今野緒雪著「マリア様がみてる」シリーズに基づく






青い薔薇たち






「ごきげんよう」 「ごきげんよう」 さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。 マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。 汚れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。 スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずも―――― 「こらっ!そこの生徒!走るんじゃありません!!」 「ごめんなさいっ、今日は見逃して!!」 ――――。 こほん。 ――私立リリアン女学園。 明治34年創立のこの学園は、もとは華族の令嬢のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。 東京都下。武蔵野の面影を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎から大学までの一環教育が受けられる乙女の園。 時代は移り変わり、元号が明治から3回も改まり、世紀をまたいだ平成の今日でさえ、18年通い続ければ温室育ちの純粋培養お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。 しかし――今、その温室に、1輪の野薔薇が紛れ込んだ。 ● まぼろし。 心から求めているのに、永遠に手の届かない幻。 叶わないと知っているのに、追いかけることをやめられない影。 それは、いつか青い薔薇の姿で、私の胸にひっそりと咲くようになった。 そうしてわたしは、心を閉じ込めたまま、生き続ける。 幻の薔薇にすがって。 夏休み明けの学園は活気に溢れている。 クラスメイトたちが、それぞれのバカンスの思い出を楽しそうに語り合っている。 終わってしまった長い休日と、過ぎていく夏とに、名残惜しそうな表情を日焼けした顔に浮かべながら。 それを眺めるわたしはと言えば、梅雨の時期から変わりのない青白い顔色のまま。 休みがあっても、わたしには行く所もなければすることもない。 ただ、40日もの間、部屋に篭って無為な時間を過ごしただけ。 だから、ようやく2学期が始まってくれて、ほっとする。 学校が始まれば、少なくとも学校に来るという日課が出来る。 ああ、早くもっと忙しくなればいい。 何かをしていれば、自分の内側の空白から目を背けていられる。 「ごきげんよう、瑞穂さん。ちょっと、よろしくて?」 「…ごきげんよう、薫子さん。なにかしら」 呼びかける声に、物思いを打ち切って顔を上げると、少しカールしたおかっぱ頭の美少女が、おっとりした微笑みをたたえながら側に立っていた。 「今朝、お姉さま方と少し相談をしたのだけれど、今年もそろそろ体育祭の準備を始めないといけないの。それで、細かいことはこれからの打ち合わせで決まるのだけれど、瑞穂さんの方でも準備を進めておいてほしいと。とりあえず、確保できる人数は早めに確定させておいてほしいの」 その要請を待ちに待っていた。 瑞穂は内心小躍りしながら応える。 「そう言われるだろうと思って、1学期の内に今日の放課後に招集をかけておいたわ」 「さすが、根回しが早いわね」 「どういたしまして、“黄薔薇のつぼみ(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトゥン)”」 「頼りにしているわ、“青の君(フィーユ・ブルー)”」 互いの二つ名を呼び合って、どちらからともなく、くすりと笑いが漏れる。 「…ねえ、その“青の君”って呼び名、やめない?」 「どうして? 素敵じゃない」 「わたしは薔薇さまやつぼみじゃない、あくまで無名の一生徒よ。もったいつけた飾り名はふさわしくないわ」 「そうかしら。山百合会の一員である“青い薔薇(レ・ブルー)”のリーダーには、それなりの敬意が払われて然るべきだとわたしは思うけれど」 「とにかく、わたし自身はあまり好きじゃない。それは覚えておいてもらえると嬉しいわ」 薫子さんにはそんなつもりはないのだろうが、わたしを“青の君”と最初に呼んだ誰かがその名に込めた揶揄を、わたしはちゃんと理解している。 青白い顔をした、仕事中毒の変人。 その通りなのだから反駁する気にはならないが、だからと言っていい気分がするわけでもない。 「それより、そろそろ移動しませんこと?」 「そうね、まずは礼拝堂」 新学期は最初に全校生徒が集まっての礼拝が行われ、それから始業式が行われる。 そのためにいちいち礼拝堂から講堂へと生徒の大移動が毎度行われ、大混雑になる。 もう10年も繰り返し続けて、いいかげん慣れっこになってしまったが、非合理的で時間の無駄だという感想は変わらない。 (礼拝堂で全部済ませてしまえばいいのに。どうせ両方とも長いだけの無駄話を聞かされるだけなんだから) 一度それを口に出したら、クラスメイトから、なんと罰当たりな、みたいな顔をされたので、その後は表明しないようにはしているが。 2年松組の教室を出て、薫子さんとふたり連れ立って廊下を歩いていると、通りすがりの生徒たちがちらちらと視線を投げてくる。 山百合会の頂点である3人の薔薇さま、そしてその妹であるつぼみたちは、言ってみれば学園のスターだ。 そういう人たちと行動を共にしていれば、こんな視線を浴びることになるのも避けられない。 (まあ、それについてはもう諦めたけど。ただ…) 昇降口で靴を履き替え、礼拝堂に向かう道すがらでは、緊張に頬を染めた1年生たちが、少し上ずった声で挨拶をしてくる。 「ご、ごきげんようっ、“黄薔薇のつぼみ”、“青の君”!」 「ええ、ごきげんよう」 「…ごきげんよう」 仏頂面のわたしは、にこやかに応対する薫子さんのいい引き立て役…と思っていたのだが。 「あっ、あのっ、“青の君”! こ、今学期は、わたしも“青い薔薇”に参加させていただくことは、できっ、出来るでしょうか!」 挨拶をしてきた集団のうちのひとりが、一大決心と言った面持ちで、まっすぐにわたしの方に向いてくる。 「…もちろんよ。“青い薔薇”はいつでも生徒の参加を待っているわ。働く意欲のある子なら、大歓迎よ。もっとも、来る以上は、それなりに厳しい仕事なのは覚悟してもらうけれど、それでもよければ」 「はいっ。わたし、“青の君”のために、がんばりますっ」 「ありがとう。でも、がんばるのはわたしのためでなく、学園のためにしてくれると、うれしいわね」 「あっ、はっ、はいっ、すみません」 しどろもどろになりながら、転げるように仲間の中に帰っていくその子の後姿を見送っていると、薫子さんがいたずらっぽく微笑みながら囁いてくる。 「もてもてね」 「だから、やめてよ、そういうの」 1年生たちが遠巻きからわたしに向けるまなざしに、純粋な憧れが含まれているのに気づいたのは、1学期も終わろうという頃だったろうか。 自分のような人間は、山百合会の“金魚のふん”、くらいにしか見られていないものとばかり思っていたので、それは意外なことだった。 けれど、何も知らない彼女たちが、悪意の欠片もなく無邪気に“青の君”と口々に囁くのを耳にすると、むしろ一層うんざりしてくる。 こうなることを見越してこの渾名をわたしに付けたのだとすれば、その誰かは相当に底意地の悪いやつに違いない。 「1年生の間では、あなたが誰を妹(プティ・スール)に選ぶかが、薔薇のつぼみの妹が誰になるかというのと同じくらいに注目の的らしいわよ」 妹、というのは戸籍上の血縁ではない。 生徒による自主的な規律をよしとするリリアン学園高等部の校風の中にあって、自然発生的に出来上がった、姉妹(スール)という、学園の中でだけ成立する契約のようなものだ。 当初は上級生全体から下級生全体に対する漠然としたものだったのが、いつしか個人同士の結びつきへと変化していった、と言う。 姉(グラン・スール)は妹に淑女としてあるべき道を教え導き、妹はそれに従いつつ姉を助け支え、そしてその教えを後の代へと繋げていく。 長い歴史を持つこの学園ならではの、独特かつ少々浮世離れした伝統だ。 それは婚姻にも似た重みを持って、リリアンの生徒たちの中では真剣に考えられ、それを結んだふたりの間には、特別な信頼と親愛が形作られる…とされている。 「くだらないわね。姉妹の契りなんて、わたしとは関係ない話だわ」 そう、そんなものは、わたしには関係ない。 わたしにとってのそれは、あらかじめ失われてしまっているのだから。 ● リリアン学園高等部の生徒会である“山百合会”は通常、紅、白、黄の薔薇の称号を持つ3人のリーダーを筆頭に、“ブゥトゥン”―つぼみと呼ばれるそれぞれの妹たちを加えた数人で運営される。 したがって、その構成人数は10人に満たない。 しかも、姉妹というのは各個人の私的な人間関係に基づくものであるため、必ずしも毎年各学年に3人ずつ揃うわけではない。 結果的に、意思決定から実務まですべてを6〜8人でやりくりしなければならないという実情が半ば常態化していて、人員に対する負荷の大きさはかねてから問題視されていた。 ある年、山百合会のメンバーの大半が、それぞれの部活動に手を取られ、生徒会としての業務に参加できず、山百合会の運営そのものが頓挫寸前という事態が発生した。 “薔薇さま”と言えども生徒のひとりである以上、生徒会としての業務のために個人としての目標を放棄しろなどとは要求できるわけもなく、またそれら山百合会メンバーの参加する部活動の成果がいずれも大変目覚しいものであったがために、学園の対外的なアピールのためにも、やめさせるなどという選択はありえなかった。 しかしまた、生徒による自治を旨とする学園としては、山百合会が機能しない状態を容認するわけにはいかなかった。 この窮地に、山百合会は学園側と協議の末、山百合会直轄の実務部隊の発足を決定した。 それまでも、ボランティアの補助人員がいなかったわけではなかったけれど、それは生徒側の自発的な申し出に頼っていたため、充分な数が確保できていたとは言いがたかった。 一般の生徒たちからは、3人の薔薇さまやそのつぼみたちは学園のスターとして憧れられると同時に、遠い存在として認識され、ある意味では畏怖されてもいたため、山百合会に積極的に関与しようとする者は少なかったのだ。 そこで、それまでにも何度か行われていた、山百合会と一般生徒の断絶を解消しようとする試みを発展させ、山百合会が積極的に人を募り、参加を促していこう、ということになった。 人手不足の解消と「開かれた山百合会」の両方の実現として。 そうして結成されたのが、“山百合会実務支援部”である。 全校生徒すべてが山百合会の一員である、という理念の下に、大々的に人員が募集された。 業務内容はデスクワークから肉体労働まで多岐にわたる一方で、その仕事に対して特に賞賛を受けることもない裏方ではあったが、かねてから山百合会に憧れつつも機会がないまま近寄れずにいた生徒をはじめ、お祭好きの生徒、帰宅組の暇潰し、さまざまな人材が多数集まり、山百合会を支えることとなった。 そうして集まった人数は、20名を越えた。 これにより、山百合会は以前よりスムーズかつ大規模な運営が可能になり、一般生徒にとっては山百合会が親しみやすい身近なものとなって、この施策は大いに成功した。 山百合会の手足として働き、多くの成果を挙げながら、しかし薔薇の称号には連なることのない、名もない花たち。 いつかその集団は、姿なき薔薇、幻の薔薇、として、実在しない薔薇の色になぞらえ、“青い薔薇”――ロゼ・ブルー、あるいは単に、レ・ブルー、と呼ばれるようになった。 ● ● どたどたと汚い足音を立てて目の前を通り過ぎようとする生徒を瑞穂は呼び止めた。 「ちょっとあなた。もっと静かに歩きなさい。はしたないわよ」 「あ、すいません」 首だけで無作法に会釈したその生徒は、見かけない顔だった。 背丈は瑞穂より少し高いが、靴の色を見ると1年生のようだ。 無造作なウルフカットの髪は、品行方正で知られるこの学園の生徒としてはあまり似つかわしくない。 「あの」 もう少し何か言おうとした瑞穂の機先を制して、そのウルフカットの1年生が口を開いた。 「職員室って、どこですか?」 「…もう2学期だっていうのに、職員室の場所も覚えてないの?」 呆れた。 だけど、その少女は悪びれる風もなく。 「でも、あたし、今日が初めてだから」 今日が初めて? なんだそれは。 怪訝な顔をしながらも、瑞穂は窓の外を指差した。 「職員室はあっち側の校舎の、ちょうどここの対面になるあたりの2階よ」 「え、じゃあぐるっと大回りしないとだめなんだ」 そう、反対側の校舎に行くには、廊下の端の渡り廊下まで戻らないといけない。 「静かに歩くのよ」 瑞穂は念を押して、その場を離れようとした。 おかしな1年生にかまっている暇はない。 しかし。 「めんどくさいなあ…」 そう言いながら、その1年生はちょっと窓の下を覗いたが早いか。 「よっ」 「!!!」 ひらり、と窓枠を飛び越えた。 仰天した瑞穂は慌てて窓に駆け寄る。 1階とは言え、廊下と地面の高さには結構差があるのだ。 でも、ワンピースのセーラー服を風にまくり上げながら、その少女は鮮やかに着地していた。 「この方が近道だ」 「ちょっ、あ、あなた!」 「じゃ、ども」 そう言い捨てると、乱れたプリーツもそのままに、その少女はすたすたと職員室のある校舎の方へと駆けていった。 呆然と見送る瑞穂の後ろに、別の1年生が現れる。 「あっ、瑞穂さま、ごきげんよう」 「あ、え、ええ、ごきげんよう…」 「あの、このへんで、こんな頭の、1年生の子をお見かけになりませんでしたか」 身振りを交えながら尋ねた、その形はまさにたった今窓枠を飛び越えて行った少女のそれだった。 瑞穂は黙って窓の外を指差す。 後姿のウルフカットが、今まさに向こう側の窓枠に飛びついているところだった。 「あああっ、ちょっと、ダメよ菜摘さん! ダメって!! あ、あの、あああありがとうございました失礼しますっ」 大声を上げた2人目の1年生が慌てて渡り廊下の方へ走っていくのに注意することも忘れて、瑞穂は向こう側の窓枠の中へと身を躍らせて消えた1年生の姿を見送っていた。 (…なんなんだ、あれは…) ● 高等部キャンパスの中庭の片隅に建つ、小さな2階建ての洋館。 それが、山百合会の城、「薔薇の館」だ。 古色蒼然としたその姿は、年代ものの建築物には事欠かないリリアン女学園の中にあっても、ひときわ年輪を感じさせる異彩を放っている。 古くさいデザインの正面扉の、これまた古くさい形をした真鍮のドアノブに手をかけると、がしゃりと無骨な音がして、動くことを拒む。 (一番乗りか) アンティークのアクセサリーでしか見たことのないような長い鍵をポケットから取り出し、広告か何かの簡略化されたデザインのようなアナクロな形の鍵穴に差し込む。 この鍵を持つことを許されているのは、薔薇さま以外では、わたしだけだ。 がこん、と重たい音がして、鍵が回る。 扉を開くと、晩夏の日差しで暖められたむせるような空気がどっと流れ出してくる。 今朝も薔薇さまたちが会合のために開けていたはずだが、なまじ中庭で日当たりが良いこともあって、ほんの数時間締め切っていただけでも、この容積の小さな建物の中はちょっとしたサウナのようなありさまだ。 とりあえず1階の吹き抜けの片隅に荷物を置くと、ねっとりと絡みつく暑い空気を掻き分けながら、この古い建物の中でそこだけが妙に新しい階段を登って、2階に向かう。 ビスケットのような、と誰かが評した、焦げ茶色のクラシックなデザインの扉を開けて中に入り、窓を次々と開け放つと、部屋に篭った空気よりは多少増しな外の風がゆるやかに通り過ぎる。 秋の匂いを感じるには程遠い、まだまだ夏の色の空気。 部屋の中には、建物に負けず劣らず時代を感じさせる調度が揃えられている。 楕円のサロンテーブル、どっしりとした革張りのソファ、木製の椅子、飾りのついた食器棚、白磁の花瓶、シックな柄のカーテン。 歴代の山百合会を見守ってきた時間そのものが、この部屋の住人として存在を主張しているかのようだ。 今を感じさせるものは、部屋の隅の流しの湯沸かし器と小さな冷蔵庫、そして天井に据え付けられた薄型のエアコンだけだ。 (もういいかしらね) 再び窓を閉めると、壁のリモコンのスイッチを押す。 文明の利器が吐き出す冷気が徐々に部屋を満たしていく。 2階はそのままにして、階段を下りると、1階の部屋のドアを開ける。 そこは2階とは打って変わって、個性のない空間だった。 広い部屋に置かれているのは、実用本位の四角い事務机と作業台。 窓にかかっているのは巻き上げ式の白いブラインド。 椅子も飾り気のないビジネスチェアーとパイプ椅子だ。 壁に寄せられたスチールのキャビネットには雑多な文房具や工具が収まっている。 机の上にはパソコンが置かれ、部屋の隅にはプリンター兼用のコピー機が鎮座している。 机の後ろのラックには、オーディオ・ビデオ機材が仕舞ってある。 それら機械はすべてOGや父兄から寄付された中古のリサイクル品なので、新品同様とはいかないが、まだまだ全然現役だ。 2階と同じように澱んだ空気を追い出してから、エアコンをつける。 パイプ椅子に腰掛け、まだ生ぬるい空気を深呼吸する。 この1階の部屋は、かつては物置として使われていたのが、“青い薔薇”の詰所にするために開けられたと聞く。 この部屋を占拠していた荷物は、不要なものは廃棄され、残ったものは薔薇の館の裏手に新設された簡易倉庫に移された。 そうして実務のためにしつられられたこの空間は、味気のない無彩色に包まれている。 でも、瑞穂はこの無味乾燥な部屋が好きだった。 リリアンの園は、あらゆるものが歴史という華に装われ、存在を主張してくる。 校舎も、廊下も、教室も、銀杏並木さえも、クラシックな制服を纏った生徒たちまでも。 それらのものに、時折押し潰されそうな息苦しさを感じて、どこか落ち着けなかった。 夢も思い出も、何もない自分が責め立てられているような気分がして。 この部屋だけが、虚ろな灰色の自分を受け入れてくれる。 今この時間に存在しているだけの自分を許してくれる。 (ここだけが、わたしの居場所) 不健康なのはわかっている。 若い娘らしくないのもわかっている。 でも、自分はそういう人間なのだ。 そんな風であることをやめたいと感じることも、今はない。 それは自分だって、最初からそうだったわけではなかった。 中等部にいた頃には、それなりに高等部での学園生活に希望も憧れもあった。 でも。 左のポケットに手を入れ、それを握りしめる。 (こんなもの、もう何の意味もないのに。我ながら、往生際の悪いことよね) わたしのささやかな夢と憧れは、このちっぽけな十字架だけを置いて、いってしまった。 あの時、もうこんなところにはいたくない、と言って逃げ出してもよかった。 でも、逃げたところで、逃げた先でも、失われたものはもう手に入りはしない。 そんなことをしてみたって、所詮、子供じみた自己満足にしかならない。 自分を憐れんで、拗ねたポーズをとって、周りに甘えるなんて、癪に障った。 だから、何もなくなったこの場所に、わたしは敢えて踏みとどまった。 高等部に入って、すぐにここに来た。 あの人がいた、そしてそれゆえに去らなければならなかった、この場所に。 あの人が生贄になってまで守ったこの場所を、そのまま墓場になんかしたくなかった。 だから、“青い薔薇”の一員になって、がむしゃらに働いた。 初等部の頃から親しかった同級生たちとはいつか縁遠くなっていった。 あの人と私の関係を知る生徒は、仇討ちのつもりかと密かに嘲笑った。 でも、なにもかもどうでもよかった。 そうして一心不乱に働き続け、いつか気付いた時には、自分が“青い薔薇”の中心になっていて、1年生だというのに上級生さえも従わせ、率いていた。 2年生に進級すると同時に、名実共に青い薔薇のリーダーに納まったのも、自然な成り行きだった。 でも。 別に、人の上に立ちたかったわけじゃない。 肩書きが欲しかったわけでも、褒められたかったわけでもない。 ただ、そうしていないと、自分の中の空白が埋められなかったから、そうしていただけのこと。 何もしないでいたら、ぽっかりと空いた心の穴を見つめることになる。 それがつらかった、怖かった、それだけなのだ。 「…の館よ」 館の扉が開いて人の入って来る気配に、ひとり思いが遮られる。 「2階が山百合会本部で、薔薇さまたちがいらっしゃるお部屋。下はわたしたち青薔薇の詰め所兼作業部屋になってるの」 「へえ〜、こんな建物もあるんだ。面白〜い」 (うるさいなあ) “青い薔薇”は「開かれた山百合会」の象徴でもある。 だから、ここのメンバーは、“青い薔薇”の仕事に興味を持っていたり、単純に薔薇の館を覗いてみたいという生徒がいれば、積極的に誘ってくることが奨励されている。 今日もまた、誰かがそんな子を連れてきたらしい。 「それにしても、ただでも古臭い学校なのに、ここは特に古臭いねえ。築何十年…いや、百年越えてるかな、あはは」 「え、ええまあ…あっ、ちょっと、そこ叩いたらダメ」 しかし、今日の来客はちょっと行儀のよろしくない生徒のようだ。 けたけた笑いながら、ぱたぱたと大きな足音を立てて、落ち着きなく歩き回っているのが、扉越しにも伝わってくる。 (時々いるのよね、遊園地気分の子が) 薔薇の館はある意味で治外法権の特殊な場所なので、そういう気分になってしまうのもわからないでもないけれど、しかしここも一応学内なのである。 リリアンの淑女であるなら、羽目を外すのはせめて家に帰って制服を脱いでからにしてもらいたいものだ、と瑞穂は思う。 (開かれすぎて気分が緩んだせいで、あんなことになってしまったんだし) そう思いながら、背筋を伸ばして内側に沈み込んでいた自分自身を引き起こす。 (少し、脅かしてやった方がいいかしらね) 自分が強面として上級生からすら少々畏れられているのは知っている。 厳しい言葉をかけると、1年生などは縮み上がってかしこまってしまう。 自分としてはそれはあまり嬉しいことではないのだが、最初に敢えてそれを行った上で、次にやさしい態度を見せてやることで、たいがいの子は自らバランスの取り方を理解してくれる。 それが、ここでの時間で瑞穂が身につけた、“妹”たちの導き方だ。 (とりあえずは、喝を入れて落ち着かせる、と) 扉を開けた後の行動をシミュレーションしつつ、ノブに手をかけようとした途端、ものすごい勢いで扉が開かれた。 「!」 面食らって、発するはずだった言葉を一瞬忘れてしまった瑞穂の目の前に、好奇心に目を輝かせた少女が立ちはだかっていた。 「あっ、さっきの人!」 それは、真新しい記憶の中に焼きついた、あのウルフカットの1年生だった。 「おかげで職員室に行けたよ、ありがとうっ!」 その1年生はそう吠えたが早いか、両手を広げて、がば、と瑞穂に抱きついた。 「っひ…」 しがみつかれて身動きが取れない。 いや、予想もしなかった成り行きに、頭も体も完全にフリーズしてしまってもいたのだが。 「なっ、菜摘さんダメ! その方はお姉さま、上級生なのっ!!」 「え、そうなの?」 「そうなの! み・瑞穂さますいませんっすいませんっ」 案内して来た子が、後ろからウルフカットの子を掴まえて瑞穂から引き剥がす。 よく見るとそれはさっき会ったばかりの幸恵さんだ。 身を離して驚きから多少立ち直った瑞穂は、やや裏返った声で言った。 「な、な、何なのあなた! 誰なの?」 ウルフカットの少女は悪びれる風もなく、にかっ、という感じの笑顔で。 「2学期からこの学校に転入してきました、皆口菜摘です! よろしくお願いします!!」 大きな声で名乗りを上げた。 「て、転入生!?」 思わず横の幸恵さんに顔を向けると、彼女は少し疲れた顔で、こくりと頷いた。 ● 「またここで煙草を。やめてくださいってお願いしてるじゃないですか」 「や、悪い悪い。空気清浄機付きのエアコンがあるの、ここだけだからさ」 昼休み、薔薇の館に足を運んだら、扉の鍵が開いていた。 もしや、と1階の部屋の扉を開けたら、案の定、そこには一服中の佐藤先生が座っていた。 「職員室も禁煙になっちゃったし、外はまだ暑いしさあ。生徒のいない時間だけにするから、ねっ」 「ね、じゃありませんよ。いっそこれを機会にご自分も禁煙なさったらどうです」 「いやあ、それがなかなか」 うやむやに語尾を濁しながら、携帯灰皿に煙草を押し付けて火を消す。 佐藤先生は英語教師。 40歳代以上のおじさんおばさん、中にはお爺さんレベルも含まれる他の教師たちより、生徒たちとの方が近い若さ(本人曰く「ぎりぎり20代」)と、とっつき易いくだけた物腰と、何よりその美貌とで人気が高い。 なんでも、本人もかつてはリリアンの生徒だったそうで、リリアン子の気分もよく理解していて、生徒たちからはちょっと年嵩のお姉さま、みたいな感じで親しまれている。 瑞穂にしてみたら、教師にしては緩すぎるその言動にはあまり好意的になれないのだが。 「で、どう、例の子。あの転入生」 「ご存知なんですか」 「君はわたしが毎日学校に何しに来てると思ってるんだ。これでも担任クラスも持ってる教師だよ」 「あら、煙草をふかしにいらしてるんじゃなかったんですね」 「言うねえ。ま、なにしろ何年、いや十何年かぶりの中途編入生だからね。職員室でもあの子の話題で持ちきりよ」 (話題、ねえ) あの子の行状を見れば、話題を呼ぶのも無理はないという気はするけれど、教師たちの立場からはそれが見えているのかどうか。 まあ、それはそれとして、気になっていた言葉が出てきたので、いい機会だから尋ねてみる。 「リリアンて、中途編入なんか出来ましたっけ?」 リリアン女学園に入るには、幼稚舎の入園試験か、小・中・高の区切り毎に実施される入学試験以外に機会はない。 途中の学年での入学は認められない。 まして、年度途中の学期からの編入などありえない。 …原則としては。 「まあ、何事にも例外とか特例というものがあるってことよ」 特例。 つまり、あのトンデモ娘は、原則を度外視して入学させるだけの特別な何かが認められている、ということだ。 (まあ、実際、特殊なことは確かだけどね) それにしても。 この純粋培養のお嬢様の園に、あのデタラメな子はあまりにもそぐわなさすぎる。 一体学園長や教師たちは、あの子の何を認めて、この学園に迎え入れたのだろうか。 「編入試験の問題は今年の高等部の入試と1年生の1学期の期末試験の混合だったんだけど、あの子ね、パーフェクトでクリアしたのよ」 「パーフェクト、って…全部満点だった、ってことですか」 「そう。ちなみに、入試でも、期末でも、全教科満点を取った生徒はいないわ」 信じられない。 あの一見ちゃらんぽらんで、勉学というものから最も縁遠そうな子が。 「知能テストでは180くらい出したそうよ。いわゆる天才よね」 「でも、なぜそんな子がリリアンに?」 リリアン学園高等部はそれなりに偏差値は高いので、入学するのは結構難しいけれど、と言って一流大学を目指すような子が選ぶような高校でもない。 やれやれ、というような顔をしながら、佐藤先生は椅子に座り直すと、静かに語り始めた。 「確かに彼女は人並みはずれた頭脳を持ってはいるんだけれど、なんと言うのか、“試験のための勉強”みたいなのとは反りが合わないらしくてね。高校も最初は公立の進学校にいたんだけど、まあ、いろいろあって、学校ではもめるわ、本人はそれで登校拒否みたいになるわで、教師にも持て余されちゃって。それで、関係者の誰かに、リリアンはどうかと勧められたわけ」 その“いろいろ”が具体的にどういうものだったのかは、なんとなく想像がつくような気がする。 「でまあ、本人は受験勉強なんて興味がない。親御さんも、本人がやる気のない方向に無理矢理仕向けてもしょうがないと思っていらして、それよりは人として女性としての情操教育の方に重きを置きたい、と」 情操教育か。 確かにこの数日見ていただけでも、あの子には落ち着きが明らかに足らない。 頭の回転が速すぎるせいで、物事に対する関心や集中がわたしたちとは違うスピードで移り変わっているのかもしれないけれど、それにしても、そのことを周囲に感じさせない気配りは少しはあってもいいだろうと思う。 「リリアンは特に超進学校というわけじゃないし、生徒もお嬢様ばかりだから、比較的のんびりしている。少々特殊な子でも、受け入れられる鷹揚な空気がある。“神の御名の下の平等”を旨としていることでもあるしね」 「学園としても、そういう天才児が高等部全体の学力レベルの平均を上げてくれるならよし、うちから国内外の一流大学に進学してくれるもよし、うちで大学まで進んでそこで何らかの成果を挙げてくれるもよし」 「そういう人材を育てることが学園の対外的アピールになる、ということですね」 「そゆこと。…そして、仮にそのいずれも実現しなかったとしても」 そこまで口にして、佐藤先生は思わせぶりに言葉を切った。 「しても?」 少し苛つきながら、続きを促す。 「才能に恵まれながら、よその学校でははじき出されてしまうような生徒が、この学園で過ごすことで心の平穏と有意義な学校生活とを得られるなら、それこそが信仰と伝統の賜物であり、教育の成果であり、マリア様の思し召しである、というわけよ」 佐藤先生は、ちょっと芝居がかった口ぶりで締めくくった。 マリア様の思し召し。 なんだかとても空々しいキャッチコピーに聞こえるのは、佐藤先生のふざけた口調のせいばかりじゃない気がする。 「…経緯はだいたいわかりましたけど。もし、うちでも持て余したら、その時はどうするんですか?」 「さあ。それはその時に考えることよ。まあなるようになるし、なるようにしかならないわ」 そう言って佐藤先生は軽く笑った。 なんて無責任な。 「とりあえずは、瑞穂ちゃんが手懐けてくれることに期待かな」 「そのつもりで、あの子がここに来るように働きかけたんですか」 「まさか。あれは自分自身で興味がわかない限り、人の言うことなんか聞きゃしないタイプでしょ」 さすがに、教師だぞと威張るだけのことはある、的確な評価。 「ま、薔薇の館は変わった子のたまり場だから、遠からずここに引き寄せられてくるんじゃないかな、とは思ってたけどね。“青い薔薇”には特に」 読み通りというわけだ。 それがなんだかすごく癪に障る。 「ご期待いただくのは自由ですけれど、その結果失望されることになっても、責任は負いかねますわ」 目一杯の嫌味を込めて答えるけれど、佐藤先生は。 「それはもちろん。ただ、リリアンの生徒らしく、下級生を教え導いてやってくれればいいんだよ。他のたくさんの1年生たちにしているのと同じようにね」 涼しい顔でウインクを返してくる。 「…………」 仏頂面で睨み返していると、佐藤先生はがっかりした顔になった。 「瑞穂ちゃんはノリが悪いなあ。他の子なら今ので、きゃー、とか言ってくれるところなのに」 「なら、わたしに期待しないで、きゃー、とか言ってくれる子を当たってください」 でも、棘のある言葉は、ははは、という笑い声と共に軽くかわされてしまう。 「まあ、菜摘ちゃんについては、創立100周年記念の余興とでも思って、気楽に相手しとけばいいんじゃない?」 「100周年なんて、そんなもの、とっくの昔に過ぎたじゃないですか」 「ん、そうだっけ」 やっぱり、この先生はなんだか苦手だ。 ● 紙コップを持って、2階に上がる。 「お茶をいただいても、よろしいかしら」 「いいわよ。…そんなの、いちいち断らなくても、自由にしていいのよ。あなたも、山百合会の一員なのだから」 紅薔薇さまが優しく語りかける。 が、瑞穂はその言葉には答えず、黙ってお茶を入れると、紙コップを持って扉へと向かった。 外に出ようとした瑞穂を、今度は黄薔薇さまが呼び止める。 「瑞穂さん。たまには、ここでわたしたちと一緒にお茶を飲んでくれないかしら」 「…いえ。作業中ですので」 「少しくらい休憩してもいいのではなくて? お茶を飲みながら、進捗状況についてお話しするのも悪くないと思うけれど」 「進捗は定期報告を上げています。改めてお話しするようなことはないと思います。緊急事態があればその都度ご連絡します」 「報告が欲しいのではないの。わたしたちは、あなたとお話がしたいのよ」 「…わかりました。どうぞ」 瑞穂は扉の側に突っ立ったまま、薔薇さまたちに促した。 その、硬さを崩そうとしない態度に、白薔薇さまがため息をつく。 「…あなたって、どうしても、こういう時にわたしたちと同じ席についてくれようとはしないのね。わたしたちとお喋りはしたくないかしら」 「わたくしはお喋りは苦手ですので。お相手をご要望でしたら、階下の者の中から、ふさわしい子を推薦いたしますわ」 「そういうことではなくて。わたしたちは、あなたと、仲良くなりたいと思っているの」 紅薔薇さまは真面目な顔でそう言った。 彼女らは、善意から、真剣にそう思っているのだろう。 しかし。 「……主人と奴隷が仲がいいなんて、ありえるのかしら」 瑞穂がぽつりと吐いたその言葉に、紅薔薇さまの顔が強張った。 「わたしたちは、あなたのことを奴隷だなんて考えてはいなくてよ」 「わかっています。でも、それは所詮、上に立つ側が考えることです。奴隷にとっては、主人がどのような考えを持っていようが、それが支配者であることには変わりない。主人が奴隷と仲良くしたい、と言ったところで、それは支配者と被支配者の力関係に基づく、命令でしかありません」 それに。 お前たちは、あの人を守らなかったじゃないか。 わたしに、そのことを忘れてお前たちと仲良くしろと言うのか。 「わたしたちは同じリリアンの生徒よ。神の御名の下に平等だわ」 「申し訳ありませんが、わたくしはリリアンの奉ずる神を信じませんので、その名の下の平等も信じません」 瑞穂の言葉は、あわれな小羊を鞭のように打った。 お前たちのその無責任な善意は、わたしに対する暴力なのだ、ということを、お前たちは知っておくべきだ。 そのことをお前たちに思い知らせるためにこそ、わたしはこの場所にいるのだから。 部屋の空気は、すっかり気まずく重たいものに変わっていた。 つぼみやその妹たちは居心地の悪そうな表情で、口を挟むこともできずに押し黙っている。 「お気になさらないでください。山百合会と、学園に奉仕することが、わたくしの喜びです。命令を受けて使役されるのは、わたくしにとって幸せなことなのです。ただ、お喋りのお相手だけは、ご容赦ください。このような会話でみなさんにご不快な思いをしていただきたくありません」 「…………わかったわ。もう、行ってちょうだい」 黄薔薇さまが諦めてそう言うと、瑞穂は一礼してから、背を向けて扉を開けた。 その背中に、白薔薇さまが最後の問いを投げかける。 「…瑞穂さん。あなたは、わたしたちが嫌いなのかしら」 瑞穂はそれに向かってにっこりと微笑みかけながら、答えた。 「ええ。大嫌いです」 息を呑む薔薇さまたちが、閉まる扉の向こうに隠れていった。 ● 「彼女は、わたしたちを赦してはくれないのね」 「しかたないわ。確かに、あんなことになってしまった責任の一端は、わたしたちにあるのだもの」 「それにしたって、もう2年も経つのよ。あの子が高等部に上がって来てからでも、もう1年半近く。それなのに」 「瑞穂さんの中には、わたしたち山百合会とこのリリアン学園全体に対する憤怒と憎悪が、あの日からずっと煮えたぎっている。あの子は、それをエネルギーにして、崩壊寸前だった“青い薔薇”を、ほとんどひとりで立て直した」 「彼女の仕事ぶりは非の打ち所がないわ。仕事に私情を挟むこともしない。わたしたちには、彼女をここから遠ざける理由がない。それどころか、今の山百合会は、彼女がいなければ立ち行かないくらいなのよ」 「…ただ、わたしたちの方が、彼女を見て、勝手におののいているだけ」 「彼女がああして近くにいる限り、わたしたちはあの事件のことを片時も忘れることができない。自分たちの過ちと、罪の意識を常に思い出さずにはいられない」 「…それが、瑞穂さんの、わたしたちに対する復讐なのよ。わたしたちの学園生活に、安息など与えない、という」 「だからって、今さらどうしろっていうの。あれはもう起こってしまったことなんだもの。わたしたちにどうしようがあるっていうのよ」 「…きっと、彼女は、わたしたちが卒業するまで、わたしたちの目の前で、存在を示し続けるんでしょうね。わたしたちに、忘れさせないために」 「わたしには無理だわ。あんな風に、怒りと憎しみを、その熱さを失わないまま、何年も抱え続けるなんて。きっと、自分自身が真っ先にだめになってしまう」 「そうね。…だから、わたしたちは彼女を恐れるんだわ。事件のことより、あの、彼女の意思の力そのものに圧倒されて」 お姉さま方は、それぞれにため息をついて肩を落とす。 リリアンの3本の薔薇と呼ばれて尊敬と崇拝を集め、時に畏れられる人々が、たった1輪の“幻の薔薇”のために、こうまで打ちひしがれてしまう。 中谷瑞穂、という人間の存在の大きさを、感じずにはいられない。 「…去年ね。わたしのお姉さま、先代の紅薔薇さまが、あの子と差し向かいで、話したことがあるの。まだ、あの子が進級してきて間もない頃」 「2階の部屋にふたりだけで。わたしも同席したかったんだけど、お姉さまに強く止められて、しかたなく外で待っていたわ。話は10分くらいで終わって、瑞穂さんが先に出てきた。何の感情もない、無表情で、わたしに一瞥もくれずに通り過ぎていった。部屋に入ると、…お姉さま、泣いていたの。あの人があんな風に身も世もなく泣き崩れるなんて、後にも先にもその時しか見たことがないわ。あの子の前にお姉さまをひとりにしたことを、死ぬほど後悔した」 「…そして、それ以来、あの人は笑わなくなってしまった。卒業するまで、本当に楽しそうな顔を見せてくれることは二度となかった。大学も、元はリリアン大に進むはずだったのに、外の私大に行ってしまわれた」 「卒業式の日に、お姉さまはわたしに言ったわ。あなたを残して逃げてしまうことを赦して、って。あの子の前にわたしを残して、この学園から逃げていくことを」 「あの子は、わたしのお姉さまの心を壊してしまった。そして、わたしも、あの子に傷つけられたお姉さまを、最後まで救ってあげられなかった。幸せだったはずのわたしたち姉妹の関係は、虚ろなままで終わってしまった」 「わたしのお姉さまをあんなにしたあの子に、怒りを感じることもあったわ。でも、あの子はそれすらも望んでいるのよ。怒りと憎しみの渦の中にわたしを引きずり込んで、わたしの心も押し潰してしまおうと待ち構えているの。油断して歩み寄ろうとすると、容赦なく抜き身の刃を放って、心を切り裂こうと狙ってくる。今日みたいに。…わたしは、あの子がこわい。あの子から逃げ出してしまったお姉さまの気持ちがわかる」 ● 校舎からの舗道が校門へ続く銀杏並木に差し掛かる分かれ道、そこに立つマリア像。 下校する生徒たちが、立ち止まっては短い祈りを捧げている。 けれど、その姿を横目に見ながら、瑞穂はそこを素通りした。 「ねえ、みんなお祈りしてるけど、しなくていいの?」 瑞穂の後をついて来る菜摘が、怪訝そうに尋ねた。 「あなた、クリスチャンなの?」 「ううん」 「なら、別にあそこでお祈りしなきゃいけない決まりがあるわけじゃないわ」 「あたしが聞いてるのは、瑞穂ちゃんのことだよ」 「わたしも違うわ。だからお祈りはしない」 そう、あの人を救わなかった聖母に捧げる祈りなんか、ない。 ● 菜摘が青い顔をして震えていた。 ついたった今まで、へらへらと笑っていたのに。 「あ、あ…ああ…」 「…ちょっと。どうしたの? 具合悪いの?」 触れようとした瑞穂の手を払って、菜摘は。 「や。あ、あっ、やだ。やだ…」 軽い錯乱状態に陥っている。 どうしたのだ。 「あ、ああ、ああああ」 そのまま、菜摘はその場にしゃがみこんで、頭を抱えた。 「どうしたの。ねえ、どこか痛いの?」 様子がおかしい。 普通じゃない。 「ほ、ほっといて。すぐ、すぐおさまるからっ…」 そう言って瑞穂を拒否した菜摘は、そのままその場で抱えた膝に顔を埋め、しばらく震えていた。 唖然とする瑞穂の前で、3分ほどそうしていただろうか。 菜摘は、スイッチが切り替わったかのように、いきなりすくっと立ち上がった。 「治った」 「はあ?」 「ごめん、もういいよ。で、なんだっけ」 「なんだっけじゃないでしょう。今のはなんなの。どう見ても普通じゃなかったわよ。あなた、どこか悪いの?」 「別に悪いところはないよ。いたって健康」 受け答えをする菜摘は、いつもの菜摘だ。 顔色も元に戻っている。 ●

未完成。
捏造設定の嵐ですが、生暖かく眺めてもらえると(^^;
Everything〜が終わったらやります。

2007 -

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