61   何処でも受け身が取れる人
更新日時:
H19年12月2日(日)
 「道場以外だと受け身が出来ない」と書いたばかりですが、実はその事は、初心者や白帯あたりの、まだ受け身が上達していない人の話です。
 
 有る程度稽古していれば、だんだん畳が無い所でも受け身は取れるようになります。私は先日、職場の旅行で行ったホテルの部屋で、稽古みたいな事をやりたくなって、狭い所で後受け身でゴロゴロ転がっていました。周りに迷惑が掛からないように静かに、しかも周りのテーブルにぶつからないように、小さく正確に回るようにしました。
 これを見ていた後輩が、「もっと派手に転がるのかと思っていましたが、こんなに狭い場所で出来るんですね。」と言っていました。合気道の受け身を、柔道みたいな受け身と同じだと思っている人もいるようですが、合気道の受け身は時には腰投げのような場合には柔道受け身にも近くなり、一瞬の厳しい当て身による投げに対しては、柔軟に反りを行いながら、滑るように受け身をとったり、余裕があれば、小さくその場で回る事も出来ます。中には受け身を取りながら蹴りを出してくる人だっていますから、受け身=負けと単純に考えられない側面が有るのです。
 
 一昨年と去年、近くのワープ上里という文化ホールで行われる、ワープ上里フェスタという各文化団体の発表が有りまして、それに我が道場が出ました。そこの舞台は板の間ですが、みんな普段どおり受け身を取っていました。
 
 本当に受け身が出来る人は、コンクリートの上でも受け身が出来ます。したがって静かに転がる位なら、部屋に畳みが無くても出来るのです。稽古に来ない日でも、カーペットの上でも、静かに小さく回る事をたとえ1分でもやると、それだけで、血の循環も良くなり、次の稽古への意欲も増すというわけです。
 
 受け身を1分さえやる時間も無い人などいないはずです。やはり毎日転がれば、毎日が楽しくなります。

 62   縦長の空間と横長の空間
更新日時:
H19年12月11日(火)
 各地の道場は、そこによって様々な人の思い、考えによって建てられます。私が道場を建てようと考えた時、様々な道場を見学して参考にしました。それぞれに道場主の考え方が反映されており、感心したものです。
 
 道場というのは、合気道をする一つの空間となるわけで、その空間がどの位の広さかという事がまず重要であり、それと同じく、どういう景観かというのも重要かと思うのです。景観という事は、どういう物が見えて、その物を中心として、周りの物がどう写るかという事になろうかと思うのです。人が景色を見る時、その中には見る中心が有るという事です。
 
 道場の景観を考えた場合、やはりその顔、つまり中心になるのは神殿だと思うのです。その道場が正方形が一番使いやすい形かと思いますが、事情によっては長方形になる場合もあります。
 
 当道場も、事情で長方形の52畳の道場で建てました。そうなった場合、神殿を中心として縦長にするか、横長にするか、これはその人の好みによるかと思います。横長にすると、民主的なイメージがすると思います。しかし私は縦長にしました。その方が神殿を中心に、みんなの気持ちがまとまると考えたからです。
 
 しかしこれは本当に私の好みの話しなので、別の人のセンスというのも有ろうかと思います。いずれにしても、その道場には、道場主の性格や、考え方、センスというものが良く表れていて、つくづく面白いと思っています。
 
 

 63   導く言葉
更新日時:
H19年12月20日(木)
 「田沼君は体が柔らかいから、このまま努力を続けていけば、相当な所まで行けるよ」
 これは私が合気道を始めて1年足らずの頃、ある先輩から言われた言葉です。その人にすれば、気軽に言った言葉だったのかもしれませんが、その言葉はずっと私の心に残っていて、その後「せっかく相当な所まで行くのだから、続けよう」と自分を奮い立たせた事が何度も有りました。
 
 言葉は人に良い影響も、悪い影響も与えます。心無い言葉によって自殺に追い込まれてしまう人もいれば、私みたいにちょっと褒められた位で脳天気にも自分を信じられるようになる人も時にはいるのです。
 
 新人時代の思い出を書きましたが、これはその道場の師範からの言葉であれば、もっと重要で、そこに来た人は、その道場の師範の一挙手一投足は元より、その師範の言葉についても真似する存在になるかもしれません。
 
 そう考えると、私はその人に発する言葉には、無責任な発言は許されなくなり、「その人を如何に導くか」という考えを元に発言するようにしています。
 
 どうせしゃべるなら、その相手を悪くするより、良くなるように導く方が、自分にとっても気持ちいいですからね。
 
 

 64   恐れを知るべし
更新日時:
H19年12月21日(金)
 各道場には、名札が掛かっています。当道場でも勿論名札が有ります。で、私の名札は上から6番目に有ります。上から順番に、開祖神植芝盛平大先生、二代目植芝吉祥丸道主、三代目植芝守央道主、尊敬する引土道雄先生、群馬県合気道連盟会長にして最初に合気道を習った荒井俊幸先生、そして私です。
 
 人の上に立つというのは、誰しも有る願望であり、それが実現すると、つい慢心になりがちです。でも、そこで自分が一番ではなく、どこまで行っても自分より上の存在が有る事を意識する事で、さらに高い境地に登っていけると思うのです。
 
 そういう意味で、私は生涯一番にはなりません。
 
 恐れを知るとはそういう意味であり、決して臆病になるという意味ではありません。

 65   固定観念からの脱却
更新日時:
H19年12月23日(日)
 人には必ず固定観念が有り、それがその人の発想を縛ってしまいます。しかしそれに捕らわれていては、新しい発想は生まれて来ないし、進歩が無くなっていく事は、周知の事実です。
 
 それは科学の発達とか、発明という分野においてだけではなくて、合気道でもそうであろうと思うのです。私が出会った合気道修行者は、その多くがその人の新人時代に習った先生の思い出に捕らわれているか、またはその頃の自分の勝手な思いこみを引きずっている人達でした。しかしだから私も思いこみが全然無いという話ではないのです。自分の思いこみは自分ではなかなか気づかないのです。
 
 自分の師匠は人の上に立つ位の人ですから、研究してさらに進歩していくものです。その中で、それまで教えていた事を否定するような場合だって有るでしょう。その事はある意味「いい加減」と思われるかもしれませんが、師範だって人間だから完璧ではないのです。だからこそ完璧を目指す中で、それまでの自分の間違い探しを行わなければなりません。
 
 そういう師匠の変化が判るという事が、一つは固定観念からの脱却であり、さらには、自分自信が師匠の教えを勝手な思いこみで正しく理解していないかどうかを見極めるという事でもあります。
 
 したがって自分勝手な思いで新しい技を発明するのが良いという意味とは全然違います。いつも素直な心に帰るという事で
す。



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