■森の少女■page 22

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 酒に酔う客たちの騒ぐ声が聞こえてくる。
 この〈はしばみの森〉ハーゼルヴァルトは、〈無限の森〉近郊の町に数えられる。だが宇宙港〈ムニン〉をひっきりなしに飛び立つシャトルのエンジン音は、意識していないと気づかないほど遠く、〈はしばみの森〉駅周辺の賑わいにすっかりかき消されている。
 不意に近づきそして去っていくざわめきは、風に乗って届くかすかな潮騒にも似て、漠然とした郷愁を覚えさせた。
 酒場〈子羊亭〉の倉庫兼事務所として使っている部屋で、机に肘をついてぼんやりとニュース番組を映すディスプレイを眺めていた〈フェンガー〉は、ふと胸中をかすめた想いに気づいて自嘲した。
 本物の海など見たことないくせに、何が懐かしいというのだ――。
 生まれたのは赤い砂の舞う惑星だった。人工的に造られた貯水池は、到底「海」などと呼べる代物ではなく、蒸散防止剤で覆われた水面は音を立てるどころか波立ちもしない。
 不自然な金属光を放つ大きな「水溜り」と、それを取り囲むわずかな緑地帯、そしてさらにそれらを呑み込もうとする赤い砂礫の荒野が、彼にとっての故郷の風景だ。だから同居人が好んで見ていた地球の映像に、特別な感情を抱いたことはない。
 そもそも〈フェンガー〉は、地球再生などには興味がなかった。彼が組織に身を寄せているのは、他に目的があってのことだ。地球の自然がどう変わろうと、その目的の前には些細なことであった。
 なのに理由わけもなく、海の音を懐かしいなどと思ってしまうとは――。決して、同居人に影響されたわけではないはずだ。きっと、溜まった疲れが感傷的な気分にさせたのだろう。なにしろ、このところ働きづめだったのだから――。
 睡魔が忍び寄ろうとする頭でそんなことをつらつらと考えていた〈フェンガー〉は、厨房の入口に人の気配を感じて意識を引き戻した。
 間をおかず、ここの主人が姿を現す。〈フェンガー〉の好物である果実ビールクリークを手にした初老の親父は、人好きする愛想のいい顔とはおよそ似つかない機械的な口調で〈フェンガー〉に報告する。
「〈積荷〉は無事、出港したってよ」
「すまんな」
 差し出されたビールを受け取りながら、〈フェンガー〉は応えた。〈無限の森〉で働く仲間は、彼が選んだ子供たちをちゃんと「新しい世界」へと送り出してくれたようだ。
 貨物船や仮装商船に乗せられた子供たちは、太陽系に散らばる同志の許へと送られ、その子の素質に合った教育と、組織への忠誠心を「刷り込み」される。そして数年後には、頼もしい組織の「力」となるのだ。
「で――結局、あの『天才少女』とやらはどうするんだ?」
 よっこらしょと近くにあったビールケースに巨体を下ろした親父は、そう言って自分の分のクリークを呷った。
「〈番犬〉の睨みがきつくなったんで、いまはちょっと手が出せん。ま、そのうち何とかするさ。もう少し〈機構〉の技術を手に入れてもらって、適度に熟したところをいただく――ってのも悪くないしな」
 答えた〈フェンガー〉は、狐に似た細面に狡猾そうな表情を浮かべた。
「『刷り込み』するなら、ガキの方がイイんじゃないのか?」
「別に『刷り込む』必要はない。研究者なんて人種は、知的好奇心を刺激し、それを満足させる設備を整えてやれば、簡単に食いつくモンさ。その研究が、非平和的な何かの開発と紙一重になってると理解っていても――な。慌てることはない」
 自分が引き抜いた研究者たちを思い浮かべた〈フェンガー〉は、口元を皮肉に歪めた。
「そんなもんかねぇ」
 半信半疑で首を傾げた親父に、〈笛吹き男〉は「そんなもんさ」と欠伸まじりに答えた。そして話題の終了を告げるようにクリークを一口含んだ。
 だがさらにもう一口飲もうとして、動きを止めた。眉間に険しいしわを作り、裏通りに面した小窓へ鋭く目を走らせる。
 直後、窓を影が横切った。
「どうした?」
「シッ!」
 〈フェンガー〉は声をあげる主人を制し、顎をしゃくって裏口を示した。机の上に瓶を置き、ショルダーホルスターから拳銃を抜きつつ立ち上がる。いつでも撃てるようスライドを引いて薬室に初弾をこめ、猫科の俊敏さで裏口から死角になる場所へと移動する。
 〈フェンガー〉が背の高い食料品棚の陰へ身を隠すのと、インターホンのチャイムが鳴るのは同時だった。
 目で指示を仰いできた親父に、〈フェンガー〉は待てと合図する。
 チャイムは三〇秒ほど沈黙していたが、もう一度高く澄んだ音を奏でた。
 それでも応答せずいると、訪問者は待ちきれなくなったようだ。扉を激しく叩きはじめた。
 そこでようやく〈フェンガー〉は肯いた。
 酒場の主人がのっそりと動く。戸口に立ち、覗き窓から外を窺う。
「誰だ? 酒が飲みたいんなら、表へ回りな」
「ああ!」
 胡乱げな店主の誰何に、訪問者は安堵したような声を洩らす。そして一拍おいて捲くしはじめた。
「マルコだ! 開けてくれよ。〈フェンガー〉来てるんだろうっ?」
 聞き慣れた声に、〈フェンガー〉は忌々しげに舌打ちした。てっきり同居人と一緒だと思っていた。レイはどうしたのだ。足手まといになるからこっちに押し付けたのか?
 もう一度小さく舌打ちした〈フェンガー〉は、空いた方の手で携帯端末を取り出すと、レイの端末を検索した。
 瞬時に表示された結果を確認して、眉をひそめる。
 ポインタが指す〈旧市街〉の建物は、あの少女の住むアパートだ。だが少女は現在そこにはいないはず。母親は自分たちを〈狩る〉ために走り回っている――いや、連中は失敗した。いまは別のチームと交代し、解散しているかもしれない。
 ああ、だからマルコを遠ざけたのか? もしそうだとすると……。
 ある可能性に辿り着いた。
「〈フェンガー〉! 〈フェンガー〉!」
 仮の名を呼びつづけるマルコの声に、〈フェンガー〉は思考の海から引き戻された。裏口に目をやり深呼吸する。
 〈フェンガー〉は決断した。一度目は赦されたが、二度目は赦されない。監視する者として、組織を崩壊させる要因は排除しなくてはならない。
 ドアを壊しかねないマルコの勢いに、親父は「どうする?」と目で問いかけてきた。
 マルコを連れて行く気はない。彼はいつも肝心なところで足を引っ張ってくれる。手足の早さと溢れんばかりの「やる気」を買ったのはいいが、とんだ見込み違いだった。
 はじめの内は、これまで拾った子供たちのように仕込めばモノになるかと思い、使い走りなどをさせていた。が、拾って数ヶ月経ってもモノになるどころか、「やる気」が干上がる一方だ。そのうえ「薬」に逃げるようになった。
 もはやこのガキを連れて行っても、使い物にはならない――。
 〈フェンガー〉はレイの意見にあまり共感を覚えることはなかったが、この件に関しては無条件で同意できた。
 だがマルコはもうしばらく生かしておく。最後に一仕事してもらう。だがそれには自分への絶対的な服従を刷り込む必要がある。
 一度突き放し、その後手許に引き寄せてやる――。
 瞬時に任務遂行の段取をつけた〈フェンガー〉は、首を横に振って追い返すよう指示した。それに肯いた親父は、さも迷惑そうな声でマルコに告げる。
「そんな奴はいない。酒を呑みに来たんじゃないなら、帰ってくれ」
「何言ってんだ? 俺だよ、マルコだ。前にも〈フェンガー〉のパシリで来たじゃないか――あ、ええと……『〈ビールのサイダー割り〉ラドラー飲ませてくれよ』!」
 マルコはなんとか扉を開けさせようとして、以前使い走りで寄越したときに使わせた合言葉を口走る。しかし親父もこういったことには慣れている。頑として扉を開けようとはしなかった。
「悪いが売切れだ。飲みたきゃ余所へ行きな」
「待てよ! 開けろよ! 〈フェンガー〉いるんだろうっ!? 〈フェンガー〉っ!」
 マルコは扉の向こうで喚く。
「出て来いっ〈フェンガー〉! この口先野郎っ! 俺は意地でもついてくからなっ。裏切ったら承知しないぞ。〈ノイヤー〉なんてクソ喰らえだ。馬鹿にすんなっ。俺は選ばれたんだ。選ばれたんだからな――」
 はじめは意味の通ったことを捲くしていたが、段々支離滅裂になっていく。
 しまいに脈略のない単語が飛び出しはじめ、〈子羊亭〉の親父は眉を顰めた。〈フェンガー〉の許へと退散して訊く。
「薬をやってるのか?」
「らしいな」
 〈フェンガー〉は以前レイに答えた時のように、さも他人事とばかりに言い放った。バーカルテをこれ見よがしに放置し、息のかかった密売人を若者に近づけたのは彼だったが、そんな素振りは微塵も見せない。
「あの調子で騒がれるのは、近所迷惑なんだがな」
 困り顔で親父は訴える。
「すぐに、その辺のチンピラがなんとかしてくれるさ」
 手にしていた拳銃をホルスターへ戻しながら、〈フェンガー〉は肩をすくめた。親父はもうつき合いきれんとばかりに首を振り、若いバーテンに任せていた店へと戻っていった。
 ほどなくして、マルコの声に別の声がいくつか重なった。予想どおり、近所の酒場の用心棒たちが出てきたらしい。店の裏とはいえ、近くでワケの分からないことを喚き続けられるのは鬱陶しいのだろう。
「うるせぇぞ!」
「ここでギャーギャー騒がれちゃ営業妨害だ」
「痛い目に遭いたくなかったら、さっさと消えろ」
 チンピラたちはお決まりのセリフを吐く。しかし扉を開けさせることに執着しているマルコには、連中の苦情などただの雑音に過ぎないらしい。依然、喚くのをやめなかった。
「てめぇ!」
 穏便にお引取りいただけないと悟ったチンピラたちは、強制排除に踏み切ったようだ。一瞬マルコの声が途切れ、その直後に派手な音が響く。店の裏に出されていたゴミや空き瓶の山に、マルコを突き飛ばしたのだろう。
 しばらく耳障りな音が裏通りを賑わせた。チンピラたちの怒声に混じって、マルコの情けない悲鳴が聞こえる。
 放っておけば、殴り殺しかねない雰囲気だった。だが用心棒たちも、自分が社会的にどういう立場なのかを弁えているはずだ。少年一人のために、当局から目をつけられるような真似などしないだろう。その証拠に、騒音は「もうその辺にしとけ」という声と同時にピタリと止んだ。
「向こうの路地裏にでも、放り込んでこい」
 兄貴分らしい男の声がもう一度し、それに応えた舎弟たちの足音と、重いものを引きずる音が遠ざかってゆく。
 それを合図に〈フェンガー〉は動いた。彼は事務机の脇においてあった鞄を拾い上げると、わずかな所持品の中から必要なものを取り出す。そして残っていたクリークを飲み干し、外へ出た。
 裏通りには、再び酒場の喧騒が戻っている。
 そのざわめきを遠くに聞きながら、〈フェンガー〉は空を見上げた。そしてこの空の下を歩くのが好きだった青年の運命に、思いを馳せた。

 絶え間なく襲ってくる痛みが、空中を彷徨っていた少年の意識を引きずり下ろした。薄く開けた目に、真上から射し込む陽の光が突き刺さる。
 痛みと眩しさに顔をしかめたマルコは、わずかに身動ぎした。その瞬間、それまで以上の激痛に襲われる。
 あまりの痛さに起き上がるのを断念した若者は、とりあえず目だけを動かして周囲を窺った。
 視界がせまい。瞼が腫れているのだろうか、正面だけが明るく、目の端へいくほど暗くなる。だが目が光に慣れるにつれ、それが瞼のせいだけではないと判った。
 左右に巨大な壁が聳えていた。正面に見えるのは空だ。縦一文字に切り裂かれた隙間を埋める蒼穹に、小さいが暖かな光を降り注ぐ太陽が顔を覗かせている。
 ゆっくりと首を捻ってみる。視線は明り採りの小窓が並ぶ外壁を滑り、その足元に向かって移動した。後頭部が硬いものに擦れる。背中から冷えが忍び寄ろうとしている。
 どうやら自分は、建物と建物の隙間に寝転がっているようだ。
 チンピラたちも、商売の邪魔になる奴を追い払えれば充分だったのだろう。適当に痛めつけて、人目につかない路地に捨てていったらしい。
 覚束ない頭で自分の置かれた状況を把握したマルコは、痛む腕を動かし、埃まみれになったピーコートのポケットを探った。指先に小さなタブレットケースが触れる。
 ケースは市販されている酸素錠O2タブのものだが、中身は違う。〈フェンガー〉のバーカルテで買った、〈幸せの素〉グリュックだ。
 少年はケースから〈グリュック〉の粒を取り出し、口に含んだ。そしてそのまま数分待つ。すると徐々に脈打つ疼きが薄れてゆく。ある程度痛みを感じなくなってから上体を起こし、よろめきながら立ち上がった。幸い、それほど酷い怪我はしていないようだ。足元がかなりふらつくが、歩けないことはない。
 少年はもう一粒〈グリュック〉を含んだ。これで痛みは気にならなくなるはずだ。
 このままここでじっとしているワケにはいかない。早く〈フェンガー〉――もしくはレイを見つけなければ、自分は置いてけぼりを喰ってしまう。
 自分はこのままでは終わらない。このまま飢えと寒さに苦しむ、惨めな人間では終わらない。世界を手玉に取るような大物になる。自分を蔑む目で見ていた奴ら、痛めつけてくれた奴らを震え上がらせてやるのだ。
 いまは何の力もないが、〈フェンガー〉たちが変えてくれる。自分に力を与えてくれる。だから〈フェンガー〉についていく。
 〈フェンガー〉、〈フェンガー〉、〈フェンガー〉――!
 〈グリュック〉の効果で、次第に思考力が失われていく。判断力は麻痺し、彼を動かすものは昏い妄想と執念だけとなった。
 マルコは焦点の合わない目を数歩先の地面に据えると、よたよたと足を進めた。
 ところが数メートル進んだところで、彼の進路は何者かによって遮られてしまった。
 若者はゆっくりと顔を上げた。
 黒いコートの男が立っていた。見覚えのあるその顔に、マルコは手放しかけていた正気をわずかばかり取り戻した。
「……〈フェンガー〉?」
 マルコが恐る恐る確かめる。男は薄く笑った。
 その瞬間、若者は〈フェンガー〉の胸に飛び込んだ。二度と離すものかとコートにしがみつき、かすれた声を振り絞る。
「〈フェンガー〉、〈フェンガー〉! 俺を置いてかないでくれよ。一緒につれてってくれよ!」
 しかし〈フェンガー〉は冷たい笑みを浮かべるだけだ。
「〈フェンガー〉……」
 力尽きるようにマルコは男の胸に顔を埋めた。その彼を〈フェンガー〉は荒っぽく引き剥がした。
 胸倉を掴まれ軽く持ち上げられた若者は、息苦しさに歪んだ顔を上げた。目の前に〈笛吹き男〉の冷たい灰色の瞳があった。
 マルコを覗き込んだ〈フェンガー〉が囁く。
「そんなに連れていって欲しいのか?」
 マルコは何度も肯いた。
「いままでのおまえは、本当に役立たずだった。どれだけ俺を失望させたと思ってる」
「……もう失望させない。言われた仕事はきちんとやるから。お願いだ、〈フェンガー〉」
 親に叱られる子供のように、マルコは哀れな声で赦しを乞うた。
「なら、おまえがそれに値する者かどうか示してみろ。ちゃんと示せたら、連れていってやる。おまえの望みを叶えてやる」
「やるっ。ちゃんとやるっ」
「本当だな?」
「本当だ」
 疑いの目で見る〈フェンガー〉に、マルコは誓った。本心だった。連れていってもらえるのなら、どんなことでもやり遂げるつもりだった。
「いいだろう」
 〈笛吹き男〉は満足そうに口の端を持ち上げると若者を解放し、コートの内ポケットから手に収まるほどの小さな拳銃を取り出した。そしてそれをマルコの手に押し込み、淡々とした調子で言う。
「レイを殺せ。あいつは〈我々〉を裏切るつもりだ。いま始末しておかなければ、俺たちが死ぬ。そうならないために、裏切り者を殺せ」
 そのとき正常な思考力があれば、マルコは〈フェンガー〉の課題に戸惑っただろう。しかし再び正気を失いつつあった若者は、何の疑問も抱かなかった。
「あいつは〈ヴァルトマイスター・旧市街〉の、〈楽しき郷〉というアパートにいる。急げ」
 こくんと肯いたマルコは銃をピーコートのポケット押し込み、人影も疎らになった表通りを〈試験会場〉目指して歩きはじめた。

 無数の冷たい水滴が、熱を帯びた肌と心を現実へと呼び戻す。
 半ば放心状態で頭からシャワーを浴びていたリディアは、ふと自分の身体に視線を落として顔をしかめた。
 まだ張りのある豊かな乳房に、薄紅色の痕が浮かんでいる。何度も求め合い肌を重ね合った、そしてリディアが再び罪を犯した証として、それはそこに存在した。
 何度同じ過ちを繰り返せば、気が済むのだろう。清算するつもりがさらにツケを増やしてどうするのだ。全く、自分の意志の弱さに愛想が尽きる。
 苦い顔で淡桃色の痣から目を背けたリディアは、石鹸を手にとると直接肌に当てて擦りつけた。肌に残る彼の感触を――いや、自分自身の存在を洗い流してしまいたかった。
 小さくなってゆく石鹸が自分であればいいと思う。そうすればもう、これからのことを考えなくてすむ。
 ふと、彼女の中に仄昏い影が落ちた。
 いっそ自分が消えてしまおうか。
 しかし独りで残される娘のことを考えると、実行するのはためらわれる。
 ――いや、あの子は独りでも充分生きていける。そのように育てたのだ。その証拠に、これまで自分が留守にしていても、ちゃんとやっていたではないか。なら、ほとんど家にいたことがない母親がずっといなくなったとしても、構わないのではないか――。
 闇の底から忍び寄る誘惑に、リディアは魅せられた。
 気づいたときには化粧品を収めている棚に手を伸ばし、奥に隠してあったバタフライナイフを引っ張り出していた。柄を開き、丹念に研ぎあげた刃を露わにする。そして刀身に映る自分の眼をじっと見つめた。
 髪から滴る雫が、照明を受けて光る刃の上で散った。目を閉じ、ゆっくりとナイフを引き寄せ、左の首筋に当てる。刀背に軽く手を添え、息を整える。
 そして一気に引こうとした。
「お母さん!」
 閉じた目の裏に娘の姿が浮かび、その声が耳を打った。
 はっとして、リディアは目を開いた。ハズリットが帰ってきたのか? 首にナイフを押し当てたまま石になる。
 だが目の前に娘の姿はなく、流れつづける水音だけが浴室を満たしていた。
「あぁ……」
 全身の力が一気に抜けた。壁に手をつき、崩れ落ちそうになる身体を支える。手からこぼれた小刀が、足元で硬い音を立てた。
 項垂れたリディアの頬を、熱いものが伝い落ちる。自分は本当に馬鹿な女だと思った。駄目な母親だと痛感した。
 ハズリットは、己の感情を殺すことによって耐えていた。それに気づいていながら、自分は罪から逃れることばかりに拘っていた。自分の苦しみから解放されたいがために、娘を苦しめていた。
 レイを始末することが、贖罪だと信じていた。しかしそれは違う。
 犯した罪は消えない。一生背負っていくしかないのだ。その苦しみこそ自分に与えられた罰であり、裏切ったものへの贖罪なのだ。
 帰ろう。自分を本当に必要としている者の許へ――。
 顔を上げたリディアの瞳に、もう迷いの色はなかった。

「勝手に冷蔵庫を漁ったよ」
 テーブルの上に暖めなおした七面鳥と付け合せ、冷凍庫にあったパンを焼いて並べていたレイは、石鹸の香りをまとわせたリディアに声をかけた。
 彼女の表情は妙に清々しい。その理由をレイは鋭く感じとっていた。
 リディアは選んだのだ。女であることと母親であることのいずれかを。
 レイは安堵感と、かすかな喪失感を覚えた。彼女がもう自分自身を責めなくなるのは嬉しい。だが彼女が選び取ったものが自分ではなかったことが、少し寂しかった。
「さ、座って」
 レイは自分の気持ちを笑顔の下に隠し、バスローブ姿の女性に椅子を勧めた。夕べ見せた女の顔を消し母親の顔になった彼女は、「美味しそうだ」と呟いて顔をほころばせた。
 和やかに朝食は始まった。一つの皿から料理を分け合いながら、取り留めのない会話を交わす。話題の選択はお互いに慎重だったが、いつになく楽しい気分で料理を味わった。
 七面鳥は温めなおしても美味かった。料理人の腕がいいのだとリディアは言い、満足そうにパンに挟んだ鳥肉を頬張っている。レイはそんな彼女を綺麗だと思った。
 いつ彼女に惹かれたのかは判らない。
 自分は、寝返ってきたという彼女の目付けだった。彼女の面倒を見ながら、その動向を監視する。必要以上に近づくことは許されていなかった。だが彼女と接するうちに、そのことを忘れてしまった。
 彼女が自分を利用しようとしているのは判っていた。けど自分は構わなかった。仲間を裏切ることになるかもしれないとは思ったが、彼女の温もりはその懸念を忘れさせるほど心地よかった。それに、次第に素顔を見せはじめた彼女が、本当に〈機構〉から寝返ってくれるかもしれないという淡い期待を抱いていたというのもある。
 若かったと言えばそれまでだ。そう、自分は無知で若かった。
 彼女は〈機構軍〉が送り込んだ工作員だ。徹底的に訓練され、彼女の属する組織への忠誠心を叩き込まれている。敵である青年と心を通わせたからといって、そう簡単に相反する思想を受け入れるはずはないのだ。
 その証拠に彼女は見事任務を遂行し、自分はまんまと踊らされた。
 もし二人の出逢いが違ったものなら、どうなっていただろう。殺伐とした事柄とは無縁の毎日を送り、こんな風に語らいながら食事を摂っていたのだろうか。
「レイ――」
 不意に声をかけられ、レイは自分が想いに耽り過ぎていたことに気がついた。
「え?」
 我に返って目をぱちくりさせる。そんな彼にリディアは静かに告げた。
「もうすぐ、あの子が戻ってくる」
 彼女の声は低く小さかったが、レイの耳には充分届いた。
 二人の時間が尽きようとしていた。
 リディアが促したということは、レイを娘に会わせたくないということだ。それは全ての関係をここで断ち切るという意味でもある。ラムレイ母子の間にレイという存在は必要ないのだ。
 ではレイにとって、彼女たちの存在はどうか。
 リディアに対する気持ちに偽りはないし、いまでも変わらない。彼女との生活にも興味はある。
 しかしハズリットに関しては微妙だ。
 レイは少女を手に入れたいと考えていたが、それは父親としてではない。
 彼にとって、ハズリットは自分の夢を叶えるための駒でしかなかった。〈フェンガー〉が集めるのと同じ、〈我々の子供〉の一人だ。
 なにしろ「カリストの天才少女」の話題が〈ユニバーサルネットワーク〉を賑わすまで、彼はその存在を知らなかったのだ。しかもその少女が自分の血を引いていると判ったのは一年前――カリストへ潜入してからだった。生まれた瞬間も、大きくなっていく姿も記憶にない。地下鉄での邂逅は少女に対する彼の認識をほんのわずかだけ変えたが、それでも「我が子」という実感を持つには至らなかった。そしてその気持ちは、いま現在も変わらない。
 やはり彼女たち同様、自分にも「家族」という存在は必要ないのだろう――と、レイは結論づけた。
「理解った」
 レイは呟くと席を立ち、手早く身支度を整えた。リディアは無言でその様子を見つめていた。感情を面に出さないようにしているが、その瞳は彼女の複雑な心境を映して、かすかに揺らいでいる。
 部屋を一歩出れば、また以前の追う者と追われる者の関係に戻る。
 次に出逢うことがあれば、そのときこそ自分は死ぬだろう。リディアは己の苦しみを取り除くためには撃てなかったが、娘を守るためなら躊躇なく撃つはずだ。
「じゃあ」
 玄関先でコートを羽織ったレイは、リディアに向かって微笑んだ。
「じゃあね」
 リディアもわずかに笑みを返した。彼女の青い瞳が潤んでいるように見える。それは、レイがその地表に降り立つことを夢見た惑星の姿に似ていた。
 彼女をもう一度抱きしめたい。
 そんな衝動に駈られたが、レイは耐えた。踵を返すとノブに手をかけ押し開く。そして振り返ることなく足を踏み出した。
 背中でリディア動く気配がした。レイは一瞬何かを期待したが、彼女の気配はそれ以上動かなかった。
 そっと失意の息を吐いた青年は、ゆっくりと玄関のドアを閉めた。
 その瞬間、彼女との繋がりは断たれた――。
 逃げるように、レイは部屋の前から離れた。でないと押し寄せてくる感傷に呑み込まれてしまいそうだった。
 足早に階段を下りる。しかし彼は、一階と二階の間にある踊り場へ差し掛かったところで、たたらを踏んだ。
 管理人室から、年配の女性が出てくるところだった。恐らくここの管理人だろう。大きなバスケットを手にした彼女は、階上に潜むレイには気づかなかったようだ。鼻歌を歌いながら管理人室の戸締りをし、アパートを出ていく。
 玄関の扉が閉まり、彼女の足音が遠ざかっても、レイはしばらくそこから動かなかった。彼女がふらりと戻ってくるかもしれない。ばったり鉢合わせという事態は避けたかった。
 数分ほど踊り場で時間を潰し、管理人の戻る気配がないと判断してから、レイは玄関まで下りた。扉を開くと、少しだけ首を出して辺りを見回す。
 ふと、目の端に影が動いた。目を向けると、〈将軍通り〉へ出るのとは逆の小道から、ふらりと人が現れるところだった。
 レイは反射的に首を引っ込めようとした。が、途中で動きを止めた。よく知っている顔だったからだ。
「マルコ!」
 緊張を解いたレイは、若者に歩み寄ろうとした。
 ところがマルコは返事をしない。微妙に焦点の合っていない目でレイを見据え、ぼそぼそと口の中で何か呟いている。足元はかなり覚束ない。左右に大きく身体を揺らしながら、引きずるように足を運んでいた。
 頭の中で警報が鳴りはじめる。立ち止まったレイは怪訝な顔になると、様子のおかしい若者にもう一度呼びかけた。
「マルコ……?」
 どうしたんだ――と言いかけて、やっとマルコが薬を使っているのだと気づいた。
「ち――」
 苦々しく顔を歪め、舌打ちする。いまのマルコに何を言っても、また問いかけても、まともな返事は望めないだろう。
 レイは厄介なことになったと、内心頭を抱えた。困惑と疑問が頭の中を駆け巡る。
 この状態のマルコを連れて歩くのは、「どうぞ、捕まえてください」と言ってるようなものだ。かといって彼を放っていくわけにもいかない。てっきり〈フェンガー〉が「何とか」してくれるものだと思っていたのだが、どうしたのだろう。そして自分はどうすればいいのか。
 レイは焦燥に駈られた。片手をコートのポケットに突っ込んだマルコは、ゆっくりとだが確実に近づいてくる。距離が狭まるにつれ、彼の呟きが聞き取れるようになった。
「……もらうんだ……連れていって……」
「え? 何を言ってるん――」
 思わず聞き返しかけたレイは、ポケットから露わになった若者の手を見て息を呑んだ。
 掌に隠れるほどの銃が自分に向けられていた。その護身用のハンマーレス・リボルバーは、真上から照らす太陽の光を受けて白銀に輝く。
「マルコ、マルコ」
 レイは囁くようにそっと呼びかけながら、ゆっくり横へ移動した。銃口はその動きに合わせてついてくる。〈将軍通り〉を背にしたところで、今度は後退りに切り替える。
「仕事をやり遂げたら認めてくれる……連れて行ってもらえる……」
 マルコは意味不明の言葉を呪文のように呟き続けた。人差し指は、すでにトリガーに掛けられている。ちょっとしたきっかけで、彼は引き金を引いてしまうだろう。その前に物陰に隠れてしまいたい。
 あと三歩ほどで〈将軍通り〉へと飛び出せる。角を曲がってしまえば射線から外れ、当面の危険は脱することができるだろう。だが、じりじりとしか動けないレイに、その三歩は無限の長さに感じられた。
 レイの背中を冷たいものが流れ落ちる。
「そのために……そのために……」
 突如風船の割れるような音が響き、レイは胃の辺りが熱くなるのを感じた。思わずやった手がぬるりと濡れた。視線を落として確かめる。真っ赤に染まった手が見えた。
「マルコ――?」
 レイはもう一度若者に目を向けた。
 なぜ――?
 理由が判らなかった。
 見捨てようとしたことに気づいて、恨んだのか――?
 しかし続くマルコの言葉に、全てを悟った。
「〈フェンガー〉の言うとおりにやらなくちゃいけないんだ。〈フェンガー〉の……」
 見捨てられたのは自分――。
 愕然となったレイはその場に立ち竦んだ。マルコがすぐ目の前に迫ってくる。銃口は狙いを外す方が難しい距離にある。だが手を伸ばして奪い取るには遠すぎた。
 レイの内なる者が、覚悟と諦めの声をあげた。直後――。
 銃声と同じ数だけ彼の身体は跳ね、ゆっくりとその場に崩れ落ちた。
 頬に冷たく硬い地面が当たる。目の前が暗くなり、体温が急速に奪われてゆく。
 リディア――。
 光を失いつつあるレイの目に、リディアの姿が映った。彼女は悲しげな目で微笑んでいる。レイは彼女を掴もうと手を伸ばした。
 気づくと幼い少女が彼を見ていた。レイによく似た髪と瞳を持つ少女。
 ちょこんと正面に腰掛けた彼女は、はにかむような笑顔を彼に向け、人型に抜いたクッキーを差し出した。
 その小さな手に、レイの手が触れる。
「ハズリット……」
 レイは最後の息とともに、少女の名を呼んだ。

 レイが消えたドアを、リディアは茫然と見ていた。
 最後の一瞬、自分が耐えられないのではないかと恐怖した。彼とは行かないと決めていた。しかし振り返って手を差し延べられたら、自分はどうしていたか判らない。
 しかし彼女は耐え切った。
 さよなら、レイ――。ただいま、ハズリット。
 口の中で小さく呟く。
 心は穏やかだった。長年つきまとっていた影は消え、夜明けとともに吹く爽やかな風が胸中を駆けてゆく。
 結局レイを見逃すこととなったが、後ろめたさはなかった。あれほど罪の意識に囚われていたのが、不思議なくらいだ。
 リディアは急に、いままで思い悩んでいたことが馬鹿らしくなった。
「ふふ……」
 彼女は笑い声を洩らし、肩を震わせた。
 ひとしきりこれまでの自分を笑い飛ばすと、大きく息をついて気持ちを切り替える。
「さて、これからどうするかな」
 そろそろハズリットが帰ってくる。〈光の広場〉まで迎えに行ってみようか。そしたらあの子は、どんな顔をするだろう。
 娘の驚いた顔を想像し、リディアはいたずらっぽく目を輝かせた。うきうきした気分で寝室に飛び込むと、クローゼットを引っ掻き回して着替えを漁る。
 いつものけばけばしいスーツやだぶだぶの部屋着ではなく、ゆったりとしたフレアスカートを選んだ。小さな頃のハズリットは、ふわりと広がるこのスカートがお気に入りだった。
 それにウールのハイネックシャツを合わせ、あまり着ることのなかった淡い青のコートを引っかけた。玄関へ向かい、コートの色に合わせた靴を棚の奥から掴み出す。それを床へ置いて、足を突っ込もうとしたそのとき。
 乾いた破裂音が部屋に飛び込んできた。
 リディアは瞬時にそれが何の音なのか判った。いやというほど聞き慣れたものだ。
 音は続けざまに、数回響いた。
 身体が自然と反応していた。リビングの壁に沿って出窓の脇まで移動する。ソファの足元に落ちていた拳銃を拾い、腕だけを伸ばして窓を開けた。顔を出しても安全だと確認してから身を乗り出し、地上を見下ろす。
 アパートのすぐ前に少年が尻餅をついていた。すぐ脇に黄色味を帯びた銀色の塊が落ちている。
 不吉な予感が、彼女の脳裏を占領しようとする。それを追い払いながら、リディアは少年の視線を追った。
 〈将軍通り〉の手前で、誰かがうつ伏せに倒れていた。少年からは数メートルも離れていない。
 倒れている者の周囲に赤黒い染みが広がってゆく。一つに束ねた長い金髪が紅に染まる。
 その背中に見覚えがあった。驚愕に目を開くリディアの頬から赤味が失せた。
「レイ――っ!」
 リディアの絶叫が〈旧市街〉の空気を震わせた。

■森の少女■page 22