36   稽古の怪我の解釈
更新日時:
H19年10月21日(日)
 現代の合気道の稽古では怪我が無いようどの道場でも気を付けています。それでも時として怪我をしてしまう人がいます。
 
 怪我をした場合、まずその怪我がちょっとした失敗によるアクシデントなのか、それとも稽古の積み重ねによるダメージの蓄積によるものなのかによって問題点も違うでしょう。
 
 技によっては加減を誤ると怪我をするというものも有りますので、その場合は相手の力量を読まないといけません。これは「加減が判る」人についての問題です。この加減が判らない人は、判るような心の状態を考えないといけないと思うのです。
 次に受け身をする人の油断というのも有ります。いつも真剣に集中していれば、周りからみて激しいと感じるような技でも、結構何でも無いのですが、ふざけ半分で稽古していたり、稽古の後で気が抜けた状態で残り稽古をやったり、ふざけたりしていると、結構危ないですね。
 
 そして良くないのは、「いつの間にか痛くなった」とか、「この技を先輩から繰り返し受けていたら痛くなった」という類のものです。こういう人が出てきたら、ちょっとその道場の稽古が正しいかどうか、上に立つ人は考えてみた方がいいかと思います。
 当道場ではこういう慢性的ダメージによる怪我は無いです。
 
 「強さ」とは色々な要素が有りますが、怪我をしないでい続けるという事も、その内の一つになろうかと思います。

 37   右脳力の必要性
更新日時:
H19年10月22日(月)
 「右脳力」というものが注目されています。
 
 左脳が論理的思考や記憶を司っているのに対し、右脳は直感力や瞬間的な判断力の中枢だそうです。ならば武道には右脳の働きが非常に必要であるのは当たり前で、昔から武道の達人は右脳の働きが優れていたと言われます。
 
 ただ、この右脳というのは、左脳に比べて加齢による衰えが著しいのだそうです。なるほど各分野において若い人は発想が豊かで年を取ると逆に乏しくなるのは必然なのですね。
 しかしこの右脳も、鍛える事でそれを防げるという事で、その手の本が出回っています。
 
 けれども合気道の稽古における「観察」を真剣に続けていけば、同じように右脳を鍛えられるはずなのです。そしてその右脳力は、合気道修行者自体に必要なものです。一瞬の判断や直感、豊かな発想どれもその人を向上させる事に欠かせません。勿論武道において一瞬の判断力は本来生きるか死ぬかを分けてきたものですから、それを鍛える事は、我々合気道修行者も欠かせないはずです。
 
 いつか私は中高年修行者の良い所について語った事が有りましたが、その一方で中高年の入門者達の欠点を挙げるとすれば、この部分だろうと思うのです。多くの中高年の入門者はどうしても理論で憶えようとする。そしてすぐに言葉による説明を求めたがる傾向にあります。それでも現在稽古を続けている中高年者達というのは比較的頭が柔軟な人達で、確かに憶えが遅い傾向は有るものの、着実に稽古を続けて進歩しています。せっかくですから道場の稽古以外の時も、世間でいう右脳トレーニングというのをやってみたらいかがかなと思っています。

 38   生涯修行者
更新日時:
H19年10月23日(火)
 合気道は生涯を通して稽古し、探求し、修行するものです。もしかしたら我々凡人では生涯通したくらいではまだ足りないのかもしれません。そのくらいやり尽くしたという事は無いぐらいにやる事が残されています。
 
 生涯を通してという事は、その道場の指導者、師範という人がまず修行のお手本になるわけですので、私はそういう気持ちで指導に当たっています。
 
 修行者ですから、道場で教えるという形を取っていても、実はさりげなく道場生の一挙手一投足というものや言動の中に参考にする部分が有って、そういうところにも学ぶ箇所を見つけているわけです。
 
 

 39   転がる事をやめない
更新日時:
H19年10月25日(木)
 合気道では生涯修行者という事は、技術、精神面も勿論ですが、体そのものも鍛える事を忘れたらいけないですね。だから何か怪我や病気その他の理由で受け身が出来なくなった人以外は、例え師範、指導者となったとしても、受け身を取って転がる習慣は無くさない方がいいと考えています。
 
 とはいえ道場生が増えてくると、それぞれのチェックに忙しくて、なかなか自分が転がる時間が作れない場合が有ります。それでも自分が転がる時間を作るよう工夫しております。
 
 一方的に教えるだけの立場にはなりたくないですね。

 40   合気道は道場で稽古するのが理想
更新日時:
H19年10月25日(木)
 私は元々高崎市の山徳道場で合気道を始めました。最初に専門道場で始めたので、そういう雰囲気の場所で稽古するのが当たり前の感覚なのです。
 ところが私が二段の頃、師匠の荒井師範から、「伊勢崎市民合気会で指導してくれ」と直々にお話が有りまして、とりあえず何人かの指導員が交代で指導する中、私は水曜日の担当という事になりました。本当は「まだ指導など早い」という思いが先行していたのですが、この事が自分自身の糧となればいいという気持ちで指導を2年間行いました。
 
 その頃の事はそれはそれで思い出の一コマでは有りますが、伊勢崎市の公共施設で稽古する事に違和感を感じていました。
 
 公共施設のメリットとしては、公共の場という安心感から多くの人が近づきやすい。そして多くの場合その施設の床面積が広い為に、多くの人が一度に稽古出来るという事が挙げられると思います。しかしそれらの施設は合気道の為だけに作られたものではないので、そこでは色々な武道やスポーツ団体が使用しているのです。そしてそれらの関係者の様々な思いが交錯しているのです。そうするとそういう場所で稽古しようとしても、「どうも集中出来ないなあ」と感じるのです。
 
 その後和歌山県新宮市の熊野塾道場に通うようになりましたが、そこはまさに私が思い描く最高の道場でした。「道場!!!」
と叫びたくなるくらい私は引土先生やその教え、その道場の先輩方とともに、その建物としての道場自体を気に入ってしまいました。
 
 合気道は精神と体を鍛えますが、その上でまずは精神が先のわけですから、やはりそれを行おうとすれば、その為の雰囲気を整えた場所、つまり専門道場で始めるのが理想のはずなのです。その上で有る程度専門道場で稽古すれば、例えば公共施設でも極端な話自宅や野原でも出来るような自分を作れるようになるのではないでしょうか。
 
 私はこのような思いが有って、10年前に独立する際、近くの公共施設を借りて稽古を始めましたが、その時から「彩新道場」と名乗っていたのです。世の中には様々な事情が有って、誰もが専門道場で稽古出来るわけではないですから、その事情を理解した上で、それでも稽古する時はその場所を「道場」と認識する事で、いくらかでも良い稽古が出来るのではないでしょうか。
 
 この道場の道場生の中で、大変憶えの良い人が、昨年新潟県に引っ越してしまいましたが、彼はそれでもこの道場に毎月定期的に来ています。彼は地元で公共施設を借りて自主稽古を行っていますが、やはり「どうも集中出来ない」と言うのです。なるほどこの人には私のDNAが伝わったと感じました。
 
 どこで合気道を始めるのは個人の自由ですが、最終的には道場で稽古出来る人を目指さないといけないと考えています。これは建物としての道場という事に限定しているわけではないです。その人がその場所を「道場」と思えるかが大事だと考えます。



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