バーチャルにハマるのはアブナイ?
絵本だってバーチャル


子供達がアブナイ?

最近「子供達がアブナイ」という言葉が、もう聞いただけでは「ふーん」としか思わないほどよく耳に入ってくるようになりました。テレビをつけていて「今の子供はワカラナイ」だの「子供達がアブナイ」だのという話を聞かない日はないくらい。

その中に、もう何年も前からの傾向ですが「メディア批判」というのがあります。

その傾向が極化したのはあの報道からだったでしょうか。あの、4人の少女を殺害した青年の部屋が、あたかもビデオで築かれた要塞の様に見えた、あの報道。

あれ以来、ずっとそうです。「ビデオ」「アニメ」「まんが」「ゲーム」・・・・こういった物がいつもいつも標的にされます。そして合い言葉のように交わされる言葉「虚構と現実の区別のつかなくなった子供達」「バーチャルにのめり込む子供達」・・・。

でも、本当に巷にあふれる過激なアニメ、ゲームに原因があるんでしょうか?

虚構にのめり込む子供達


さて、まず疑問なのですが、バーチャル、つまり虚構にのめり込む事は、本当に「アブナイ」事なんでしょうか?虚構の世界を嗜好する事は、本当に「現実と虚構の区別がつかなく」なってしまう原因になっているのでしょうか?

虚構にのめり込む事がそう言った可能性を孕んでいる、と言う点ではその通りでしょう。「虚構の世界」を知らなければ、それと現実が混乱してしまう、なんて事はありえない。

「バーチャル」という言葉がメディアで乱用されるようになったのは最近の話。「虚構」「仮想現実」という言葉も、それに付随して耳慣れてきた言葉であるが故の誤解があるような気がして仕方ないのです。この数十年ほどの間に発達してきた新しいメディアにだけ、それを当てはめているような。そもそも「物語」というもの自体が「虚構」であり「仮想現実」である訳ですから、そんな物ははるかかなたの昔からあった訳です。

バーチャルかどうか、と言えば、一般的に子供に与えられる事が望ましいとされている「絵本」「児童文学」「小説」などはすべて「バーチャル」なものと言えるでしょう。


虚構を知らない子供達


では、その危険を排除する為に「バーチャル」な物を子供達から遠ざけたらどんな事になるんでしょう。ゲームも、絵本も、童話も、演劇も、小説も、テレビドラマも、・・・。まあ、これは極端としても、「バーチャル」を「現実」であるかのように受け取れる感性を持たせないとしたら・・・「バーチャル」をバーチャルとしてしか捉えられないとしたら・・・?

さぞかし味気ない人生を送る人間になるでしょうね。映画を見ても「役者が演技をしている」としか受け取れない、絵本を読んでも、それは誰かの作り話でしかない。そこには「想像力の翼」なんていう物はその片鱗すらありません。

「想像力」は「思いやり」の種です。自分には決して見る事のできない相手の胸の内を「想像の触手でさぐる」事、それが「思いやり」の原点です。相手の胸の内が見えない以上、その想像力が無ければ正に自分以外の人間はすべてバーチャルな存在でしかありえません。

そして、「創り出す」という事も「想像力」が無ければ出来ません。ここに無いものを「想像」で頭の中にさも現実であるかのように創り出せる。それを頼りに手を動かして、初めて何かが「創造」されるのです。

また、「応用」も「想像力」の賜物です。一つの方法を、この場合にも当てはめられるかも、と「想像」する事が「応用」そのものです。

頭の中にあって、未だ実現していないもの、その全てが「虚構」であり「仮想」なのです。これを「現実」と結び付けていく力、これが「想像力」ではないでしょうか?だとしたら、「バーチャル」にのめり込む、「虚構」を「現実」であるかのように感じられる豊かな「想像力」は一方で「非常に望ましい」あるいは「必要不可欠なもの」なのではないでしょうか?
じゃ、何がいけないの?

じゃ、何がいけないの?と問われて、はい、これがいけません、と答えられれば「ハクシュ」なんでしょうが、その答えはまだ模索中です。だけど、私がコワイのは、大人達も子供達も、何だか良くなさそうな事の原因を「バーチャルな物」というメディアの所為にしてしまって、本当の原因から目をそらされてしまってるんじゃないの?という事。

一つほぼ確信に近づいた思いとしては、「バーチャルな世界」の占める絶対量の多さが問題なのではなくて、それによって不足するものが出てくる事が問題なんじゃないのかな?という事。単純な事。もっと楽しいことがあれば「ゲームばっかりなんてやってられないよ」という事。「虚構の世界」と同じか、それ以上に魅力的な「現実」がありさえすれば、「境界線」がぼやけてしまうなんて事が起こるでしょうか。


読み聞かせってスゴイ

さて、ここでやっと話が読み聞かせに至るのですが、前述した通り「絵本」も「児童文学」も「虚構の世界」。だけど、読み聞かせのスゴイ所は同時に「コミュニケーション」を伴うって事。これが最大の強みだと思います。ここにも何かの答えが有りそうなニオイがします。

うちの子が、どんなに一方向メディアである「ビデオ」にはまっているように見えても、絶対に「絵本」には勝てない。絵本を読む為にビデオを中断する事はあっても、その逆は一度もありません。そして、最初に経験したバーチャル体験が「コミュニケーション」を伴っていた所為なのか、彼女は「ビデオ」を一方向で楽しむ事が出来ません。絶対に会話をしています。ビデオの中に語り掛け、泣いているキャラクターを撫で、時には自身が笑い、泣き、そしてそこで起こる事を私に常に報告してくる。これは実は「虚構」を「現実」とごっちゃにしている事の現われです。でも、そこには「コミュニケーション」がある。

これが本当に読み聞かせの賜物なのか、実際の所私には確かめようがありません。けれど、ビデオやテレビを無言で囲む家族像は過去も今も私の中にはありません。もしそうなる家族が、そうなる子供がいるとして、それが問題なのだとしたら、その理由は「テレビ」や「ビデオ」の側にあるのでは決してないと思っています。


奪う事より与える事に

さらに、いつもメディアが問題との接点を指摘される時、傾向としてはそのメディアを子供達から遠ざけようとする方向からのアプローチがなされているように見えます。だけど「それは違うんじゃないかなぁ」といつも思ってしまうんです。

「バーチャル」が危険だと誰かが言い出せば(それが著名人や権威者であればなおさら)みんな、あわててそれらを子供から奪おうとする。だけど、もう一度、冷静になって考えてみましょうよ。「バーチャル」を提供するメディアがより魅力的になって子供達を誘惑している、これは現実。そして、みんなそれには晒されている訳です。だけど、その中ですべての子供達が「境界線をなくして」いる訳ではない。「境界線をなくす」子供達には別の理由があるんじゃないでしょうか?なにか「足りないもの」が。

子供から「奪う」ことに懸命になるんじゃなくて、「与える」事にもっと懸命になれないんだろうか。その事をもっと真剣に探してもいいんじゃないだろうか。

「有害なメディアから子供達を守る」という発想が私は好きではありません。いつかはそのメディアあふれる世界に出て行く子供達です。自分で自分を守れる力を与えてやりたい、そちらの方ににもっと一生懸命な親でいたいのです。


こらむのINDEXへ


ご意見ご感想はこちらへどうぞ


おかえりはこちら をお願いします。

Presented by Akane Takagi