■森の少女■page 13

第四章 少年は翼を夢見る
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 レイは普段どおりの歩調で、ひっそりとした住宅街の裏路地を歩いていた。〈夜〉の突き刺すような冷気の中を歩く物好きは他になく、早過ぎもせず遅すぎもしない規則正しい彼の足音だけが、家々の壁面にこだまする。
 頭上には建物の隙間から細長い夜空が見えた。
 青年は〈夜〉の地上を歩くのが好きだった。静まりかえった世界に立ち、レンズやガラスなどに隔たれることなく自分の眼で星空を見上げ、大気に包まれていることを実感するのが好きだった。
 いつか〈故郷〉に還り、本当の大気の底から星空を見上げたい――。
 その想いが、これまで彼を衝き動かしてきた。
 彼――そして〈彼ら〉の望むものは、とうに失われてしまったものだ。しかし〈彼ら〉は希望を捨ててはいない。〈故郷〉を強制的に追い出され、太陽系中を彷徨う者と成り果てたいまも、「いつかきっと〈故郷〉に還るのだ」と信じて戦いつづけているのだ。
 耳に届く足音が確かに一つだけであると判断したレイは、小さな広場近くの古びたアパートへ戻った。それでも用心のため、表玄関のドアノブへ手をかける前に素早く周囲を見回し、不審な人物がいないことを確認してからアパートの中へ入る。
 駅で少女と別れた後も、レイは真っ直ぐ家に帰るようなことはしなかった。適当に歩き回りながら自分の背後を確認するのは、もう長年の習慣になってる。そしてこの先――恐らく死の直前まで、自分の背中を気にしながら生きなければならないのだ、と彼には理解っていた。
 隠れ家は〈南部〉のマルティネス地区にある。ここは〈旧市街〉からさほど遠くもなく、南駅にも近い。〈新市街〉ほど整然としすぎず、〈旧市街〉ほど煩雑でも物騒でもない。ひっそりと身を隠すには、そう悪くない環境だった。
 悪目立ちしたくなければ、ごく普通の市民になりきってしまうに限る。追手から逃れるために〈旧市街〉のようなところを選ぶのは素人の考えだ。
 〈旧市街〉の連中は余所者に敏感だ。新しく住み着いた者の噂はすぐに広まる。また、小金欲しさにそういった者の情報を売ろうとする者も少なくない。
 その点、このマルティネス地区はそういった心配は少なかった。住人たちは、その日の暮らしに困らない程度に豊かだが、他の住人のことに構っていられるほどの余裕はない。「大人しい隣人」に徹していれば、必要以上に詮索されずにすむ。
 またこの町は、彼が「仕事」をする上でも都合がよかった。整備の放棄された〈旧市街〉の通信回線を使って膨大なデータのやり取りなどしようものなら、あっというまに足がつく。それ以前に、旧式の貧弱な回線がその負荷に耐えらるはずもない。彼の仕事が〈機構〉システムへの不正アクセスである以上、それなりの太さを持つ通信回線の確保は必須なのだ。
 半年ほど暮らしたこの隠れ家を、レイは結構気に入っていた。だが彼は近々ここを引き払うつもりでいる。
 追っ手が迫りつつある。いまの〈仕事〉が片づき次第、木星圏から離れなければならない。彼と現在の相棒は、〈機構〉ここにとって「招かれざる者」なのだから。
 レイは階段で二階まで上がると、鍵を取り出し自宅の玄関ドアを開けた。手動のドアは、いくら慎重に引いても軋んだ音を立てる。
「まったく、侵入者対策など必要ないな」
 などと苦笑しながらリビングを見回す。相変わらず散らかった室内の定位置に、相棒の拾ってきた若者が転がっていた。
 マルコという自称一八歳のその若者は、人懐こいが少々いい加減なところがあった。用事を言いつけても、何か一つや二つポカをやらかす。部屋にいるときは、携帯端末でくだらない番組やいかがわしいサイトを見ながら、だらしなく過ごすのが常だ。
 だがいまの彼は、いつものようにだらけてはいたが、どこか様子が違っていた。
 違和感を覚えてわずかに眉を顰めたレイは、しばらくマルコを観察した。
 いつものように薄汚れたソファに横たわっているマルコの顔は、実に幸せそうだった。焦点の定まらない虚ろな目が、ゆっくりと宙を彷徨う。締まりのない口元は笑みの形を作り、いまにも涎が落ちんばかりだ。
「ち!」
 若者の身に何が起こっているのかを察したレイは、顔をしかめて小さく舌打ちした。食卓に荷物を放り出すと、自分の寝室兼仕事場となっている隣室へ向かう。彼が出かけているあいだ、相棒が仮眠をとっているはずだった。
 わざと音を立ててドアを開き、部屋の中を覗き込む。予想どおり、一〇ほど年上の相棒は一つしかないベッドで寛いでいた。壁に背を持たせかけ、脚を投げ出し、眠そうな目で携帯端末の画面を眺めている。
「〈フェンガー〉」
 レイが呼びかけると、男はゆっくりと顔を上げた。防寒着をしっかり着込んだままの青年を一瞥すると、呆れた声をあげる。
「何だ? クソ寒いのに、また〈外〉を歩いてたのか?」
「マルコに薬を与えたのか?」
 質問には答えず、レイは〈フェンガー〉を問い詰めた。平静を装ったつもりだったが、必要以上に抑えた口調はかえって非難めいた響きになった。
「俺じゃねぇ。ヤツが俺の〈バーカルテ〉をくすねて、どっかから手に入れてきやがったんだ。ったく、使えねーだけじゃなく、手癖まで悪いときた」
 〈フェンガー〉はひとつ鼻を鳴らすと、吐き捨てるように言った。
 男の返答でさらに渋い顔になったレイは、顎に手を当てて唸るように独りごちる。
「アレじゃ連れて行けない。〈我々〉にとって若者は貴重だが、ムダ飯喰らいを養う余裕はないからね」
 どの勢力にとっても、未来を担う若者たちは貴重である。特に決まった住処を持たない〈彼ら〉にとって、若い人材が不足することは深刻な問題だ。自分たちが求めているものを勝ち得ても、それを受け継ぐ者がいなければ意味がない。
 しかし「若者なら誰でもいい」というわけにはいかなかった。それなりに働いてくれる者でなければ困る。マルコのように自堕落な者は、いくら若くてもお断りだ。
「理解ってる、なんとかするさ」
 男は手にした端末を放り出し、肩をすくめた。男が物騒な決断をしたことは、その昏く狡猾な光を放つ目を見れば明らかだった。
「手当たり次第声をかけてりゃ、あんなのも引っかかる。なぁに、ガキは他にもまだ大勢いるし、代わりの目星はつけてある。あんな役立たずより、ずっと使えそうなのをな」
 すでにマルコを捨てるつもりでいたらしい〈フェンガー〉に、レイは苦笑した。もしかすると、〈バーカルテ〉はわざとくすねさせたのかもしれない。マルコを試すつもりだったのだろう。そしてマルコは彼の期待を完璧に裏切った――いや、応えたのか。
 レイ自身はあまり血なまぐさいことは好まなかったが、〈フェンガー〉を止めるつもりもなかった。〈番犬〉が周辺を嗅ぎ回っている。自分たちに関わった若者を、連中の餌にするわけにはいかないのだ。
「あんたの〈仕事〉だ。それは任せるよ」
 レイはほんの少しだけマルコを気の毒に思ったが、〈フェンガー〉の決断を支持した。
「だが最優先なのは『あの少女』を確実に手に入れることだからね」
 きつくならないよう口調に気をつけながら、レイは釘を刺した。〈フェンガー〉は狩りに夢中になると、たまに〈仕事〉を忘れることがある。
「それは大丈夫。例の〈姫さま〉ならもう片づいたも同然だ。〈教授〉の話じゃ結構イイ手応えらしいから、陥るのも時間の問題だろう。まあ、あの母親がちと厄介だが、いざとなったら切り札を出すさ」
 そう言って〈フェンガー〉はニヤリとした。その探るような目に、レイは密かにドキリとした。〈フェンガー〉に少女と接触したことを知られるのはまずい。少女だけでなく、その母親にも出逢ってしまったとなればなおさらだ。
 同じ車両に乗り合わせたのは偶然だったが、つい好奇心に負けてしまったのは軽はずみだった。事が成されていない段階で彼女に近づくのは避けるべきだと理解っていたのに。
「……上出来だ」
 なんとか動揺を隠したレイは、満足げにうなづいて見せた。そして話は済んだとばかりに踵を返そうとした。そこへ〈フェンガー〉が思い出したようにつけ加える。
「そうそう、あんた一つ間違ってるぜ」
 男の指摘にレイは足を止めた。眉を顰め、首を傾げる。そんな彼に、〈フェンガー〉は低い声でゆっくりと囁くように言った。
「『手に入れる』んじゃない。『取り戻す』んだ。あの娘は〈我々の子供〉だからな」
 そして揶揄するような目でレイを見上げ、含み笑いを洩らす。
 レイは男の眼を一瞬見返すと、考え込むように目を閉じた。口元に薄く笑みを浮かべ、静かに肯く。
「そうだね」
 そしてさり気なく背を向けた。男にいまの瞳の色を見られたくなかった。

 翌日、ハズリットは〈森の精〉に来なかった。
 休校日とあって、朝から一緒に〈聖夜〉の飾付けをしようと張り切っていたレンツ夫妻は、がっかりした様子だった。が、〈グレムリン〉たちは胸を撫で下ろした。事実を知ってしまった動揺が激しく、彼女の前で普段どおりに振舞える自信がなかったのだ。
 秘密は絶対に隠し通さなければならない。少年たちでさえ相当の衝撃を受けたのだ。いくら彼女が気丈であっても、出生の事実を知って平然としていられるとは思えない。
 それでも約束したからには、手に入れたデータを渡す義務がある。
 〈グレムリン〉たちは神が与えたもうた時間を使い、なんとか動揺する心を落ち着けた。混乱した頭を整理し、少女への対応を綿密に打ち合わせる。そして次の日登校すると、ハズリットがよく使う自習室で彼女が現れるのを待った。
 休日明けにもかかわらず、校内は閑散としていた。正式な終業式は明日だったが、ほとんどの生徒が昨日から早めの年越し休暇に入っている。今日学校に来ているのは、どうしても進級試験を受けなければならない生徒ぐらいか。
「ハズ、来るかなぁ」
 椅子の背に身体を預けて居眠りしているヴァルトラントの隣で、ミルフィーユがポツリと呟いた。しかし答えるのが面倒だったヴァルトラントは、それを彼の独り言だと都合よく解釈し、そのまま寝たふりを続けようとした。
 しかしミルフィーユは親友の狸寝入りを見抜いていたらしい。彼はノート型端末のキーボードを叩く手を止め、ヴァルトラントに顔を向けて話しかける。
「まさか、休みじゃないよね? 昨日、基地に来なかったしさぁ」
 ヴァルトラントは相棒を無視しつづけるのは不可能だと悟ると、渋々目を開けて金髪の相棒に答えた。
「……ハズは休日以外に学校を休んだコトはないって、キーファが言ってたよ」
 基幹学校の休みはフレキシブルだ。日曜祝日以外にも決められた日数だけ自由に休みをとることができる。長期休暇の前後にとる者、授業の進み具合を調整するためにとる者、仕事の忙しい親の休暇に合わせてとる者など、生徒によってとり方はまちまちだ。
 そしてほとんどの生徒がその制度の恩恵に与っている中、ハズリットだけは休みをとらず、毎日律儀に登校しているという。
「それにまだ『面接』が残ってるだろうし、明日の終業式までは学校に顔を出すはずだ」
「そうだといいけど……」
 ヴァルトラントは言い切ったが、ミルフィーユは納得しかねるようだった。首を捻りながら呟くと、ひとつ息を吐いた。吐息の音はさほど大きくもなかったが、静まりかえった広い室内ではやけに響いた。
 自習室は〈グレムリン〉たちの貸切状態だ。いまは試験の真っ最中とあって、ずらりと並ぶ学習用端末にかぶりつく生徒の姿はない。二人の会話が途切れると、室内は急に静かになった。
 金髪の少年はその静けさが落ち着かないのか、二、三度身体を捩って椅子に座りなおすと、再び口を開いた。ためらいがちに囁く。
「やっぱ……渡すの?」
 もう何度も同じことを確認したのに、ミルフィーユはまた繰り返した。それに対し、ヴァルトラントも根気よく同じ言葉を返す。
「約束だから、頼まれたものは渡す。でも、あのファイルのことは絶対内緒だ」
 ヴァルトラントの声は重かった。いや声だけでなく、気も重かった。
 あのファイルのことが頭から離れない。何とかして考えまいとするのだが、却って逆効果だった。
 彼は目にした図形や文字は、何でもそのまま記憶してしまう。記憶というより、頭の中で写真を撮っているといった方が近いかもしれない。
 記憶することと内容をちゃんと理解することはまた別だが、一字一句余すことなく記憶した文字列を、頭の中で文章として読み返すことは可能だ。そしてヴァルトラントは、意図せず何度もあのファイルを頭の中で読み返し、そのたびに胸を痛めいてた。
 軍が厳重に保管していたあのファイルは、ハズリットの母リディア・ラムレイの軍歴ファイルだった。公開されているものより詳しい記録があったことから、恐らくこれが本当の軍歴ファイルなのだろう。
 そこには、リディアが退役する一年前に参加した作戦について書かれていた。いまから約九年前のことだ。
 当時〈機構軍・陸戦隊〉の特殊部隊にいたリディアは、天王星にてある作戦に参加した。そこで敵の反撃に遭い、捕虜となったというのだ。幸い、数ヵ月後に彼女は救出された。だがそのとき彼女は身籠っており、九ヶ月後に女児を産んだというのだ。
 その事実を、軍は別の軍歴ファイルを作ることで隠した。
 これが何を意味しているのか――。ヴァルトラントは何となくだが気づいていた。
 敵は捕虜に対して酷いことをする。捕虜への虐待は条約によって禁じられているが、戦時下というお互いのあいだに憎しみしか生まれない状況で、それが遵守されるはずもない。現に彼の父ウィルの目尻にある傷は、敵によってつけられたものだ。そして父が斬りつけられるその瞬間を、自分は敵兵の腕の中で見ていたのだ。
 リディアの場合は父のときとはまた違うのだろうが、酷いことをされたのは間違いないだろう。学校の授業でそういったことを習う年齢でもあるし、年上の級友たちから時々話を聞かされているので、何が起こったのか大体の見当はつく。何より、ファイルに添付されていた報告書が全てを物語っていた。
 その報告書は、軍が密かに行った女児のDNA鑑定の結果である。その報告書の「母親」の欄にはリディアの名が記されている。しかし「父親」の欄には、「遺伝子データベースに一致データなし」と書かれていた。それの意味するところは、彼女の父親が〈機構〉に属していない者であるということに他ならない。
 ラムレイ母子も「連中」の犠牲者だった――。
 そう思うと、ヴァルトラントは胸が締めつけられる。と同時に、自分たちの言い分を通すために多くの人を傷つける「連中」への怒りを再認識する。
 やり場のない怒りを抑えつけているためか、抑揚の乏しくなった声でヴァルトラントは相棒に念押しする。
「このことは誰にも言っちゃダメだ」
「言えるワケないじゃない……」
 ミルフィーユは力なく答え、今度こそ口を閉じた。彼にだって、口外するリスクは充分理解している。
 自習室が再び静かになる。ヴァルトラントの小さな寝息と、ミルフィーユの叩くキータッチ音だけが部屋の片隅で聞こえていた。が、半時ほど過ぎたころ――そこへドアの開くかすかな音が加わった。
 耳聡くその音を聞きつけたヴァルトラントは、即座に目を開け身体を起こした。緊張した面持ちで相棒を見遣る。ミルフィーユも彼を振り返った。
 二人は阿吽の呼吸でうなづき合うと、何事もなかった様子を装い入室者の登場を待った。
 ほどなくして、扉の陰からハズリットの姿が現れる。
 彼女は部屋の奥にある〈グレムリン〉たちの姿を認めると、一瞬動きを止めた。しばらくその場でためらっていたが、やがて意を決したように足を踏み出した。
 口を真一文字に引き締めた彼女は、きびきびとした足取りで〈グレムリン〉たちの方へやってくる。そしてすぐそばで立ち止まると、座っている少年たちを真っ直ぐ見下ろした。
「おはよう、ハズ」
 〈グレムリン〉たちはハズリットを安心させるよう、笑顔を見せて声をかけた。その笑顔は少々ぎこちなかったが、少女が訝ることはなかった。
「……おはよう」
 消え入りそうな声でハズリットは応えたが、それ以上口を開かなかった。次に言うべき言葉は一つのはずだが、そのたったひとことが言い出しづらいようだった。
 ハズリットは彼らから切り出してくれと言わんばかりに、碧玉の瞳で〈グレムリン〉たちを凝視する。
「――手に入ったよ」
 ハズリットの意を汲んで、ヴァルトラントが静かに告げた。少女の肩がわずかに上下した。
「……じゃあ、私のデータを呼び出す」
「待って」
 言葉少なに応えて手近の端末を起動させようとするハズリットを、ヴァルトラントは制止した。
「〈機構軍〉に所属する者の子供は、軍にも記録が残されてるんだ。ハズが生まれたとき、ハズのお母さんは〈陸戦隊〉にいたので、ハズの記録も軍の管理する医療用データベースに残ってる。だからお母さんと『あの人』のデータを探すついでに、ハズのも探し出しておいたんだ」
 いくら本人なら閲覧できるからといって、普段見る必要のないデータベースにアクセスして、わざわざその痕跡を残す必要はない。該当データがそれを必要とする医療機関ではなく基幹学校の端末から呼び出されたとなれば、さすがにデータ管理者も不審に思うだろう。もしそうなれば、学校や保護者であるリディアに確認の連絡がいくのは必至だ。しかも学校のサーバを経由すれば、学校のシステム管理者にもすぐバレる。やろうとしている事が事なだけに、リディアや第三者に知られる行為は慎むべきだ。
 そういった事情を簡単に説明すると、ハズリットは素直に引き下がった。小首を傾げて〈グレムリン〉の出方を待つ。
「データの照合はすぐ済むよ。いま見てみる?」
 ミルフィーユが自分の端末を示して言う。ハズリットは数秒ためらったが、最終的には大きく肯いた。それを確認して、金髪の少年はキーボードを叩きはじめる。
 ノート型端末のディスプレイに文字の羅列が現れた。ハズリットのDNAの核酸塩基配列――ゲノムだ。一般の医療用として使われているデータと同じく、プライバシーを考慮して遺伝的両親の名前までは記されていない。
 そもそも基本的に、遺伝子データ管理局は新生児の遺伝的両親の特定までは行わない。下手に特定すると、家庭崩壊を招く場合があるからだ。自ら進んでトラブルの元を作り出すことはないというわけだ。
 さらにミルフィーユがキーを叩くと、画面が上下に三分割し、別のデータが表示された。リディアとクラウス・レンツのものだ。これらを重ね合わせてみれば、三人の関係が判る。
「これをこのまま照合するのは時間がかかるので、遺伝に関係する部分だけを抜き出すよ」
 ミルフィーユはそう告げると、データを加工した。途端に文字列の数が減る。
 人のDNAを構成する塩基の数は約三〇億。だが遺伝に関係するものは、その中のわずか数パーセントに過ぎない。とはいえ、それでも数万にはなるのだが、三〇億に比べれば微々たる量だ。
「まずお母さんの配列をハズリットのデータに重ねる――」
 端末を操る少年は、手順を簡単に説明しながら作業を進める。
 画面上にあるリディアのデータが移動し、ハズリットのデータに重ねられた。当然のことながら二つの配列はピタリと一致し、軽快な音とともにその部分の色が変わった。
「次にレンツ少佐……」
 静かに少年は呟いた。一呼吸おき、ゆっくりと画面上のカーソルを操作する。
 コンピュータの操作だけはテキパキとこなすミルフィーユのその動作に、ヴァルトラントは相棒がかなり緊張しているのだと感じた。
 そして緊張しているのはヴァルトラントも同じだ。
 レンツ少佐と自分の塩基配列とが一致しないと知った彼女が、どういう反応を示すのか――彼らにはまったく予測できなかった。どういう反応を示しても受け止められるよう、思わず身構えてしまう。
 少年たちとは違った意味で緊張しているハズリットは、固唾を呑んで画面を睨みつけている。その様子をヴァルトラントは気遣わしげに窺った。
 その瞬間、先程と違う耳障りなエラー音が響く。ハズリットの目が見開かれ、息を呑む音が口から洩れた。
 そして、実際はほんの数秒だったのだろうが、ヴァルトラントにとって永く感じられる時間が過ぎた。
 勢いよく跳ね上がった少女の眉が、ゆっくりと元の位置へ戻る。ハズリットは肩の力を抜き、安堵と失望――どちらともとれない表情で呑み込んだ息を吐いた。
「ハズ……」
 ヴァルトラントは思わず口の中で呟いた。吐息に紛れてしまうような声だったが、少女は反応した。彼女は緩慢な動作で振り向くと、少年に言った。
「ありがとう。納得した」
 ハズリットはそう言うが、その何の表情も表れていない面からはその言葉が本心なのかどうか判断できなかった。
「あの……残念だったね」
 ヴァルトラントは結局どう返していいか判らず、苦し紛れに答えた。
「残念? 何が?」
 無表情だった少女の眉間が、怪訝そうに顰められる。
「いや――だって、レンツ少佐ってイイ人そうだから、ハズのお父さんだったらよかったのになぁって……」
 どんどん墓穴を掘っているような気になりながら、少年はしどろもどろ説明する。
 だが少女はそれ以上ヴァルトラントを追い詰めなかった。少年の言葉を吟味しているのか、数瞬のあいだ首を傾げたが、すぐに不思議そうな顔になって言った。
「そうかしら……よく解からない」
 父親の記憶が一切ないハズリットには、父親のいる生活が想像できないのだろう。ヴァルトラントが母親のいる生活を想像しづらいように。
 ヴァルトラントはもう会話を続けることを断念し、ただわずかにうなづくにとどめた。
「とにかくレンツ少佐が『違う』と判ってすっきりした。どうもありがとう」
 ハズリットは〈グレムリン〉たちに対してもう一度礼を言うと、立ち去るために背を向けた。
 その一切の干渉を拒むような少女の背中に、ヴァルトラントは不安を覚えた。慌てて、遠ざかっていく小さな姿に声をかける。
「〈森の精〉には遊びにおいでよね。レンツ博士たち、ハズに会えるのを本当に楽しみにしてるんだから」
 しかしハズリットは振り返るどころか立ち止まりもせず、足早に部屋を出て行ってしまった。
 扉が閉まり少女の姿が視界から完全に消える。
 そこでようやく、気を張りつづけていた〈グレムリン〉たちは糸が切れたように椅子の背に崩れ落ちた。
 少年たちはお互い何も言わなかったが、それぞれが少女の頼みを安請け合いしてしまった自分を呪っていた。
 弱々しい二人分の溜息が、静かな自習室の空気を震わせた。

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