■森の少女■page 16

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「ハズが『行く』って言ってくれて、よかったね」
 ハズリットのアパート〈楽しき郷〉マグ・メルを出たところで、ミルフィーユがヴァルトラントに話しかけた。
 金髪の少年は難攻不落と思われた要塞を攻略できたことが嬉しいのか、興奮して頬を上気させている。
 しかしミルフィーユとは対照的に、ヴァルトラントの顔は浮かなかった。
「うん……」
 と、心ここに在らずといった様子で生返事をすると、再び考え込むように黙り込む。
 ハズリットの参加を一番喜ぶべきは親友の方だ。なのに彼は沈んだ様子を見せている。 ミルフィーユは気遣わしげな視線を、ヴァルトラントに向けた。
「どうかしたの?」
「――いや、何でもない。ちょっと気になることがあっただけ。でも気のせいだったみたいだ」
 相棒を心配させていると気づいたヴァルトラントは、安心させるように口元を緩めて答えた。
「……?」
 彼のぎこちない笑みに、ミルフィーユの額がさらに曇る。ヴァルトラントがこういう笑い方をするときは、大抵「何でもなくない」のだ。
「いいから、早く帰ろう」
 物言いたげな相棒の視線から逃れるように、ヴァルトラントは歩きはじめた。
「変なの……」
「え、え? ちょっと待って!」
 ミルフィーユの怪訝そうな呟きと、帰還を報告するメールに気をとられて置いてけぼりを食らいかけたエビネの慌てた声が追ってくる。しかし思考の海に漕ぎ出そうとしている少年にとって、彼らの声はもはや雑音でしかなかった。
 やがてその雑音も聞こえなくなる。
 完全に長考モードに入ったヴァルトラントの左手が、無意識のうちに耳元へ伸びた。彼の耳朶にはピアス様の〈インプラント〉端末が光っている。航空機を操縦するときだけ着け、普段は外して耳の後ろに埋め込まれている本体の機能を眠らせている。だが〈旧市街〉へ赴く息子の身を案じた父親の指示に従い、いまは装着していた。もし彼の身に何かあったとき、これを着けていればすぐに居所を突き止めてもらえる。
 小さな玉状の端末を指先で弄びながら、少年はラムレイ家を辞したときのことを思い返した。
 ひと通り別れの挨拶を済ませて立ち去ろうとする使者たちの背中に、部屋の玄関まで見送りに出てくれたリディアが声をかけてきた。
「あの子にあのファイルのことを黙っていてくれて、ありがとう」
 ヴァルトラントは思わず飛び上がりかけた。
 リディアのファイルを盗み見たことを、当の本人に知られていたのだ。だがそれ以上にヴァルトラントを驚かせたのは、リディアが彼にしか聞こえない方法で話しかけてきたことだった。
 リディアの声は、彼女の口から音声として発せられたものではない。それは〈インプラント〉を介して再生された、声帯を使わずに発する声――「非可聴つぶやきNAM音」であった。
 ヴァルトラントの持つ〈インプラント〉は軍用であり、当然のことながら〈機構軍〉の通信チャンネルを使用する。加えて、個々の〈インプラント〉にはIDがあり、それらがお互いを認識できなければ通信できない仕様になっている。ID情報はしばしば変わるため、例え〈インプラント〉が偽造されても頻繁にデータベースの書き換えを行うことができない限り、恒久的に使うことはほぼ不可能といえる。
 つまり、リディアが少年の〈インプラント〉に向けて直接メッセージを送るには、〈機構軍〉純製の〈インプラント〉を使う必要があるのだ。
 確かに隠されていた軍歴ファイルによれば、リディアもかつては特殊部隊員用の〈インプラント〉を持っていた。しかし軍用〈インプラント〉など、普通の生活をする上では全く必要のないものだ。また機密保持のため退役時には回収されることになっており、リディアも軍を去るときに摘出手術を受けたはずだった。
 だがリディアは現にヴァルトラントへ向けてメッセージを送ってきた。つまり彼女は、定期的にID情報が書き換えられている〈機構軍〉製の〈インプラント〉を所有しているのだ。
 この事実から導かれる解は一つ。
 彼女はまだ〈機構軍〉に属しているのだ。しかも機密の出入りに敏感な部署にいる可能性が高い。
 リディアに驚愕の目を振り向けたヴァルトラントは、彼女の目を見てその推測が間違っていないことを確信した。
 穏やかだが強い光を放つリディアの瞳は、ヴァルトラントの古い記憶に生きる者たちを蘇らせた。
 翡翠色の惑星を守るために命を懸けた者たち。戦地に赴こうとする彼らは、いつも浮かれてはしゃいでいたが、瞳の奥では二度と基地へは戻れないかもしれないという不安と恐怖、そしてその覚悟を訴えていた。
 そんな戦人いくさびとたちと同じ目を、リディアはヴァルトラントに向けていた。
 なぜ彼女がそのような目をしているのか、そして突然自分の所属を明かすような真似をしたのか、ヴァルトラントには理解らない。彼に理解ったのは「彼女はこれから何かを始めようとしているのだ」ということだけだ。
 恐らく航空隊には関係のない極秘の作戦が進められていて、彼女はそれに参加することになったのだろう。そして彼女は、よほどの覚悟をもってその任務に就くことを決断したのだ。
 自分の知らないところで、何かが始まろうとしている――。
 そう考えたヴァルトラントを、不安と恐怖が襲った。背筋を走る悪寒に、思わずフライトジャンパーの胸元をかき寄せる。
 襟元に顔を埋めながら、リディアのために何かできることはないかと思案する。しかし作戦の内容が判らないうちは、手の打ちようもない。ならば、彼女の無事を案じ、彼女の代わりにハズリットのそばにいることだけが、いまの自分にできることなのだろう。
 〈ヴァルハラ〉から戻ったとき、少女にとって――そして自分にとって、悪い意味で何も変わっていないことを祈りながら、ヴァルトラントは〈旧市街〉のメインストリートである〈参謀通り〉を歩いた。
「ヴァルティ、大佐が『家に帰ってきなさい』って」
 不意にエビネ准尉の声が聞こえ、ヴァルトラントは我に返った。
「え?」
「ミス・オーツは〈ヴァルハラ〉に飛んで帰ったらしいよ」
 呆けた顔を向けた少年に、新米士官は自分の携帯端末のモニタを見せながら答える。モニタには、エビネの「任務完了」報告に対するウィルからの労いの言葉と、息子への伝言が表示されていた。
「――つまり、振られたってわけだね」
 エビネの端末を一瞥したヴァルトラントは、父親の事情を察して苦笑した。パーティまではもう時間がない。アリシアもウィルとのデートより仕事の方を優先したのだろう。
「というわけで、パジャマパーティはまた今度ね」
 エビネがにこやかに言った。どうやら、今夜の安眠を取り戻せたのが嬉しいらしい。先週〈グレムリン〉たちを泊めた際、一睡もさせてもらえなかったのが相当堪えたようだ。
 小憎らしいほど晴れ晴れとした顔のエビネに、ヴァルトラントも満開の笑顔で返してやる。
「じゃあそんときは、今夜楽しむはずだった分も目一杯楽しもうね!」
「え……」
 エビネの顔が恐怖に歪む。
 しかし〈グレムリン〉と付き合いはじめて七週間。大袈裟な反応を見せることが却って少年たちを煽っているのだと学習したらしい彼は、平静を装って肯いた。
「たっ、楽しみにしてるよ」
 脂汗を滲ませて虚勢を張る広報士官に、ヴァルトラントは思わず目を和ませた。エビネとの他愛無い会話は、先程までの不安を拭い去ってくれる。
「無理しちゃって」
「ホント」
 いつもの〈グレムリン〉に戻ったヴァルトラントは、にやにやしながら相棒と目を見交わす。が、不意にかすかな物音と人の気配を感じ、そちらへと目を向けた。
 彼の琥珀色の瞳に一人の少年の姿が映る。
「あ……」
 薄暗い通路の十数メートルほど先に、〈アルター〉の少年が立っていた。彼は先日出逢ったときと同様に、ヴァルトラントたちを鋭く睨みつけている。
「ライアン・キーツ……」
 ヴァルトラントは呻くように少年の名を口にした。

 ライアン・キーツは苛立っていた。
「チャンスを掴んだ」
 エストエンド地区の悪ガキグループを率いるルカが、彼の仲間たちにそれだけを言い残して出て行った。それが気に食わなかった。
 グロースホーレ地区のライアンとルカは犬猿の仲で、二人が率いるグループは何かにつけて対立していた。だからライアンはルカが出ていって清々できるはずだった。なのに実際は逆で、妙な焦燥感に取り憑かれて落ち着かない。
 焦りの原因は判っている。同い年であるルカに先を越されたからだ。
 彼らはそろそろ、この〈旧市街〉から出て行く年齢になる。ここで生まれた生粋の〈旧市街人〉アルターたちは、一度は自分の可能性を試しにここを出て行くものなのだ。
 〈旧市街〉には全てを失った者、それを補うために犯罪に手を染める者たちが溢れている。子供たちも、その日の飢えを凌ぐためならスリやかっぱらいでも平気でやる。そんな彼らがここを出て行ったところで、真っ当な職に就けるのは極めて稀だ。
 それでも、過去の輝かしい人生にしがみつくだけの落ちぶれた連中のようにはなりたくない一心で、子供たちは外の世界へ飛び出していく。
 だからルカも先達たちに倣い、チャンスとやらを掴んで出て行ったのだ。彼なりの夢を求めて。
 そして、八歳という年齢で基礎教育課程を修了したハズリット――あの天才少女も、近いうちにここを出て行くのだろう。
 ルカだけでなく、自分より年下のハズリットでさえも、着実に自分の夢に向かって歩いている。
「なのに自分は、まだここにいるのか……」
 そう呟いたライアンは、行動する者たちを妬んでいる自分に嫌気が差した。
 人を妬むぐらいなら、自分も行動すればいいとは思う。しかし、彼はまだ動けずにいた。
 もちろんライアンにだって夢はある。そのためにいろいろ調べた。だがそうするうちに、いまの自分ではその夢を叶えることができないのだと知った。
 チャンスは一度だけ。しかしその機会が巡ってくるまでに準備を整えるのは、不可能に近い。
 何度もその夢を諦めようと考えた。だが気がつけば、その夢のことばかり考えている。
 そんなとき、あの少年に出逢った。
 あの少年なら、何か他の方法を知っているかも知れない。あの〈森の精〉の少年なら――。
 この数日、ライアンはそんな思いに囚われていた。
 もう一度彼に会って尋ねてみたい気もするが、〈アルター〉でない人間に教えを請うのはなんだか癪だった。それに、初めての出逢いがあの取っ組み合いだ。きっと向こうも自分と話したくなどないだろう。
 妙な対抗意識に邪魔されて、ライアンは腹を括ることができずにいる。それがさらにストレスとなった。
 苛々だけが募っていく。その鬱憤を道端に落ちているゴミにぶつけながら、彼は歩き慣れた抜け道をねぐらへと進んだ。
 〈旧市街〉の地下には、〈ヴァルトマイスター〉建設の名残である細い通路が、迷路のように縦横無尽に走っている。その細道を抜け、〈旧市街〉の拠となっている〈光の広場〉に出る。さらにその縦穴を地表近くまで上がり〈参謀通り〉へ入ったライアンは、そこで思いがけない人物と鉢合わせた。
「――!」
 あの〈森の精〉の少年が、ハズリットの家の方からやってくるところだった。
 なんとも絶妙なタイミングに、ライアンは戸惑った。これはある意味チャンスなのだろうか――とも考える。ルカのように、自分にも外へ飛び出す機会チャンスが巡ってきたのか。
 だが、連れの者たちと楽しそうに笑い合う少年を見た瞬間、素直になろうとした心はどす黒い感情に侵された。これまで何の不自由も辛い思いも知らない、そして能天気なまでに幸せそうな彼らの顔が、ライアンの負の感情を増幅させた。
 ライアンは通りの中央で仁王立ちになると、ヴァルトラントと呼ばれていた少年を睨みつけた。
 その激しい感情の波動を感じたのか。
 間をおかず、少年がライアンに気づいた。彼もこの出逢いは思いがけなかったのか、アーモンド形の目を丸くする。その隣で、先日の対決を目撃した士官が緊張に顔を強張らせた。初めて見る金髪の少年は、事情が呑み込めずに激しく瞬きするばかりだ。
 ライアンは連中を威嚇するように胸を反らせ、相手の出方を待った。敵意を見せれば第二ラウンドの開始だ。鬱憤晴らしにはちょうどいい。
「ライアン――だったよね?」
 だが〈森の精〉の少年は敵意を見せるどころか、にっこりと笑いかけてくるではないか。そしてライアンを刺激しない程度に、素早く歩み寄ってくる
 ほどなく目の前までやってきた少年を、ライアンは頭半分高い位置から見下ろした。ふと、ヴァルトラントのベレーが目に留まる。勝者の証とも言える〈森の精〉のエンブレムが、その存在を誇示していた。ライアンは苦々しい思いでベレーから目を逸らすと、あらためて少年の顔を見た。
 〈森の精〉の少年は怯んだ様子もなく、顎を上げてまっすぐ琥珀の瞳を向けてくる。その視線をまともに受け止めたライアンは、なぜか圧倒された。思わずゴクリと喉を鳴らす。
 ヴァルトラントの顔は友好的に微笑んでいたが、その瞳は笑っていなかった。全てを見抜かんばかりの鋭い視線でライアンを貫く。
 威圧するつもりが逆に圧され、ライアンは内心うろたえた。
 自分はグロースホーレ・グループのリーダーだ。へなちょこの〈ノイアー〉に怖気づいたりするものか――。
 自分にそう言い聞かせて、ポーカーフェイスを保つ。少しでも気を抜くと、額から冷汗が噴き出しそうだった。
「いいところで会ったよ。ちょっと話がしたかったんだ」
 ヴァルトラントが穏やかな口調で話しかけてきた。
「話――?」
 ライアンは自分の狼狽を気取られないよう簡潔に答えた。だが変声期のかすれた声が、皮肉にも彼の意に反した結果をもたらした。慌てて口を閉ざし、ヴァルトラントの様子を窺う。
 〈森の精〉の少年は何も気づかなかったのか、あるいは気づかない振りをしたのか、ライアンの動揺をよそに淡々と言葉を続ける。
「うん、ハズのこと」
 ヴァルトラントの口から飛び出した名前に、ライアンの心臓がほんのわずか跳ねた。あまりハズリットの話題はしたくない。彼女の話題は自分のコンプレックスを刺激する。
 無性にこの場から立ち去りたい衝動に駈られたライアンは、必死でその衝動を抑え込んだ。わざと不快そうな顔を作り、聞き返す。
「ハズ?」
 すると、ヴァルトラントがそれまで浮かべていた笑みを消した。前振りもなく、単刀直入に斬り込んでくる。
「どうしてハズのことを苛めるんだよ。仲間なんじゃないの?」
「仲間? おまえら〈ノイアー〉の学校へ行くヤツなんか、仲間なもんか!」
 ハズリットの「ご学友」からの非難に、ライアンは反射的に言い返した。直後、口中に苦いものが込み上げ、わずかに口元を歪める。
「どこの学校に行こうとハズはハズだ。それぐらいのことで彼女を仲間外れにするなんて、心狭いんじゃないの?」
「何だと!」
 血の気の多いライアンは激昂した。顔を朱に染めて辛辣な意見を放った者に詰め寄る。
 しかしヴァルトラントは彼の反応を予測していたのか、眉一つ動かさなかった。それでも少し口が過ぎたと思い直したのだろう。自分の失言に顔をしかめると、〈アルター〉の少年に詫びた。
「ごめん、口の悪い言い方だったのは謝るよ。でも、これは知っててほしい――彼女はあんたのことを『友達だ』って言ったんだよ」
「あいつが? まさか!」
 ライアンは鼻で笑い飛ばした。しかしヴァルトラントは真剣な表情で繰り返す。
「本当だよ」
「でも、あいつは俺たち〈アルター〉より、〈ノイアー〉を選んだんだぞ」
 ヴァルトラントの眉が軽く跳ねた。まじまじとライアンの顔を見つめるが、やがて得心したようにうなづいた。
「違うよ。ハズは〈ノイアー〉がいいから〈北基幹学校〉を選んだんじゃない。たくさん勉強できる機会を掴んだだけだ。ライアンだって、もし目の前に望んでいた機会がやってきたらどうする? 仲間外れにされるからって見逃すの?」
「それは――」
 思わず、ライアンは言い淀んだ。いまの彼にとって一番痛いところを衝かれた。しかも、明らかに自分より年下だと判る少年にだ。
 自分より幼い者に諭されたことにより、ライアンの自尊心は甚く傷ついた。が同時に自分の未熟さも痛感した。咄嗟に返す言葉が見つからず、悔しさにきつく唇を噛む。
 〈森の精〉の少年は矢継ぎ早に畳みかけるようなことはせず、じっとライアンの反論を待っている。金髪の少年と士官も、成り行きを見守るだけで口を挟もうとはしない。
 壊れかけた空調設備の排気音が、俄かに耳につきはじめた。
「俺は……」
 その場の重苦しさにに耐えかねて、〈アルター〉の少年はようよう言葉を吐き出した。
「チャンスも逃さないし、仲間も捨てない」
「ハズも同じ気持ちだったのかもしれないじゃん。だから『友達だ』って言ったんだと思うよ」
 ライアンはもう応えなかった。ヴァルトラントと目を合わせるのが辛くなり、足元に視線を落とした。
 そんなライアンに、〈森の精〉の少年は口調を柔らかいものに変えて訴える。
「そこで、少しだけ……もう少しだけでも、彼女に優しくしてやって。お願い――」
 そう言ったヴァルトラントは、ベレーを取ると、軽くライアンに頭を下げた。癖のない褪せたセピア色の髪が、彼の頬にかかる。
 目の端でこの様子を見ていた〈アルター〉の少年は驚いた。まさか〈旧市街人〉の自分に、〈森の精〉の少年が頭を下げるとは思わなかった。
 ライアンは呆然と目の前にある少年の後頭部を見つめた。なぜヴァルトラントがハズリットのために頭を下げるのか、その真意が判らなかった。いや、そもそも自分がなぜハズリットに辛く当たってしまうのかさえ理解っていない。
 彼女は〈旧市街〉の仲間を捨てた裏切り者だ。だから彼女が自分たちから非難されるのは当然だ。
 しかしなぜか、これまで彼女に酷いことをしても、少しも楽しくなどなかったのである。彼女が逃げ去った後は、いつも気分が滅入った。だが、それは彼女が全く堪えた素振りを見せようとしないからだと思っていた。
 でも本当にそうなのだろうか。
 そして彼女は、本当にまだ自分たちのことを友達だと思っているのだろうか。なら、どうして素直にそう言わないのだろうか。
 突然湧き出てきた様々な疑問に、ライアンの頭は混乱した。泳ぎ慣れない思考の海で溺れるのを恐れた彼は、この状況から逃れたい一心で声をあげた。
「わかった! わかったから――」
「――!」
 〈森の精〉の少年は下げていた頭を跳ね上げた。先程と打って変わって瞳の奥まで晴れやかな笑みを浮かべている。
「ありがとう!」
 声変わり前の甲高い声が周囲に響いた。
 直後、ライアンの手はヴァルトラントにしっかと握られ、激しく振り回されていた。ライアンは自分の身に何が起こっているのか判らず、目を白黒させるばかりだ。そしてそれが握手だったのだと気づいたときには、〈森の精〉の少年は別れの言葉を告げ、手を振りながら踵を返すところだった。
 負けた――と、ライアンは思った。いまの自分は、喧嘩でも口でもこの少年には敵わない。
 彼は初めて、〈アルター〉以外の者に対して負けを認めた。しかし思った以上に屈辱感はなく、むしろ清々しい気分さえ感じていた。
 いつか彼と対等に渡り合えるようになりたい――。
 ふと、そんなことを思う。その彼の目に、〈森の精〉の文字が映った。ヴァルトラントの黒いジャンパーの背中に描かれた〈森の精〉のロゴマークだ。
 ずっと憧れていたオリーブグリーンのロゴ。それに近づく手がかりが、いま目の前にある。
「おい――!」
 気づいたときには声をかけていた。〈森の精〉の者たちが立ち止まり、振り返る。
「ひとつ教えてほしい。パイロットになるにはどうしたらいいんだ?」
 ライアンは一気に捲くし立てた。目の前の機会を逃すわけにはいかなかった。
 ヴァルトラントたちはライアンの質問に一瞬きょとんとし、お互いに顔を見合わせる。が、すぐにうなづき合うと、〈アルター〉の少年の許へ戻ってきた。
「パイロット――って、戦闘機の?」
 三人を代表してヴァルトラントが応答した。質問者はこくこくと肯く。
「なら、〈機構軍〉航空士官学校の飛行科に入らなきゃ。戦闘機は士官搭乗が原則だから」
「作戦中は、生死に関わる判断を自分一人でしなきゃいけないからね」
 ヴァルトラントの答えを金髪の少年が補足した。ライアンが目を向けると少年は一瞬おっかなびっくりした表情を見せたが、すぐに遠慮がちな笑みを見せた。
 ヴァルトラントと同じく〈ノイアー〉らしからぬ反応をする少年に、ライアンはまたもや驚いた。
 唐突に、このあいだヴァルトラントが「〈ノイアー〉ではなく、〈森の精〉だ」と言った意味が判ったような気がした。確かに彼らは〈ノイアー〉ではない。もちろん〈アルター〉でもない。となると、別の人種――〈森の精〉ということになる。
 ライアンが未知の文明を発見したような気分になっていると、ヴァルトラントが思い出したように指を鳴らした。
「あ、そういや、ちゃんと自己紹介してなかったね。俺はヴァルトラント・ヴィンツブラウト。で、こっちがミルフィーユ・ディスクリート。俺と同じ〈森の精〉の子供だよ。で、こっちがエビネ准――」
「ちょい待ち!」
 〈森の精〉の面々の紹介を何気なく聞き流しかけたライアンは、ヴァルトラントのフルネームを知って声をあげた。
「ヴィンツブラウトって――おまえヴィンツブラウト大佐の息子だったのか!?」
 驚愕の目でヴァルトラントを見つめる。
 一方ヴァルトラントは、父親のことを知られていたのが嬉しかったらしい。破願して聞き返す。
「あ、父ちゃんのこと知ってるの?」
「知ってるも何も――」
 〈機構軍〉一の戦闘機乗りフリーガーで、自分は彼の影響を受けてパイロットになりたいと思ったのだ――などとは、さすがにライアンも照れくさくて言えなかった。途中で言葉を呑み込み、「それなりに有名だし……」とか何とか言って、ゴニョゴニョとごまかす。
 ライアンは数年前、炊き出しにつられて仲間たちとともに〈菩提樹の森〉リンデンヴァルトの基地祭へ行ったことがあった。そこで彼は、初めて見る戦闘機、そしてそれを操るフリーガーたちの技術に、すっかり魅せられてしまったのだ。
 特にライアンの心を惹きつけたのは、模擬戦で素晴らしい動きを見せた黒い機体だった。
 旧型だというその機は、模擬戦の主役である〈菩提樹の森〉の最新型機を、面白いほど翻弄した。誘い込んでは、からかうように攻撃を躱す。さすがに最後は新型に花を持たせたが、その負け方も判断ミスなどではなく、わざと相手が勝てるような体勢に持ち込んでのことだ。
 大喝采の中、熱戦を繰り広げた戦闘機が帰ってくる。その各機を紹介するアナウンスで、ライアンはその黒い機体が〈オーベロン〉といい、それを操っていたのが〈森の精〉のウィルドレイク・ヴィンツブラウト大佐であることを知った。
 以後、大佐と〈森の精〉は、ライアンにとって憧れてやまない存在となった。自分もパイロットになって、大佐のように戦闘機を操ってみたい――そんな想いをライアンの中に芽生えさせるほどに。
「そんなコトより!」
 照れ隠しに咳払いを一つして、ライアンは脱線しかけた話を本線に戻した。
「その士官学校へ入るには、どうすればいいんだ?」
 大佐や戦闘機に関する資料を集めていたライアンは、すでに答えを知っていた。だが、あえて訊ねた。もし自分の知らないルートがあるのなら、その道に託してみたい。
 しかし彼の夢など知らないヴァルトラントは、進学案内書どおりの答えを返す。
「入学試験を受ければいいだけだよ。一五歳までに基礎教育課程を卒業した人なら、誰でも受けられる」
「やっぱり……」
 期待外れで、そして予想どおりの答えに、ライアンは肩を落とした。ヴァルトラントのもたらした情報は、彼に夢を諦めるよう念押ししたも同然だった。
 片や情報提供者たちは、何がライアンを打ちのめしたのか判らず、戸惑ったように目を瞬かせる。
「ライアンは、フリーガーになりたいの?」
 おずおずとミルフィーユが訊ねた。〈アルター〉の少年は、わずかに肯いた。
「じゃあ参考までに――ライアンの歳と、基礎教育課程をどのレベルまで修得したか教えてくれない?」
 今度はヴァルトラントが質問する。
「え……」
 ライアンはためらった。これこそが自分の最大のコンプレックスだった。〈旧市街〉の悪ガキグループのリーダーは務まっても、また生きるための知恵はあっても、勉強だけはからっきしなのだ。だが夢のためだと思い直し、素直にありのままを答える。
「歳は一二。レベルはL……の途中」
 最後の方は、ほとんど吐息と紛れてしまいそうだった。
 何しろレベルLは一〇歳までに修得すべき単位だ。それが二年以上も遅れている。一五までに残りの単位を修得するなど、ハズリットでもない限りできない芸当だろう。
 案の定、少年たちも言葉に詰まっている。
「L……かぁ」
「うーん」
 彼らはしばらく頭を捻っていたが、やがて名案が浮かんだらしい。勢いよく顔を上げると、大真面目な顔でライアンに告げた。
「大丈夫! 初めの半年で五単位とって、残りを年に四単位ずつとれば間に合うよ」
「無茶言うなーっ!」
 思わずライアンは悲鳴をあげた。それができるならとっくの昔にやっている。できないから、こうやって悩んでいるのだ。
 ところが少年たちは、ライアンほど消極的な考えは持ち合わせてないらしい。握り拳を振り回し、落ち込む少年を激励する。
「無茶じゃない。要は『絶対フリーガーになるっ!』っていう気持ちだよ。ライアンにその気持ちがあれば、きっと間に合うって!」
「何もしないうちから諦めちゃ、叶う夢も叶わないんだから!」
「いや、しかし……」
 驚異的なまでに前向きな少年たちに、ライアンはたじたじとなった。この調子だと、彼らは自分が「うん」と言うまで、説得を止めないだろう。
 フリーガー志望の少年が返答に窮していると、それを見かねたのか、それまで沈黙を守っていた士官が口を開いた。
「明日学校へ行って、先生に相談してごらん。君がやる気になったのを喜んで、きっと助けてくれると思うよ」
「そうだろうか……」
 ライアンは半信半疑に呟いた。まともに登校しない上に問題ばかり起こす〈アルター〉の生徒のことなど、学校は本気で考えてくれるのか。
「そうに決まってるじゃん! もしそれでも間に合わなければ、俺たちも手伝う。一緒に勉強しよっ」
 頼もしい笑みを浮かべて、ヴァルトラントは胸を叩く。その勢いに、ライアンはうっかり乗せられた。何がなにやら判らないまま、つい首を縦に振る。
「決まり! あ、そうだ……」
 嬉しそうに手を打ったヴァルトラントは、唐突に自分の腰元を探ると、ジーンズのベルト通しに引っ掛けてあったキーホルダーを外した。ぶら下がるたくさんの小物の中から、一つ選んでホルダーから抜き取る。そしてそれをライアンの前に掲げた。
「これは父ちゃんの乗ってる戦闘機、〈オーベロン〉のエンジンに使われていたボルトなんだ。お守りにあげる。絶対に『墜ちない』んだから」
 自分の駄洒落にクスクス笑いながら、ヴァルトラントは摘んでいた指を開いた。ライアンの手の中に、小指ほどの長さのボルトが飛び込んだ。油で汚れたボルトはあちこち磨り減っていて、実際に使用されていたものだというのが一目で判った。
 あの〈オーベロン〉の部品が、いま手の中にある――。
 突然の贈り物に、ライアンは頭の中が真っ白になった。嬉しいはずだが、いまは驚きの方が大きく、じっくり感動できるのはもう少し落ち着いてからになりそうだ。
「あり……がと」
 呆然とするライアンの口から、感謝の言葉が洩れた。
「戦闘機好きは、みんな仲間だよ」
「今度〈森の精〉に遊びにおいでよね。いろいろ見せてあげる」
 〈森の精〉の少年たちはそう言って微笑む。そしてもう一度別れの言葉を述べると、今度こそ去っていった。
 〈光の広場〉へ向かう彼らを、ライアンは複雑な気持ちで見送った。
 本当に、いまからでも間に合うのだろうか。自分にやり遂げることができるだろうか――。
 少年たちの言葉に賭けてみたい気持ちと、自信のなさが、心の中でせめぎあう。
 と、そのとき――。
「おい、坊主。無駄な時間を過ごすつもりか?」
 背後から声をかけられた。ライアンが反射的に振り返ると、近くの物陰から中年の男がゆっくりと姿を現すところだった。
 男は、ヴァルトラントたちとの会話を立ち聞きしていたらしい。薄笑いを浮かべ、狡猾そうな目でライアンを見ている。
「何だよ、あんた?」
 ライアンは見慣れない男を胡乱げな目でねめつけた。
 しかし男は口の端をさらに持ち上げただけで、ライアンの問いには答えようとしない。〈アルター〉の少年は小さく舌打ちすると、質問を変えた。
「無駄な時間って、どういう意味だ?」
「士官学校なんか入らなくても、戦闘機は飛ばせるってことだ」
 ゆっくりと少年に近づきながら、男は答えた。
「な、なに言ってんだ?」
 ライアンの表情が警戒と不審の色に染まっていく。男の全身から滲み出る剣呑な気は、真っ当な仕事に就く者のものではなかった。下手な対応をすれば、その胸元に隠しているであろう物騒な代物が飛び出しかねない。
 彼は、男が近づき過ぎるようなことがあればいつでも逃げ出せるよう身構えた。
 だが男はライアンの定めた限界線の寸前で立ち止まると、言葉を続けた。
「何も飛行機を操縦するのに、基幹学校で学ぶ知識は必要ない。航空機を飛ばすために必要な勉強だけをすればイイんだ。その証拠に、さっきおまえが話していた茶髪のガキ――あの〈森の精〉のガキは、五歳のときから戦闘機に乗っている」
「は?」
 ライアンは唖然とした。いくらなんでも、五歳の子供に戦闘機が飛ばせるわけはないだろう。何でこの男は寝言みたいなことを言うのだ。
「嘘じゃないぞ」
 少年の考えを見透かしていたかのように、男は嗤った。
「あいつは『素質がある』というだけで、軍から特別にパイロットになる訓練を受けているんだ。そのお蔭で、幼年学校も試験を受けずに入れる。そして幼年学校を卒業すれば、自動的に士官学校の三年に編入だ。つまりあいつは、『素質がある』というだけで、何の苦労もなくおまえの欲しいものを手に入れているってワケだ」
「いい加減なことを言うな!」
 堪りかねてライアンは怒鳴った。ヴァルトラントは〈アルター〉に対する偏見もなく、彼の相談を親身になって聞いてくれた。しかしそれは、選ばれた者の余裕と奢りだったというのか。
「いい加減なのはあのガキの方さ。あいつは自分が気楽なモンだから、おまえに『頑張れ』なんて無責任なことを言ったのさ。どうせ腹の中では、『受かりっこない』と思ってるだろうよ」
 男は巧みにライアンの不信感を煽る。
「そもそも、航空士官学校飛行科の入学試験で受かるのは、たった一二〇人だ。そして〈機構軍〉のフリーガーになりたいヤツが、この木星圏だけでもどれだけいると思ってるんだ。そしておまえは、その一二〇人の中に入れると思っているのか?」
「そ、そんなの知るかよ。やってみないことには、判らないだろっ」
 そう叫んで、ライアンは男から離れようと退いた。男の畳み掛けるようなしゃべり方が癇に障る。その不快感から逃れようとするのだが、男は彼が退いた分だけ歩み寄る。
「ではやってみて、もし基幹学校の卒業が間に合わなかったらどうする? 仮に間に合ったとして、もし試験に失敗したらどうする? それまでおまえのやってきた事は、全部無駄になるんじゃないのか?」
「しかし――っ」
 頑なにライアンは男の言葉を否定しようとする。だが男は容赦なく語り続ける。
「じゃあ、仮におまえが士官学校に入ったとしよう。だがおまえがいくら頑張ったところで、出世の約束されたあのガキの上官にはなれないのさ。おまえはあいつの部下の一人として、捨て駒にされちまうだろうよ」
「そんな……」
 ついに言い返すことができなくなって、ライアンは喘いだ。男の言葉に、彼の思考力は麻痺しつつあった。
 もともとライアンは〈旧市街〉以外の人間を快く思っていない。一度はヴァルトラントたちを認めたが、男の話を聞くうちにその判断が間違っていたような気になった。
 さっきは手を差し延べてくれた少年たちだが、明日はその手を引っ込めるかもしれない。彼らは〈アルター〉ではないのだ――。
 不意に、ライアンの心が疑心暗鬼に揺れる。
 その隙を衝いて、男は一気に少年の領域に踏み込んだ。覆いかぶさらんばかりに身を乗り出すと、声の調子をいままでの淡々としたものから感情を込めたものにガラリと変えて囁きかける。
「あのガキはたまたまフリーガーの息子だったというだけで、チャンスが勝手に舞い込んできた。なのにおまえはどうだ? 親から捨てられた挙句、食うのに精一杯で、夢を掴む手立てさえ探す暇もない。ホント、そんなの不公平だよな」
 男はそこで一旦区切ると、ライアンの反応を窺ってから言葉を継ぐ。
「そこで、あいつの鼻を明かしてやりたくはないか?」
「どうやって……」
 かすれた声でライアンは聞き返した。
「俺は知っているぞ。おまえには『素質』がある。訓練を受ければ、一流のフリーガーになれる。あのガキ――いや、その親父以上のフリーガーにだ。俺がおまえにパイロットの訓練を受けさせてやる。無駄な時間も費やさずにな。そしてあいつを打ちのめしてやれ」
「――っ!」
 悪魔の囁きが、ライアンの心を揺さぶった。こんな穏やかならぬことをいうこの男は、一体何者なのだ。
「あんた……」
 何者だ――と言いかけて、ライアンは気づいた。
 「子供を連れ去る男」の話は、昔から語り継がれている。それは単なる伝承ではなく、いまなお生きた存在として人々に恐れられていた。
〈笛吹き男〉ラッテンフェンガー……」
 身寄りのない〈アルター〉の少年は、力なく呟いた。
 男はわずかに目を細めただけで、少年の呟きを肯定も否定もしない。代わりにコートのポケットから、一枚の〈バーカルテ〉とメモを取り出して突きつけた。
「明日一日じっくり考えてみろ。それでチャンスを逃したくないと思えば、イブの日が始まるまでにそこへ来い。遅れたら置いて行く。そして、二度とおまえの前には現れない」
 男はそれだけ言い残すと、ライアンの返事も待たず、薄暗い小道の奥へと消えていった。
 その場に一人残されたライアンは、虚ろな目で闇の中を見つめながら、それぞれの手の中にある二種類の「機会」を握り締めた。

■森の少女■page 16