66   創意工夫の大切さ
更新日時:
H19年12月30日(日)
 何事も創意工夫が必要です。合気道でもただ同じ事の繰り返しでは進歩が無くなるのが当たり前で、私も日々、創意工夫の試行錯誤です。
 
 ところでこの創意工夫とは、決して先人達のした事と違う事をするという意味ではないのです。私は先人達の遺産ともいうべき技や思想はきちんと受け継ぎ、正しく後世に伝えるべきだろうと思います。その為の創意工夫なんです。
 
 現代においては、現代人の考えや環境というものが有り、そういう中で、いかに合気道の技や考えを伝えられるかという事を工夫しなければなりません。
 
 私にとって創意工夫とは、現代に生きる自分が先人の教えを知り、そして現代に生きる後輩達に伝える為の手段なのです。

 67   真(まこと)を目指して
更新日時:
H20年1月8日(火)
 昨年の世相を表す言葉は「偽」でした。しかしそれは何も昨年に始まった事ではなく、それが一気に明るみに出たという事でしょう。その少し前も、建築確認の構造計算の不正が有りましたし、昨年は食品関係の偽りを突っつく人が現れたら、次々とあれもこれもという具合で、世の中の偽りを見つけ始めたら、結局「1億総うそつき」とでも言いたくなるようなありさまでした。
 
 断っておきますが、私は決して古い人間に属する年齢ではないのです。しかしそれでも私の少年時代には、祖父や親戚の叔父達が、「他人をだましても、お天道様が見ているぞ!」と言ったものです。この「お天道様(おてんとさま)」を恐れ、敬うという心が我々日本人の心には受け継がれてきていたはずなのです。「日本人は無宗教」と言われる事も有りますが、日本人には日本人の、大自然を神として敬うという信仰心というのが有ったはずなのです。
 
 ところがそういった信仰心が失われた現在、「他人に見つからなければ不正してもいい」という発想がそこら中に広がっているという事だと思います。
 
 合気道は真の精神を持った人を育むというふうに私は教わりましたが、そういう事を後世に正しく伝えるのがまた真だと思っています。そこで私は、少なくとも現時点で「これが正しい合気道だ」と考える事しか道場生達に教えたくないし、そこに脚色を加えたり、「万人向け」と称して本来合気道とは関係無いような事を行うのは不本意なのです。
 
 私がこの道場で子供クラスをやっていないのも、実は偽りが嫌いな事に起因するもので、他の武道のような、子供の頃からこの武道を始めて大成したという成功例が、あまりに少ないのが現実です。それどころか小学生の時に合気道の子供クラスに来ていた子供が、そのまま合気道を続ける事の実例の少なさの方を見ても如何に実りの少ない子供クラスという答えを出さざるを得ません。
 
 実際私が以前伊勢崎市民合気会での指導を請け負った時も、合気道の受け身は憶えられても、技を憶えられる子供は小学校高学年でやっと簡単なものだけでした。だとするなら、その親御さんだって、合気道を習わせるというからには、合気道の技が例え形だけだとしても出来るようになってほしいはずです。だから「合気道を教えます」と言って入門を受け入れて、合気道の受け身しか教えられなかったとしたら、私にとって「牛肉です」と言って売った食品が豚肉なのと同じ事なのです。
 
 しかし私はそれでも子供に合気道を教える事が全く不可能とは考えていません。しかし私が考える子供の合気道稽古というのは、教える方も相当レベルが高くないと出来ないし、また、私一人でも出来ないし、その協力者たる存在も不可欠なので、そういう環境も全て整ったら子供クラスをやりたいと考えています。それが私にとって「真の子供クラス」なのです。
 
 何しろ子供は社会全体の宝であり、それを預かるという事は生半可な気持ちではいけないと思うのです。その子供が合気道に費やす時間を決して無駄にしてはいけないわけです。

 68   若さを保つ合気道
更新日時:
H20年1月24日(木)
 合気道を稽古している人達は体力も外見も実年齢より若い人が多いです。
 
 私が合気道に入門した時、山徳道場の荒井師範は49歳でした。しかしその荒井師範を見た私の印象は、「40歳位の先生」でした。
 
 亡くなった引土先生については、「この人はもしかして宇宙人なのでは?」と思うほど亡くなる少し前まで髪も黒々として、手紙や新聞を読むのにしても、老眼鏡なるものを必要としない人でした。また、びっくりする位瞬間的記憶力が優れた人でした。
 
 合気道で成功した人達は、なぜ若いのでしょうか。それは運動によって若さを保つとかいうのも確かにその理由の一つになっていると思います。でも果たしてそれだけでしょうか。
 
 私は合気道で有る程度以上に行ける人達は、合気道の極意を探求する事にロマンを感じている、いわゆるロマンチストだと思っています。世間での評価とかは問題ではなく、自分はこの道を極めたいと考え、その極意を研究して稽古する事がこの上なく楽しいから、私もひたすら稽古します。そういう心がその人を少年の心を失わずに人として成長し続けさせる、素晴らしい道であります。
 

 69   まだまだ精進が足りない
更新日時:
H20年1月27日(日)
 最近では日本人の間では、「努力」という言葉はあまり好まれないそうです。私も決して嫌いな言葉ではありませんが、最近はむしろ、「精進」という言葉を好んで使っています。
 
 私は自分自身の事をあれこれ自慢するほどの存在だとは思っていません。古(いにしえ)の達人の方々にはまだまだ遠く及ばないし、また、そういった方々ほどの精進をしているとも思っていません。だからこそ「もっとここをあーしてこーして」と考えて稽古するわけです。そしてその中で何かを発見する事が楽しみなので、ずっと稽古が出来るのです。やはりみんな理想を高く持たないといけないと思うのです。
 
 この道を極めようと思ったら、それはオリンピックで金を取る以上に難しいかもしれないわけです。だとすれば、オリンピック選手だって毎日一生懸命練習しているのに、我々合気道修行者も、稽古を怠けている暇などあり得ない事です。
 
 「自分はどうせ開祖大先生みたいになんか成れっこない」と思ってしまったら、実につまらないと思います。そういう心で稽古しても、いつか飽きてしまう。そこで合気道を健康法として始めた人も、その健康法さえ続けられなくなってしまうのです。
 
 確かに大先生や、昔の武道の達人のようになるのは並大抵ではないです。しかし、その人達も所詮同じ人間です。別に素手で猛獣に戦いを挑むような話しではないのです。
 
 人類は進化してきたわけで、現代人が昔の武道の達人のようなプロセスを踏んで修行する事は出来ないかもしれません。その代わり現代人には「情報」という強い味方が有るわけです。ビデオもインターネットも、昔の達人達には所有出来なかった道具です。昔の人達に劣る部分も有ればそういった昔より有利な部分も有るのですから、簡単に極める事をあきらめてはいけないと考えています。
 
 そういった意味で、私は自分を見つめて「まだまだ精進が足りない」と思って稽古するようにしています。

 70   熱き心を無くしたおじさん達へ
更新日時:
H20年1月28日(月)
 私は「おじさん」という言葉に非常に抵抗感が有ります。これは勿論「叔父さん」ではなく青年ではなくなった男性の意味です。「おっさん」とか言われたらもっと嫌でしょうね。勿論人間は年を取っていくものですから、誰でもおじさんそしておじいさんに向かっていくのです。
 
 それでもその人が、ある事に夢中になれるかどうかで、実年齢とは別に、おじさんかそうでないかの違いが出てくるものです。
 
 すでに合気道で成功した人達の若さについて書きましたが、そういう人達からは、いつまでも「この武道をものにする」という熱き心が感じられます。
 
 思うに、我が道場の中高年の人達は、年齢の割に熱き心を持っていると感じます。それならばもっと若い人達は、さらに何倍も熱き心を持って稽古してほしいと道場長として願うものです。
 
 ところがどうも現在20代、30代の人達と接すると、私が20代だった頃と比べて何だか冷めている感がしてしょうがないのです。まるで彼らの方がおじさんに感じられる時が有ります。
 
 しかし合気道をものにしようと思ったら、少なくとも冷めた心を持ったおじさんでは出来ないのです。「寝ても覚めても合気道が好き!」という位の気持ちでがむしゃらに稽古に臨む事が継続出来れば、誰でも有る程度「立派になった」と言われる位にはなるはずです。だから心から先におじさんになってはいけないと思うのです。
 
 もっとも、我が道場生の人達の中に、冷めた心を持った人がいたら、それはただただ私の責任と考えています。
 
 したがって、私は道場に入門した人全員が合気道に夢中になるような存在になりたいと考えて稽古している次第です。
 



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