シロクマくんのおきゃくさん
差別が心に根づく時


この本は決して差別について考える為に書かれた絵本ではありません。むしろ、私のあまり好きでないお勉強絵本です。時間と数について学ぶ絵本らしい。

じゃ、何故私はこのあまり好きでないお勉強絵本を買ったのでしょう。答えは明快、魅力的だったから。お勉強の為に作られていようがいまいが、この絵本の絵が、お話が単純に魅力的だったから。それだけです。

で、何故差別の話と絡んでくるのやら。ちょっと長いお話になりますが・・・・。


谷口先生のお話

娘を通わせている保育園で「自立問題研究所所長」という肩書きをお持ちの谷口先生のお話を聞く機会がありました。この先生はご自身が障害者なので、正に障害者の視点からのお話が聞け、私には今までもやもやと見え隠れしていたものがパッと晴れたようなそんな感覚を覚えるお話でありました。

というのは、私自身、障害者とふれあう機会が非常に少なく、(それでも手話サークルなんかに入っていた関係で、同年代の平均的な人たちに比べれば多い方なんだろうけど)実際、どう接していいのか良く解からない、という感覚がずっとあったのです。

そしてこの先生のお話を聞いて、やはり、今自分が持っている「障害をもつ人に対する特別視」というものを「なくす」事はできないんだ、という事を、きちんと正面から見る事ができました。そして、私はその上で、「では、もしこの障害が特別なものでないなら(人間の一つの個性と受け取るなら)、私はどう接するのだろうか」という事を自問しつつ、答えを探していけばいいんだ、という事にぼんやりとながらたどり着いたのです。


日本ダウン症フォーラム

そして、谷口先生のお話を聞いた数ヶ月後、私は日本ダウン症ネットワークの全国集会である「日本ダウン症フォーラム」という集まりに参加する機会に恵まれました。その中で聞いた、「障害を持つ兄弟を持つ」方のお話から、私はもう一つの答えを見つけたのでした。

彼女はダウン症の兄と共に、障害者施設に通った経験を持っています。もちろんそこには様々な障害をもった子供たちが集まっていました。彼女はそこで何年かを過ごし、その後障害をもたない子供たちばかりの保育園に通うようになります。そこで彼女が持った感想は「なんて退屈なところだろう」だったと言うのです

そこには奇声をあげて床をはう子供もいなければ、車椅子に乗っている子供もいない。みんな自分と同じように立って歩いて喋って・・・。そのことの方が彼女には違和感があったであろう事は想像に難くありません。

当たり前の事なのに、どうして今までその事を考えなかったのか。自分でも不思議です。障害をもつ人間と、初めから当たり前に一緒に過ごした人間にとっては、障害にたいする「特別視」なんて感覚は生まれようもないのだ、という事を。


そして、シロクマくんのおきゃくさん

そして、シロクマくんのおきゃくさんを読んで、その事は確信になりました
シロクマくんのおきゃくさんにはいろんな動物が出てきます。まず最初が「シャチ」だというのもなかなかインパクトがあります。その後にウマ、ウシ、パンダなどスタンダードな動物が続いた後、突然「ゆきひょう」等と言う、私たち大人には思いもかけない動物が登場します

ここで私はひるみました。ここまでは、「ほら、モーモーさんがきたなぁ」「あー、わんわんやでー、犬、犬」とやっていたのが、「ゆきひょう」となると、どう教えたらいいだろう、なんて考えてしまったのです。まぬけな私は「ほら、にゃんにゃんの仲間やで」なんてフレーズも頭に浮かんだりもしました。が、たまたま私はその時「面倒くさい」気持ちだったので、乱暴にも「ほら、ゆきひょうやで」と語りかけたのです。

娘の反応はどうだったでしょう。娘はそれまで私が「牛さんやで、モーやなー」と語り掛けた時に「牛しゃん」と答えるのと、まったく同じトーンで「ゆきひょう」と答えたのです。この後に続いた「がん」も「すかんく」も、彼女は全く同じトーンで復唱していきます。

ここで、パチンと何かがはじける感じがしました。

私たち大人は、いろんな情報を得ているから、犬や猫、牛は人間の身近な動物、シロクマだって動物園に行けばみられるし、絵本にもよく出てくるもんね、なんて思っていて、一方ゆきひょうだのがんだのいわれると、あ、子供に理解できるんだろうか、なんて下らない事を考えてしまう。

でも、ちょっと考えれば解かる事。いったい1歳や2歳の子供がどれほど動物に接しているというんでしょう。どんな情報を、どんな既成概念を持っているというんでしょう。牛であろうがゆきひょうであろうが、大して距離感の違いなんてある筈がないんですよね。(酪農家の子はまたちょっと違うかもしれないけど・・・(^_^;)うちも犬猫飼ってるし・・)
もっと言えばアンパンマンを実在の動物の一種と思っていたってなんの不思議もないんですよね。

ああ、こうやって私たちはいろんな物を近い所に置いたり遠い所に置いたりしてきたんだな、と確認させられた訳です。

だから、一緒に

だったら。簡単な事です。障害をもつ子供達が、大人達が、当たり前に身近にいる生活を子供の頃からしているとしたら。子供にとってそれは特別でもなんでもない、一人の個性を持った人間でしかない筈です。そこには「障害者」などというくくりはありえない。

たとえば「歌が好きでちょっと乱暴で食いしん坊な○○ちゃん」と同じ距離に「手先の器用な歩けない愛想のいい△△ちゃん」がいる、それだけの事。
今、娘のクラスには障害をもった子供がいます。子供達が遊んでいる様子を朝に夕に見るにつけ、これはどんどん確信へと膨らんでいきます。これは感動です。

今、自分達が持っている足枷をはずすことができないなら、せめて自分達の子供にはその足枷をはめない事、それを考えるのも、とっても意義深い事だと私は思うんです。

私の娘はラッキーでした。たまたま通っている保育園が障害児の受け入れに積極的だった。そしてたまたま同じ学年に障害をもつ子供が入園してきた。全ての園や学校がこんな風に障害児の受け入れをすぐにも始める事がそんなに簡単な事でない事は容易に想像がつきます。それでも、それでもなんとか・・・。

せめて定期的にでも、障害をもつ子供たち、大人達と、障害をもたない子供たち、大人達がふれあえる場所が当たり前にあったとしたら、数十年後の障害者の状況はきっと今とは全然違っている筈だ、というのは私の妄想でしょうか?今、生活に追われながらも方法を模索中です。何とか形にしたいという思いばかりですが。思いが無いよりはずっと可能性がありますものね



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