っています。

 53   信じられる条件
更新日時:
H19年11月12日(月)
 以下は道場内の人達に話した事です。
 「合気道自体は素晴らしく、究極の合気道はもの凄いのだから、自分が稽古していて、合気道の技の武道としての実用性に疑問を感じたとしても、それはその人が修行不足なのであって、それを合気道のせいにしてはいけない。」
 
 しかし、そう言われても信じられない人もいるでしょう。そして実は自分自身の限界を合気道の限界と思ってしまうのです。
 
 そう思ってしまうとしたら、もしかしたらその人の環境も悪いかもしれません。だいたい人の心理は同じような事を言う人が3人もいればそれはもう「みんなの考え」と思い込んでしまうのですから。「こういう風にみんな言っていますよ。」なんて話も、「ではみんなとは誰の事ですか?」と聞けば、案外この人とこの人とこの人…という具合です。
 
 そこの道場のベテランに、低い志の人や、あまり上手でない有段者が3人もいれば、その下の人は合気道を信じられなくなっていくでしょう。合気道に入門してきた人にとって、そこの師範は強くて上手くて当たり前。別格なのです。それよりもその下のbQ、bRといった人達が入門者にとってのモデルになるものです。
 
 だから私は道場の有段者達にもっと頑張れと言い続けるのです。

 54   芸術とのリンク
更新日時:
H19年11月17日(土)
 合気道を稽古する上での志について書きましたが、その志を高く高く持つと、スポーツよりもむしろ芸術や宗教に共通点を見いだせるようになってくると思うのです。
 
 他人と争うのではなく、自分の理想の姿を思い描いて、それに対する現実の自分の至らなさを自覚し、それを正していく事の連続だと思うのです。
 
 それは結局は自分の究極の姿のわけで、そこには他人の姿という意識は入り込む術もないのです。
 
 ところで私はこの合気道に身を投じる前は、音楽の世界にいました。その頃自分自信は出来の悪い音楽人でしたが、それでもその頃の直感として、「どうして芸術の世界でそんなに他人と争うのだ???」と考えていました。
 
 モーツアルトだってベートーベンだって、別に他人と争って勝つ為に作曲していたのではなく、そこに自分が作りたい曲、理想の曲が有ったはずなのです。
 
 ミケランジェロだってゴッホだってピカソだって、確かにライバルは存在したかもしれませんが、これだけ年月が経っても名を残す為には、自分の理想が有り、その修行過程において、ライバルは自分を刺激し、試練を与える存在だったとしか思えません。
 
 そんな事を考えながら、私は不出来だった芸術の世界から、もっと別の形で出来るような芸術のようなものを探して合気道に入門しました。
 
 合気道の素晴らしい所として、武道という、一見他人をやっつける、倒す、殺すための手段を稽古しているように見えて、その実は、それぞれが自分の理想の姿に向かって邁進すれば、やがて争いが無くなる事を教えてくれている事だと思うのです。これは凄い発想の転換であり、そういう境地に達した大先生や、それを広めてくださった諸先輩方に感謝しなければなりません。
 

 55   本物だから価値が有る
更新日時:
H19年11月22日(木)
 例えばポルシェやフェラーリといった高性能スポーツカーが有ります。それらは抜群の加速性能を持ち、素早いコーナーリングを可能にし、それこそ時速300キロを越える事さえ出来ます。しかしその性能を公道でフルに発揮すれば、それは違法です。でもそれを以て「日本ではそんなクルマは必要無い!」と言ってしまうのは違うと思います。
 
 それらはそういう高性能なクルマを所有する喜びを与え、それを所有する人達は、それによって夢を買うのです。そしてそういうクルマを危険なクルマと認識して理性を以て操るからこそ他人からも認知されるのです。だからこそそのクルマの性能に嘘や偽りが有ってはいけないのです。
 
 牛肉だと思って買った食品に豚肉が混ざっていただけで大騒ぎになるのも、そこに嘘や偽りが有るから怒るので、これだって別に豚肉が混ざっていたからと言って、死ぬ事もなければ体に異常をきたす事も無いはずです。
 
 現代で日本刀を作る人がいて、それを買う人がいるのもまたしかりで、これは本来人殺しの道具です。人殺しが法律で禁止されているのに、その人殺しの道具が生産され続けるのは、そこに芸術品としての価値を求める人がいる事や、それを持つ事で精神面での高い境地を目指す人がいるから価値が有るわけです。
 
 居合道はその日本刀を使う武道ですから、それを習ったからといって、それで人を斬る事は許されないわけです。それでも居合道に生きる人達は修行を積みます。そしてよく、「この武道とこの武道が試合をしたらどっちが強い」といった低レベルな論議に居合道が登場しないのも、刀を使うという判りやすいほどに試合が許されない立場が認識されている証拠だろうと思います。
 
 ここまで読んで判るかと思いますが、合気道だって他の武道だって、本物の武道であれば、武器を使うとか使わないに限らず、危険で試合など出来なくなるんです。
 
 そして本来人殺しの道具だった武道に、人間形成の意味を見いだすのが現代の武道人で、だからこそ実際に使う使わないの論議はあまり意味が無いのです。
 
 我々にとって、合気道の技とは本物でなければ価値が無いし、本物を求めて修行するからそれが決して苦行とはならず、楽しいものなのです。



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