■エビネくんとグレムリン■page 30

−2−
 もうかなりの時間ここにいる。
 ガラス越しに見える太陽は、ここへ来た時からあまりその位置を変えていないように見えるが、四半日近くをここで過ごしているのは間違いない。
 あの面会の場を辞してから、一度は官舎に戻ろうと思ったのだ。しかしそのまま誰も待つ者のいない部屋へ戻る気にはなれなかった。
 そんな時、駅のインフォヴィジョンに映し出される植物園の広告が目に入った。誘われるままにUバーンの長距離線に乗り直し、八時間後には〈ヴァルハラ大植物園〉の小さな展示室にある、このベンチに座り込んでいた。
 そして自分の周りに広がる緑の世界を、ただ瞳に映すばかりで視ることもなく、ひたすら自分と向かい合い、「声」の届くを待った。旅立ちの日にくれた兄の言葉に従い、自分の心の声を聴こうとした。
 しかしいくら時を重ねても、求める「声」は届かない。
「トキ兄……聴こえないよぉ……」
 嘆息とともに吐き出される言葉は弱音であった。それに気づき、エビネは自己嫌悪の海へ身を投じる。
 降りかかる陽光と鮮やかな花の輝きは眩いほどに美しく、蒼々と繁る葉の呼気は清々しい。
 しかしそれらは、いまの自分にとって一番似つかわしくないものに感じられ、彼は一切を拒絶するかのように固く目を閉じた。
「あの……」
 そんなエビネの横手から、不意に年配の女性の声がかかる。驚いたエビネは弾かれるように振り向いた。半分腰を浮かせた状態で、声の主を素早く見回す。
 ふくよかで、午後の陽だまりを思わせる女性が立っていた。胸元にこの植物園関係者を示すIDがぶら下がっている。つまり彼女はこの展示室の監視員で、大方、長時間座り込んだままのエビネを不審に思って声をかけてきたのだろう。
 エビネは思わず、彼女をキッと睨みつけた。そんなつもりはなかったが、自分の懊悩する様を見られたかと思うと、無性に恥ずかしくなった。だからつい、そんな態度をとってしまったのだ。
「あらあら、びっくりさせてしまったかしら。ごめんなさいね」
 ところが彼女は、エビネの軍人として訓練された身のこなしには驚きこそすれ、睨まれたことには恐れもせず、穏やかな口調で謝罪の言葉を述べたのである。
「あ……いえ、こちらこそすみません。少し考え事をしていたので……」
 すぐに自分を取り戻したエビネは俯き、もごもごと言いわけした。自分の大人気ない態度に気まずくなって、まっすぐ女性監視員の目を見ることができなかった。
 だが次に発せられた彼女の言葉が、彼の頭を上げさせた。
「花たちとお話ししてるところに申しわけないんだけど、そろそろここの花たちは休ませてやってくれないかしら?」
「――!」
 エビネがハッと顔を上げた。その驚きように、彼女は軽く首を傾げた。
「あら私、変なコト言ったかしら?」
 不安げに眉根を寄せる女性監視員に、エビネは慌ててかぶりを振る。
「いや――貴女フラウ師匠せんせいの口癖と同じようなことを仰ったので……」
 懐かしそうな目で彼女を見るエビネの脳裏に、かくしゃくとした老女の面影が浮かんだ。
 自分に華の道を教えてくれた人。あの師匠も、よく「花と話す」という表現を使っていた――。
「まあ、そうだったの」
 機嫌を損ねたのではないと判って安堵したのか、彼女は愁眉を開いた。そして優しげな笑みを浮かべて、もう一度訊ねる。
「それで、お話しはできたのかしら?」
「……今日は全然ダメです」
 エビネはまた首を振り、自嘲めいた笑みとともに肩をすくめた。
「あらあら、それは困ったわねぇ。『じゃあ、お話しできるまで居てもいいわよ』――と言いたいところだけど、残念ながらこの展示室は休憩時間になるのよ」
 嫌味ではなく心の底から残念そうに、彼女は告げた。
 この植物園は、二四時間見学できるのが売りだ。しかし常時全館が見学可能なわけではなく、各展示室は保守点検のために一時的に閉鎖されることがある。エビネのいるこの部屋も、ちょうどメンテナンスの時間になったのだろう。それで監視員である彼女は、見学者を追い出すべく声をかけてきたのだ。
「え? ……ああ! すみません、すぐ出て行きますっ」
 やっとそれに気づいたエビネは、ぺこりと一つ頭を下げると、あたふたとその場を立ち去ろうとした。その後ろ姿に、彼女は再び声をかけた。
「よかったら、イベントホールへ行ってごらんなさい。考えがまとまらない時は、賑やかなところで気分転換してみるのもイイかもしれないわよ」
「そうですね……そうしてみます」
 エビネは、茶目っ気たっぷりに片目を瞑る彼女につられて微笑み返すと、助言どおりイベントホールへと足を向けた。

 イベントホールは、エビネがいた展示室とは別の棟にあった。そちらへは、渡り廊下になっているバラのアーケードを抜けてゆく。
 エビネは清楚な白バラの香りを愉しみながら、ホールへの道をのんびりと歩いた。花は疎らだったが、まとわりついてくる香りはちょうどよかった。恐らくこれが満開になると、あまりのきつさにむせてしまうだろう。
 ほどなくしてバラの道を抜けると、ふっと目の前が開けた。全身を包み込んでいた花の香りが周囲に散った瞬間、思わず感嘆の吐息が洩れる。
 目の前には、鬱蒼とした森があった。
 重なり合った枝葉の隙間から、朝の光がいくつもの筋になって差し込んでいる。呼吸をするたび、湿気と苔の匂いを含んだひんやりとした空気が鼻をくすぐる。そして、合成音とはいえそこかしこから聞こえる鳥や小動物たちの元気な鳴き声は、地面をのたくっていた気分を引き起こしてくれるようだった。
 エビネはふと故郷の星を思い出した。
 タイタンを始めとする土星圏の衛星において、人々が活動できる空間は、深く掘られた地下と完全に密閉された地表面の建造物の中だけである。そこにできる限りの技術を使って、「自然」と、かつて自分たちの祖先が住んでいた街を再現している。残念ながら本物の空の下ではなかったが、カリストの盆地にあるような人工樹ではない「生きている」樹木だけで造られた森があり、人々の憩いの場となっていた。
 その森の一つが、エビネの頭に浮かんだ。
 大切な家族や友人たちとの思い出が、たくさん詰まった場所――。
 木登りやかくれんぼ。木陰で昼寝をしたり、悩み事や恋について語ったり。連れ立って散歩したときの、父の大きく暖かな手――。
 落ち葉の積もった地面を、何本もの金糸のような光が照らす。その幻想的な空間を、エビネは故郷の懐かしい記憶と共に進んだ。
 森の中には順路を示すように、樹々の合間を縫って小道がつけられている。道はわずかに勾配があり、ホール内が起伏に富んだ地形になっていることを窺わせた。また、さり気なく道を蛇行させることによって、この森がどこまでも続いてるかのような錯覚を起こさせている。だがそれも、限られた空間をより広く感じさせるよう計算されたものなのだろう。
 木洩れ日の下でひっそりと咲く草花や、「いったい、どれくらいの高さがあるんだろう?」と思わせる巨木などを充分堪能したころ、エビネは森の出口に辿り着いた。
 森を抜けた先には、足首が隠れるほどの下生えに覆われた野原があった。森の深い緑とは対照的な若草色の絨毯が、一面に敷き詰められている。道は絨毯を切り裂くようにして、なだらかな丘へと続いていた。その丘の上には、大きな樹が一本だけ生えている。
 どこかで見たような風景だ――と、エビネは思った。
 それもそのはず。このイベントホールでは、地球にあった有名な自然の風景や、庭園などの一部を再現して「展示」しているのだから。
 丘の頂上に立ったエビネは、ぐるりとホール内の「展示物」を一望した。そして昔ホロビデオで見た、自然の地形を活かしただだっ広い庭園や、形よく刈り込んだ植え込みで幾何学模様を描いたり、ニンフの戯れる噴水などがある宮廷庭園の記憶を、眼下の景色に重ね合わせた。
「しかし、凄いな……。さしづめ、『世界の庭園博』って感じ?」
 あまりのスケールの大きさに、エビネは思わず呟いた。
 丘の上から見える庭園の数は両手で足りるほどではあったが、お互いの景観を損ねないようゆったりとスペースがとられているので、総面積は相当な広さになっている。
 しかしそれでもまだ、このホールの半分しか使われていないのだ。その証拠に、ホールの中ほどには場内を区切るように左右に広がる林があり、このホールを覆うガラス張りの天井が、その林を越えた先まで続いている。
 ということは、その林の向こう側にも、まだまだ庭園が展示されている――。
 そう考えてエビネは、不意に自分の胸が高鳴るのを感じた。
 もしかしたら……、いやきっと……。
 突然湧き起こった「期待」に急かされるように、エビネの歩みが知らず知らずのうちに速くなる。早足で丘を下ると、そのままの勢いでいくつかの庭園を通過し、間仕切りとなっている林を目指す。
 林の手前には休憩コーナーがあり、早朝とはいえ、散歩の老人や勤務明けらしい〈機構軍〉職員たちの寛ぐ姿がチラホラと見えた。そんな連中に、童話の登場人物に扮したコンパニオンが、ポットを片手に茶を振舞っている。
 しかしエビネは、にっこりと微笑みながらカップを差し出すコンパニオンも、彼の様子に訝しそうな目を向けてくる客も完全無視で、自分の求めるものに向かって林に突入した。
 林はそう深くなく、あっという間に向こう側へ抜ける。
「……!」
 林の先には、懐かしい景色の一つがあった。
 蓮の咲き誇る水辺に、柳が頭を垂れている。池に張り出すようにして、四隅が反り返るような独特の形をした屋根と、赤い柱を持つ四阿あずまやが建っていた。その背後には、しなやかな緑の枝を揺らす大きな柳の林が見える。
 それらは鮮やかな赤や黄や緑といった色彩に溢れているはずなのに、どこかモノクロームな印象を抱かせた。
「〈シンホォワ〉だ……」
 〈シント〉に匹敵する規模を持つ都市、〈シンホォワ〉――。
 数千年の歴史を持つという彼らの祖先が創り、現在彼らが受け継いで守ろうとしている景色が、そこにあった。
「〈シンホォワ〉がある――だったら……だったら!」
 期待が確信へと変わりはじめたエビネは、そこさえも通り過ぎた。駆けるようにして池を回りこみ、柳の林を抜ける――と。
 突然、視界が真っ赤に染まった。
 モノクロの世界が赤い世界へと変わる。
「あ……」
 弾けるように広がった世界に、エビネは立ち竦んだ。
 一面の紅葉が、エビネの視界に飛び込んできた。
「あった――!」
 ようやく求めていた景色に辿り着いたという気持ちが、息を吐くエビネの唇を震わせる。安堵感が全身の力を奪い、思わずその場に崩れ落ちそうになる。
 だがエビネは何とか自分を保つと、意識して腹に力を込め、ゆっくりと、故郷〈シント〉を模した世界へと足を踏み入れた。
 樹々に近づくにつれ、赤一色に見えていたものが実はそうでなかったことが判る。この得も言われぬ奥深い色は、楓だけでなく、けやきや山桜、七竈ななかまどといった、真紅から黄にかけての微妙な色が混じりあうことによって生み出されていたのだ。
 乾いた落ち葉の音を聞きながら、エビネは晩秋の大庭園を歩いた。枝ぶりや落ち葉の形、つやつやとした赤い実などに目を奪われる。が、何気なく庭の片隅に目をやって、彼は思わず息を呑んだ。
 大きな楓の木陰に、茶の席が設けられていた。褪せた畳の座敷が紅葉に溶け込むかのようにしつらえてあり、数人の客が物珍しげに傍に展示してある茶道具などを眺めている。
 そして、そんな彼らに話しかけている若い和装の男がいた。
「〈シント〉の人……?」
 身を乗り出して目を細めたエビネは呟いた。
 若い男は、遠目にも木星人でないのは明らかだった。背格好、髪や肌の色から、土星の人間であることが判る。和服を着慣れた様子から、〈シント〉の者にまず間違いはないだろう。
 エビネは呆けたように男を見つめた。ここへ来て初めて同郷の者に出会ったのだ。驚きとともに、親しみや安らぎといった感情が、彼の胸に溢れてくるのを感じた。
 男はトキヒコと同じぐらいか、もう少し年嵩がいって次兄のキヨツグぐらいだろうか。客に周りの景色についての説明をしているらしく、客たちが男の指し示す方を向いては感心したようにうなづいている。
 不意に、男は手をかざしたままぐるりと身体を捻った。そして、ちょうどその手がエビネの方に向いた時、動きが止まった。
 男はそのまましばらくエビネを見つめていたが、ふと我に返ると、ひとこと客に断わってその場を離れた。
 そして見失うのを恐れてか、男は茫然と立ち尽くすエビネの前に脇目も振らずやってくると、落ち着いた物腰で尋ねかけた。
「四郎さま……? 蝦根四郎さまではありませんか?」
「え……」
 エビネは狐につままれたように、きょとんとなる。
 男の発した言葉は、故郷の言葉であった。それは単なる土星訛りの太陽系共通語などではなく、〈シント〉の市民同士のあいだだけで使う古い言葉だ。そしてエビネの名を呼んだ。
 男が〈シント〉の者だと判っていたとはいえ、まさかこんな処で母国語で話しかけられたうえに、名前まで呼ばれるとは思わなかった。それ以前に、この男に会うのは初めてなのに、どうして自分の名を知っているのかが不思議だった。エビネは一度会って話をした者の顔は忘れない。なのに見覚えのないこの男は、自分のことを知っているのだ。
〈水流屋〉つるやです、菓子屋の。父が、お兄さまの太郎さまにご贔屓にしていただいておりました。私はその息子の、雅隆でございます」
 戸惑うエビネに男は名乗った。
「つるや……?」
 エビネはしばらくポカンとしていたが、〈水流屋〉という屋号に思い当たって、ポンと手を打った。
「ああ! 水まんじゅうの!」
「そう、水まんじゅうの、です」
 苦笑まじりに、マサタカは肯いた。不名誉な思い出され方だっただろうが気分を害した様子もなく、エビネに思いがけずして出会えたのが嬉しいとでもいうように目を細めている。エビネもそれに応えて微笑み返した。が、すぐに不思議そうな顔になって訊ねた。
「確かに自分は、蝦根四郎影清ですが……えっと、以前にお会いしましたっけ?」
「いえ、『あの茶会』の折に、遠くからお見かけしただけでございます。それがこのような処でお会いできたのが嬉しくなりまして、つい声をかけてしまいました。失礼いたしました」
 面識なく声をかけたことを詫び、マサタカは頭を下げた。
「そんな、謝る必要なんてないです! こちらこそ不躾な物言い、失礼しました!」
 慌ててエビネも頭を下げる。
 これにマサタカは仰天した。いわば二人の立場は、出入りの菓子屋とかつてのお得意さまである。自分が頭を下げることはあっても、相手が下げる必要はないのだ。
 マサタカが呆気に取られて見ていると、エビネがひょいと頭を上げて言った。
「それとお願いです。『さま』はやめてください。母や長兄と違って、自分は持ち上げてもらえる立場ではありません。いまは〈機構軍〉の、新米士官の一人に過ぎないもので……」
「……了解りました。では失礼して、四郎『さん』と呼ばせていただきます」
 制服のままのエビネを見たマサタカは、納得して応えた。新米士官は嬉しそうにもう一度微笑むと、話題を変えた。
「ところで、まだ〈水流屋〉の暖簾は下ろされてないですよね? 〈水流屋〉さんの練り羊羹、大好きだったんです!」
「もちろんですとも!」
 誇らしげに胸を張って、菓子屋の跡取は大きく肯いた。
「あの後――木星のエウロパへ移ってから、いろいろと苦労はあったのですが……なんとかこのカリストにも店を出せるまでになりました」
「カリストにも店を! それはおめでとうございます」
 一度信用を失った菓子屋の復興を、エビネは心から喜んだ。
「ありがとうございます。こうしてなんとか立ち直れましたのも、偏に太郎さまが『一からやり直せ』と仰ってくださったからなのです」
「ツネ兄が?」
「はい。あの茶会で傷んだ菓子を出すという失態を演じました父は、死を覚悟して太郎さまの許を訪れました。決して言葉の綾などではなく、本当に腹を切るつもりだったのです。何しろ〈シント〉を支える方々のお子さまたちを苦しめたばかりか、高野さまの茶会に引き立てていただけるようお口添えくださった、太郎さまの面目まで潰してしまったのですから。この罪を償うには、『もはや腹を切って死ぬしかない』と父は思ったのです」
 当時の苦い記憶を思い出しているのか、マサタカは遠くを見つめた。
「しかし太郎さまは、父の死をお許しになられませんでした。『死ぬ覚悟があるのなら、死んだつもりで何もないところから新しく始めろ』と仰られたのです。『いままでの〈水流屋〉という名を捨てて、新しい〈水流屋〉を創れ』と――。そして考え抜いた末に父の出した答えは、『土星を離れる』ということでした。『逃げた』と思われた方もいたようですが、そんなつもりではありませんでした。とにかく〈水流屋〉という『名』の通用しないところで、腕一つをもって店を立て直すことが、太郎さまのお気持ちに応えることだと思ったのです。そしてそれを信じて、今日までやってまいりました……」
 つと、マサタカはエビネに視線を戻した。しかし彼が見ているのは、エビネではなく兄のツネキヨなのだろう。
「〈シント〉では、〈水流屋〉という名前だけで菓子が売れました。私たち親子は、その上に胡坐をかいていたのです。だからあのような過ち犯してしまったわけですが……。しかしこの木星では、〈水流屋〉という名前を知る人はいません。名前で売ることができない以上、頼れるのは菓子職人としての腕だけでした」
 そして〈水流屋〉親子は職人としての腕一本で、みごと新しい〈水流屋〉を創り上げたのだ。
「『名』……」
 エビネは口の中で呟いた。
 マサタカの言葉が耳に痛い。自分がいかに甘えていたかを思い知らされた。
 いままで自分は、誰からもすぐに受け入れられてきた。しかしそれは、〈エビネ家〉の四男という「名」があったからなのだろう。そしてそのことに気づかないまま、〈森の精〉へ来た。そこでは当然、その「名」は通用しない。土星でのように無条件で受け入れてもらえるわけではないのだ。なのに「信用されない」といって拗ねてしまった。信用を得るための努力など、何もしていないくせに。
 エビネはやっと自分の非を認めることができた。そして〈森の精〉に残って「名」に頼らない信用を得る努力をすべきだと悟った。
 だがいまはまだ、〈森の精〉を選び取る勇気がなかった。「信用を得るためだけ」という個人的な理由は、自分一人のために動いてくれたロメス大佐の気持ちと、自分を必要としてくれているタイタン司令本部を切り捨てる決定打とするには、小さすぎるような気がした。
 自分はまだ何かに拘っているのだろうか、とエビネは思った。
 まだ本当に「自分」とは向き合えていないのかもしれない。「声」が聴こえないのではなく、聴こうとしていないのかもしれない――。
 ぐるぐると渦巻くエビネの心の内など知らず、マサタカは結びの言葉を吐き出した。
「本当に太郎さまには、いい経験をさせていただきました。私たち親子が受け継いだ〈水流屋〉の暖簾は、初代が何もないところから始め、代々信用を積み重ねてきたものだったのだ――と、気づかせてくださったのですから」
 失敗に屈さず更なる飛躍を遂げた菓子職人の顔は、自信に満ち溢れていた。エビネはその顔を眩しそうに見つめた。
 マサタカは、突然先ほどの朗らかさを失ったエビネに気づいた。しかし「どうしたのか」と訊ねるようなことはせず、ふと思い出したとでいもいうように声を張り上げた。
「ああっ、こんな処で長々と立ち話などいたしまして、失礼いたしました! ささ、あちらでぜひ一服していってください。生まれ変わった手前どもの菓子を、どうか見てやってくださいまし」
「喜んで」
 考えるまでもなく、エビネは誘いを受けた。しかし顔には笑顔を戻したが、心の中は複雑に揺れ動いたまま――。
 エビネはマサタカに案内され、大楓の座敷へとやってきた。
 四畳半の座敷には風炉が置かれている。紅葉の季節に合わせてか、やつれ風炉と呼ばれる欠けた鉄の釜だ。
「本格的ですね」
 釜が用意されていることにエビネは感動した。見学者に菓子と茶を出すだけなら釜など用意せず、裏でさっと点てたものを出せば済むことだ。
「ええ、実は少しでも木星の人たちに私たちの文化を知っていただきたいと思いまして、今回この植物園の展示に便乗させていただいたのです」
「――と、言いますと?」
 マサタカの意図が汲めず、エビネは首を傾げた。〈水流屋〉の若主人が応える。
「はい。木星に来てすぐに気づいたのですが――ここの人たちは関心が別の方へ向いてしまっているため、土星のことをあまりよく知らないようなのです。私はそんな彼らの様子を見ているうちに、『土星は他星の人々からもっと関心を持ってもらわないと、いずれ孤立してしまうのではないか。内側ばかりに気を取られている場合ではないのではないか』と、考えるようになりまして……。ならば、少しずつでも土星のことに関心をもってもらう努力をしようと、こちらに来ている他の都市の方々とも協力して、細々とですがPR活動などするようになったのです。まあこれは、その一環とでも言いましょうか」
「そうなんですか」
 土星から来た者たちがこのような活動を行っていたなど思いもしなかったエビネは、感じ入ったように何度も大きくうなづいた。
 マサタカたちの危惧することは、エビネも〈機構軍〉に所属するようになってから薄々感じていた。だが実際に土星でそのような働きかけを提案しようものなら、頭の固い年寄り連中から即却下を食らうことは間違いない。かつては彼らも、独立のために手を取り合って、他星の人々からの関心を集めようとしていたというのに、だ。それを忘れてしまうほど、土星の者たちは「自分たちの世界」を守ることに執着しすぎるようになってしまった。
「とは言うものの、ここではパフォーマンスの意味合いが強いので、細かい作法は無視して、ほとんど見た目だけになっておりますが」
 マサタカは素早く横目で合図すると、苦笑して肩をすくめる。彼の視線を追ったエビネも、納得して小さく相槌を打った。
 先ほどマサタカが相手をしていた客たちが、この場を去りかねているのか座敷を遠巻きにうろついていた。和服姿の女性が座敷へ誘っているが、物怖じしたように拒んでいる。どうやら、これから始まるイベントに興味はあるが、自分が参加するのにはためらいがあるらしい。
 だが木星人たちは基本的に好奇心が旺盛だ。誰かが手本を見せてやれば、後に続く者が必ず出る。
「――では無作法ながらも、いっちょ『サクラ』になりますか」
「おやおや、最高のパフォーマンスになりそうですね」
 ニヤリと悪戯っぽく、二人は白い歯を見せ合った。
「これをお使いください」
 そう言ってマサタカは、折りたたんだ懐紙をエビネに渡した。エビネは礼を言って受け取ると、帛紗ふくさの代りに畳んだハンカチに挟んで制服の内ポケットへしまいこむ。
 軍靴を脱いで座敷に上がる。釜を拝見し、正客の席へとつく。長兄からひと通りの作法しか習わなかった上に、主賓である正客など務めたこともなかった。しかし手順を思い出すうちに、自然と身体が動きはじめた。
 そしてピンと背筋を伸ばして正座した時には、さっきまで揺れ動いていた自分はどこへ行ったのかと思うほど、心が落ち着いていた。雑念は消え去り、次第に感覚が研ぎ澄まされてゆく。
 空調の風に吹かれた木の葉が、さわさわと囁く。例の客たちがそっと近づき、背後で息を呑んで見守っている。後からやってきた客は、唐突に始まったパフォーマンスに、はじめは何事かとざわめいていたが、エビネの周囲に流れる空気の違いを感じると、圧倒されたように口を閉じた――そういったことを、肌で感じる。
 マサタカは、こういった催しの添え釜で使う揃いの安茶碗を片づけ、展示棚から客に触れさせることのなかった茶道具を取り出した。自ら亭主を務めるのか、それらを手に釜の前につく。
 一瞬、エビネとマサタカの目が合った。
 俄かに緊張の糸が張り巡らされる。見学者たちは、誰もがエビネたちの静かな動きを、魅せられたように見つめた。その場を立ち去るものは一人もいなかった。
 亭主と正客がお互いに一礼を交わすと、亭主の点前が始まる。すでに炭がくべられていた釜の様子を見、ほどよく湯加減を整えると、マサタカは声をかけた。
「お菓子をどうぞ」
 エビネの前に茶菓子が運ばれてきた。漆塗りの銘々皿に、主菓子の栗きんとんが一つ載せられている。エビネは畳の上に置かれた皿を一旦軽く持ち上げ、菓子に礼をするようにおしいただいてから、添えられた楊枝を使って懐紙の上に載せた。
 亭主に向かって一礼し、一呼吸おいてから切り分けて口に運ぶ。
 ほろり――と、ほどよい甘さが口に広がった。黒糖のようにくどくなく、白糖のように味気ない甘さでもない。続いて栗とかすかな肉桂シナモンの香りが鼻に抜ける。ねっとりとした餡が舌に絡みつくが、それはわずかな時間でさらりと喉の奥へと落ちてゆく。と同時に、口の中に広がっていた甘さがふっと消えた。喉元を通り過ぎた菓子は、「もう少し味わっていたい」と思う気持ちを無視して、その名残を消し去った。
 思わず残った菓子に手が伸びた。再び切り分けたものを口に放り込んで、至福の時間を味わう。
 こんなにも、自分は故郷の味に飢えていたのか――と、エビネは意識の片隅で思った。自作の弁当では満足しきれなかった懐かしい味への想いを、〈水流屋〉の菓子は満たしてくれるようだった。
 気づいた時には、菓子を平らげていた。満足感と若干の名残惜しさが入り混じった顔で、懐紙に戻した楊枝を見つめる。
「旨い……」
 思わずエビネの口から声が洩れた。
 〈水流屋〉の仕事は見事だった。木星人たちの好みに合わせてあるが、以前の味は少しも損なってはいない。
 新しい世界にやってきた菓子職人の親子は、何もない状態からここまで辿り着くために、いったいどれほどの時間をかけ、努力してきたのだろう。
 しかしそのようなことは一切語らず、マサタカは一つ頭を下げると、静かに茶を点てはじめた。
 湯の沸く音と茶筅の音を、エビネは心を澄まして聴いた。そして土星のこと、木星のこと、自分のことを考えた。今度こそ自分に向き合える気がした。花たちの囁き、自分の声が聴けそうな気がした。
 そっと、マサタカが茶を差し出す。艶やかな黒茶碗と、若葉色をした薄茶のコントラストが目に眩しい。
「お点前、頂戴します」
 茶碗を前にしてエビネは亭主に挨拶する。そっと持ち上げた茶碗を軽く手で包み込み、感謝の念を込めておしいただく。そして手の中で茶碗を二度ほど回してから、口をつけた。
 暖かい茶が口の中で転がる。独特のほろ苦さが先ほどの菓子の甘さを蘇らせる。が、そう感じた刹那、それらはさっぱりと洗い流された。二口目で爽やかな茶の香気を感じ、三口目で一滴も残すまいと音を立てて啜り上げた。
 最後の一滴が喉へ落ちると、茶碗を下ろし指先で飲み口を拭う。その手を胸元の懐紙で清めてから、畳の上へと茶碗を下ろした。
 一呼吸おくと、次は畳に両手をついて茶碗を拝見する。
 茶の余韻に浸りながら、エビネは満ち足りた表情で黒い茶碗を眺めた。欠けた縁を金で繕っているが、それ以外は何の装飾もない茶碗だった。今度は屈み込んで手に取ってみる。茶碗の知識は大してなかったが、微妙な色の変化や手触りなどを愉しんで、もう一度茶碗を置いた。
「この欠けた部分の継ぎに趣きがありますね。銘は?」
 エビネは興味深い目で、マサタカに訊ねた。
 マサタカはにこりと笑って応えた。
「〈かけはし〉――で、ございます」
 エビネはハッとしてマサタカを見た。この茶碗はマサタカの意志の表れ。故郷を離れたこの星に骨を埋め、故郷との懸橋になろうという決意そのものなのだ。
 亭主の心に触れたエビネは、感極まって失った言葉の代りに、深々と頭を下げた。
 そして数秒のあいだ下げていた頭を、ゆっくりと上げる。姿勢を正し、まっすぐマサタカの目を見据えた。マサタカもエビネの瞳を見つめ返す。
 ふと、どちらからともなく笑みを浮かべた。――と、その時。
 一枚の小さな楓の葉が落ちてきた。くるくると舞う朱い葉は、狙ったようにエビネの前に置いた茶碗の中に飛び込んだ。
「あ――!」
 その瞬間、エビネは雷にでも打たれたかのような衝撃を覚えた。目を見開き、息を呑んで茶碗を見つめる。
 黒い茶碗に鮮やかな朱い葉が映える。
 それは鮮烈なイメージとなって、エビネの目に焼きついた。俄かに、自分を取り囲む樹々の息吹を感じる。
 ――偶然のもたらすできごとの、なんとおかしきことよ。
 エビネは、このようにちっぽけな美を愛でることのできる自分が、妙に誇らしくなった。
 自分は決して、この風景を捨て去ることはできないのだ。それは自分を育てたものであり、魂の還りつく処なのだから――。
 そう気づいた時、エビネは聴いた。自分の心の声と、自分を取り囲む樹々の声を。
 そして、ゆらゆらと揺れ動いていた天秤が、一方へ傾いたのを感じた。

■エビネくんとグレムリン■page 30