■森の少女■page 15

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 唐突に響いた金属音が、寝台で横たわるリディアの耳を刺激した。彼女は反射的に手を伸ばし、枕の下に置いてある拳銃の感触を確かめる。同時に、研ぎ澄まされた感覚で隣室の様子を窺った。
 扉の向こうで誰かが歩いていた。忍び足だが殺気は感じられない。足音の重さから娘でないのは明らかだ。
 気配はゆっくりとキッチンの方からこちらに向かって移動する。が、一〇歩も進まないうちに停止した。ちょうどその辺りには長椅子があるはずだ。
 何か硬いものを置く音がし、続いてスプリングの錆びついた長椅子がかぼそい悲鳴をあげる。そして数拍の間をおき、安楽を得た者の洩らす吐息が聞こえた。
 その声で、ようやくリディアは足音の主が同僚であるのを思い出した。そして、寝起きに混乱するほど深く寝入ってしまった自分に舌打ちする。
 彼女は肩の力を抜くと、緩慢な動作で身を起こした。まだ寝足りないと訴える瞼と格闘しながら、薄暗い部屋の中を見回す。
 ほんのわずかだけ開かれたドアの隙間から、リビングの光が忍び込んでいる。弱い暖色系の光にぼんやりと浮かび上がる室内は、彼女が寝台に潜り込んだときのままに雑然としていた。
 脱ぎ散らかした衣類や、放り投げた小物の全てがリディアのものだ。変わって同じ寝室で寝起きする娘の領域は、見事なまでに整然としている。
 しわ一つない娘のベッドカバーを見て、リディアは入隊したばかりのころを思い出した。新兵はまず、身の回りの整理整頓ができるようしつけられる。少々散らかっていても全く気にならない彼女は、指導教官にしょっちゅうどやされたものだ。
 彼女は常々「自分が片づけ下手なのは、このゴミゴミとした〈旧市街〉育ちのせいなのだ」と思っていた。だが娘を見ると、どうやら育った環境は関係ないらしい。
 今更ながらそう気づいたリディアは、自嘲めいた笑みに顔を歪めた。そして軽く息をついてから、のっそりと寝台を抜け出した。
 ガウンを羽織って部屋を出る。リビングの明かりが目に染みた。光量はそれほどでもないのだが、暗さに慣れた目には少々つらい。
 眩しさに目を細めたリディアは、出窓の方へ視線を向けた。
 出窓のすぐそばには、長椅子とサイドテーブルが置かれている。先程悲鳴を上げた長椅子だ。そこでワイシャツ姿の男が寛いでいた。ネクタイを緩め、シャツのボタンも二つばかり外している。いつも腰元にある拳銃はテーブルの上だ。
 男は両手に包んだマグカップを覗き込んで呆けていたが、リディアの気配に気づくと顔を上げた。強面をしかめて彼女に詫びる。
「悪い、スプーンを落としたんだ。起こしちまったな」
 広く厚みのある肩をすまなそうにすくめる男に、リディアは気にするなとばかりに軽く手を振った。
「いいよ、ジェイク。寝すぎるところだったし」
「少しは眠れたのか? 睡眠はきちんと摂らないと、美容と健康に良くないんだぞ」
 ジェイクの口から「美容と健康」という言葉が飛び出し、リディアは思わず目を丸くする。が、その一瞬後に吹き出した。「健康」はともかく、「美容」に無頓着な中年男の台詞ではない。
 肩を震わせながら、リディアはジェイクの冗談に返す。
「ああ、あんたが居てくれたお蔭でぐっすり眠れたよ。いつも悪いね」
 からかうような口調だったが、社交辞令ではなく本心だった。付き合いも長く気心の知れた同僚のジェイクが居るあいだだけ、リディアは何も警戒せずに睡眠をとることができる。
「気にすんな。『客』役も悪くない。俺もココで息抜きできるからな」
 薄茶色の髪の男はニヤリと笑うと、カップに口をつけて淹れたてのコーヒーを美味そうにすする。そして至福の吐息を洩らしてからつけ加えた。
「――まあ難点は、あんたの嬢ちゃんに誤解されまくってるコトぐらいか。このあいだもこう、俺の半径二メートルには絶対近づこうとしないんだモンなぁ」
 ジェイクは身振りを交えて解説すると、「穢れたオジサンはキライ?」などと呟きながら、悲しそうに眉で八の字を書いた。任務の内とはいえ、子供に変な誤解をされるのは不本意らしい。
 リディアはひとしきり笑い声をあげると、冗談めいた口調で混ぜっ返す。
「なんなら、誤解じゃなく『事実』にするかい?」
「いや、それはちょっと……。まあ、潔白だからこそ、何とか嬢ちゃんに顔向けできるワケで……」
 ジェイクはふるふると首を振りながら、リディアの提案を辞退する。
 そんな彼に、リディアは意地の悪い笑みを投げかけると、自分もコーヒーを淹れようとキッチンに足を向けた。
 ジェイクは複雑な思いを込めて、女の同僚のその後ろ姿を見送った。が、不意に真面目な顔になると、カウンターの向こうにいる彼女に声をかけた。
「――なあ、リジ。ヤツも見つかったことだし、後は俺らに任せて、ここらで足を洗った方がイイんじゃないか? 嬢ちゃんのために、な?」
 コーヒーを注いでいたリディアの手が一瞬止まる。
「却下」
 ひとことで拒否し、彼女は作業を続けた。
 だが意見を撥ねつけられてもジェイクは引き下がらなかった。大袈裟に抑揚をつけて諭しはじめる。
「あんたも、このまま嬢ちゃんに誤解されたままでいいのか? 嬢ちゃんもあんたも辛いだけだろう? いまからでも遅くない。嬢ちゃんの望む母親になってやれって」
 痛いところを衝かれ、リディアはわずかに口元を歪めた。
 この八年間、彼女は自分の娘であるハズリットを欺いてきた。
 それによってハズリットは傷ついている。自分に真っ当な母親になってほしいと願っている。そして、その気持ちを誰にもぶつけられずに苦しんでいる。
 ジェイクや管理人のマーゴのように、自分たち親子を心配してくれる人たちの気持ちはありがたいと思う。娘の期待に応えてやるべきだとも思う。
 だが、自分はかつて罪を犯した――。
 そのときから、自分の背後には暗く重い影がつきまとっている。それは絶えず己の忠誠心を脅かす。自分を育ててくれた社会に対する裏切りへの誘惑に揺らめき、彼女を襲う。
 その影に翻弄されるそんな自分の心が、彼女には赦せない。
 だから影を振り切るために、そして犯してしまった罪をあがなうために、彼女は我が子を欺き続ける道を選んだ。
 過ちを清算するまでは、いまの仕事を辞めるわけにはいかない――。
 その想いがこれまで彼女を衝き動かし、自分を求める娘の声にも耳を塞がせたのだ。
 しかし、その胸を引き裂かれるような時間も、まもなく終わる。
 ついにヤツを見つけた。
 自分の前にヤツが姿を現した。
 ここでヤツを見逃せば、いままで自分たち母子が耐えた苦しみは意味を失ってしまう。娘にただ寂しい思いをさせただけになってしまう――。
「足は洗う。でも『その前』じゃなく、『その後』だ」
 カウンターの中から、リディアはぶっきらぼうに言い放つ。
 清算することによってどんな結果がもたらされるのか――彼女には判らない。
 影を振り切るどころか、全てを失ってしまうかもしれない。
 だが彼女は、何に代えても娘だけは守り通すつもりだった。たとえ娘こそが罪の証であっても、自分にとってかけがえのないものに変わりはないのだから。
 リディアは忍び寄る不安を、その強い覚悟と意志で押し返しながら呟く。
「ヤツとのケリをつけるまで、あたしは絶対退かない」
 リディアの覚悟を感じとったジェイクは、それ以上説得するのを諦めた。
 彼女の意志の強さは、仲間内では定評だ。彼女はその強い意志でもって、自分に課した責務を果たすだろう。だがそれは彼女の娘にとって、最悪の結果をもたらすかもしれない。
 非合法な手段をも黙認される彼らの任務は、時として仲間をも欺き、見殺しにしなければならない非情なものだ。しかし、だからといって仲間が死ぬのを好んで眺める者はいない。
 リディアに手を引かせることができないのなら、せめて彼女にとって一番いい選択ができるよう、自分の持つ情報を可能な限り与えてやるべきだ――。
 そう判断したジェイクは、そのまま口を噤み、同僚が戻ってくるのを待った。そして彼女が一人掛けのソファに収まったところで、おもむろに世間話を装って切り出す。
「それはそうと――〈ディムナ・フィン〉の『使者』は、嬢ちゃん獲得のために、相当な軍資金を持たされているようだな」
 同僚の口から飛び出した固有名詞に、リディアは片方の眉を跳ね上げた。
 〈ディムナ・フィン〉はハズリットが面接している大学の一つだ。
 リディアはまだハズリットの口から卒業試験の結果と、その後の進路について聞かされていない。だがリディアはすでに知っていた。あらゆる情報を集めるのが得意な同僚が、娘自身が知るよりも早く、試験の結果を報告してくれたからだ。
 娘は〈機構〉から注目されている。彼女の周辺に大きな変化があれば、それが彼女にとってよくないものかどうか、専門機関が徹底的に分析する。無害と判断されれば経過観察を続け、有害と判断されれば密かに排除される。その任務を受け持っているのがジェイクだった。
 そして先日彼は、「〈ディムナ・フィン〉は無害」と報告してきたばかりだ。しかしどうやら事情が変わってきたようだ。
 リディアは同僚の口振りから、彼の意図を汲み取った。彼女の胸に、ジェイクの気遣いへの感謝と謝罪の念が湧く。だがそれについては何も言わず、ただ横目で続きを促した。
 ジェイクは小さくうなづくと、低い声で言葉を継いだ。
「その使者であるガイツハルス教授がカリスト入りした後、〈ディムナ・フィン〉からその教授の口座に大金が振り込まれた。そしてその金は、数回に分けて『消費』されている。どうやら彼は、嬢ちゃんとの面接に役立つような『資料』を買ったらしい。ここ数ヶ月〈北基幹学校〉のサーバが何度かクラックされてたから、多分それだろうな」
「で、誰から買ったの?」
「まだはっきりとは判らない。だが、ガイツハルスは取引相手との通信に、〈菩提樹の森〉の〈グレムリン〉が発見した〈分裂するパケット〉と同じプログラムを使っている」
 リディアは空色の瞳を鋭く光らせた。頭をフル回転させ、ジェイクの言葉の意味を素早く整理する。
 通信サーバを中継するごとにヘッダを書き換える〈分裂するパケット〉は、〈森の精〉の発見した〈ワーム〉を運んでいたものだ。それらは〈機構〉と〈機構軍〉に害をもたらそうとする者が作った。
 それと同種のプログラムを、〈ディムナ・フィン〉の教授はデータのやり取りに使った――。
 それはつまり、教授が〈森の精〉の発見した〈ワーム〉を作った者、またはその仲間と接触した可能性を示唆する。あるいは、教授自身もその仲間なのかもしれない。
 だが、〈ディムナ・フィン〉は潔白だろう。もし連中と何らかの繋がりがあれば、大金を積んでまで情報を買う必要はない。「出るところと入るところは同じ」ということになるのだから。
 リディアの推考を読み取っていたかのように、ジェイクが補足する。
「〈ディムナ・フィン〉自体は、ただ優秀な学生を確保したいという情熱が先走っただけだろう。怪しいのはガイツハルスだが――彼の経歴は完璧だ。おかしな点は全くない」
「しかし『完璧すぎる』ってのが、却っておかしな点――ってね。何たって『連中』は、人ひとりの『人生』を勝手にサーバ上から消したり書き込んだりするのが得意だからね」
 わずかに口の端を吊り上げてリディアは言う。もしハズリットが彼女のこんな表情を見たら、きっと自分の目を疑うだろう。「あの母」が積極的に何かについて考え、それを楽しんで目を輝かせているのだから。
「ああ、だからもう一度教授の経歴を洗っているところだ。――ったく、あらゆる情報が〈ユニバーサルネットワーク〉上にあるといっても、肝心の『真実』はないときた!」
 前半でリディアの懸念を払拭したジェイクは、後半で「本当に自分たちが必要としている情報は、結局自分たちの足で集めなければならない」という運命を嘆いた。そこへ、皮肉に口を歪めたリディアが茶々を入れる。
「お蔭であたしたちは喰いっぱぐれなくてすむ」
「それもそうか!」
 根が単純なジェイクはポンと手を打ち、顔を明るくした。が、そのイイ顔はそう長くは続かず、彼の眉間はすぐに険しくなった。脱線しかけた話を元へ戻す。
「だが――本当にヤバイのは、居所の割れているガイツハルスじゃなく、取引相手の方だ」
 〈分裂するパケット〉を扱える者は限られている。暗号化されたデータの鍵をあらかじめ持っている者は、まず連中の仲間とみなしていい。
〈笛吹き男〉ラッテンフェンガー――」
 リディアは唸った。ジェイクは返事をしないことで、その言葉を肯定した。
 不意にリディアを焦燥感が襲う。
 思ったより早く、そして巧妙に、連中は娘に近づいている――。
 娘の頭脳に注目しているのは、なにも〈機構〉だけではない。どの勢力も将来有望な人材を、喉から手が出るほど欲しがっているのだ。特に国家としての基盤を持たない連中――〈地球へ還る者〉は、来るべき戦いに備え、物資や人材の確保に躍起だった。
 連中は身寄りのない子供たちの中で何か突出した才能を持っている子供を、次々と連れ去っている。
 各地へ密かに送り込んだエージェント――〈笛吹き男〉たちを使って。
 〈笛吹き男〉は、〈機構〉や〈連邦政府〉にとって厄介な存在だった。子供を攫うだけでなく、情報収集から破壊工作、暗殺と何でもこなす。奴らはこれ見よがしに姿をちらつかせながらも、決して尻尾を掴ませることはない。ふと現れては何かしでかし、当局が動き出したときには消えている。
 そんな神出鬼没の〈笛吹き男〉を狩るのが、リディアの本当の仕事だ。
 そのため、〈笛吹き男〉の現れそうな場所に入り浸ったり、同僚と出かけて二、三日帰らないことはしょっちゅうだった。これでハズリットに誤解するなと言う方が悪い。
「確かに最近、この〈旧市街〉で〈笛吹き男〉らしき男が目撃されてるよ。こないだも、〈五層〉のルカが姿を消したトコだ。まあ、あの子は〈旧市街〉ここに不満があったみたいだから、まんまと口車に乗せられて、ホイホイついて行っちゃったんだろうね。でも、ハズは――」
 言いかけたリディアの頭に、先日の出来事が甦る。
 〈笛吹き男〉は、力尽くで子供を攫うようなことはしない。親しげに子供に近づき、言葉巧みにその子の興味をそそり、子供自身の意志でついてくるよう仕向けるのだ。
 そのために、連中はヤツを送り込んできた。
 他の誰でもない。ヤツをだ――。
 そしてハズリットは、ヤツの術中に嵌ろうとしている。
 恐らく先日の接触は、教授とやらが失敗したときの保険なのだろう。となると、ハズリットが〈ディムナ・フィン〉を選んでも選ばなくても、遅かれ早かれ連中の手に陥ちる。
 これは早々に片をつけなければ――。
 思考の海に泳ぎだそうとしていたリディアの頭に、突如警告音が響いた。比喩でも何でもなく、彼女の左耳の後ろに埋め込まれたインプラントが発した音だ。
 緊張の色に顔を染めたリディアは、耳を澄まし、階段付近に設置したセンサーからの信号音を聞き分けた。
 どうやら階段を上ってくるのはハズリットのようだ。
 そう判ると、リディアは安堵の息を洩らした。苦笑しながら同僚を振り返る。
 見ると、素早く動けるように腰を浮かせていたジェイクも、同様に肩の力を抜くところだった。
「さあ、息抜きタイムは終わり」
 そう言ってリディアは勢いよく立ち上がる。
「何かあったら連絡する」
 手短に応えたジェイクは、テーブルの拳銃をヒップホルスターにしまい、脇に脱ぎ捨ててあった背広のポケットからサングラスを取り出した。
 彼はハズリット向けの姿に戻ると、玄関に足を向けかけた。が、確認しておきたいことを思い出し、足を止めてリディアに向き直った。
「一昨々日の夜、あの端末から人事部のデータベースにアクセスしたか?」
 そう言って、ジェイクは部屋の隅の机に置いてある端末を指す。
「……いや?」
 同僚の言葉に心当たりのないリディアは首を捻った。彼女の返答に少し考え込んでいたジェイクは、唸るような声でリディアに告げる。
「嬢ちゃんはどうも、あんたの元婚約者が自分の父親なんじゃないかと勘繰ってるみたいだぞ」
「ああ」
 リディアは「現在〈森の精〉に滞在している客」を思い出し、自嘲めいた笑みを浮かべた。
「あの子は〈森の精〉で、あの人たちと逢ってるからね。彼――クラウスは『何も言ってない』って言ってたけど、あの子は鋭いから何かに気づいたのかもしれない」
 先日会ったときのクラウスの言葉を、リディアは疑うつもりはない。元婚約者は誠実が服を着ているような人間だ。リディアを裏切るような真似はしない。
 自分と違って――。
 小さな棘がリディアの胸を刺す。
 その痛みに彼女の口元が歪む。
 そんな彼女の心の内に気づいていない同僚は、彼女の推測に大きく肯くと、会話を続けた。
「だろうな。それで嬢ちゃんは、あんたの端末で手がかりを見つけようとしたらしい。でも結局それは失敗したため、強力な助っ人を頼んだみたいだ」
「助っ人?」
 聞き返すリディアに、ジェイクは一呼吸おいて答える。
「〈グレムリン〉――〈森の精〉の。あの坊っちゃんどもは、一昨日の夜、嬢ちゃんの医療記録と、レンツ少佐のファイル、そしてあんたの『本当の軍歴ファイル』を手に入れた。あんたが〈陸戦隊〉を辞めるまでの分だ。まぁ、向こう見ずな坊ちゃんたちも、さすがにそれ以上鍵をこじ開けるのはヤバいと思ったようで、そこで引き揚げてくれたが」
 同僚の言葉に、リディアは顔をひきつらせた。
 少年たちがそれらのファイルを使って、何をしようとしたのかは理解る。そして、それがハズリット自身に頼まれたことなのだろうことも。
 ハズリットのデータとクラウスのデータを検証したところで、「二人の間に共通点はない」ということしか判らない。だからハズリットにいくらクラウスとの関係を探られても、リディアにとって何の不都合もない。
 しかし、軍歴ファイルは別だ。あれを見ればハズリットの出生の経緯が判ってしまう。
「まさか……」
 リディアは色を失い、喘ぐように呟いた。
「〈グレムリン〉は頭がいいし、機転が利く。自分たちの得た情報がどういう意味を持っているのか、そして自分たちがそれをどう扱えばいいのか、ちゃんと理解っているはずだ」
 ジェイクの言葉は、気休めでしかない。だがリディアはその言葉にすがりつきたかった。
「ああ、ああ……」
 祈る思いで何度もうなづきながら、リディアは動揺を静めるために深呼吸する。帰ってきた娘に取り乱したさまを見せるわけにはいかない。
 そして玄関の鍵が開き、ハズリットが姿を現す直前、リディアはなんとか間に合った。
 平静を取り戻したリディアは、いままで甘い囁きを交わしていたかのようにジェイクに寄り添う。彼女に合わせて、ジェイクも同僚の肩に手を回す。
 二人の本当の関係を知らないハズリットは、その様子を見るなり眉を顰めた。そしてあからさまに嫌悪感を込めて、男を睨みつける。
 一方ジェイクは、少女の視線を無視することに徹した。そして元気づけるように軽くリディアの肩を叩くと、無言のまま部屋を出て行く。
「またね」
 名残を惜しむかのように、リディアはその背に向かって言葉をかけた。一方、目の端で娘の様子を注意深く観察する。
 ハズリットはジェイクの一挙一動に警戒し、身体を強張らせていた。だが玄関の扉が閉まり彼の姿が見えなくなると、大きく息をついて力を抜いた。そして、ゆっくりと振り返る。一瞬リディアと目を合わすが、なぜか落ちつかなげに視線を彷徨わせた。
 そんな娘の様子に、リディアは自分の鼓動が早くなるのを感じた。
 ハズリットは知ってしまったのだろうか。自分がなぜ生まれたのかを――。
 最悪の事態が頭をよぎり、恐怖と絶望感に膝を震わせた。慌てて足を踏ん張り、なんとか崩れ落ちないよう気を張った。
「今日も〈森の精〉に行かなかったの?」
 意識して「いつもの母親」を演じる。
「ええ。そんなに入り浸るのも迷惑だろうし」
 上着をハンガーに掛けながら、ハズリットは答えた。
 心なしかいつもより娘の声と表情が沈んでいるような気がして、リディアの不安はどんどん広がる。
「入り浸るって――向こうが『おいで』って言ってくれてるんでしょ? だったら遠慮するコトないじゃない。ああいう基地の連中は、ホントに迷惑なときはハッキリ言うモンだよ。だから言われるまでは、気にせず行けばイイって。あんまり気を遣いすぎると、早く老けちゃうよ」
 ハズリットの柔らかいほっぺたをつついて、リディアはケラケラと笑う。
 一歩退いてその指から逃れたハズリットは、わずかに眉を顰める。「いい大人のクセに、遠慮する謙虚さぐらい持て」とでも思ったのだろう。
 しかしリディアにしてみれば、娘を家で独りにするよりは〈森の精〉に通ってくれる方が安心だ。警備は万全だし、遅くなれば食事をさせて家まで送ってくれる。
 もちろんジェイクの部下が、普段から娘に気づかれないよう、つかず離れずで警護してくれている。しかし、いつ連中の計画が変わって「実力行使」に出てくるか判らない現在いま、目に見える形で連中を牽制したかった。
 だがそんな理由を正直に述べるわけにもいかず、リディアはいつもの調子で会話を続ける。
「――ホントはさ、あんたが〈森の精〉に通ってくれると、あたしは嬉しいのよね。『彼』とそれだけ長く一緒に居られるじゃない? それに基地で夕飯食べてきてくれると、食費が浮いて大助かりだしね」
「お母さん!」
 さすがにリディアの無神経さに切れたのだろう。ハズリットは声を荒げた。捲くし立てようと、大きく息を吸い込む。しかし、その息が発声のために使われることはなかった。
 反論するのを思いとどまったハズリットは、気を宥めるようにゆっくりと息を吐いた。外れたままだった視線が、まっすぐリディアに向けられる。かすかに黄味を増したその瞳は、碧の冷たい炎を宿している。
 それは、決断した者の眼だった。
「な、何よ……」
 娘の剣幕に圧されたように、リディアは口ごもった。今回は演技する必要はなかった。ハズリットはいよいよ引き金に指を掛けたようだ。ちょっとした拍子に、その指は動くのだろう。
 そして糾弾という弾が飛び出し、リディアの胸を射抜くのだ。
 しかし「そのとき」はなかなか訪れなかった。
 物言いたげな瞳で、ハズリットは母親を見つめつづける。一発目の弾を選びかねてか、何度も口を開いては閉じる幼い顔が、苦渋に歪む。
 知らずリディアの喉がゴクリと鳴る。逃げ出したい気持ちを堪えるのに精一杯だ。
 そして二人のあいだの沈黙が気になりだしたころ、ハズリットの瞳がわずかに揺らぎ、リディアを呪縛から解放した。
 リディアの足元に視線を落としたハズリットは、諦めを滲ませた口調で告げた。
「……わたし、基幹学校の卒業試験に合格した。春から大学へ行くことになるの」
 結局、娘も引き金を絞る勇気がなかったのだろう。保護者に報告し損ねていた話題を持ち出し、巧く誤魔化してきた。
 辛うじて命拾いしたリディアは、心の中で大きく息を吐いた。表向きは肩透かしを食ったような顔を作り、大袈裟に反応する。
「何かと思えば――って、スゴイじゃない! あんたの歳で、基礎教育課程を全部終えるなんてさ! あんた、ホントに頭よかったんだねぇ!」
 この反応には、ハズリットも驚いたようだ。これまで学校の成績に無関心だった母親が、感嘆の声を上げたのだ。面食らったように、激しく目を瞬かせる。
「で、大学はどうすんの?」
「それなんだけど……」
 いつもと違って興味を示す母親に戸惑いながらも、ハズリットは「面接」のこと、そして〈ディムナ・フィン〉の出してきた条件のことを簡潔に説明した。
「――それでもしお母さんが、その……寮母さんの手伝いをしてもいいって言うなら、あたし〈ディムナ・フィン〉に行こうと思うの」
 最後は訴えるように顔を上げる。真剣な眼差しがリディアに突き刺さる。
 最悪の選択をしてしまった娘に、その母親はどう答えるべきか迷った。
 〈ディムナ・フィン〉に行くこと自体は問題ではない。むしろ喜ばしく、誇らしいことだ。
 しかし、そこへ行く途中に張り巡らされているであろう罠が、問題だった。
 罠を始末するには時間が必要だ。年が明けるまで――いや、せめて一週間は欲しい。
「ちょっと……そんな急に『寮母見習いをやれ』って言われても、こっちにも心の準備ってモンがあるわけで」
 突然の話にうろたえている風を装って、リディアは眼を白黒させた。
「それにあんた、『あたしの返事次第』なコト言ったけど、もしあたしが『行かない』って言ったらどうすんのよ」
「それは……」
 否定的なリディアの言葉に、ハズリットは言い淀んだ。白くなった小さな顔に、「やっぱり」という思いと失望の混ざった表情が浮かぶ。
「そのときは……」
 ハズリットは口の中でもごもごと呟く。
 〈ディムナ・フィン〉に行きたいという気はあるが、まだ決心がつかないのだろう。〈旧市街人〉アルターの子供らしく自立心に富んでいても、娘はやはりまだ幼い子供なのだ。こんなどうしようもない母親でも、そばにいて欲しいのだろう。
 重い空気が母子を包む。煮え切らない娘に、即決型のリディアは少し苛立ってきた。先を促そうと口を開きかける。
 そのとき――訪問者を告げるチャイムが鳴った。アパートの表玄関から鳴らされたものだ。
 絶妙のタイミングで張詰めた空気から解放された二人は、思わずインターホンに目を向ける。そしてお互い顔を見合わせ、どちらの客なのかを窺った。
 ハズリットは首を捻っている。心当たりがないようだ。もちろんリディアにも来客の予定はない。
 リディアは片手を挙げて娘に待つよう指示すると、訪問者に応対すべくインターホンに向かった。
 小さな画面には少年二人と、〈機構軍〉の略帽をかぶった青年が映っていた。
 一目見ただけですぐ判る。リディアの仲間内で知らぬ者はいない――〈森の精〉の〈グレムリン〉と、「土星からきた広報士官」だ。
「はい、何の用?」
「おばさんっ、こんばんはっ。あのね――むぐっ」
 リディアが応答すると、しゃべりだそうとする少年を押し退けて、新米士官が訪問の理由を述べた。
「あ、夕飯時に失礼します。〈森の精〉広報部のエビネ准尉です。ミズ・ラムレイとお嬢さんにお願いがあって参りました。お時間、よろしいでしょうか?」
 いきなり「お願い」などと言われ、リディアは怪訝な顔になる。ふと、先程回避した件についてだろうかと考え、一瞬後に否定した。あの件に関して、彼らからお願いされるような要因は何もないはずだ。
 となると、全く関係ない話か。まあ、とりあえず聞くだけ聞いてみてもいいだろう――。
 彼女はそう判断し、〈森の精〉からの使いのために表玄関の鍵を開けてやった。
 ほどなくして、三人がラムレイ家のドアを叩く。
「突然の訪問、お許しください」
 ドアを開いたガウン姿のリディアを見て一瞬ドキリとしたエビネ准尉が、目のやり場に困ったように頭を下げる。その脇からセピアの髪の〈グレムリン〉が、ひょっこりと顔を出した。
「こんな時間にアポなしで来てごめんなさい。どうしてもハズと直接会って話したかったんだ。ハズ――帰ってる?」
 少年は心配そうにリディアを見上げた。
 やはり彼はデータを娘に見せたのだ。それでその後の反応が気になって、娘の様子を見に来たのだ――。
 と、直感したリディアは、わずかに目を眇めて少年の琥珀の瞳を上から覗き込んだ。〈グレムリン〉なら、言葉にしなくてもこちらの言いたいことは理解るだろう――という思いを込めて。
 〈森の精〉の少年は、彼女の鋭い視線を真っ直ぐ受け止めた。微塵も揺らぎはしない。
 そしてその堂々とした態度と曇りのない瞳に、リディアは彼が「一番知られたくない秘密」は守ってくれたのだと悟った。
「構わないよ。さ、入って」
 彼女は表情を和らげると、訪問者を招き入れるため扉を開け放った。
「こんばんは、ハズ」
 おずおずと部屋に入ってきた〈グレムリン〉たちは、ハズリットを見つけると安堵の笑みを零した。
「……こんばんは」
 ハズリットも気まずそうな顔でうなづき返す。
 そんな子供たちを見て、なぜかリディアはホッとした。もし何かあれば、この少年たちが娘を支えてくれるだろう。ならば自分は、心置きなく勤めを果たせる。
 妙に清々しい気分になったリディアは、客たちをさらに部屋の奥へと誘う。
「いまお茶煎れるから、そこのソファに座ってて」
「いえ、すぐお暇しますのでお構いなく」
 〈森の精〉の士官は勧められたソファを辞した。そして立ったまま用件を切り出す。
 だが、口を開いたのは広報士官ではなく、ヴィンツブラウト大佐の息子だった。どうやら本当の使者は彼だったようだ。
「実は〈聖夜〉に、〈ヴァルハラ〉でパーティがあるんだけど――」
 少年はきちんと要点を踏まえて説明する。〈ヴァルハラ〉での晩餐会で、デザイナーのアリシア・オーツがやろうとしていることを。
 話を聞いているうちに、リディアは少年が「本当の神の使い」のように思えてきた。
 これはいい機会だ。ハズリットが〈ヴァルハラ〉へ行っているあいだだけ、自分に時間が与えられる。
「つまり〈聖夜〉のパーティを盛り上げるのに、ハズリットの協力が必要なんだね?」
 少年が口を閉じると、リディアは正しく理解したことを示すために復唱した。満足げに少年が肯く。
「どうする?」
 リディアは娘を振り返って訊いた。ハズリットの様子を観察しながら、自分の望む方向へ誘導する準備をする。
 ハズリットの顔は、驚きと好奇心が一緒くたに表れている。
 それもそうだろう。〈アリシア・オーツ〉は、娘のお気に入りのブランドだ。そのデザイナーが特別に作ったドレスを着る機会など、そう巡ってくるものではない。しかも憧れのデザイナーが「是非に」と言ってきたのだ。驚きもしよう。
 ハズリットはかなりの確率で「行ってみたい」と思っているはずだ。以前、隣の女の子が「客からせしめた」と言ってくれたハンカチを、いまでも大事にしているくらいだ。こんなチャンスを棒に振りたくはないだろう。
 しかしハズリットは、まずためらうはずだ。物心ついてから、娘は〈旧市街〉を離れて寝泊りしたことがない。さらに彼女は人見知りする。見慣れない者ばかりに囲まれて数日を過ごすことに、好奇心と同じくらい不安を感じているに違いない。
「でも……」
 予想どおりの答えに、リディアは内心ほくそ笑む。
 次は少年だ。彼は娘がためらったときの切り札を持たされているはずだ。
「面白そうじゃない。行ってきたら? それにあんた、〈アリシア・オーツ〉のハンカチ大事にしてるじゃない。こんな機会、滅多にないよ?」
「お母さんっ!?」
 心に秘めた想いを暴露する母親を、ハズリットは真っ赤になって非難した。そして恥ずかしそうに少年を見遣る。
 少年はハズリットも同じブランドが好きなのだと知って、嬉しそうに白い歯を見せた。そして少女の不安を取り除くべく、リディアに向き直って言った。
「もちろんハズだけじゃなく、フラウ・ラムレイも一緒にどうぞ――って、アリシアは言ってたよ。泊まるところは当然だけど、何も持たずに来てくれてOKだって」
 気持ちいいほどあっさり切り札を使ってくれた少年に、リディアは内心感謝する。そして仕上げに取りかかる。
 リディアは残念な顔を作ると、少年に断わりの言葉を述べた。
「すっごくありがたいんだけど……ごめん、その日はどうしても外せない用事があるんだよ」
「用事って?」
 ハズリットが弾かれたように顔を上げて聞き返す。探るようにリディアの目を覗き込む。
 普段は留守がちのリディアも、〈聖夜〉だけはハズリットと過ごすようにしている。
 今年の〈聖夜〉の予定はまだ話し合っていなかったが、いつものように母子二人で過ごせると、ハズリットは思っていたのだろう。
「ハズリット」
 ささやかな楽しみが今年はないのだと知って顔を曇らせている娘に、リディアは真剣な口調で語りかけた。
「あたしは、あんたが〈ヴァルハラ〉へ行ってるあいだに、全部片づけてくる。『新しい生活』のために、いままでの仕事にケリをつけてくる。だから――あんたは、自分の望む通りのことをすればいいんだよ」
「お母さん――!?」
 リディアの言葉を〈ディムナ・フィン〉行きへの承諾だと受け取ったハズリットは、信じられないとばかりに瞠目した。
「〈ヴァルハラ〉で楽しんでおいで」
 リディアは娘に微笑みかけた。ハズリットが小さく、だがはっきりと肯く。
 大きな目を潤ませる我が子を見つめるリディアの胸は、なぜか激しく痛んでいた。

■森の少女■page 15