6   まずは鍛える
更新日時:
H19年5月10日(木)
 合気道はとても合理的な武道だと考えています。合気道が具体的にどういう武道か良く知らない人でも、そういったとらえ方をしているかと思います。少なくとも力任せなイメージは無いでしょう。
 ただ、残念な事は、時々その事を「安易に身に付く武道」と思って入門を試みる人がいる事です。マンガやドラマならいざ知らず、現実世界で大して苦労もしないで小柄な人や女性が、大男をたやすく投げたり押さえたり出来るような武道は有りません。
 
 私は合気道は最も崇高で護身に有効で健康にも役立ち、頭も良くなってという風に、最高の武道だと個人的に考えています。しかし護身に有効にするためにはイッパイ苦しい思い、痛い思いを経験して、それらを乗り越えて身に付くものだし、崇高さはやはり有る程度永い期間経験を積んだ人でも感じられる人と、そうでない人がいると思います。
  
 まずは自分を鍛える事だと思います。苦しい思いや痛い思いをしたら、これで自分はまた一歩階段を上ったと考えればいいと思うのです。

 7   非好戦的な武道
更新日時:
H19年5月15日(火)
 合気道は一般的に安易な武道もしくは軽い護身術、健康法みたいなイメージも有るようです。そして試合中心の格闘技のようなものと比較すると、「合気道は非実戦的」と考える人もいるようです。まあそういう誤解を与える我々にも責任は有るかと思いますが、合気道修行者の中の、少なくともレベルの高い人達に話しを絞って考えた場合、合気道は非実戦的なのではなく非好戦的なわけです。それ故好戦的な者を淘汰させるというのが本当の合気道のわけです。
 大先生の「我即宇宙」という言葉のように、宇宙つまり大自然に身を任せる事を中心に考えている人に対して、人と人との強弱しか考えられない人は敗れ去る、したがって合気道は絶対不敗の武道というのが大先生の境地であり、我々が目指さなければいけない目標です。
 そこまでのレベルではなくとも、いちいち好戦的にならない事で争いを避けられたり、トラブルを上手く解決するという事も初歩的な合気道の生かし方かと考えます。
 人間だから誰だって好戦的な心は有りますよ。それをどう捨て去るかという事が修行の内であり、難しいからこそ一生を懸けて挑戦のし甲斐が有るとも言えます。

 8   体で覚えた事は忘れないが故に
更新日時:
H19年5月19日(土)
 よく言われるのが、「体で覚えた事は忘れない」という話ですね。何かを体で覚えた場合、それを長いブランクを経てもまた出来るわけで、一度自転車の乗り方を憶えたら忘れないように、合気道の受け身を憶えた人が、長期間稽古を休んでもまた自然に受け身が出来ます。
 
 しかし困るのは一度間違った事や、個人的な癖を憶えてしまった場合、その事が直そうと思っても正に体で覚えた事なので直せない事態です。合気道は試合が無ければ演武でも採点される事も無いので、有る程度の地位になると、間違いを指摘される機会も減ってしまいます。本人が「私はこれでいいんだ」と思ってしまえば、一生そのままでしょう。
 また、有る程度の地位でもなくて間違いを指摘されても、相当本人が自覚しない限り変わらないという実例を、私も道場長として指導する立場で見てきました。
 
 そういう私も昔自分で稽古の様子をビデオに撮った時期が有りましたが、その私の稽古を見て、自分の癖を発見しました。そして「これを直そう」と考えたのですが、その後また稽古のビデをを撮って見ると、やはりそれが直っていないんです。そこでもう徹底的にその事を考えて直そう直そうとして、それを直す為の方法まで研究し、その後のビデオでそういった癖を行わなくなったのを確認するまでに数年を要しました。
 
 このように自覚をしても癖を直すのは難しいわけです。ましてや道場で私に注意された時だけ気を付ける程度のやり方では、絶対に直りません。その時意識的にやり方を変えても無意識行動に戻るとまた癖が出ます。直すには、まず本人の意識を変える事、そして日常の中で工夫する事だと思います。
 「俺は(私は)ここが間違っている。本当はこうやらなければいけない。なかなか直らないが、直そう。」と心に誓って、その事を四六時中意識しないといけません。稽古以外の時でも癖を直す為の個人的工夫を考える事です。もはや無意識行動になると体がそう動いてしまうので、最初にそれを憶えた時のように意識行動に戻って癖の出ない状態でゆっくりゆっくり動いてみる事です。そうして意識行動から無意識行動への変換をやり直さない限り、合気道で付いた癖は直らないという事を肝に銘じて修行してほしい。これが私が当道場で稽古する中で、道場生のみなさんに対する要望です。

 9   基本技に無駄なものなど無い
更新日時:
H19年5月25日(金)
 優等生的発言のように取れるかもしれませんが、私が今まで経験した中で考えるに、合気道の基本技に、無駄なものなど有りはしないと考えています。そしてどれも味わい深いと感じます。そしてそれを味わう事の喜びそのものが合気道のようにも思えます。
  
 私が独立する前、まだ私が山徳道場だけで稽古していた頃のお話です。稽古仲間の中に、合気道の実用性に対して疑問を感じていた人がいました。その人はまず基本技に疑問を感じていました。だから基本が身に付かなくて、そして実戦的な応用技(と本人が考える技)ばかりに興味が移っていきました。そして結局は本人にとって合気道が駄目になってしまったようで、その人は辞めていきました。(フェードアウトしました)
 
 基本に疑問を持ってしまったら、その時点で基本を身につける事は出来ないし、身に付かなければつまらないし、つまらなければさらに身に付かないのです。
  
 例えば数学を習う事について、「こんなもの習っても実生活に直接使わないぞ」とか考えますか?考える事も有るでしょうが、「何かに役立つだろう」とも考えるはずです。直接的でなくても繋がっているわけです。

 10   師匠はどこまでも師匠
更新日時:
H19年6月11日(月)
 合気道では弟子は師匠の真似をする事から始めます。いや、他の武道やスポーツだって、生徒は先生の真似をする事から学んでいっているはずです。
 
 私は師匠から弟子へ、そしてまたその弟子へと伝えていく行為そのものが合気道の内であると考えています。それは我々が先祖から受け継がれてきた日本人の心とか、日本文化とか、それを自分自身が受け継いでまた後進の者に伝えていく事に合気道の精神が隠されているかと考えます。故に合気道の稽古法としてまず師匠が手本を示し、弟子が稽古するという稽古スタイルとなるわけです。私は白帯の頃、「もっと他の稽古方法も出来るのではないか?」とか考えた事も有りますが、現在では「これだからいいのだ。」と考えています。
 
 そして師匠は一生師匠、師匠がこの世から去られてもずっと繋がっているものだと考えています。なぜなら今生きている自分達だけでなく、自分達の先祖やその先祖である大地、大自然を敬い、その末裔である事の自覚を持って平和な社会を目指す事が大切だと思うのです。ですので師匠は自分にとって一番近いご先祖様です。弟子は師匠に感謝し、またその師匠はさらに師匠を敬い、という風に、人の思いはこの世の横の世界だけでなく、過去をも含めた縦軸の繋がりで広がっていくものだと思います。



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