追悼ポール・ニューマン


<追悼ポール・ニューマン>
2008年9月27日(土)の朝、何時ものように書斎に入りパソコンでメールとニュースをチェックしていたら、Yahooのトピックスに「ポール・ニューマンさん死去!」の文字が飛び込んで来た。ついにその日が来たてしまったと思った。高齢でもあったし、2年前に引退宣言 した時から何となく覚悟をしていたように思います。それでもやはり悲しくなった。洋画を観始めた中学生の頃はTVの「洋画劇場」の最盛期だった。ゴールデンタイムは毎日必ず何処かのTV局で放送していたので、洋画ファン成り立ての私は毎日貪る様に観ていた。 そんな頃の昭和48年にテレビの「土曜洋画劇場」(TV朝日、当時はNETテレビ)でポール・ニューマン主演の「暴力脱獄」(1967年)を前編・後編の2週に分けて放送しました。酔って街のパーキングメーターを壊したことで有罪となり、刑務所に入れられた 主人公ルーク役のニューマンがムショ仲間からは慕われながらも、何度も脱獄を繰り返しては追い戻り、最後は冷徹な看守の銃弾に倒れると言う反社会的ながらも、どこか憎めないアンチヒーローを魅力タップリに演じたニューマン中期の名作です。この作品を観てから というもの、ポール・ニューマンは私の憧れのスターになったのです。1925年1月26日生まれの彼は、太平洋戦争に従軍後にイェール大学での演劇経験が元で、演劇の世界に入り、有名なアクターズ・スタジオでジェームズ・ディーン・マーロン・ブランドらと演技の勉 強をします。しかし幸先のよいデビュー(「エデンの東」ディーン、「波止場」ブランド)を飾ったディーンやブランドとは反対に、デビュー作「銀の盃」(1954年)の不評と第2のマーロン・ブランドと呼ばれることに嫌気がさしたのか、一事活動の場を舞台とTVに移します。その彼を 一躍スターダムに押し上げたのが、実在したプロボクサーのロッキー・グラジアノを演じた「傷だらけの栄光」でした。その後テネシー・ウィリアムズの戯曲を映画化した「熱いトタン屋根の猫」(1958年)にリズ・テーラーと出演し、最初のアカデミー主演男優賞候補となります。また この年には「長く暑い夜」(1958年)で共演した女優のジョアン・ウッドワードと再婚しますが、彼女とはハリウッドでも珍しいほど仲のいい鴛鴦夫婦として有名でした。1960年代に入ってからは、代表作となった「ハスラー」(1961年)や「動く標的」(1966年)「暴力脱獄」(1967年) 「明日に向かって撃て!」(1969年」。1970年代は「スティング」(1973年)「タワーリングインフェルノ」(1974年)と様々な作品に出演し、1980年代ついに「ハスラー2」(1986年)で初めてアカデミー主演男優賞を獲得します。その後もシリアス〜コメディまでこなす演技派とし て、半世紀以上もの長きに渡りトップスターの地位をキープしました。また監督作品「レーチェル・レーチェル」(1968年)では、愛妻のジョアンを起用して田舎のハイ・ミス女教師の女の本能と性衝動を見事に描き、高い評価を得ました。この作品は一度だけTVで見学しましたが、ジョア ン・ウッドワードの演技が素晴らしかったのと、田舎の風景描写が美しかったのを憶えています。監督作品ではもう一本「オレゴン大森林/わが緑の大地」(1971年)がよかったですね。共演に名優ヘンリー・フォンダを配したオレゴンの伐採業者の家族愛を描いた作品でしたが、大作とはい えないがピリッとしていて温かいよい作品でした。兎に角70年代〜80年代の「評決」あたりまでの私は多分に彼にかぶれた感じで、就職して最初に買った背広は「新・動く標的」(1976年)の探偵ルー・ハーパーが着ていたのと同じような茶色の背広を着て、同色のリーガルの革靴履いてい ました。確かサングラスも似たようなモノを探して買いましたが、鏡を見れば自分が映るだけでガッカリでしたが、それ程大好きなスターでした。余談ですが、確かフランス映画のソフト・ポルノの大ヒット作「エマニエル婦人」(1974年)の劇中で、シルビア・クリステル演じるエマニエル がポール・ニューマンのポート・レートを見ながら自慰行為をするシーンが有ったのですが、当時“世界一セクシーな男性”に選ばれていたのでそんなシーンが出来上がったのだと思います。また、この頃はニクソン大統領政権時に政敵のブラックリストに載っていると発表されると「そんなモノ に構っている暇はありません!」と発言したりもしていました。80年代にはドレッシングの会社「Newman's Own 」を立ち上げて、その売り上げの殆どを世界中の恵まれない子供のために寄付をしたりしたのは有名な話です。私にとってポール・ニューマンとは俳優としても人間としても尊敬に値 する、真の人格者であったと思います。長い間私のヒーローで居てくれた事に感謝し、冥福を祈りたいと思います。安らかにお眠り下さい!


ポール・ニューマン <ポール・ニューマン作品の想い出>
私がポール・ニューマンの作品を観始めたのが、前述しましたが昭和48年7月9日の「月曜ロードショー」で放映した「脱走大作戦」(1967年)からでしたので、高校1年の時からとなります。同年にはつづけて3本観ていて、「暴力脱獄」(1967年)・「動く標的」(1966年)・「逆転」(1963年)となっています。 いずれの作品も1960年代ニューマンが30代〜40代はじめ頃のもので、大変バリエーションにとんだ作品群となっています。この時期忘れてならないのはやはり、70年代と80年代に続編を製作する2作品が印象的です。「ハスラー」(1961年)と「動く標的」(1966年)ですが、「ハスラー」 は彼のキャリアの中でも最高峰のキャラクターである、主人公エデイ・フェルソンを演じて2度目のオスカー候補になりますが、私としてはクールな中にもユーモアのセンスを取り入れた「動く標的」の探偵ルー・ハーパー役が好きでした。デビュー当時第2のマーロン・ブランドと呼ばれ ていたことからも、何処かクールで反骨精神が旺盛なイメージが強かったのですが、コメディ的要素は元々あったようで、「脱走大作戦」(1968年)などは完全なコメディー作品で、イタリアの美人女優シルバ・コシナと共演していて中々面白かったのですが、クールな役柄が好きなファンからはそっぽを向かれて 、興行的には失敗作となりました。やはりコメディ的な要素を100%発揮したのは「明日に向かって撃て!」(1969年)のブッチ・キャシディ役だったと言えます。1970年代に入ると「タワーリング・インフェルノ」などのパニック映画などにも出演して、役柄を広げていきま すが、やはりジョージ・ロイ・ヒル監督との「スティング」は最高です。ロイ・ヒル監督とは「スラップショット」(1977年)で3度目の仕事で、万年最下位のアイスホッケーチームの選手謙監督をユーモアタップリに演じました。つづいて出演したダニエリ・ペトリ監督の「アパッチ砦ブロンクス」(1981 年)では、初めての制服警官役を演じて5度目のオスカー候補になります。共演はエドワード・アスナーと「ルービー」(1986年)でケネディ暗殺事件の容疑者オズワルドを射殺したジャック・ルービーを演じたダニー・アイエロでした。「スクープ/悪意の不在」(1981年)は、FBI捜査官が故意に漏らした情報を記事 にしてしまう新聞記者サリー・フィールドとその記事により被害を被るポール・ニューマンが頭脳プレイで権力側に復習する社会派ドラマの秀作で、監督は「愛と哀しみの果て」 (1985年)・「 トッツィー」 (1982年)のシドニー・ポラックでしたこの作品でもオスカー候補となりますが、この年息子のスコット・ニューマンが 麻薬の多量摂取で死亡するという悲劇に遭います。「評決」(1982年)では三流」弁護士フランク・ギャルビン役を演じて、方や一流弁護士コンキャノン役のイギリスの名優ジェームズ・メイソンと対決して不正医療治療を暴きます。ボストンを舞台にした法廷ドラマの傑作で、監督は「12人の怒れる男」のシドニー ・ルメットでした。左下2枚の写真は80年代に日本のCMに出演した頃の広告で、右上が日産のスカイラインで、確かニューマン・スカイラインというキャッチフレーズで販売していたと思います。ニューマン・ファンとしては是非購入して乗りたかったのですが、私のサラリーではちと無理で買えませんでした。左下はネッスル (現ネスレ)のインスタントコーヒー“ブレンディ”で、広告のキャッチコピーがニューマンらしいです。大好きなニューマン作品も1990年代に入ってからは何故か観なくなってしまいましたが、特に理由はありませんでした。それでも「ノーバディーズフール」(1994年)・「ゲット・ア・チャンス」(2000年)・「ロード・トゥ・パーデショ ン」(2002年)などはCSテレビやDVDで観ました。 特に「ロード・トゥ・パーデション」はオスカー主演男優賞2度受賞の名優トム・ハンクスとの共演であり、年老いたギャングの大ボスを貫禄タップリに演じて、画面全体に品格さえ感じさせたのは流石だったと思います。またハンクスがニューマンを射殺するシーンにて も血ノリなど使った凄惨なシーンにせず、概ねハンクスの顔のアップに終始したのはサム・メンディス監督のポール・ニューマンに対する敬意の表れだと思いました。いまこうして考えていると、大好きだった彼の作品中でも未見の作品が多数あります。何時か観ようとの考えから、現在まで来てしまいました。 「左利きの拳銃」(1957年)・「暴行」(1964年)・「ハッド」(1963年)・「太陽の中の対決」(1967年)これらの作品を来年あたりからDVDで見学したいと考えています。