■森の少女■page 10

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「失礼します」
 副官の先触れに続いて基地司令官のオフィスへ入ってきたアダルは、ウィルのデスクの前に立つと直立不動の姿勢をとって名乗った。
「アダルベルト・クリストッフェル少佐、出頭しました」
 いまだ他人行儀な態度をとるアダルに、ウィルは内心苦笑する。フライトに関する例の一件がまだ尾を引いているのは確かだった。
 まあそれも仕方ないだろう。初めに他人行儀な態度をとったのはウィルであり、しかもアダルは、世間話ではなく事情聴取されるつもりで司令官室を訪れたのだから。
 そんなアダルの態度に、ウィルはわずかに片眉を持ち上げただけで何も言わなかった。そしてデスク越しに話すつもりはないのか、いつものように窓辺のソファを二つ年下の後輩に勧め、副官に飲み物を用意させた。
 ほどなくして、アダルの好きな葉で淹れた紅茶の香りが、最低限の調度と観葉植物だけの司令官室に満ちる。
 ソファに腰を落ち着けてから、二人は一切言葉を交わしていない。クローチェ二等軍曹の給仕中も、ウィルはただ瞑想するようにテーブルに目を落とし、アダルは落ちつかなげに端整な顔を撫でまわしていただけだ。
 ウィルはどう切り出すか迷っていた。
 アダルの様子から、彼が何か悩みを抱えているのは明らかだ。これが酒の席なら、酔いに任せて聞き出すこともできよう。しかしお互い翌日も訓練飛行を控えている。上戸であるアダルの口が軽くなるほど、飲ませるわけにはいかなかった。
 紅茶に口をつけていたウィルは、熱い液体を喉の奥に流し込んだ。いつもは甘味を感じる紅茶が、今日は渋く感じられる。
 ひとつ大きく息を吐いて気持ちを整える。
「何があった――?」
 結局、持ってまわった言い方はやめ、直球に賭けた。しかしこの言葉が適切だったのか、ウィルにも自信がない。反応を窺うウィルの口の中に、先程の紅茶の渋みが甦る。
 一方アダルは、ウィルの質問に口元へ運びかけていたカップを一瞬止めた。しかしすぐ、何もなかったように動作を続けながら答えた。
「別に何もありませんよ」
 そう言って芳香な茶を一口含む。
 ウィルはアダルのまつげに半分隠れたカプチーノ色の瞳をじっと見つめた。
 アダルとは天王星時代からの付き合いだ。戦闘機乗りフリーガーとしては先輩後輩、また軍においては上官と部下という関係になる。だがあまり上下の関係に囚われることのないウィルにとって、彼はイザーク同様に気が置けない友人の一人であった。だからこれまでお互いに、任務に関する悩みや迷いはもちろん、プライベートなことに関しても相談しあってきた。ウィルはそのつもりだった。
 なのにいまアダルは白々しくすっ呆け、ウィルの全てを見透かすような樫色の瞳から逃れて目を伏せた。
 これまでのように上官や先輩、または友人として頼りにされなかったことに、ウィルは悔しさと寂しさを感じた。そんな気持ちが、ふと非難めいた言葉になって飛び出した。
「しかし、今日のはおまえらしくない飛び方だった。いつものおまえなら、アレぐらいの風に煽られたりはしないだろう?」
「僕だって完璧じゃありません。そういう日だってありますよ」
 伏せていた目を上げたアダルは、わずかに挑むような視線と棘を帯びた口調で返す。
「そりゃあアレぐらいのミス、他のヤツなら俺は気づかなかった振りをするさ。だが、おまえは〈WW〉ヴェーヴェーを教育する立場にいる。アレはおまえの操縦技術のいい面も悪い面も、全て吸収する――。だからアレに悪い癖をつけさせないためにも、おまえは常に完璧でなければならない。それが、おまえの任務だろう?」
 今度はアダルも、すぐには言葉を返さなかった。彼にもこの任務が自分にしかできないことは理解っている。
 目の前にいる、自分が密かに忠誠を誓った〈機構軍・航空隊〉の英雄は、いまだ〈機構軍〉随一の戦闘機乗りとして健在だ。
 だが彼は、戦闘技術においては何人たりとも追随を許さなかったが、決められた飛行条件を寸分の狂いもなく精確に飛ぶのは不得手だった。それに関しては、「僭越ながら自分の方が長じている」とアダルも自覚している。
 だから、いまは戦闘技術より飛行技術を〈WW〉に教え込むことが優先されている以上、ウィルではなく自分がその教育を担当するべきなのである。
「……理解っています」
「なら、しゃんとしろ! みんな、おまえの様子がおかしいことに気づいて心配している。隊員たちを動揺させたり、心配をかけさせるな」
 巧く隠しているつもりでも、兵たちは指揮官の心の揺らぎを敏感に察知してしまうものだ。初めは小さな動揺でも、長引けば部隊の士気にも影響を及ぼすようになる。
 士気の低下は、任務の達成度の低下に繋がる。開発の遅れは、即座に本部の知るところになろう。そうなれば〈森の精〉の評価がさらに下がるばかりか、その原因をもたらしたアダルの評価も下げることになる。
 そのような事態は、なんとしてでも避けねばならない。
 あまり煩く言いたくはなかったが、アダルに自分のいまの立場を自覚してもらうため、ウィルはあえて苦言を呈することにした。
「――それに、年が明ければ中佐に昇進し、おまえは名実ともに〈森の精〉基地の副司令官になるんだぞ。現在いまのその不安定な状態を改善する気がないのなら、この昇進は延期せざるを得なくなる」
 アダルの立場は微妙だ。なにしろ、〈森の精〉各部の部長や飛行隊長を務める中佐連中を差し置いて、基地副司令官の地位にいる。
 アダルを副司令官に据えたのはカリスト司令本部だ。何かにつけウィルを「何とか」したい司令本部は、この人事によって〈森の精〉幹部の不和を招こうとでもしたのだろう。
 しかし、基地司令官であるウィル自身が、隊員たちを階級ではなく能力で評価している。
 もちろんウィルとは気心の知れた他の幹部たちもその考えに不服はなく、当然のように、何でも卒なくこなすことのできるアダルを高く評価し、副司令官として受け入れていた。
 ウィルの将兵たちに与える影響を甘く見ていた司令本部の目論見は、あえなく失敗に終わったかに見えた。
 ところが、思わぬところで効果が現れた。
 〈森の精〉の幹部である中佐たちは、カリスト司令本部や統合作戦本部などの同僚から、「少佐なんぞに牛耳られて」と、ことあるごとに揶揄されるようになったのである。発言なども軽んじられ、会議に出席してもまともに意見を取り上げてもらえない。
 幹部たちはそのような状況をアダルに告げることは決してなかったが、噂というものはやがて当事者の耳に入るものだ。
 早々にその事実を知ったアダルは、以後、地位に見合った階級を得ようと努力した。末席であっても、彼が他の幹部たちと同じ高さの台に乗っていれば、肩身の狭い思いをする者はいなくなるはずだ――と信じて。
 そして、アダルのそんな想いを知ったウィルは、彼に重要な任務を任せたり、積極的に彼の昇進を司令本部の人事にかけ合ってきたのである。
 その甲斐あって、それらの努力がようやく実ろうとしている。だがいまのアダルは、自らそれを潰しかねなかった。
 しばらくの間を置いて、アダルが口を開いた。
「……それも、致し方ありません」
「アダル!」
 求めていたものがもうすぐ手に入る機会を、みすみす棒に振るという年下の友に、ウィルは思わず声を荒げた。
 それに対しアダルはもう言葉を返そうとはせず、テーブルに置いた白磁のカップを見つめ、そのまま押し黙ってしまった。
 だがその態度は、ウィルの言葉を拒否しているわけではない。ウィルに反発するつもりなら、即座に席を立っていたはずだ。
 いま彼の心の中では、様々な想いがせめぎあっているのだろう――。
 ウィルはじっと、彼が答えを出すのを待った。
 しかし数分の時が過ぎても、アダルは顔を上げなかった。痺れを切らせたウィルは、カップを取り上げ喉を潤した。
 そしてそのカップを再び戻そうとしたとき――。
「マリーアが……妻が妊娠しました」
 ポツリと呟いたアダルの言葉に、ウィルは一瞬きょとんとなる。だが、すぐに顔をほころばせた。
 アダルがマリーアと結婚して四年。その間アダルは、我が子の誕生をずっと待ち望んでいた。その想いは一方ならず、執着ともいえるほどだ。
 そのアダルにようやく待望の子供ができた。こんな喜ばしいことはなく、ウィルはカップを置いて祝いの言葉を述べようとした。
「よかったじゃないか! 彼女も喜んで――」
「僕の子じゃありません」
 カップを置く耳障りな音とアダルの声が重なって、ウィルにははっきりと聞き取れなかった。
「え?」
 呆けた顔で聞き返す。
 そんなウィルに、アダルは厳しい表情を向けてもう一度告げた。
「僕の子じゃ、ありません」
 今度はウィルも、しっかりと聞き取った。だが衝撃的な内容が俄かに信じられず、聞き間違いであってほしいと思う。
 しかしアダルは真顔で続けた。
「彼女の勤め先の同僚の子だそうです」
「彼女が自分でそう言ったのか?」
 アダルが小さく肯いた。
 ウィルの脳裏に、大人しくひっそりとしたマリーアの姿が浮かぶ。彼女はいつもアダルのことを、愛情のこもった目で眩しそうに見ていた。彼女の目には、アダルしか映っていなかった。そんな彼女が、アダルを裏切るとは思えない。
「冗談だろ?」
 口元をひきつらせてそう言うのが精一杯だった。
「彼女には――」
 一度口を開くと、もう止めることができないのだろう。アダルは押し殺した声で語り続ける。
「僕が重荷だったそうです。フリーガーである僕の帰りを待つことも、僕が子供を切望したことも、僕が彼女を大切にしてきたことも――全て彼女には重荷だったんだそうです」
「だからマリーアはその重荷から逃れようとした――っていうのか?」
「別れたいと言われました。ドラマや三文小説でありがちの、『異性の同僚に悩みを聞いてもらっているうちに――』ってヤツです」
 訊かれる前に理由まで答えたアダルの顔が、自嘲に歪む。
「別れるつもりか?」
「……わかりません」
 やはり酒を用意するべきだったと、ウィルは後悔した。こんな話、飲まずにはやっていられない。困ったように眉を寄せ、大きく息を吐く。
 妻の浮気に取り乱さない夫はいない。証拠とともにその事実を妻の口から聞かされたのならなおさらだ。
 しかしアダルがフリーガーである以上、任務中もそんな調子では困る。戦闘機を飛ばすことは、ただでさえ危険が伴うことなのだから。
 ウィルには選択の余地がなかった。アダルは難色を示すだろうが、いまの段階での最善策はひとつだけだ。
「では、話し合え。彼女ときちんと話をするんだ。結論が出るまで任務を解く」
「ウィル――!?」
 弾かれたようにアダルが顔を上げた。案の定、非難の目でウィルを見つめる。
「いまから帰れ。そしてちゃんと片がつくまで出勤するな」
「明日の〈WW〉のフライトはどうするんですっ?」
 アダルは食い下がった。彼の逃げ場は空しかないとでもいうように。
「俺が代わりに飛ぶ。いまのおまえよりずっとマシだ」
「そんな――」
 なおもアダルが反論しようとしたところへ、インターホン越しにクローチェ軍曹が声をかけてきた。
「大佐、〈とねりこの森〉のキュンメル中佐がお見えです」
「了解った。隣で会う」
 ウィルは軍曹に司令官室に隣接する応接室を用意するよう伝えると、席を立った。
「命令だ。お互いが納得できるまで話し合え。もしあいだに誰か入った方がイイのなら、俺に言え。いいな」
 そう言い置いて、ウィルは自分のオフィスを出る。
 扉が閉まる直前、アダルの意気消沈した姿が見えた。いつまでも口の中に残る紅茶の渋みに、ウィルは顔をしかめた。

 夢を見ているのではないか――。
 と、ハズリットは思った。
 いま目の前に、つい最近夢中になって読んでいた論文の著者が立っているというのだ。ウェブ雑誌などの情報では、博士は土星の研究所にいるとあったのに。
 少女は言葉を失い、顔中に疑問符を浮かべて老夫婦を見上げるばかりだ。
 そんな彼女に、老婦人――カロリーネ・レンツがクスクスと笑いながら種明かしをする。
「主人と私は学会の発表のために、先日から〈ヴァルハラ〉に来ていたの。そうしたら夕べ、ここの所長さんがあなたのことを教えてくださったのよ。『植物のことに興味を持っているお嬢さんがいる』ってね。それでぜひ会ってみたくなったの」
「私に会うため……に?」
 自分に会いに来たと言われ、ハズリットは面食らった。わざわざ子供一人を見物するためだけに、この老夫婦は〈ヴァルハラ〉から来たとというのか。
 しかし夫人は、茶目っ気たっぷりに片目を瞑りながらつけ足す。
「まあ、久しぶりに〈緑の館〉の様子を見たい――ということもあったのだけど」
「あ」
 昨日研究員たちから、この〈緑の館〉の創設者がレンツ博士だと聞かされたことを思い出し、ハズリットは声をあげた。
「そういえば、ここを創設したのは――」
「なんと、この〈緑の館〉の初代所長はワシなのだよ! どうだ、驚いたかね?」
 ハズリットの言葉を受けて、レンツ博士が胸を張って答える。腰に手を当て呵呵大笑するその姿に圧倒され、少女は思わず身体を引いた。
 博士の言動が、どうも論文からイメージされるものと一致しない。論文は緻密かつ計算された構成で淡々と論じられているのだが、実物は緻密や計算、冷静さや論理的とは一切無縁な人のように見える。
 むしろそう言った単語は、夫人の方にこそ相応しい。確か夫人も植物学者だったから、もしかすると論文を書いたのは夫人の方なのではないか――。
 そんな疑惑がハズリットの頭を過ぎった。
 少女から胡散臭く思われているなどとは露知らず、老夫婦は一方的に話し続ける。
「それはそうと、ココは少し寒いな」
「晩秋の温度設定にしてありますからね。さあ腰が冷えてしまう前に、サロンへ行って暖かいものでもいただきましょう。ハズリットちゃんもいらっしゃい」
 すっかり二人のペースに呑まれた少女は、誘われるまま老夫婦について歩き出した。
 談話室へ向かうあいだも、二人の会話は途切れることがない。ここの〈グレムリン〉たちも始終賑やかに喋っているが、この夫婦も彼らに負けていないのではないかと、ハズリットには思われた。
 会話の内容は取るに足りないことばかりで、専門的な話を聞きたいと思っているハズリットには物足りなかった。しかし夫人は博士の戯言に丁寧に相槌を打ち、根気よく付き合っている。
 ハズリットはふと、ヴァルトラントとの会話を思い出した。少年もこの博士のように、どうでもよさそうなことをベラベラと話しかけてくる。そのたびに自分は煩わしく思い、素気ない返事をしてきた。
 自分もいつか、夫人のように根気よく少年の話を聞くことができるようになるのだろうか――。
 ぼんやりとそんなことを考えながら歩いていたハズリットは、唐突に立ち止まった夫人の背にぶつかった。
「あっ、ごめんなさいっ」
 したたか打ちつけた鼻を押さえながら、少女は謝る。
 しかし夫人からの応えはなかった。
 不審に思ったハズリットは顔を上げた。つと、レンツ夫人と目が合った。すると、突如夫人の穏やかな緑灰色の瞳が潤みはじめた。
 息を呑んで固まったハズリットの頭に、夫人の手が伸びる。しわの目立つようになった指が頭頂部から頬へ、触れるかどうかの距離を保って伝ってゆく。
「天王星へ行く前にハズリットちゃんに会えて、本当によかったわ……」
 感極まって声を詰まらせる夫人の肩を、博士が無言で抱きかかえる。その直前、博士はハズリットに探るような目を向けた。
 その視線に、そして夫人の涙の原因が自分にあることに、少女は不安を感じた。
 恐る恐る声をかける。
「あの――?」
 次々溢れてくる涙を拭き取った夫人は、何とか笑顔を作り出して答える。
「……ごめんなさいね。歳をとると、何にでも感動できてしまうのよ」
 違う――。
 ハズリットは、夫人が何かを誤魔化したことを鋭く見抜いた。
 大体いくら歳をとって涙もろくなったからといって、見知らぬ子供に会って泣けるものでもないだろう。感動の再会ならばともかく――。
 ハズリットはそこまで考えてドキリとした。慌てて思考を停止する。
 自分はいま何を考えていたのだ。そんなことは絶対にあるはずがないのに――。
 夫人の涙の理由を知るのを恐れた少女は、なんとか話題を変えようとした。
「天王星に行くって……?」
 ぎこちなく小首を傾げて夫婦に問う。
「ああ。息子がまた天王星の部隊に転属になるというのでな。土星での研究も目処がついたことだし、一緒に行くことにしたのだよ」
 即座に博士が応えた。声がわずかに硬い。この話題も、あまり良い選択ではなかったようだ。
 依然つきまとう不安と気まずさを「神妙」という仮面で隠した少女は、「なるほど」とうなづいた。そして、続けるべきかどうか悩みつつも、間を持たせるために質問を重ねる。
「天王星はまだ危ないって聞くけど、怖くないんですか?」
 この質問に、わずかに強張っていた博士の口元に笑みが浮かんだ。どうやら会話下手な少女の努力に、おしゃべり天使が味方してくれたらしい。
「怖くなんかないさ。息子もカロリーネもおるしな。むしろ楽しみなぐらいだよ。いまから、新しい星に根づく草木はどんな花を咲かすのだろう――と、ワクワクしておる」
 本当に天王星へ行くのが楽しみなのだろう。先程の声の硬さはどこへやら。夢見る少年のように、博士は目を輝かせた。
 これまでも木星圏から土星圏へと渡り歩いてきた博士にとって、天王星へ行くことなど特別なことではないのかもしれない――。
 少女はガニメデ如きで不安になっている自分が恥ずかしくなった。
「私も、博士みたいに前向きにならなくちゃダメね……」
 反省を込めて少女が呟く。
 と、背後から――。
「前向きになるのは結構なことだが、この人を見習うのはやめた方がイイ」
 怒気を孕んだ低い声が襲い掛かってきた。
 驚いて振り返った少女の目に、憤怒の形相で大股に歩み寄ってくる士官の姿が映った。
「おお、クラウス! 三日ぶりだのぉ」
 博士が嬉しそうに声をかける。しかし士官は一層不機嫌になり、怒声を放った。
「なーにが『おお、クラウス!』ですかっ! 〈ヴァルハラ〉まで迎えにいってみれば、ホテルはもぬけの殻。さらに、二人がどこへ行ったか誰も知らないときた。キュンメル中佐や私がどれだけ捜しまわったと思ってるんですかっ!」
「悪い悪い。急用ができて、今朝早くに〈ヴァルハラ〉を発ったのだよ。まあ、そう怒るな」
「お父さん!」
 いまにも頭の血管が切れるのではないかとハズリットが思うほど、クラウスと呼ばれた士官は真っ赤になって激昂した。
「クラウス、クラウス」
 博士に詰め寄ろうとするクラウスのあいだに、夫人が割り込む。
「ごめんなさい、クラウス。〈緑の館〉にハズリットちゃんがいると聞いて、私もお父さんも、居ても立ってもいられなくなったのよ」
 手を揉み絞って訴える夫人の言葉に、クラウスは怒りを忘れたように目を丸くした。
「ハズ……リット――?」
 そう呟いて視線を漂わせる。だがすぐそばに立つ小さな少女の姿は、背の高い彼の視界には入らないようだ。
「どこを見ておる」
 レンツ博士は息子の制服のネクタイを掴むと、視線を下げさせた。そしてハズリットに、息子を紹介する。
「ワシの息子のクラウス・レンツだ。〈機構軍・陸戦隊〉の少佐をやっとる」
 そう紹介されても、ハズリットには事情がさっぱり判らない。戸惑った眼ををクラウスに向けるだけだ。
 柔らかな金髪に、カリストの空のような深い青の瞳を持つ三〇過ぎぐらいの男性が、少女の顔を覗き込んだ。瞳に複雑な色が浮かぶ。
「では、この子があのときの……」
 クラウスの呻くような呟きを、ハズリットは確かに聞いた。
 あのときの――? 自分は昔、この人に会ったことがあるのだろうか? それにレンツ夫妻も、やはり自分のことを前から知っているようだ――。
 ハズリットは思わず自分の記憶を手繰る。さっきは怖くなってやめたが、そうも言っていられなくなった。
 しかしその作業は、クラウスの声で中断させられた。
「……と、それはともかく!」
 しばらく茫然としていたクラウスは、何かを追い払うかのように頭をひと振りすると、父親を見据えて言い渡す。
「私はこれから、ヴィンツブラウト大佐にご挨拶してきます。いいですか、私が戻ってくるまで、この〈緑の館〉から出ないでくださいよっ!」
 ビシッと指を突きつけた息子に、博士は笑顔で請け負った。
「もちろんだとも! あ、そうだクラウス。イブの前日までは〈森の精〉にいるつもりだから、司令官に滞在許可をもらってくれんかね?」
「はあっ!?」
 父親の頼みごとに、クラウスは素っ頓狂な声をあげた。
「何を言ってるんですっ。せっかくキュンメル中佐が〈とねりこの森〉に滞在するよう仰ってくださってるというのに、そのご好意を無にするつもりですかっ」
 親でなければ締め上げてやるとばかりに、クラウスは大きな拳を震わせた。しかし目を潤ませて「クラウス、お願い」と懇願する母親には、彼も勝てなかったようだ。
「……い、一応頼んではみますけど、聞いていただけるかは保証しませんよ」
 そう言い捨てて踵を返す。
「やれやれ。あいつはどうして、こう怒りっぽいのかねぇ」
 息子を怒らせている原因が自分にあるなど微塵も思っていないのか、博士は呑気な口調で吐き出した。
「なぁ?」
 博士は苦笑とともに肩をすくめながら、息子の剣幕に怯えてしまったであろう少女に向き直る。
「え?」
 クラウスの消えた方を見つめていた少女は、博士の声で我に返ると目を瞬かせた。
 博士はそんな少女の様子に一瞬顔を曇らせたが、すぐに笑顔を作ると、何事もなかったように元気よく声を張り上げた。
「さあ気を取り直して――お茶だ、お茶!」
 そしてクルリと方向転換すると、談話室へ向かって歩きはじめる。
「ここには、ほうじ茶と饅頭はあるかなぁ」
「まあ、あなた。ここはタイタンの〈シント〉ではなくカリストの〈森の精〉ですよ。やっぱり、紅茶とアプフェルトルテでしょう」
 再び取り留めのない会話を始めたレンツ夫妻の後を歩きながら、ハズリットは突如湧き起こった疑惑に苛まれていた。
 いままで考えないようにしていた、自分の「もう一人の親」について――彼女は意識しはじめた。

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