誰もが知る小説家、実はかなり書に通じた人物でもあるのです。というのも、彼が生きた明治時代は、「和・漢・洋」全ての教養を身につけていることが一種のステータスであり、一般人の中にも相当な漢学の知識を持ち、素晴らしい字を書く人がたくさんいました。漱石は小説を書く傍ら、多くの書に触れる機会を持ちました。
 今回は、彼の残した書に関わる作品を、幾つかのエピソードを元に紹介したいと思います。

左図の書「春はものの句になり易し京の町」

 漱石と俳句について語るとき必要不可欠な存在、それは正岡子規(※1)です。二人は高校の同級生で、お互い漢詩好きが昂じて唯一無二の親友となりました。漱石は子規から、形式にこだわらない写実性の俳句を教わり、常日頃から俳句を作っては批評してもらいました。また、漱石が22歳の時に書いたという「木屑録(ぼくせつろく)」紀行漢詩文集も、子規の影響によるものと言われています。
 漱石は、手紙を書くのが大変好きな人でした。分かっているだけでもその数2200通、一日20通書いたこともあるそうです。

手紙の内容は、形式的な挨拶文はほとんどなく、人と対話し、自分の考えや心を伝えるために長文にわたるものもあり、まさにそれ自体が文学でした。
 
 残念ながら直筆の手紙の資料が手に入らないので、内容だけに紹介します。漱石が亡くなる数ヶ月前に、門下生のものです。漱石の人柄や主義が伝わってきます。

 今回は資料が限られていたこともあり、いわゆる書道というジャンルを超えて、絵画や手紙にわたるまで紹介しました。
 しかし、このことから、漱石=小説家という枠がはずれた人も多いかと思います。小説、詩、絵、手紙。彼は常に何かを書いていました。漱石にとって「書く」ということは、自分を表現するために、生きていくために、とても大切なことだったのでしょう。
 晩年、漱石は作品の装丁に関してこだわりを持つようになりました。

 「こころ」は、彼が初めて表紙のデザインから題字まで手掛けた作品です。

 実は彼は大学進学の際、一時建築家を志したことがありました。結局、周りの人たちの勧めもあり文学の道へと進むことになりましたが、本来そういった美術的な仕事が好きだったと、本人も語っています。

絵画に関しても南画から洋画まで描き、画家津田青楓(※2)とも交流がありました。
※1:正岡子規…1867〜1902。根岸短歌会を結成し、短歌革新に力を尽くした。
※2:津田青楓…1880〜1975。日本画と洋画を学び、二科会の創立に参加。漱石の本の装丁もしばしばした。
参考文献…「夏目漱石入門」「夏目漱石博物館」「夏目漱石」
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文:森川奈美