■森の少女■page 12

−4−
 ハズリットはSバーンの車窓に映る自分の顔を、ぼんやりと見ていた。
 暗いトンネル内を走る列車の窓は、車内の照明を反射して鏡のようになっている。そこに碧の瞳とくすんだ金髪の少女がいて、ハズリットを見つめ返していた。
 窓に映る少女は、彼女の母親とはあまり似ていない。リディアはハズリットと違い、派手な目鼻立ちで赤い髪と明るい空色の瞳を持つ。つまり彼女の容貌を決定づけた遺伝子は、もう一人の遺伝子提供者である父親のものに影響されているということだ。
 ハズリットはこれまで、父親のことは詮索しないようにしてきた。もちろん小さいころ、父親が誰であるのか何度もリディアに訊ねたことはある。しかしその度、リディアは寂しげな笑みを浮かべるだけで、素性はおろか「生きている」とも「死んでいる」とも答えることはなかったのだ。
 そんな母の顔を見るのが辛くなり、ハズリットはいつしかその問いを心の奥底に封印した。少年の言うように、大人になったら母が真実を打ち明けてくれるのだと期待して――。
 しかし突然彼女の目の前に現れた人物が、その封印を解いてしまった。
 その男の細く柔らかな金髪は、少女のものに似ていなくもない。体格は職業柄、鍛えられて逞しいが、顎のラインは幾分ほっそりしている。
 だが重要なのは身体的特徴の相違ではなく、彼が赤ん坊のころの彼女を知っている素振りを見せたということだった。さらに彼は彼女の母と同じ〈機構軍・陸戦隊〉に所属し、以前はハズリットの生まれた天王星にもいたらしいのだ。
 ここまで根拠になりそうなものが揃っていながら、彼女に疑問を持たずにいろというのは無理な相談であろう。
 だが一刻も早く疑念を晴らしたかったとはいえ、後先考えずに動いてしまったことに不安を感じる。それに自分の出生とは何の関わりもない〈グレムリン〉たちを巻き込んでしまったことも、やはり不味かったのではないか――とも。
 別に〈グレムリン〉たちが信用できないというわけではない。彼らが信用に値することは、何度も助けてもらったことや、年上の級友たちから頼りにされていることからも判る。
 ハズリットは彼らの失敗ではなく、逆に彼らが頼んだことを見事にやり遂げてしまうのを恐れたのだ。
 彼らは目的のデータをすぐに見つけるだろう。そして律儀にそのコピーを自分に渡してくれるはずだ。そうなれば、自分はそのデータを検証しないわけにはいかなくなる。
 知りたいという気持ちは強いが、はっきり知ってしまうのはやはり怖い。
 背反二律する気持ちが、ハズリットの心を掻き乱す。
 少女はそんな気持ちを吹き飛ばそうと、深く息を吸い込んだ。――と、その小さな鼻腔に、なにやら食欲をそそる匂いが飛び込んできた。
 ハズリットは誘われるようにその匂いの元を辿る。匂いの元はすぐ近く――向かいの座席にあった。
 少女が横目で窺うと、二〇代半ばほどの青年が膝の上の袋からパンに挟んだ焼きヴルストソーセージを取り出したところだった。
 一つ前の駅で乗り込んできたその青年は、大きく口を開けるとマスタードのたっぷりかかったヴルストにかぶりつく。辺りに全粒粉のパンとヴルストの香ばしい匂いが漂った。
 ハズリットはふと、自分が空腹であったのを思い出した。
 彼女は〈グレムリン〉たちの夕食への誘いを「家で食べる」と言って断わったのだが、結局夕食にありつけないまま現在に至る。早めに〈森の精〉を引き揚げたはいいが、そのまま家に帰る気分にならず、しばらく北駅の繁華街を歩き回っていたからだ。
 忘れていた食欲を刺激された少女は、鞄の中にバルケットのくれたジンジャークッキーがあったことを思い出した。だが、Sバーンの車内で飲み食いするなどという行儀の悪いことは、彼女のモラルに反する。だから家に帰るまでは我慢しようと、ハズリットは思った。
 ところが周囲を気にしない青年の食べっぷりを見るうちに、彼女のモラルはジンジャーマンの誘惑に負けてしまったのである。
 ハズリットはこっそりと大きなクッキーを取り出し、鞄の陰に隠れるようにして一口かじった。
 ふわり、とココアのほろ苦さと生姜の風味が口の中に広がった。空腹のスパイスも手伝ってか予想以上に美味い。一口だけのつもりだったが、食べ物を求める本能を抑えることはできなかった。彼女はつい二口、三口とかじりついた。
 しかし食が進むにつれ、硬く繊維の多い焼き菓子は少女の細い喉をスムーズに流れ落ちなくなった。喉が渇いていたのもその一因だろう。ついにハズリットは喉を詰まらせてしまった。
 彼女は小さく咳き込んだ。だがジンジャーマンは、なかなか喉から立ち退こうとしてくれなかった。咳が治まらず、少女は苦しそうに顔を歪める。
 そのハズリットの前に、突如ジュースのパッケージが現れた。しかも彼女お気に入りの林檎ジュースだ。味はいいが、流通量が少ないのかなかなか店頭で見かけない代物だ。
「――?」
 驚きで、少女の咳も思わず引っ込む。顔を上げると、ヴルストを食べていた青年が心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫? よかったらコレ飲んでいいよ」
 青年はそう言うと、「早く飲め」とばかりにストローの刺さったパッケージを押しつける。
 普段のハズリットなら、見ず知らずの者から物をもらうようなことなどない。しかし、なぜかこの時は何も疑わずに受け取っていた。この数日、多くの人と出逢い、親切にしてもらっていたことが、彼女の見知らぬ者に対する警戒心を鈍らせていたのかもしれない。
 ハズリットはジュースを手にすると、もはや一刻の猶予もないのか、夢中でその中身を飲んだ。
「――ふぅ」
 ようやく喉で頑張っていたジンジャーマンを呑み下した少女は、人心地ついて大きく息を吐いた。同じように、少女が窒息死を免れたのを確認した青年が、安堵の吐息を洩らす。
 つと、二人の視線が合った。青年の目が細められる。ハズリットの口元が照れたようにわずかに緩んだ。
「ありがとうございます」
 少女は礼を述べてジュースを返そうとする。が、手の中にある林檎の絵のついたパッケージが随分と軽くなっているのに気づいて、困った顔になった。
「ごめんなさい、ほとんど飲んで……」
 気まずそうにしている少女に、淡い金髪を一つに束ねた青年は笑みを浮かべたまま答える。
「全部飲んでもいいよ、まだあるから。あ、よかったらもう一つどう?」
 そう言って膝の袋から新しいものを取り出す。
「いえっ、これで充分ですっ」
 ハズリットは慌てて首を振った。
「そう言わずにどうぞ」
 青年はゆっくりとした動作で、遠慮する少女の前にジュースを差し出した。
「俺、このメーカーの林檎ジュースが好きでね。普段なかなか見かけないんだけど、今日たまたま見つけて、嬉しくてついいっぱい買ってしまったんだ」
 思わずハズリットは青年を見た。自分の大人気ない行動を嗤う彼の顔は、少年のようにあどけなく見える。「悪い人ではないようだ」と、彼女は判断した。そして同じ物が好きだと言った彼に親近感を覚えた。
 だが、だからと言ってこれ以上彼の好意に甘えるばかりというのも気が退ける。
 ハズリットはしばし線の細い青年の顔を見つめて思案していた。が、すぐに名案が浮かんだのか、一瞬目を輝かせるとおもむろに自分の鞄の中を覗き込んだ。そして残っていたクッキーを袋ごと全部取り出し、青年に差し出す。
「じゃあ、交換」
「え?」
 年の割にしっかりした少女に青年は面食らったのか、二、三度形のいい目を瞬かせた。しかし、自分が受け取るまでは彼女も退かないのだと悟ったのだろう。苦笑しながら、差し出された袋から一枚だけとった。
「ありがとう。なんか、逆に悪いことしちゃったな」
「ううん」
 肩をすくめる青年に、ハズリットはふるふると首を横に振った。
「俺、実はジンジャークッキーも大好物なんだ。ああ、そういやもうすぐ〈聖夜〉だっけ。仕事が忙しくて忘れてたよ」
 人型のクッキーを嬉しそうに眺めていた青年は、苦笑して肩をすくめる。だが、すぐにまた楽しそうな顔をして語りはじめた。
「そうそう〈聖夜〉で欠かせないのが――」
 青年は〈聖夜〉に出る自分の好物料理について演説する。だが一方的に捲くし立てるのではなく、盛んにハズリットにも話を振ってくる。ハズリットも訊かれたことには素直に答え、青年の言葉に耳を傾けた。
 二人は終点の南駅につくまでのわずかな間、自分たちのお気に入りについて語り合った。
「話ができて楽しかったよ。また逢うことがあったら、よろしく」
 南駅の改札を出たところで、青年が別れを告げた。
 ハズリットは、時間が許せばもう少し青年と話がしてみたいと思った。
 青年との会話は心地いい。同じ雑談でも、彼との会話はヴァルトラント少年やレンツ博士とはまた違った楽しさなのだ。時として少年や博士の会話は一人で突っ走っていってしまうところがあるが、この青年は彼女の言葉を積極的に聞こうとしてくれる。それが彼女には嬉しく、そして不思議な安らぎを覚えるのである。
 しかし、もうすぐ子供の時間は終わる。青年も夜遅くまで彼女の話し相手になるつもりなどないだろう。もしその気があれば、あっさりと別れの言葉を口にはすまい。
 だがそうなったらなったで、ハズリットは青年に対する評価を覆さなければならなくなるのだが。
 ハズリットも〈旧市街〉に住む子供として危険に対する意識は強い。知り合いでもない子供を夜遅くまで連れ回す大人など、信用できるはずもなかった。
 そういうわけで、少女は青年との会話を諦めた。それでも名残惜しそうに、青年の瞳を見つめながら応える。
「私も楽しかった。また逢えるといいですね」
「そうだね」
 青年が肯く。その穏やかな瞳は、不思議な色合いを帯びていた。かすかに緑がかった波のない湖面のような青だが、感情が昂ぶると緑が増す。その瞳にハズリットは惹かれた。
 本当に不思議な人だった。
 ハズリットはこの数年の間に、老若男女を問わず初対面の者をすんなりと受け入れることができなくなっていた。その彼女が、なぜかこの青年だけは意識することなく受け入れていたのだ。
 彼が途中の駅から乗り込み、向かいの席に座った時も、抵抗を感じなかった。ジュースを差し出された時も、危険かもしれないなどとは思いもしなかった。彼がそばに居ることが、極自然でさえあった。
「縁があれば、また逢え――」
 青年は言いかけるが、不意に何かに気づいたように口を閉じた。ハズリットから視線を外し、その背後へと移す。そしてある一点をじっと見据えた。
「――?」
 ハズリットは青年の突然の行動を怪訝に思い、つられるように彼の視線を追う。
 振り向いた数メートル先に、彼女の母親が立っていた。相変わらず派手なスーツを着た母は、行き交う大勢の人の中でも充分目立つ。
 リディアは大きく見開いた目で青年を凝視し、顔を硬く強張らせていた。
「お母さん!?」
 少女が母を呼ぶ。するとリディアは我に返り、鋭く叫んだ。
「ハズリット! 来なさいっ」
「お母さん、この人、私が喉を詰まらせて困っていたのを助けて――」
 だがリディアは事情を説明しようとするハズリットに応えなかった。即座に動こうとしない我が子に舌打ちすると、自ら足早に歩み寄って娘の細い腕を掴んだ。
「いいから来なさいっ!」
「きゃっ」
 リディアはもう一度怒鳴りつけ、ハズリットを青年から引き離す。自分を盾にして、我が子を青年の視界から隠した。
 突然のことに、ハズリットは母の背で呆然とするしかない。
「娘に親切にしてくれたのは礼を言うわ。ありがとう。じゃ、さよならアデー
 青年と向き合ったリディアが、短く言い捨てた。そのきつい口調は、感謝の念がこもっているとは到底言い難い。むしろ敵意すら感じさせた。
 一方青年は、リディアの剣幕などものともせず、依然として穏やかな笑みを湛えていた。
 ところが――。
 突然、その表情が一転した。笑顔は保ったままだが、その笑みの質が変わったのだ。
 冷たく残忍な微笑みが青年の顔に浮かび、瞳がかすかに緑を帯びる。
 だが視界を遮られているハズリットにその変化は確認しようもない。
「どういたしまして」
 青年は探るような、そして何かを告げるような目でリディアの瞳を見つめたまま、ゆっくりと会釈した。そして同じ時間をかけて上体を起こすと、今度はリディアの背後にいるハズリットを覗き込んで声をかける。
またねヴィーダーゼーエン
 別れの言葉を述べた青年の笑みは、元の優しげなものに戻っていた。先程の豹変ぶりなど微塵も窺えない。
「また!」
 母の背後から少しだけ顔を出すことができたハズリットは、青年に向かって挨拶を返した。いつになく弾んだ声がリディアを動揺させたことなど気づかずに、束ねた髪を揺らしながら立ち去る青年の後ろ姿を見送る。
 ほどなくして青年の姿が雑踏に紛れて消えると、ハズリットは抗議しようと母親を見上げた。
「お母さん、あんな言い方ひど――」
 だがハズリットは思わず言葉を呑んだ。
 そこには、いままでハズリットが見たことのない母がいた。鋭く光る双眸は青年の歩き去った方を睨みつけ、全身は殺気さえ感じられるほど緊張していた。ハズリットを掴む手がかすかに震えている。その様子は、何かに恐れているようにも見えた。
「お母さん?」
 少女は囁くように、恐る恐る声をかけてみた。
「――!」
 その娘の呼びかけが、母の呪縛を解いた。
 我に返ったリディアは、ハズリットに向き直ると一瞬顔を歪めた。恐怖と安堵の入り混じった目で娘を見下ろす。
「お母さ――!?」
 もう一度ハズリットが声をかけた時には、すでにリディアの胸の中だった。何が起こったのか判らず、少女は激しく目を瞬かせた。
 普段、家でも抱きしめられることなどほとんどない。なのに、こんな公衆の面前で抱きすくめられるとは。
「お母さん……」
 初めは驚いたハズリットだが、それでも久しぶりの母の胸に、知らず自分の頬を押しつけ、その柔らかな感触を確かめていた。いつもは鼻につく安物の香水も、いまは妙に芳しい。
 ところが、始まりも唐突だったが、終わりも呆気なかった。
 余韻を味わう間もなく胸から引き剥がされたハズリットは、そのまま歩きはじめたリディアに引きずられた。少女は気紛れな母親にどう対応していいのか判らず、目を白黒させながらも手を引かれるに任せるばかりだ。
 母は怖い顔をして、ただ黙々と歩く。沈黙に圧倒され、ハズリットも声をかけるのをためらい口を閉じていた。
 ところが雑踏のざわめきにかき消されそうなリディアの呟きを、ハズリットは確かに聞いた。
「……まさかあんたに、『知らない人について行っちゃいけません』なんて台詞を言わなくちゃいけないなんて、思いもしなかったわ」
 ハッとしてハズリットは母を見上げた。前方を睨みつけるリディアの横顔は厳しく、そして悲しげに見えた。その顔に、ハズリットは既視感を覚えた。
 何度も同じ質問をして、母にこのような顔をさせた――。
「ごめんなさい……」
 ハズリットも呟く。
 彼女の手を握る母の手に、わずかだが力がこもった。
 少女は、母の顔を曇らせてしまったことに胸が痛んだ。が同時に、自分に無関心だと思っていた彼女が少しでも心配してくれたのだという事実に、喜びを感じていた。

 駅周辺というものは、それなりに賑わうものである。
 もちろん〈森の精〉官舎駅周辺も例外ではない。隊員たちやその家族が毎日やって来ては、日用品を買ったり腹拵えや一息ついていく、官舎街一の賑やか地帯だ。
 確かに規模は〈ヴァルハラ〉はおろか、〈ヴァルトマイスター〉の〈南部〉にも到底及ばない。だがそれでも〈機構軍〉から営業を許可された十数軒の飲食店や商店によって、ささやかな「繁華街」が築かれている。
 その商店の建ち並ぶ通りの端に、〈デラの店〉はあった。
 女主人であるデラの手料理が自慢のその店は、世話好きで気風のいい彼女を慕って〈森の精〉の隊員たちが集まるため、いつの時間も賑やかだ。
 〈森の精〉航空隊構成員の大半を占める下士官のみならず、士官や将校までもが常連客として顔を出す。当然、各群司令官たちも顔馴染であった。
 〈グレムリン〉が隠された軍歴ファイルを見つけ、ハズリットが青年と別れた数時間後――その司令官であるウィルとイザークは、コリーンたち技術者に振り回されて疲れきった身体に燃料補給すべく、〈デラの店〉を訪れた。
「いらっしゃい!」
 地下の入口から入り階段を上ってきたウィルとイザークを、給仕の一人であるエレノア嬢の明るい声が迎えた。
「あら、今日はおチビちゃんたちは一緒じゃないのぉ?」
 残念そうな顔をするエレノアに、疲れきった顔のイザークが力なく答える。
「もうすぐ年越し休暇で、一日中〈グレムリン〉に振り回される日々が始まるんだ。今夜ぐらい解放してくれ……」
 〈デラの店〉は酒場だが、子供連れでも安心して入れるほど健全な店だった。デラは〈森の精〉隊員たちにとって「お袋さん」のようなものだ。もし彼女の前で見苦しいほど羽目を外そうものなら、冷水をぶっかけられて昼夜を問わず〈外〉へ放り出されてしまう。
 また給仕する女たちも、己の色気を酒のつまみにするようなことはなく、子供に悪影響を与えるようなことはない。
 故にウィルもイザークもしばしば息子を連れて、基地では味わえない「お袋の味」を求めに来ていた。そして人懐こく愛嬌のある〈グレムリン〉たちは、デラを始めとするこの店の者たちからも可愛がられる存在だった。
「あらぁ、相当お疲れねぇ」
 イザークの返事に、エレノアは目を三日月形に細めた。彼がこの数日奥方に振り回されていたことは、噂好きの隊員たちからすでに聞かされている。しかも有ること無いことをかなり装飾された話をだ。
「まあ、ゆっくりしていってよ」
 司令官たちは、意味ありげにニヤニヤしているエレノア嬢に促されると、店内へと足を踏み入れた。
 中世ヨーロッパ風の木組みの家を思い起こさせる店内は、勤務明けや非番の隊員たちで埋めつくされていた。みな司令官たちの姿を見つけると、歓声をあげて自分たちの席に招こうとする。ウィルたちを慕ってのことだが、若干の下心があるのも否めない。安月給の彼らにとって愛すべき上官の登場は、振る舞い酒にありつける絶好の機会なのだ。
 一方期待される方にすれば、酒場で部下たちに歓迎されるのは死活問題である。確かに司令官である彼らには、その役職に見合った給料を支給されている。だが所詮は〈惑星開発機構・警備局〉の職員だ。大佐という地位にあっても、その給料は民間企業に勤めるイザークの妻ほどはない。
 ウィルとイザークは「そう頻繁にたかられていては懐がもたない」とばかりに、期待に目を輝かせている隊員たちを適当にあしらい、静かに飲めるカウンターへと向かった。
「いいところに来てくれたよ」
 腰を下ろすや否や、二人に気づいたこの店の女主人が声をかけてきた。デラはふくよか過ぎる身体をカウンター越しに乗り出すと、顔をしかめて〈森の精〉各群の司令官たちに囁く。
「アレなんとかしとくれよ。これ以上はあたしも面倒見きれないよ」
 そう言ってビターチョコのような肌をした女主人は、カウンターの隅に目配せした。
「アレ?」
 ウィルとイザークは一瞬何のことやら理解らず目を瞬かせたが、すぐに首を廻らせて示された方を見る。
 カウンターの角の席に男が座っていた。すっかりできあがっているらしく、控えるよう注意するバーテンダーに空のグラスを突き出し、お代わりを強要している。
 見慣れない顔だったばかりか私服だったため、司令官たちは一瞬その男が誰だか判らなかった。一〇秒ほどまじまじと観察して、ようやく気づく。
「レンツ少佐!?」
 その男が〈陸戦隊〉のクラウス・レンツ少佐であると知った二人は、目を丸くした。
 昨日挨拶に来た彼は礼儀正しく生真面目で、自分に厳しい人物に見えた。そんな彼が人目のある場所で、このような醜態を晒すとは俄かに信じ難い。一体、彼に何があったのだ。
「余所でも結構飲んでたらしく、ここへ来た時にはもう相当できあがってたんだよ。あたしは『やめときな』って言ったんだけどね」
 呆然としている司令官たちに、心配そうに眉間にしわを寄せたデラが説明する。
お袋さんマムが酔っ払いを持て余すのも珍しいな」
 ウィルはさらに驚いた声をあげた。
 彼が〈森の精〉に赴任して五年。デラとの付き合いも同じ長さになる。その間、軍人相手にこの商売を始めて二〇年近くになる彼女が、たった一人の酔っ払いを手に余す姿など見たことも聞いたこともなかった。
「なんか、女に振られたらしくてさ。話を聞いてると身につまされるようで、こっちまで滅入っちまってね」
「ああ、振られる気持ちがよく理解ると――うぐっ!」
 余計な茶々を入れたウィルの腹に、デラの拳が食い込んだ。
「なんせホラ、あたしもかつてはナイスバデーでモテモテだったからさ。振った男の気持ちを聞かされてるようでねぇ。ホホホ……」
 デラは胡散顔の司令官たちから目を逸らし、「ナイスバデー」の名残もない身体を揺らしながら高らかに笑った。
 そんな彼女を冷ややかな目で見ていたウィルとイザークは、結局渋い顔で立ち上がった。自分の部隊の隊員ならともかく、他部隊の士官を放っておくわけにもいかない。
「しゃあねぇなあ、もう」
「一発殴って、寝てもらうか」
「ちょっと、お手柔らかに頼むよ」
 物騒なことを呟いたイザークをたしなめながら、デラは酒の入ったショットグラスを差し出した。
 彼らは景気づけにグラスを一気に空けると、クラウスの傍らへと近づいた。さすがにいきなり殴りかかるわけにもいかず、ゆらゆらと身体を揺らしている少佐を挟んで腰を下ろす。
「レンツ少佐」
 ウィルがクラウスの肩を軽く叩きながら呼びかけた。
「んー?」
 返事とも唸りともつかない声とともに、辛うじて開いているといった目がウィルに向けられた。
 クラウスは自分に声をかけた相手が誰なのかを知ると、ふにゃりと右手を挙げて敬礼する。
「あー、これはこれは『たいしゃ』どの」
 鼻先まで真っ赤になっているクラウスの呂律は、かなり怪しかった。
「飲みすぎだ、少佐。お父上の宿舎まで送っていくから、さぁ帰ろう」
 ウィルは〈陸戦隊〉少佐の太い腕を掴み、立ち上がらせようとした。しかしクラウスはその手を払い、ウィルの言葉を拒む。
「お父しゃんのところは、ダメれありましゅ。心配させたくありましぇん」
 泥酔してはいるが、多少なりとも判断力は残っているらしい。
 言葉で煙に巻く手も使えないと判って、ウィルは顔をしかめた。親友と顔を見合わせ、どうしたものかと溜息をつく。
「じゃあ、俺の官舎ならイイだろう? な、帰ろう」
 息子の世話をイザークに任せることにして、ウィルは再び促した。しかし少佐の口からは、同意の言葉も拒否の言葉も出てこなかった。
「……会うつもりはなかったんれすよ」
「えっ?」
 クラウスが唐突に脈絡のない話を始めたので、ウィルは思わずまごついた。そんな彼を置いて、少佐は半分閉じた目を漂わせながらうわ言のように呟きつづける。
「でも〈森の精〉であの子に逢ってしまって……。だから、やっぱりきちんとケジメをつけようと思ったんです。そう思ったら居ても立ってもいられなくなって、キュンメル中佐に彼女と会えるよう頼みました。そして――彼女に会いました」
 言葉が吐き出されるに従い、回らなかった彼の呂律が回りだす。もしかすると、いましがたまでの醜態は演技だったのかもしれない。酔って羽目を外すことで、自分の気持ちを紛らせていたのだろう。
 クラウスの突然の告白に、ウィルとイザークはつい息を殺して聞き入った。
「八年ぶりに会った彼女は、すっかり変わっていました。娼婦のようななりをして、荒んだ目をしていた。昔は活き活きとした綺麗な空色の瞳だったのに、いまはすっかり淀んでしまって……。そして彼女はその何も映さない瞳で、私とはもう歩く道が違ってしまったのだと、言いました――」
 クラウスは口をつぐんだ。バーテンダーが置いていった水の入ったグラスを取ると、一口含む。
「それで貴官は、すごすごと帰ってきてヤケ酒に逃げてるのか?」
 色恋沙汰の駆け引きにはそれなりの自負を持つウィルが、眉間にしわを寄せて問い質す。「道が違う」と言われたぐらいでクラウスが引き下がるというなら、小言の一つや二つぶつけてやるつもりだった。
 だがクラウスは首を横に振った。
「もちろん、話し合いを続けようと努力しました。未練がましいと自分でも思いますが、私は婚約者だった彼女――リディアをいまでも愛しているんです。しかし彼女は自分の意見だけ述べると、さっさと席を立ってしまいました。そして八年前のように、振り返りもせず――」
 辛い記憶を思い出しているのか、クラウスは目を閉じ眉根を寄せた。そして二、三度深呼吸すると、言葉を続ける。
「彼女が一人で生きていくだけなら、彼女がどういう生活をしようと私は口出しするつもりはありません。でも、あんな変わり果てた彼女に育てられるあの子が可哀想です。だからあの子――ハズリットのためにも、叶うならば縒りを戻そうと……」
「ハズリット!?」
 クラウスの口から飛び出した名前に、ウィルたちは声をあげた。
「ハズリットって――『カリストの天才少女』か?」
「はい」
 重々しくクラウスはうなづいた。
「あの娘のことは、〈ユニバーサルネットワーク〉を通じて、ときおり土星でも話題になっていました。だから私も、そして赤ん坊のころのあの娘を知っている私の両親も、ずっと気にしていました。だから、今回天王星への再赴任に伴い木星に立ち寄ることができたのは、ただの偶然じゃないような気がします」
 話を聞くうちに、ウィルの中にある疑問が浮かぶ。この状況で思い浮かぶことはただ一つ。ハズリットが抱いた疑問と同じものしかない。
 ウィルはひとつ喉を鳴らすと、遠慮がちに口を開いた。
「立ち入ったことを聞くようだが……まさかあの娘は、貴官の――」
「違います。私の子ではありません」
 迷うことなく、クラウスは否定した。その言葉は奇遇にも、先日アダルが発したものと同じであった。
「じゃあ――」
 かすれた声でウィルは促す。しかし今度は、クラウスもすぐには答えなかった。
 水に浮かんだ氷が融け、かすかに澄んだ音を立てた。
 数度の深呼吸の後――ハズリットの母親と婚約していたという男は、思い切ったように言葉を吐き出した。
「……あの娘の父親は、〈ブランク〉です」
「――っ!」
 二人の〈機構軍〉将校が息を呑む。
 〈ブランク〉とは、〈機構〉に登録された個人情報を違法に消去してしまった者たちのことである。
 〈機構〉世界では、個人の情報は〈機構〉が管理している。〈機構〉の管理する星系、施設で生まれた者には全てIDが与えられ、医療記録、学業成績、銀行口座、年金といった個人のあらゆる情報が、関係機関の間で有機的にリンクされている。当然個人の秘密は守られているため、第三者の閲覧は許可されていない。また各機関も、それぞれの業務に関連したデータにしかアクセスできないようになっている。
 とはいえ、やはりこういったシステムに反発する者はいるものだ。また、罪を犯して追手から逃れたい――そういった者たちが、〈機構〉システムのID管理サーバをクラックし、自分のデータを消し去って〈ブランク〉となる。
 そして〈ブランク〉となった者たちの大半が〈機構〉を離れ、〈地球へ帰る者〉といった敵対勢力へと身を投じるのである。
「ではあの少女は……」
 ウィルは無意識のうちに、自分の左目尻に指をやった。そこには、精悍で整った顔をわずかに損なわせる古い傷がある。
 クラウスはまだ断定したわけではない。しかし彼の口振りは、早合点させるようなものではなかった。
 少女の父親は〈ブランク〉。それはつまり――。
 ウィルは、息子の級友の父親が宿敵とも言える〈地球へ帰る者〉である事実に、大きな衝撃を受けていた。

■森の少女■page 12