■森の少女■page 20

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 ヴァルトラントがエビネ准尉とともにパーティ会場であるホテル〈アッシュール〉に着いたのは、そろそろ招待客が姿を見せはじめようかという頃だった。
 ウィルと中将はもう少し遅れる。〈ワーム〉駆除が一段落したところへ、〈ヴァルトマイスター〉で火災が発生したという連絡が入ったためだ。
 現地の対応は、〈とねりこの森〉司令官とクリストッフェル少佐が、〈ヴァルトマイスター〉側と連携して当たっている。なので、消火と救助活動に関して心配することは何もない。だがウィルは万が一を考え、ある程度落ち着くまではカリスト司令本部で待機するべきだと判断した。
 しかしそれは建前で、「非常事態にかこつけ、パーティ会場にいる時間をできるだけ短くしたい」というのがウィルの本音なのだと、ヴァルトラントにはお見通しだったが。
「お疲れさま」
 迎えてくれたアリシアが、駐車場から全速力で走ってきた少年と准尉を労う。
 彼女には「少し遅れる」と伝えただけで、詳しい事情は話していない。だが軍人との付き合いは長い彼女だ。何か極秘の緊急事態が起こったのだと察し、遅刻を許してくれた。
 何度か深呼吸して息を整えてから、ヴァルトラントは応えた。
「遅くなってゴメン。ハズは?」
「中よ。いま仕上げ中」
 とアリシアは返すが、なぜか彼女の表情は硬い。
「そう」
 少年は奇妙に思いながらも、宴会場の近くに用意された控え室に足を踏み入れた。
「あのっ、ヴァルティ――」
「――!?」
 アリシアの呼び止める声と、少年が息を呑んで立ち止まるのは同時だった。
 五人の〈天使〉たちが、ヴァルトラントを睨みつけていた。
 部屋の中は本格的なショーの楽屋ほどではなかったが、衣装ケースや使われなかった小物が煩雑に置かれれおり、さきほどまでの混乱ぶりを窺わせた。しかし、いまは異様なほどに静まり返っている。
 張りつめた空気が見えない壁となって、戸口に立っている少年を押し返した。しかも鋭く光る五対の瞳が、その壁をさらに強固なものにしていた。
 どうやらヴァルトラントは、あまり歓迎されていないらしい。
 唐突に向けられた敵意に、ヴァルトラントは戸惑った。だが、それでも持ち前の度胸と人懐こさを発揮して、明るく挨拶する。挨拶は円満な人付き合いの秘訣だ。
ちわっターク
「……」
 しかし天使たちは、円満な付き合いなどヴァルトラントには求めていないらしい。無言で睨みつづけるばかりだ。
 彼らが自分の何を気に食わないのか判らず、ヴァルトラントは当惑して目をぱちくりさせた。彼らとは全くの初対面のはずだ。いきなり反感を買われる覚えはない。
「こっちこっち」
 突っ立ったままの少年を、アリシアが奥へと押しやった。ヴァルトラントは言われるまま、部屋の隅に設置された化粧台へと進む。
「ジェニ、この子もお願いね。私はちょっと会場の方見てくるわ」
「はぁい、お姐さん」
 鏡の前まで来ると、アリシアは六人目の少女の髪を梳かしている男のスタイリストに声をかけた。そして去り際、ヴァルトラントの耳元に囁く。
「ごめんなさい。悪い子たちじゃないのよ。私があの子たちの気持ちを、ちゃんと汲んであげられなかったから……」
 どうやら、アリシアと彼女のモデルである〈天使〉たちの間で、何かあったらしい。
「大丈夫、任せて」
 何があったのかよく判らなかったが、ヴァルトラントは額を曇らせているアリシアに大きくうなづいて見せた。こういう状況を巧く捌くのは、結構慣れている。
 頼もしげな少年の瞳に、アリシアは愁眉を開いた。そして「頼んだわね」とばかりに少年の頬を軽く撫でると、慌しく消えていった。いろいろと気苦労も多くて大変そうだが、それでも活き活きと働く彼女を、ヴァルトラントは眩しそうに見送った。
「あらっ、この子もまた可愛い顔して〜。さすがお姐さんだわ、見る目が違うわねぇ」
 ジェニと呼ばれたスタイリストが、ヴァルトラントの顔を覗き込んで言う。
 誉め言葉は素直に受け取る少年は、ニカッと笑い返した。そして隣でジェニに髪を弄られている少女に挨拶しようと化粧台へと向き直り、鏡を覗き込んで驚いた。
「ハズ!?」
 隣の席に座っているのはハズリットだった。雰囲気がいつもと違うので、全然判らなかった。
 声をかけられた少女は、少年の姿に少しホッとした顔を見せた。孤立無援の状態で、いままで心細かったのだろう。
 今日に限って、常にベッタリだったレンツ夫妻はいない。学会のパーティに呼ばれているとかで、どうしてもついて来ることができなかったのだ。
 たった一人で見知らぬ者たち――しかも敵意を感じさせる子供たちの中で、少女はどれだけ不安だったろう。
 止むを得ない事情があったとはいえ、ハズリットに心細い思いをさせてしまったことを、ヴァルトラントは悔いた。心の中で自分を罵りながら、面には穏やかな笑顔を浮かべて少女に詫びる。
「ごめん。ちょっとゴタついてて。それより――」
 謝罪に続き、着飾った少女を誉めようとしたヴァルトラントは、思わず言葉を失った。
 可愛いなんてものじゃなかった。〈アリシア・オーツ〉の専属モデルである他の天使たちとも充分張り合える――いや、それ以上だ。
 ふわふわの生地を何枚も重ねて作られた真っ白の衣装は、「天使」というより「雪の精」を彷彿させる。そして少女の碧の瞳を鮮やかに映えさせた。
 ジェニの手によって結い上げられていくアッシュブロンドの髪は、傷んだ部分を切って艶々と輝いている。
 ほんのりと紅をさした頬と唇が、なぜか少年をどぎまぎさせた。
「ちょ……ちょっと緊張するね。〈アリシア・オーツ〉のモデルたちに、俺たちなんか混じってていいのかなーなんて」
 ヴァルトラントは咄嗟に話題を切り替えた。正直な感想を言うのが、なんだか照れくさかった。
「そうね」
 ハズリットが素気なく答えるが、耳の奥で響く自分の鼓動でよく聞こえなかった。
 少年はギャロップしている心臓を宥めるため、少女から視線を外して宙を彷徨わせた。
 その拍子に、目の端で影が動いた。
 反射的にヴァルトラントが振り向くと、彼を睨みつけた天使たちが近づいてくるところだった。
「あんたたち」
 天使たちの中で一番背の高い少女が口を開く。
「エウロパでは見たことないけど、カリストの事務所に所属してるの?」
 どうやら彼女たちは、見慣れないヴァルトラントたちを、カリストで活躍するモデルだと勘違いしているようだ。
「えっと――俺たちモデルじゃないんだ。ミス・オーツの知り合いでさ。たまたま助っ人を頼まれただけなんだよ」
 ひょいと肩をすくめて、ヴァルトラントは答えた。
「ふーん」
 エウロパの少女は、値踏みするような視線を鏡の中のハズリットに投げつけた。ハズリットの存在が気になるらしい。
 一方ハズリットも、根は気の強い少女だ。怯むことなく、鏡の中から見つめ返している。
 俄かに、一触即発といった空気が漂いはじめる。慌ててヴァルトラントは声を張りあげた。
「俺はヴァルトラント、そして彼女はハズリット。俺たちこういうの初めてだから、いろいろ教えてくれると嬉しいなっ」
 内心冷汗、満面に笑みを浮かべて自己紹介する。
 こういう場合は下手に出ておくに限る。せっかくのパーティだ。楽しく過ごさねばもったいない。アリシアもそれを望んでいる。
 どこまでも能天気なヴァルトラントの笑顔と対応に毒気を抜かれたのか、少女は少し肩の力を抜いた。
「……リタよ」
 視線をハズリットからヴァルトラントに移した少女は、投げつけるような口調で自分も名乗った。そんな彼女に、ヴァルトラントはさらに笑いかけた。
「知ってるよ。〈アリシア・オーツ〉のサイトに、いつも写真が出てるでしょ? もちろん他のみんなも。子供モデルの中では最高の五人だ――って、アリシアがいつも自慢してるよ」
「ホントに?」
 険しかった少年少女たちの表情が、打って変わって明るくなる。アリシアに認められていると知って嬉しかったのだろう。照れたようにはにかんだ。
 リタもわずかに頬を緩めた。だが思い直したように引き締め直すと、胸を逸らせて忠告する。
「……まあ、あんたたちには遊びなんだろうけど、あたしたちにとって、これは『仕事』なの。〈アリシア・オーツ〉の名前を傷つけるようなコトしたら、絶対赦さないからね」
 この言葉に、ヴァルトラントはリタたちの気持ちを理解した。
 まだ子供とはいえ、彼女たちはプロなのだ。アリシアを崇拝し、〈アリシア・オーツ〉のモデルであることに誇りを持っている。余所者や素人に、神聖な職場を引っ掻き回されたくはないのだろう。だからリタたちは、人数合わせのためだけにヴァルトラントたちを起用したアリシアと衝突したのだ。
「了解った。リタたちの足を引っ張らないよう気をつけるよ」
 ヴァルトラントは片手を挙げると、真摯な態度で誓った。
 リタはしばらく、疑わしそうに彼の目を見つめていた。しかし、このまま睨んでいたところで埒は明かないと気づいたのだろう。
「その言葉、忘れないでよ」
 指を突きつけて念を押すと、リタは踵を返した。彼女の後に続いて他の天使たちも、そろそろ到着する客を出迎えるべく部屋を出ていった。
 天使たちの姿が見えなくなると、途端に張りつめていた空気が緩む。穏やかな時間が流れ出して、ようやくヴァルトラントはホッと一息ついた。
 そこへ、それまで手を揉み絞っていまのやりとりを見守っていたジェニが口を開いた。
「もう、ゴメンねぇ。気の強い娘で〜」
 心底申し訳なさそうな顔のスタイリストに、ヴァルトラントは肩をすくめることで応えた。そしてハズリットに向き直ると、不安そうな彼女にうなづいて見せた。
 のっけから波乱含みだが、それでも平穏無事にパーティを終えられると、少年は信じていた。

 宴は盛況だった。
 招待状を受け取った客のほとんどが出席し、アリシア・オーツの手によって華やかに演出された夜会を楽しんでいた。
 その客のあいだを縫うように、キャンディーやチョコレートの入った籠を手にした天使たちが飛び回る。
 さすがプロだけあって、リタたちの振る舞いは天使そのものだ。清らかさと、茶目っ気のある愛らしさを使い分け、大人たちの目を和ませている。
 ヴァルトラントも、彼女たちほど巧くなりきれていないという自覚はあれど、ハズリットとともに務めを果たせるよう精一杯努力した。
 少女が緊張で顔を強張らせているので、愛想を振り撒くのは少年の担当だ。手招きされてはてけてけと駆け寄り、満面の笑顔を披露する。ときには子供らしい会話で、大人たちに笑い声をあげさせた。
 いまのところ目立った失敗はないらしく、リタは時折軽く睨みつけるだけで何も言ってはこない。それに気をよくして、ヴァルトラントは積極的に動き回った。そうしながら、客をこっそり観察する。
 このパーティは、エリクソン大将の私的なものとされている。だがそれは表向きのことで、実際は様々な思惑が絡んでいるのだということを、ヴァルトラントはウィルから聞いて知っていた。
 主催者であるエリクソン大将は、数年後に自分が政界へ進出したときのことを見据え、一方出席者たちは、それぞれ大将や他の客たちが己にどのような利益をもたらしてくれるのかを密かに量っているというのだ。
 その辺の真偽を確かめようと、ヴァルトラントは大人たちに笑顔を向けながらさり気なく近づき、彼らの会話を盗み聞いた。大人たちは子供には警戒しないため、よほどのことがない限り会話を途切れさせることはない。「ここだけの話」といった興味深い話題が、聞きたい放題だった。
 三百人ほどの客のほとんどが、様々な業種の企業や政界関係者だ。軍人は、エリクソン大将のお気に入りと思われる将校がほんのわずかというところか。
 それらの顔ぶれは決して大物とは言えなかったが、若く野心に溢れている者たちばかりだ。いずれ各界の重要な位置につくであろうことは、ヴァルトラントにも容易に想像できる。彼らの動き次第では、カリストだけでなく〈機構〉までが大きく変わりかねないだろう。
 エリクソン大将は後方畑出身のうえに、前線で指揮を執ったことがない。だが〈機構軍・航空隊〉総司令官にまで出世できただけあって、そこまで無能でもなく、また処世術にも長けているらしい。案外武人であるよりも、文官である方が彼の性には合っているのかも知れない。そう考えると、彼の進路変更は、あながち悪いものでもないようだ。
 だからといって、いつも〈森の精〉への嫌味と〈グレムリン〉に対する小言を聞かされている少年は、大将に対する評価を良い方に変化させるつもりはなかった。それでも、いままでの「どうでもいい人」から、「ちょっと注意した方がいい人」程度にはランクアップさせはしたが。
 それに大将の人脈もなかなか興味深い。ミルフィーユやアラムたちと協力して、少し情報収集してみよう。年越し休暇のいい暇潰しにはなりそうだ――。ヴァルトラントは密かに、大将を自由研究の対象に定めた。
 当のエリクソン大将は、本物のもみの木を使った大きなツリーのそばで客の相手をしている。ヴァルトラントやウィルにはいつも小難しい顔しか見せない彼だったが、さすがに今夜はにこやかだ。
 彼の隣に寄り添う奥方は、アリシアが特別にデザインしたドレスに身を包み、誇らしげに他の女性客の称賛を受けていた。
 ジェニによると、彼女が〈アリシア・オーツ〉のドレスを着たいがために、アリシアに宴会の演出を依頼したのだという。どうやら職場では威張り散らしている大将も、奥方には頭が上がらないらしい。まあ大将の政治資金を奥方の実家が援助しているとなれば、そう簡単には上げられないのだろう。
 大将が政治家として成功するかどうかの鍵は、奥方が握っているということか――。
 自由研究の足がかりを掴んだヴァルトラントは、満足げに微笑んだ。近くにいた客がつられて微笑み返す。このあどけない天使が見せたのは、実は〈小悪魔〉グレムリンの微笑みだったのだ――などとは、よもや夢にも思わないだろう。
 少年はサービスとばかりに、今度は正真正銘屈託のない笑みを披露すると、その場を離れた。歩きながら、もう一人の〈俄か情報部員〉エビネの様子を窺う。
 ウィルはすでにヴァルトラントと同じ興味を抱いていたらしく、エビネ准尉に「できるだけ多くの招待客と話し、その会話の内容と顔を覚えること」という指令を与えていた。それを真に受けた准尉は、ひたすら任務に励んでいるというわけだ。
 准尉は意外にも、こういった場に出るのは慣れているらしい。まっさらな白い礼式制服を着た彼は、臆した風もなく階級の離れた上官や各界の要人たちと向きあっていた。普段〈森の精〉でウィルやアダルと接するときの方が、よほど緊張しているのではないかと思えるほどだ。
 そして、気取ったところもなく物腰も丁寧、容姿もどちらかといえば地味で、どこから見ても無害そうな准尉に、相手もつい気を許してしまうらしい。土星出身というのも、興味を惹く一因なのだろう。みな入れ替わり立ち替わり准尉に声をかけ、大いに盛り上がっていた。
 一方、准尉に命令を下した者はというと、情報源を女性客に絞っての諜報活動だ。まあどのような「機密」を収集しているのかは、あえて言うまい。
 妙齢の女性数人に取り囲まれたウィルは、紳士的な態度で彼女たちの相手をしていた。穏やかな営業用スマイルを浮かべてはいるが、内心は盛大ににんまりしていることだろう。そんな父を見たヴァルトラントは、思わず〈グレムリン〉の血が騒いだ。
「いま『ぱぱー』とか言いながら駆け寄ったら、どうなるかなぁ?」
 目でウィルを示しながら、少年はハズリットに笑いかけた。
「きっとあんたは、『やらなきゃよかった』と後悔することになるわね」
「……」
 少年の笑みが凍りついた。少女の答えは、確かに間違ってはいない。間違ってはいないが、しかし――。
 少女のクールな面にはもう慣れっこのつもりだったが、ここはやはり一緒にニヤリとして欲しかった。
 満面の笑みとは言わない。ほんの少し口の端を上げて見せてほしい。
 何度もこの難題に挑み、その度に玉砕してきた少年は、虚しさの渕に佇んだ。
「あ――」
 不意にハズリットが声をあげた。何事かと一瞬ドキリとする。戦々恐々とした面持ちで少年は目を向ける。
 ハズリットが真剣な眼差しで彼を見上げていた。碧色の瞳の少女は少年をじっと見たまま、おもむろに切り出す。
「これだけは言っておこうと思って――」
 決して軽くはない少女の口調に、ヴァルトラントは不安になる。いったい自分は、どんな宣告を受けるのだろう。
 間を置かずして、少女は言った。
「私――〈ディムナ・フィン〉に行くことにした」
 少女の口から飛び出した名称が、ヴァルトラントの脳を直撃した。
「〈ディムナ・フィン〉だって?」
「そう。まだ正式に返事はしてないけど、休みが明けたら先生にそう言うつもり。私、〈ディムナ・フィン〉で『いま一番学びたいと思ってる』植物学の基礎を学ぶ。きっかけを与えてくれたのはヴァルトラントだから、ちゃんと報告とお礼を言っておきたかったの。背中を押してくれてありがとう」
「……どう……いたしまして」
 力なく、ヴァルトラントは呟いた。確かに、彼女に「そのとき興味のあることを究めればいい」と言ったのは自分だ。そして彼女は、その言葉を受け入れてくれた。本当なら喜ぶべきことである。しかしヴァルトラントは素直に喜ぶことはできなかった。
 〈ディムナ・フィン〉はガニメデにある大学だ。遠い。遠すぎる。
 少年は「ハズリットが卒業する」ことの意味を、初めて実感した。
 卒業後に彼女が大学へ進むことは判っている。だが、それが「いままでのように顔を合わせることがなくなるのだ」ということに結びついていなかった。
 それに大学といっても〈無限の森〉か、遠くても〈ヴァルハラ〉辺りだろうと考えていた。もちろん根拠などない。少年の「無意識の希望」に過ぎないが、これならまだ彼の行動範囲内だ。会おうと思えば、いつでも会える。しかしカリストを出られると、そうもいかなくなる。
 少女が遠くへ行ってしまう――。そう思うと、ヴァルトラントは苛々してきて、無性に叫びたくなった。何でもいいから大声を出し、そこらにあるものをひっくり返して暴れたい。そうすれば、少しはこの気分も晴れるだろうか。
「ヴァルトラント?」
 突然押し黙ったヴァルトラントを、ハズリットは不思議そうに見上げた。
 会場内に流れる音楽がゆったりとしたワルツから、軽快なポルカに変わった。
 硬かったヴァルトラントの頬に、ぎこちない笑顔が浮かぶ。そして少女に訊ねる。
「踊らない?」
 即座に少女が答える。
「無理っ。踊り知らないっ」
「大丈夫。簡単だよ」
 ヴァルトラントはとんでもないと首を振る少女の手を取ると、ダンスフロアに向かって歩きはじめた。踊ることで、少しは遣る瀬無い気持ちを紛らわせることができれば――と、それだけを考えながら。
 ヴァルトラントは少女の手を引いて、テーブルや客のあいだを足早に進んだ。しかしあと数歩で踊りの輪が見渡せるというところで、テーブルを移動しようとした客が前に飛び出してきた。
「っと」
「あっ、ごめんなさ――」
 咄嗟に謝ろうと、少年は突進してしまった相手を見上げた。その瞬間、思わず息を呑んだ。ハズリットも相当驚いたのか、目を丸くして固まった。
 目の前に最年長のクラスメート、アントン・シュッツが立っていた。
「アントン!」
 何度か口をパクパクさせて、ようやくヴァルトラントは級友の名を呼んだ。
 アントンも意外なところで意外な顔に出くわし、きょとんとしている。しかしヴァルトラントの後ろにいる少女に気づくと、露骨に顔をしかめた。
「なんでおまえがいるんだよ」
 軽くドスの利いた声で、アントンは訊ねる。
「お手伝いだよ」
 彼が自分にではなくハズリットに向かって言ったことを承知で、ヴァルトラントが答えた。
「それよりアントンこそ、どうして?」
 続けて訊き返す。
「あー、おばあさまの付き添いエスコートだ」
 アントンはそう答えると、少し離れたところにいる年配の女性に目をやった。苦い顔で口をへの字に曲げる。どうやらその「おばあさま」が苦手らしい。
「本当は招待されたのは親父で、お袋と来るはずだったんだが――火事のせいで、〈ヴァルトマイスター〉に帰らなきゃならくなっちまってな」
 アントンの父親は、最近力をつけてきた〈ヴァルトマイスター〉の議員だ。市民第一でなければならない議員が火災で混乱した街を放って宴会など、由々しき事態だ。
 かといってシュッツ議員は、コネを作る機会も逃したくなかったのだろう。
 そこで「おばあさま」の登場だ。
 アントンの話によると、彼女は〈ヴァルハラ〉で都市整備関係の会社を営んでいるという。なかなかのやり手らしく、それが本当なら、出席できなかった息子の代わりは充分務められる。
 ヴァルトラントはふと、その「おばあさま」と話してみたくなった。しかしアントンに紹介してもらうのは気が進まない。シュッツ夫人には後でこっそりアプローチすることにして、いまは彼女の顔を覚えるだけにした。
「そうなんだー。じゃ、おばあさまによろしく。パーティ楽しんでね」
 素気ない相槌を打って、ヴァルトラントは話を切り上げた。
「おう、じゃあな」
 近くにおばあさまの目があるからか、アントンもさらに絡んでこようとはせず、あっさりと二人を解放してくれた。
 ヴァルトラントたちとアントンが同時に動く。そして級友の姿がヴァルトラントの視界から消えた直後――。
「おーっと!」
「あっ」
 わざとらしいアントンの声と、ハズリットの小さな悲鳴があがった。ハッとしてヴァルトラントが振り返る。すると。
 真っ白な衣装をオレンジ色に染めたハズリットが、目に飛び込んできた。
 彼女の頭上にあるアントンの手には、すっかり空になったグラスがある。
「わりぃ、よろけちまった」
 アントンは口では謝ったが、その顔には悪意に満ちた笑顔が張りついている。
「ワザとだろっ!」
 鋭くヴァルトラントが叫んだ。
「なんだよ。ちゃんと謝っただろ」
 不満そうにアントンは口を尖らせた。髪からオレンジジュースをしたらせているハズリットは、無言で彼を見つめている。
「またその目か。気に入らないんだよ、その目がっ。ちょっと自分が頭いいからって、俺を馬鹿にしてんのか、汚い〈アルター〉のくせにっ。どうせなら〈旧市街〉が焼けちまえばよかったんだ!」
「――!」
 ヴァルトラントが動いた。近くのテーブルにあったグラスを取る。そして中身をぶちまけようと狙いを定めた彼は、標的を目にして固まった。
 アントンはすでに生クリームまみれになっていた。茫然とするアントンの視線の先には、瞳に緑色の炎を宿したハズリットの姿があった。少女は空になった銀盆を手に、肩で息をしていた。そばのテーブルにあったケーキを投げつけたのだ。
 構えたままのヴァルトラントは、振りかぶった手をどうしようかと、ほんのわずか逡巡した。だが、結局おまけとばかりにぶちまけた。
 生クリームに続いて赤ワインを味わうことになった少年は、ぶるぶる震えながら真っ赤なった。
 数秒後、「酔っ払うにしては早すぎる」と思ったヴァルトラントの鼓膜を、アントンの怒声が震わせた。
「なにしやがる、この〈アルター〉!」
 幸いなことに、会場に流れる音楽と人々のざわめきが、彼の声を中和してくれた。それでも、ごく近くにいた客たちには聞こえてしまったようだ。決して少なくはない視線が、一斉に集まる。
「まあ、どうしたの?」
「君、大丈夫かね?」
 着飾った紳士淑女たちは、無残な姿となった少年と少女に向かって口々に声をかける。
「ところでいま、〈アルター〉って……」
「やだ。こんなところに〈アルター〉がいるわけないじゃない」
 話題にされたくないことは、話題にされてしまうものだ。客たちはアントンの暴言を聞き逃さなかった。人々は怪訝な顔でアントンとハズリットを見比べ、お互い聞いたことを確かめ合った。
 ひそひそ話は驚くべき速さで伝播する。このままだと人の目はさらに多くなり、パーティを台無しにしてしまうだろう。
「来いよ!」
 ヴァルトラントは素早くアントンの袖を掴むと、力いっぱい引っ張った。だが、アントンの方が力は強い。簡単に振り解かれてしまった。ヴァルトラントは琥珀色の瞳で睨みつけ、もう一度言う。
「おばあさまの顔を潰したくなかったら、来い」
「アントン!」
 タイミングよく、ヴァルトラントの声に老夫人の声が重なった。アントンが飛び上がった。さすがに身の危険を察したようだ。今度は自発的に動いてくれた。
 騒ぎが主催者に知れる前に、ここを出なければ――。
 が、時すでに遅し。何気なく振り返ったヴァルトラントは、ひきつった顔で自分を見ているエリクソン大将と目が合った。瞬間、冷たいものが背中を走る。
「やばっ」
 ヴァルトラントはクルリと向きを変えると、アントンを追い立てた。ところが今度は前方から、これまた凄い形相のリタがやってくるではないか。ヤバさ倍増である。
「やばやばっ」
 少年は素早く首を廻らせると、逃走ルートを瞬時に探し出した。即座に方向転換する。アントンが反応した。さすが運動神経は抜群なだけある。
 何事かと目を向ける客たちを掻き分けるようにして、少年たちはバンケットルームから飛び出した。ハズリットが小走りについてくる。さらにリタと二人の少年天使が追いかけてきた。
「あんたら何やってんのよ!」
 控え室へ向かうヴァルトラントたちの背中に、リタが怒りの言葉を投げつける。
「アントンがハズを侮辱した」
 ちらりと振り返って、ヴァルトラントは答えた。その拍子に手が緩む。その瞬間をアントンは逃さなかった。
 彼はヴァルトラントの手からすり抜けると、戦闘再開とばかりに喚きはじめる。
「こんなことして、ただで済むと思うなよ!」
「それはこっちの台詞だっ。ハズに謝れ!」
 つられてヴァルトラントも言い返す。
 声変わり前の甲高い声と、声変わり後の濁声が廊下に響く。行き交うボーイたちが、不審な目で振り返った。
「〈アルター〉に〈アルター〉と言って何が悪い。〈アルター〉のくせにそんな恰好したって、全然似合わねーんだよ」
 気が昂ぶっているアントンは、もはや衆目も気にせず言いたい放題だ。感情のままに侮蔑的な言葉を吐き出し、リタたちの目を瞠らせた。
 リタたちの目がゆっくりと、ヴァルトラント、そしてハズリットに向けられる。
 〈アルター〉を好意的に見る者は少ない。大多数の〈ノイアー〉と同じ感情を、リタたちは持ったに違いない。
「あんた〈アルター〉だったの?」
 案の定、リタはハズリットを睨みつけると鋭く咎めた。
 ヴァルトラントが返す。
「だったらどうだって言うんだよ」
「なら、早く言いなさいよ」
 リタはそう言うと、くるりとアントンに向き直った。顎をぐいと持ち上げ、仁王立ちになって凄む。
「でっかいにーさん、いまの言葉はちょっとスルーできないんだけど?」
「はあっ?」
 第三者からの唐突な宣戦布告に、アントンは素っ頓狂な声をあげた。彼だけでなくヴァルトラントもハズリットも、突然の援軍に思わず目をぱちくりさせる。
「〈アルター〉だから似合う似合わないは、関係ナイんじゃない?」
「……」
 すぐには状況が呑み込めず、アントンは即答できない。たっぷり一〇秒ほどかけて、やっと反撃を開始する。
「〈アルター〉はボロ着て、ゴミ漁ってりゃイイんだよ」
「ちょっと。〈アルター〉だって好きで貧乏してるんじゃないわよ。必死で生きてんだからね。それに、どうもあんたは〈アルター〉が気に入らないみたいだけど、〈アルター〉の大半が元〈ノイアー〉なのよ。〈新市街〉で落ちこぼれ、逃げてきた、情けない大人たち――。〈旧市街〉で生まれた生粋の〈アルター〉を、そんな連中と一緒にしてほしくないんだけど?」
「一緒に――って、おまえ……」
 気圧されてたじたじとなっていたアントンの目が、抜け目なく光った。
「あ!」
 リタの顔色が変わる。
 〈ノイアー〉の少年は勝ち誇った顔になると、高らかに声を張り上げた。
「〈アルター〉だな!」
「……だったらどうだって言うのよ」
 一度口から飛び出した言葉は、無かったことにできない。リタは開き直ったように、さっきヴァルトラントが彼女に返した言葉をアントンに返した。
 突然の展開に唖然としているヴァルトラントに、少年天使の一人が囁く。
「リタだけじゃなく、僕たちみんなそうなんだ」
 ヴァルトラントと同い年ぐらいと思われるその天使は、苦笑して肩をすくめた。
「そういえば……」
 ヴァルトラントはふと、アリシア・オーツの出身地を思い出した。彼女もまたエウロパの下町――カリストでいう〈旧市街〉の生まれだ。スタッフに同じ境遇の者を多く起用しても不思議ではない。
 これは、かなり拙い状況かもしれない。下手をすると〈アリシア・オーツ〉の醜聞になりかねないのだ。
 ヴァルトラントは内心舌打ちすると、煽りに乗せられかけている少女に声をかけた。
「リタっ――」
「どうって? 決まってるだろ」
 ヴァルトラントが制止するより早く、アントンが口を開く。勝利を確信したのか、彼は不気味な笑顔を浮かべている。その笑みは彼の内面を滲み出させ、それなりに整った彼の顔を醜く歪めた。
「おまえが〈アルター〉だって言い触らしてやる。おまえが〈アリシア・オーツ〉のモデルっだてのは知ってるんだからな。そんなことが広まったら、おまえの首だけじゃなく〈アリシア・オーツ〉も潰れるだろうな。誰も汚い〈アルター〉の着た服なんて、着たいと思わないモンな」
「な――っ!?」
 アントンの卑劣な言葉に、リタが絶句する。そして自分のしでかしたことに蒼ざめた。
 ヴァルトラントたちに〈アリシア・オーツ〉の名を傷つけるなと言っておきながら、自分が傷つけてしまったのだ。さっきまでの威勢はすっかり消え失せ、リタはうろたえた目でヴァルトラントに助けを求めた。
 しかし助けを求められた方も、咄嗟に言葉が出てこない。それでも、どうやってアントンを煙に巻こうかと頭をフル回転させる。
「そんなことで愛想を尽かされるようじゃ、私のデザインもまだまだってことね」
 不意に、背後から聞き慣れた声が聞こえてきた。
 誰もが反射的に振り向いた。
 いつの間にやってきたのか――ほんの数メートル後ろに、ドレス姿のアリシアが呆れ顔で立っていた。彼女の一歩後ろには、シュッツ老夫人を伴ったウィルの姿がある。
 老夫人はじっとアントンを見つめると、非難めいた口調で呟いた。
「アントン――私はいま、とても悲しいわ」
「おばあさま……!」
 祖母の登場に、アントンが色を失った。
「シュッツ夫人。ここでは何ですから、とりあえずあちらへ」
 失望の色をした瞳で孫を見ている夫人を、ウィルはそっと促した。アリシアが控え室へ導く。ヴァルトラントたちもそれに続いた。
 一〇分後――。大人たちの前に立ったヴァルトラントは、こうなった経緯を話し終えた。彼の両隣には、汚れた服を脱いだアントンとハズリット、そして不安顔のリタが立つ。二人の少年たちだけは、ジェニとともに会場に戻っていた。
「……事情は理解りました」
 椅子に腰掛けて話を聞いていたシュッツ夫人は、厳しい表情でうなづいた。
 まず自己弁明を始めたのはアントンだった。彼はヴァルトラントとハズリットを指し、自分の祖母に訴えた。
「こいつら、みんなの前で俺にケーキぶつけて恥をかかせたんだ!」
「よく言うよ。先にハズにジュースを引っかけたのは、アントンじゃないか」
 ヴァルトラントは、信じられない気持ちでアントンを見た。自分のやったことは棚に上げて、よく自分だけが被害者ぶれるものだ。
 シュッツ夫人も同じ気持ちだったのだろう。呆れたような溜息をつくと、孫の訴えを棄却する。
「アントン。それは、あなたがそうされても当然のことをしたからです」
「……盗みやかっぱらいの〈アルター〉を、懲らしめてやっただけだ」
 たしなめられたアントンは不満とばかりに口を尖らせると、言いわけがましく呟いた。
「この子たちが、あなたから何か盗ったというの? そうでないなら、あなたにこの子たちを裁く権利はありません。仮にそうだとしても、罰を与える役目は法と社会の秩序を司る方たちであって、やはりあなたではありませんよ」
 ぴしゃりと言い放った夫人を、ヴァルトラントは感嘆の思いで見つめた。こんな孫でも、彼女にとって可愛いはずだ。なのに贔屓することなく公正な目で判断し、孫の非を認めることができるとは――。「なかなかのやり手」という話は、単なるアントンの誇張だったというわけではないらしい。
「さあアントン。この子たちに謝りなさい」
 有無を言わせぬ口調でシュッツ夫人が言い渡すと、アントンは渋々といった態度でヴァルトラントたちの方へ向き直った。ヴァルトラントが素早く横に避ける。
 〈ノイアー〉の少年と〈アルター〉の少女が向かい合う。少女はまっすぐ少年を見上げた。しかし少年の視線は、彼女から大きく外れている。
 アントンはしばらくの間ためらっていた。しかしこのまま粘っていても許されることはないと理解ると、ようやく口を開いた。
「……悪かった」
 ひとこと吐き捨てるように言う。そしていきなり踵を返すと、脱兎の如く逃げ出した。その腕を、素早くウィルが掴んだ。ウィルは掴んだ腕をそのまま捻りあげ、アントンの耳に囁きかける。
「君が俺の息子なら、顔の形が変わるまで殴ってるところだぞ」
 やりかねない――と、本物の息子は思い、震え上がった。ウィルに脅された少年の祖母は眉ひとつ動かさず、聞こえなかったふりをした。
「大佐、もういいです」
 それまで無言だったハズリットが口を開いた。
「上辺だけの謝罪なんて、いくらもらっても嬉しくありませんから。ただ――『ミス・オーツたちに迷惑をかけない』とだけ、約束してほしい」
 アントンの「〈アリシア・オーツ〉を潰す」という言葉を気にしていたのだろう。少女は「それだけは妥協しない」という決意を込めた目を、アントンに向けた。
 ウィルが促すように、捕らえた少年を小突いた。
 それでようやく観念したのか、アントンは少女の要求を呑んだ。
「わかったよ――あ、う……了解りました。ミス・オーツたちの迷惑になるようなことは、絶対しません」
 横柄な口調で言いかけてウィルに睨まれた少年は、口調を改めて答えた。少女が満足したようにうなづくと、〈森の精〉司令官は少年を解放した。アントンは屈辱に顔を歪め、今度こそ部屋を飛び出していった。
「ロメスといい勝負しそうだな」
 ウィルの呟きに、ヴァルトラントとアリシアが思わず肯く。
 リタはアントンの見事な敗走ぶりに唖然とし、ハズリットは溜息とともに全身の力を抜いた。
「本当にお恥ずかしいかぎりです」
 恥じ入って呟いたシュッツ夫人が、おもむろに立ち上がった。彼女はハズリットの前に進むと、その前に跪く。少女が突然のことに身を引いた。老夫人はその小さな手を素早く取ると、自分の手の中に包み込んだ。そして誠実な態度で、少女に詫びた。
「あの子がきちんと謝ることもできずに育ってしまったのは、身内である私のせいでもあります。だから、私からも謝らせてください。本当に申し訳ないことをしました」
 そう言って夫人は頭を下げる。
 ハズリットが慌てて首を振る。
「そんな――私はもう気にしてませんから。顔を上げてくださいっ」
 少女は自分も跪くと、シュッツ夫人の顔を覗き込んだ。
「それに私……アントンが〈アルター〉を嫌う気持ちが、なんとなく理解るんです」
 シュッツ夫人が顔を上げた。目を瞬かせて少女を見つめる。ヴァルトラントたち他のみんなも、固唾を呑んで見守った。
「私だって、失ったものを取り戻す努力もしないで嘆くばかりの〈アルター〉に、腹が立つときがあります。それは私が心のどこかで、彼らを軽蔑しているからなんだと思うんです。だから、アントンに『〈アルター〉を見下すな』なんて言えません」
「あんただけじゃないわ。〈旧市街〉で生まれた子供たちはみんな、腑甲斐ない大人たちに腹を立ててる」
 リタが同意した。はっとしてハズリットが彼女を振り返ると、年長の天使は気まずそうな笑みを見せた。
 少女たちの心が通じ合う。そこへヴァルトラントが口を挟んだ。彼女たちの意見だけで結論づけるのはまだ早い。
「ハズやリタの気持ちはそうかもしれないけど、アントンの気持ちは違うと思う」
「どういうこと?」
 少女たちが同時に目を向ける。
「アントンは怖いんだよ。彼はスポーツはできるけど、勉強は全然だろ? もし何かの事情でスポーツができなくなったとき、自分は他に何ができるのか――って考えて、不安になってるんだと思う。『自分が〈アルター〉になるんじゃないのか』って」
「なるほど。その不安を紛らわせるために、〈アルター〉を憎むわけか」
 ウィルが合いの手を入れた。ヴァルトラントは父に肯き返すと、言葉を継いだ。
「そしてハズたちが〈アルター〉――というか、腑甲斐ない連中に腹を立てるのは、彼らのことを想ってるからじゃないの? 軽蔑してるんじゃなくて、『もっとしゃんとしろ!』って歯痒く思ってるんでしょ?」
「……」
 ハズリットは答えなかった。考え込むように俯く。
 しばらくのあいだ、少女は口を閉ざしていた。が、やがて思い切ったように顔をあげた。
「私、〈旧市街〉に住む人たちに希望を持ってほしい。未来を諦めないでほしい。挫折しても、立ち直ってほしい」
 はじめは弱々しかった少女の声が、どんどん力強くなる。そして最後は、部屋の空気を震わさんばかりとなった。
「そのために、〈旧市街〉を希望の持てるような街に造り替えたいんです!」
 それは少女の密かな野望だった。
 ヴァルトラントは初めて知るハズリットの想いに、胸を衝かれた。
 冷静な少女は、胸の内にこんな熱い想いを隠していたのか。彼女は他人には無関心で、己の智を追究することだけに関心があるのだと思っていた。しかし本当はずっと、他人や周囲のことに関心を持っていたのだ。
 しかし頬を紅潮させて想いを吐き出した少女は、不意に顔を曇らせた。さっきまでの勢いが嘘のように消え失せる。
「でも、どうすればいいのか判らないし、自分にできるかどうかも判らない。けど、それでも、疲れてやってくる人たちが癒されるような街にしたい」
 力なく呟いたハズリットは、そこで口を閉ざした。俄かに静寂が部屋を満たした。
 しかし――。
「それは素敵な考えだわ!」
 それまで豆鉄砲を喰らったような顔でハズリットを見ていたシュッツ夫人が、唐突に手を打った。その表情は妙に嬉しそうだ。彼女はびっくり眼の連中をよそに、感嘆の声をあげる。
「私も常々、〈旧市街〉をなんとかしたいと思っていたんですよ。だってせっかく造ったのに、整備の手が回らないからって放ったらかしにされているなんて、街が可哀想なんですもの」
 夫人の口調はそれまでの威厳あるものから、夢見る少女のようなものへと変わった。その顔は、いい考えが閃いたヴァルトラントや、興味あるものを見つめるハズリットのように活き活きとしている。
「ねえ、私もその計画に加えていただけないかしら? 〈機構〉は近々、森林整備のために〈旧市街〉区画の閉鎖を考えているようだけど、私は閉鎖なんてさせたくないの。私たちのお祖父さんやそのまたお祖父さんたちが、苦労して造ったものですもの。彼らがその街に抱いていた希望を、再び私たちが蘇らせる――なんて素敵なことだと思わない?」
 自分の意見に酔いしれたように語る夫人に、ハズリットは呆然とするばかりだ。ハズリットだけでなく、ヴァルトラントたちも――と、思いきや。
 アリシアが進み出た。
「奥様。私もお手伝いさせてください。実は私もスラムの出で、これまでやる気のある同朋を手助けしようと努めてきました。ですが、やはり個人の力では限界があります。もし、もっと多くの〈アルター〉が救われる方法があるのなら、私もできる限りのことをしたいと思います」
「わ、私も!」
 遅れてなるものかとばかりに、リタも手を挙げる。
 シュッツ夫人は嬉しそうに、アリシアとリタに微笑みかけた。そしてハズリットに向き直ると、小首を傾げて彼女に言う。
「ね? 一人では大変だけど、たくさんの同志を募ればできないことはないわ」
 ハズリットは自分の言葉がもたらした結果に言葉も出ない。呆けたように、微笑む夫人を見つめている。しかし夫人に小さくうなづきかけられると、つられるように首を上下に振った。
 夫人やアリシアたちが歓声をあげる。
「では、もう少し具体的なことを考えましょ!」
 女性たちはテーブルの周りに椅子を引き寄せると、頭を寄せ合い今後の活動方針とやらを練りはじめた。
 話題にとり残された男たち――ヴァルトラントとウィルは、呆気に取られてその光景を見つめるばかりだ。
「俺たちは遠慮した方が良さそうだな」
「……うん」
 居場所を失った男たちは、すっかり会議室に変わってしまった控え室から退散した。
 廊下へ出たヴァルトラントは、ちらりと背後を窺った。閉まりかけるドアの隙間から、溌剌と語る少女の姿が見えた。少年は安堵の息をついた。少女に不愉快な思いをさせたままでは帰れないところだった。
 扉が完全に閉まるまで、少年は少女を見ていた。そして扉が閉まりきる直前――。
 ハズリットが顔をあげた。
 不意に少女の表情が和らぎ、口元がわずかに持ち上がる。
 その瞬間、ヴァルトラントは本物の天使に連れ去られそうになった。

■森の少女■page 20