■グロウアップ2+1■page 2

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『で、どこへ行けばいいのかしら……?』
 意気込んで飛び出してはみたものの、これといった目的地のないコーデリアは、廊下を歩きながら途方に暮れていた。
 廊下の壁は落ち着いた象牙色で塗装されており、一定の間隔で扉と窓が並んでいる。向こう端までは、距離にしてざっと三〇メートルほど。とはいえ猫である彼女の目には、「白い廊下が、ずっと向こうの方まで続いている」ぐらいにしか見えなかったが。
 廊下の半ほどまで来ると、十字路に出た。何も考えず右に曲がった。
『あら――?』
 一瞬、いま歩いてきた道程を引き戻されたのかと、コーデリアは思った。曲がる直前まで見ていた光景が目の前にあった。向こう端までの距離も同じぐらいだろうか。
 反射的に回れ右する。やはり同じだ。
 もし彼女がこのビルを真上から見ることができれば、四隅の欠けた正方形であるのが判っただろう。さらに中まで見通す目があれば、フロアの各部屋が、壁から五メートルほど内側を四辺に沿って一周する廊下と、建物の中心を通る十字の廊下とで区切られており、自分がその十字路の中心にいるのが判ったはずだ。
 だがさすがに彼女も、そこまでマクロな視点や透視力など持ち合わせていない。ただ先刻まで見ていた景色がまた現れたことに、戸惑いを覚えるばかりだった。
 自分がはじめにしっぽを向けていた方向を忘れたコーデリアは、進むべき道を求めて周囲を見回した。
 一方向だけがやけに明るい。彼女はその光に向かって進むことにした。
 途中また十字路にさしかかる。だが今度は迷わずまっすぐ進んだ。進むにつれ光は強くなる。その明るさの原因が知りたかった。
 眩しさに目が慣れてきたころ、突如廊下が途切れ、目の前に外の風景が広がった。ふと、細いエアダクトから這い出た瞬間を思い出す。
『出られるかしら?』
 廊下の縁で立ち止まったコーデリアは、下を覗き込むようにそっと首を伸ばした。
『痛っ!』
 見えない壁に頭をぶつけた。
『何?』
 何度か頭をぶつけてみるが、穴から首を突き出して真下を覗き込むことはできない。
『あ!』
 そこで彼女は、はたと気がついた。これは「窓」だ。マックスパパのオフィスにも同じくらい大きなものがあった。
『なーんだ、びっくりした』
 天井から床まである大きなはめ込み窓は、もはや「ガラスの壁」に等しい。コーデリアはしばらくその透明な壁に鼻先を近づけヒクヒクさせていたが、ふと目の前に広がる風景に目を留めた。
 それはマックスパパのオフィスから見える風景とよく似ている。だが微妙に違っていた。まっすぐ先には〈森の精〉クレーターの外輪山と、大きな丸いものが見える。丸いものは木星だ。ずっとまえ家の窓から外を眺めていた彼女に、マックスパパがそう教えてくれたことがあった。「木星」というものが何なのか彼女には理解らない。ただ明るくなったり暗くなったりするものの、動くことなくいつも同じ場所に存在するものだった。
 広報部の窓からは半分だけしか見ることができなかった木星が、いまはマックスパパと住んでいる家から見えるのと同じように丸い。鈍い暗褐色をしていて、そのそばには太陽が見えた。
 太陽――これもマックスパパが教えてくれた。木星と比べるとうんと小さいのに、それが見えている間だけ空は明るいのだという。
 木星のそばに太陽が見える――それは、もうすぐ空が暗くなって〈夜〉になるという「しるし」だ。あと数時間もすると、太陽は動かない木星のそばをすり抜けて、山の向こうへ消える。そして空が暗くなるにつれ、太陽をさらに小さくした「星」がたくさん姿を現すのだ。それに合わせて、〈森の精〉の地面にも「星」が灯る。規則正しく並んだ地上の星は、広報部の窓を横切り、半分だけ見える木星の方へと吸い込まれていく。コーデリアはその風景を見るのがとても好きだった。
 しかしいま見ている景色も、負けず劣らず素晴らしい。
 稜線を明るい光で縁取った外輪山は、その裾から連綿と続く森に影を落とそうとしていた。まだ影に呑み込まれていない部分の森は、陽の光を浴びて輝いている。まるで森自体が光を放っているかのようだ。処々に、大小さまざまな建物のシルエットが浮かぶ。
 ゆっくりと変化していく光と影の絶妙なコントラストに、コーデリアは思わず目を奪われた。このままずっと見ていたい――。
 しかし、彼女のその願いは叶わなかった。近づいてくる足音が、彼女を我に返らせたのだ。
 コーデリアの黒い毛に覆われた三角の耳がピンと立つ。話し声が聞こえてきた。
「……なんで中佐は、あんなに慌てて出て行ったんだ?」
「さあな。俺に判るのは、『現在いまが息抜き時』ってことぐらいだ」
「確かに……」
 二人の士官がすぐ手前の廊下を横切っていく。幸い話に夢中で、光の中にいる小さな猫には気づかなかったようだ。
 その場で微動だにしなかったコーデリアは、足音が聞こえなくなってようやく安堵の息を吐いた。だがすぐに気を引き締める。いまは見つからなかったが、次も見つからないとは限らない。
『ここでじっとしてる場合じゃないわ』
 せっかく始めた冒険なのに、ほとんど何も見ないまま終わらせるなんて――。
 コーデリアは決意も新たに動き出した。袋小路から抜け出し、一つ目の十字路まで進む。耳をそばだて、周囲の様子を探る。
『――!』
 さっきの士官たちがやってきた方から、聞き覚えのあるチャイムが聞こえてきた。
『音のする部屋だわ』
 その部屋が「別の世界」へ繋がっていることを、彼女は知っていた。
『そこに入れば、ここから出られるはず。こんな――どっち向いても同じ処なんか、もううんざり』
 白黒の毛皮をまとった冒険者は、廊下の角から慎重に首を出した。
 音のする部屋から、若い女の下士官が出てきた。コーデリアは機会を窺った。女性士官が背中を向ければ、走っていって小さな部屋に飛び込むつもりだった。
 果たして――女性下士官はくるりと踵を返すと、廊下の奥へと進みはじめた。
『いまだ!』
 コーデリアは音のする部屋までの道程を一気に走り抜けると、閉まりかけているドアの隙間に飛び込んだ。
『きゃー! ぶつかる、ぶつかる!』
 部屋は思ったほど広くなく、コーデリアはあわや壁に激突するところだった。辛うじて難を逃れた彼女の背後で、完全に扉が閉じる。
 そして数秒後、得も言われぬ浮遊感が彼女を襲った。

「はいっ、撮りますよー。『イチ足すイチはぁ?』」
「――?」
 ファインダーの中で、被写体たちがきょとんとする。
「あ……」
 木星人たちの反応に、エビネは無線レリーズを握ったまま顔をしかめた。浮き立った気分が彼を学生時代に戻したのか、ついうっかり故郷のシント語で声をかけてしまったのだ。
「すみませんっ。じゃあ、気を取り直して――これなーんだ?」
 エビネは片足を上げると膝を指した。被写体たちが一斉に答える。
ひざクニー!」
 口の端が横に広がった瞬間、エビネはすかさずシャッターを切った。視線が微妙に下向きではあったが、あえて気にしないことにした。そのまま続けて数枚撮る。
「お疲れ様でーす。ご協力ありがとうございましたー」
 満足いくショットが撮れると、エビネはパイロットやメンテ作業の手を止めて協力してくれた整備士たちに礼を述べ、解散を促した。一呼吸後、戦闘機〈パック〉の前に並んでいた隊員たちの列が崩れる。
 そのまま散っていくかと思いきや、彼らは一点に向かって集結しはじめた。喜びと好奇に目を輝かせながら、最前列中央に立つ〈グレムリン〉たちを取り囲む。
 〈パック〉専用格納庫の片隅に、人の輪が生まれる。普段、その中心にできる「目」は小さなものだ。だが今日は心持ち大きかった。整備士たちは、油まみれの手や作業着で、少年たちの真新しい制服を汚してしまうことを恐れたのだろう。彼らは親愛の情を込めて小突き回す代わりに、口々に声をかけた。
「制服、キマってるじゃないか」
「うん、似合う似合う」
「タイの結び方も巧いじゃん」
 途切れることなく浴びせかけられる言葉に対し、〈グレムリン〉たちは、
「えへへ、ありがと」
「父ちゃんに教えてもらったんだ」
と、適切に返していく。
 そこへどさくさに紛れるように、〈パック〉の機付長であるコハネッツ曹長の茶々が入った。
「おう、見た目だけは、いっぱしの士官候補の卵だな」
「もうっ、『見た目だけ』は余計だよっ」
 ヴァルトラントはほっぺたを膨らませると、愛機の整備責任者を睨みつけた。だが曹長はニヤリとするだけで、全く悪びれた様子はない。この二人お馴染みのやりとりに、周囲の者たちから笑い声が上がる。
 そんな様子も、エビネはカメラに収めた。寮に入った〈グレムリン〉たちが〈森の精〉を思い出して寂しくなった時、彼らの支えと癒しになるのはしゃちほこばった集合写真より、こういった何気ない隊員の様子や笑顔だろう。却って里心がついてしまう可能性もあるが、常に前向きなヴァルトラントとミルフィーユなら「帰りたい」という気持ちを乗り越えられるはずだ。
 和気藹々としたやりとりはしばらく続いた。やがて隊員たちの祝いと揶揄の言葉も落ち着いたころ、整備士のミシェル・マルロー一等軍曹がポツリと洩らした。
「しかし、もう幼年学校なんだ……。俺が〈竜の巣窟〉で初めてヴァルティに会った時は、まだこーんな小さかったのに――」
「ミシェル……」
 三歳の時から可愛がってくれている整備班長のしんみりした言葉に、ヴァルトラントが声を詰まらせる。
 ところが。
「その時からすでに〈グレムリン〉だったけど、まだ可愛げがあったなぁ。いまじゃあ二匹になって、小憎たらしさと迷惑度は倍増どころか数倍増しだからなぁ」
 マルローは口調を一転させると、盛大に顔をしかめて言い放った。
「なんせ、部品はくすねる。兵器庫はあさる。軍のコンピュータはクラックする。基地内で対地ミサイルをぶっ放す――」
「うむ。全くもって、迷惑な話だ!」
 整備班長の言葉に、隊員たちは大きく首肯する。ただ一人、輪の外で写真を撮るのに専念していたエビネだけが絶句した。いまとんでもないことを聞いた気がする。
「え、ミサイルって――」
 反射的に聞き返す。が、その声はなおも続くマルローの演説に呑み込まれてしまった。
「だが、それらはほんの些細ないたずらに過ぎない! 真に許すまじきは――」
 周囲の賛同を得た軍曹は、さらに声を大きくして訴える。
「女子更衣室へ忍び込むという、神をも恐れぬ行為である!」
「うおお! なんと大胆不敵で破廉恥な――羨ましい行動力!」
「女子更衣室――この痺れるほどに甘美な響きは、我々の探究心を掻き立てる……」
「ああ、これぞ男のロマン!」
「〈グレムリン〉! 〈グレムリン〉!」
 隊員たちが俄かに沸きかえる。〈グレムリン〉の迷惑行為について話していたはずが、いつの間にやら英雄扱いだ。
「なんかいま、〈森の精〉が理解ったよーな……」
 エビネは目の前で展開されている異様な盛り上がりに、茫然と呟いた。
 〈森の精〉の隊員たちがいつもお茶らけているのは、「能ある鷹はなんとやら」というわけではなく、正真正銘それが「地」であるらしい。
 まあ、型にはまり過ぎた連中より、付き合いやすくていいか――。
 ふとそんなことを考え、エビネは複雑な気持ちになった。もうかなり〈森の精〉の気質に染まっているのではないか――。しかもそうなることに喜びと安堵を覚えるだけでなく、〈森の精〉の一員であることに誇りさえ感じているような気がする。
 自分もいつか、彼らに感化されきってしまうのだろうか。そして「その日」が来るのは、それほど先の話ではないだろう――そう予感した。
 しかしその予感を受け入れてしまうと、「節度ある人間」としての何かが終わってしまうような気がしなくもないエビネであった。
「……ま、なるようになるさ」
 いかにも〈森の精〉隊員らしい台詞を吐いて、〈森の精〉の新米士官は気持ちを切り替えた。再びカメラを構え、隊員たちと〈グレムリン〉の姿を追う。
 ふざけあう整備士と少年たち、気取ったポーズのパイロット。強面の経理部長――。
「え――!?」
 ファインダーが捉えた画に、エビネは一瞬目を疑った。反射的にレンズの倍率を上げ、問題の部分をクローズアップする。地下通路に続く入口の方からやってくる、ブライアー中佐の強張った顔が大写しになった。
「やばっ」
 口の中でそう呟くと、エビネは隊員たちを振り返った。仕事も忘れてはしゃいでいる彼らは、大きな歩幅で足早に近づいてくる中佐に気づいていない。
「あのっ――」
 注意を促さんと、エビネが口を開く。だがそれより早く、割れんばかりの怒号が格納庫内に響いた。
「なにをやっている!」
「――!」
 突然の怒声に、隊員たちは一瞬首をすくめる。しかしその後の反応は早かった。パイロットと整備士たちの輪が崩れたかと思うと、次の瞬間にはブライアー中佐の前で横一列に並んでいたのだ。〈グレムリン〉たちでさえコハネッツ曹長とマルロー軍曹の間に立ち、直立不動の姿勢で中空を睨みつけている。
 エビネだけがその動きについていけず、列から外れた処で呆然としていた。が、マルロー軍曹が「早く並べ」と目で訴えているのに気づくと、慌てて自分も列の端に加わった。
 他隊員と同じく気をつけをしながら、闖入者を窺う。ブライアー中佐の深海色の瞳が、自分に向けられていた。苛立ちと呆れの混じったその視線に、エビネはのろまな自分を呪った。そして叱責の第一波を受ける覚悟を決めた。
 ところが〈森の精〉における「影の支配者」は、つと彼から視線を外すと、列全体を見回しながら口を開いた。
「ここは現在いま、休憩時間なのか?」
 パイロットのオアシス中尉が進み出た。彼は整列した者たちの中では最上級士官となる。
「……いえ、違います。中佐」
 中尉はわずかに逡巡したが、結局正直に答えた。「休憩時間だ」と偽ったところで、〈森の精〉のあらゆる業務スケジュールが頭に入っている経理部長に通用するはずもない。余計な怒りを煽るだけだ。
 パイロットの内心を見透かしたように、経理部長の目が細められた。スキンヘッドに略帽を乗っけた強面がいっそう凄みを増す。五〇という年齢の割に引き締まった長身は、これまでデスクワーク一筋に働いてきた者の体格には到底見えない。最前線で活躍する陸戦隊や、海兵隊の戦闘指揮官だと言われれば、誰もが納得してしまうだろう。
 そんな中佐の威圧感に圧されているオアシス中尉の気が、列の端にいるエビネにも感じられた。
 中佐の追及は緩むことなく続く。
「私は航空機に関しては門外漢だが――整備をしているようには見えなかったぞ。それとも〈森の精〉の優秀なメカニックたちは、わいわいとふざけあっているだけで戦闘機の整備を済ませることができるのか?」
 ブライアー中佐の辛辣な皮肉に、中尉は言葉を返すことができなかった。「いえ……」と呟いて、歯がゆそうに唇を噛む。
 〈森の精〉の整備士たちは優秀だ。しょっちゅうサボってはいても、与えられた仕事は手を抜くことなく時間内にきちんとこなす。
 新参のエビネでさえ、数ヶ月も隊員たちを見ていればそれが判った。現在の部隊の創設に携わったという中佐が、それを知らないはずはない。それをあえて皮肉っているのだ。
 確かに、嫌味たらしい注意の仕方はどうかと思う。だが士官学校で経営管理をかじったエビネには、中佐が皮肉りたくなる気持ちは理解らないでもない。
 軍という組織のために莫大な予算が組まれているといっても、際限なく使っていいはずはない。無駄を省き、締めるところは締めねばならない。部隊の運営費や隊員の給与を管理する経理部の長にしてみれば、「どうしてサボっている時間の給料まで、払ってやらねばならないのだ」と思いたくなるのだろう。
 その気持ちは理解る。また、自分たちが反省すべきなのも当然だと思う。だが怒られている最中は、恥ずかしさをごまかすために頑なになってしまうものだ。相手の言い分がもっともだと認めてしまったらなおさらである。
 整列する隊員たちも、エビネと同じ気持ちだったのだろう。決まり悪そうにしている気配が伝わってくる。
「貴官らに支払われている『職能給』の意味を、よく考え――」
「中佐」
 経理部長の説教はくどくどと続く。それをヴァルトラントが遮った。
「俺たちが無理に頼んで、作業を中断してもらったんです。だから悪いのは俺た――」
 弁解する少年を、中佐が鋭く睨みつけた。
「なら、おまえたちが手当てを支払うというのか?」
「う……」
 いつもは滑らかに動くヴァルトラントの舌が凍りつく。これ以上口を開けば、本当に隊員たちの給料を払わされかねない。それは扶養される身の少年たちにとって、到底無理な話といえよう。
 だが幸いにも、中佐はその点に拘るつもりはないようだった。かといって彼の問責が終わるわけではなかったが。
「私は一度ならず『〈森の精〉隊員は、おまえたちの子守りではない』と言ったはずだ。どうしてこんな簡単な言葉が理解できない?」
「そ、それは……」
 少年は言いよどんだ。〈グレムリン〉は大人をも唸らせるほどの屁理屈をこねる名人だったが、中佐の明瞭簡潔、しかも決して間違いではない指摘には、揚足をとる隙もなかったようだ。
「中佐。理解っててもついやっちまう――それが子供の習性ってぇモンなのは、お子さんを育て、いまはお孫さんをお持ちの中佐にも、よーくお理解りでしょうに」
 脇で返答に苦しんでいる少年を見かねてか、コハネッツ曹長が口を挟んだ。オアシス中尉やエビネといった士官をさしおいての発言になるが、彼はこの場においてブライアー中佐に次ぐ古参だ。並みの若手士官などより、よほど発言力がある。
「む――」
 横槍を入れられた中佐は、ヴァルトラントから中年整備士へと視線を移した。だが整備部におけるコハネッツの影響力を知る彼は、無視や叱責などして曹長の体面をむやみに潰すようなことはしなかった。ただ「余計な茶々を入れてくれたな」と言いたげに、口元をわずかに歪めただけだ。
「ところで中佐は――」
 曹長は経理部長の答えを待たず、問いかけを続ける。
「何か用があって、お越しになったんじゃないんですか?」
「――!」
 中佐が息を止めた。不意を衝かれでもしたように、その目が一瞬見開かれる。
「あ、いや――通りすがっただけだ」
 咄嗟に言い繕う。だがその声音は、平静を装おうとして失敗したとばかりにうわずっていた。俄かに動揺の体を見せた中佐に、隊員たちの目も丸くなる。
「通りすがっただけ?」
 含みを持たせた口調で、コハネッツが聞き返した。灰青色の瞳が意地の悪い光を放つ。
 司令部ビルと格納庫群のある運用区画は、歩いて二〇分ほどの距離だ。司令部勤務の者たちが、食後の散歩がてらに立ち寄ることは充分可能である。
 だが〈森の精〉の隊員たちにとっての憩いの場といえば、温室のある〈緑の館〉が一般的だ。大した用もなく運用区画へやって来るのは、〈グレムリン〉たちと、よほどの飛行機好きぐらいか。
 しかし中佐が「飛行機好き」などという話は、いまだかつて誰も聞いたことがない。「偶然通りすがった」というのは、いいわけにしてはかなり不自然だ。
 まあ百歩譲って――経理部の仕事で、兵站群幹部と何か打ち合わせがあったのだとしよう。だがそうだとしても、基地の運営計画に直接関わりのない作業員やパイロットしかいないこの格納庫まで、わざわざ足を伸ばす必要はない。それも独りでだ。
 つまり中佐は、目的があってこの格納庫を訪れたに違いないのだ。なのにその理由を明らかにしようとしない。
 中佐には、何か自分たちに知られたくないことがある――。
 驚きに瞠られていた隊員たちの目に、好奇の色が浮かびはじめた。それに気づいたブライアー中佐は、これ以上はごまかし切れないと判断したのだろう。小さく咳払いすると、もう一度凄んだ。
「つべこべ言わず、さっさと仕事に戻れ!」
 そう言い放つと、隊員たちの反応も確認せずに踵を返した。「逃げるわけではない」といわんばかりに胸を張り、毅然とした態度で格納庫を出て行く。その堂々たる撤退ぶりに、残された者たちは憤然を通り越して唖然となった。
「なんなんだ――?」
「……よっぽど突っ込まれたくなかったんだな」
「あそこまで狼狽えられると、すげぇ気になるじゃねーかよ」
 と、口々に呟きあう。
「ま、とにかく嵐は去った――ということで」
 ホッとしたように締め括ったコハネッツが、少年たちを振り返った。
「と――?」
 さっきまでの元気はどこへやら。ヴァルトラントとミルフィーユは肩を落として、中佐の出て行った方をぼんやりと見つめている。
「中佐の言ったことなんか、気にすんな。な?」
 曹長は作業用の手袋を脱いだ手を〈グレムリン〉たちの髪に突っ込んで、くしゃくしゃっとかき回した。
「無理やりおまえたちに付き合わされてるなんて、誰も思っちゃいねーから」
「そうそう。結構楽しんでンだぜ」
「次は何をやってくれるのか――ってな!」
 隊員たちはことさら能天気な口調で、すっかりしょげ返っている少年たちを励ます。
 だが〈グレムリン〉たちの反応は鈍い。小さく「うん……」と呟くが、ほとんど溜息に紛れてしまっていた。
「……准尉ゴメン。帰ろう」
「みんなもゴメンね」
 少年たちは覇気のない口調でエビネと隊員たちに詫びると、地下通路へと続く扉に向かって歩きはじめた。
「あ、ちょっ――すいません、またっ」
 置いてけぼりを食らったエビネは、慌ててパイロットや整備士たちに会釈し、彼がついてきているかどうか確かめようともしない少年たちの後を追った。
 〈グレムリン〉たちは足早に、司令部ビルへの通路を歩く。往路と違って、会話は一切なかった。そう広くはない通路は重苦しい空気に満たされ、三人の足音だけが虚しく響く。
 少年たちとは並ばず数歩遅れて歩いていたエビネは、意気消沈した小さな背中をぼんやりと見つめながら、先ほどの出来事を反芻していた。
 ブライアー中佐の様子が、何か引っかかるのだ。
 エビネはあの場にいた者の中で、誰よりも早く中佐を発見した。ファインダー越しではあったが、被写界深度が深かったため、格納庫に入ってきたばかりの中佐の姿ははっきりと見えた。
 あの時中佐は、何かを探しているように周囲を気にしていた――。
 そう見えたのはほんの一瞬だったので、見間違いだったということは充分ある。
 だがエビネは自分の直感を信じた。
 中佐はいったい、何を探していたんだろう。そして彼が格納庫へやって来た理由って――。
 どんどん膨らんでゆく疑問が、新米広報士官の頭の中を占領しようとしていた。

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