| 花さき山 自己犠牲の美徳 |
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保育関係雑誌の絵本特集別冊の中で「私のお気に入り」を紹介するというコーナーがありました。そこで「花さき山」についての文章に出会い、あ、この本・・・と心に何か引っかかるものが有りました。 そのタイトルを数ヶ月まえ、「ぶっくくらぶ通信」(童話館ぶっくくらぶの機関紙)で目にしたのだという事を思い出すのにそれ程長い時間はかかりませんでした。ぶっくくらぶ通信での記事がとても印象的だったから。 そして、ぶっくくらぶ通信でのこの物語の主人公である「あや」という少女の描かれ方に対する評価と、「私のお気に入り」として紹介されている「花咲山のあや」に対する評価は、相当に違うもの、むしろ両極端といっていい位置にあったのです。そのことがことさらに私のこの本への興味をかきたてたのでした。 「花咲山」の後書きを読めばわかる話ですが、この物語は明らかに「自己犠牲」を肯定する立場から書かれています。「一杯に自分のために生きたい命を、みんなのためにささげることこそが、自分を更に最高に生かす事だ」という事に気づいた人たちがたくさん生い育って欲しいという願いだというのです。 そして、この本を気に入り、自分の娘の名にこの物語の主人公のにあやかろうと「あや」と名づけたとまでいうそのお母さんは、やはりこの点を評価しているのです。「自己犠牲の美徳」という事です。 一方、ぶっくくらぶ通信でのとらえ方はこの「自己犠牲」を良しとする考えに疑問を呈するものでした。そして、その考えは、日ごろから私が持っている感覚ととても近いものでした。 そこで、この二つの両極端な評価を受けている本を実際に手にとって見たいと思った訳です。自分自身でこの本に対する評価をしたい、と。 この時点での私の「花さき山」への印象はどちらかというと否定的なものでした。それはおそらく今も残っている日本の古い価値観の一つとしての、「自己犠牲」は美しい、という価値観に対する違和感そのものでした。 ここで言っているような「自己犠牲を美徳とする」価値観は厳然とあります。しかしこれは一方で、自分の利益(幸せ)を追求するのは醜い事だという価値観をも同時に発生させるものでもあると思えて仕方がないのです。表裏一体というやつです。 しかし、「自己犠牲」とはそもそも一体なんでしょう。いえ、「犠牲」とは、そもそも。 おそらく日本古来の価値観の中に見られる「自己犠牲」の意味は「自分以外の人間の幸福(利益)の為に自分の利益(欲)を捨てる」という事なのでしょう。 そしてやはりこういった見かたをしていくと、多くの場面で、自分の利益(欲)を醜いものとしてとらえる傾向が産まれてくるように思えてなりません。だから、それを捨てる事は美しい事だ、という事になり、「自己犠牲」は二重に尊ばれるのかも知れません。 が、どうでしょう。本当に自分の利益、欲、幸せを求める事は醜い事なのでしょうか。私はそうは思わないのです。人間が自分の幸せを何にも優先して求める事は「生物」として絶対に逃れる事の出来ない自然の摂理であり、また、それであってなおお互いを生かし合える心を持っているのが人間だと思っているのです。 これを「花咲山」に当てはめてみましょう。 「あや」は、貧しい親が一枚しか晴れ着を買えない事を知っていて、妹が晴れ着を買ってもらえるように自分は晴れ着を我慢します。これを日本古来の「自己犠牲」の精神に則って説明すれば、「あや」は本当は自分が晴れ着を欲しいのに、その自分の欲を捨てて、妹に捧げた事になります。 これを私の言う「自然の摂理」に当てはめるとこうなります。「あや」は妹の幸せを望んでいるのです。妹の喜びが「あや」の喜びなのです。「自分が晴れ着を買ってもらってて嬉しい」という喜びと「妹が晴れ着を買ってもらって嬉しそうにしている事が嬉しい」という喜びを比べた時、後者の喜びの方が「あや」にとって価値があった、という事です。 こう考えると、「あや」が自分の欲を決して犠牲にしていない事がわかります。「あや」は自分の欲のままに妹に晴れ着を譲ったのです。 そして、花さき山で山姥に「あや」の花を見せられた時、自分の中の美しい心に気がついた事でしょう。それは「自己犠牲」の美しさではありません。「自分以外の人間の喜びを自分の喜びと出来る心」です。 「あや」はその後、「あ、今花さき山でおらの花がさいてるな」と思う事があるようになります。自分の中の喜びを「花」という形で自分の中に発見する事ができるとしたら、これは美しい事だと思います。 こう解釈すると、「花さき山」は決して私の想いと食い違う内容ではありませんでした。(些末な所で?と思う所は無くはないですが)あの後書きを書いた著者がこれの解釈を聞いたら「違う!」というかも知れません。でも、こうも読めるのです。そしてその方が私にはしっくり来るのです。 日本古来の「自己犠牲」の精神で持ってこの話を読むと、「自分以外の人の為に我慢しなさい」と読める。けれど、私の考える「自然の摂理」に沿ってこの話を読むと、「何も我慢しなくていい、自分以外の人の幸せを願えるなら」と読める。 もちろん解釈は人それぞれ。どちらでも、またどちらでなくても、それぞれに好きな解釈でお読みになればいいんですが。 |
Presented by Akane Takagi