Everything your heart desires






「…うん、よろしい。よく頑張ったな」

報告書の最後の1枚を読み終えると、先生は労いの言葉を口にした。

「……ありがとうございます」

晩秋の午後。
花寺学院高等部生徒会長・福沢祐麒は、学園祭の報告書を提出すべく、職員室を訪れていた。
花寺高校の学園祭ははるか昔に終了しているのだが、隣の女子校・リリアン学園高等部との交流の一環として、互いの学園祭に生徒会の人間を派遣しあう慣例のため、最終報告書が提出できるのはリリアン側の学園祭の終了した後のこの時期になってしまう。
中間試験もとうに過ぎてやや弛緩した雰囲気の放課後の中、明日の講義の準備や、受け持ちクラスの成績の整理に追われる教師たちで、ここだけは騒然とした空気が漂っている。

「リリアンの皆さんにも喜んでいただけたようで何よりだ。今年は去年と違ってどうなることかと……そんな顔をするな福沢。何も問題があったと言ってるわけじゃないぞ」

わかっている。
去年リリアンに出向したのはひとりだけだったが、今年は一挙6人、生徒会の全員を送り込んだわけで、しかもメンツがあれである。
収拾がつかなくなったらどうしたものか、という先生の懸念はもっともだ。
何しろ、自分自身がそれを一番心配していたのだから。

だが、そうしたこととは別に、花寺祭でも、リリアンの手伝いでも、去年に比べたら不首尾や不手際が多かったのは否めない。
去年の生徒会ならしなかったような細かな失敗は枚挙に暇がなく、当日の運営でもタイムスケジュールを消化するだけでテンパってしまい、いろいろと忘れたり見落としたりで、全体を台無しにしてしまうような大失敗をせずに済んだのが奇跡のようでさえある。

特に、花寺祭開催中に、ゲストのリリアン生徒会メンバーが、戯れとは言え拉致されて一時行方不明になった上、そのことに小一時間気付かずにいたというのは大失態だった。
個人的には、その拉致されたのが自分の身内だと言う点が、輪をかけて情けない。
さらに、それを救出し、自分より先に犯人に制裁を加えていたのが、他でもない前生徒会長だったというのは、痛恨の極みと言うしかない。
不幸中の幸いは、拉致された当人と前生徒会長の意向で事件そのものが隠蔽され、先生には事実を掴まれていないということだが、それも現生徒会長の立場としては、忸怩たるものがある。

「結果を見れば花寺祭は去年以上の大盛況だったし、リリアンの方の舞台も個人的には去年のお行儀のいい芝居よりよほど楽しめたよ。終わり良ければすべて良しだ」

先生はそう言ってくれるが、当事者としてはあまりそう楽観的にもなれない。

花寺祭が去年より盛り上がったのは、リリアンからのゲストの薔薇のつぼみたちの学ランコスプレが大受けだったことに拠るところが大きい。
その余韻は未だに尾を引いていて、今では校内には島津派、二条派などさまざまな派閥ができあがり、抗争を繰り広げているありさまだ。
最大派閥が福沢派というのが納得いかないと言うか、解せないところだが。

「何はともあれ、ご苦労だった。2学期はもう終業式まで特にイベントもないし、しばらくは学業に専念してくれ」
「はあ」

思えば、両校の学園祭の合間になってしまったために、中間試験の結果は個人的にはあまり芳しいものではなかった。
生徒会長があまりみっともない成績を取っていては示しがつかないので、期末試験はそれなりに、いやかなり必死に頑張らねばならない。
学園祭で一山越して当面はダラダラしようかと思っていたのに、そんな余裕すらもない。

「2年生も後半戦だ。そろそろ進路のことも考える時期だろう。福沢はどうするんだ」
「今のところは、はっきりしたことは何も決めてません」
「そうか。どうだ、推薦枠狙ってみんか。その気があるなら、推薦書には生徒会で頑張った分、たっぷり色を付けてやるぞ」
「いやあ…無理っすよ」

花寺大学への付属高校からの推薦入学枠は毎年30名程度しかない、狭き門だ。
残念ながら、今の自分の成績では、どんなに推薦書で下駄を履かせてもらっても、そこをくぐるには相当厳しい。

「やってみもせんで白旗を揚げてどうする。…まあ焦る必要はないが、進路を決めるのは早いに越したことはないぞ。進学するにせよ、他の道を選ぶにせよ、な」

進路か。
生徒会長に選ばれて、と言うか押し付けられて以来、進路のことはさっぱり考えていなかった。
しかし、2年生の夏も過ぎ、高校生活は折り返し点を越えた。
大学受験するにせよ、就職活動するにせよ、もう猶予は実質1年もない。

(はあ…)

職員室を退出して生徒会室に向かうが、足取りは重い。
公私ともに周囲のことに振り回されて、自分のことで悩んでいる余裕なんかなかったが、振り回されている間は考える必要がないから、ある意味では楽だったのも事実だ。
しかしこれからは考えずにいるわけにもいかない。

「お帰り、ユキチ」
「…………」
「どうしたんだい? そんな仏頂面で。報告書にダメ出しでもされたのかい」

どんよりした気分で生徒会室にたどり着くと、そこにはまたよりによって今一番見たくない顔が待っていた。

「……なんでいるんだよ」
「ご挨拶だなあ。可愛い後輩の仕事を見守りに来たというのに」

もはや突っ込む気力もなくテーブルに向かうのを、アリスが苦笑しながら見ている。

「どうだった?」
「ああ、OK出た。…他の連中は?」

部屋を出る時にはいた小林、高田、薬師寺兄弟の姿は今はない。

「小林くんはなんかの講習会で、高田くんはジムの時間だからって。日光月光先輩は黙って出てったから知らない」
「報告書の受理も確認しないでさっさとご帰宅かよ。生徒会幹部の自覚あんのかね」
「みんなユキチを信頼してるんじゃない?」
「どうだか。…お、ありがと」

軋む椅子に体を預けて一息ついたところで、アリスが目の前にコーヒーカップを置いてくれる。
リリアンに出入りしている間に、薔薇の館のお茶会というやつにすっかり感化されたアリスは、ここでメンバーや来客にお茶やコーヒーを振る舞うことに妙に熱心になった。
入れる手際も見事なもので、はっきり言って祐巳なんかよりはるかに堂に入っている。
カップに注がれた芳しいコーヒーのアロマを楽しむのもつかの間、正面に座って薄笑いを浮かべている顔を見た途端に、また不愉快な気分が戻ってくる。

「…で、入れ替わりにこれが来た、と」
「これとはなんだこれとは。先輩に対する口の聞き方がなってないな」

そう言いながら、にやけたポーズは崩さない。
柏木優。
花寺高校前生徒会長である。

「…それで、本日のご用件は何でございましょうか、前生徒会長閣下。ご卒業あそばされた先輩のお手を煩わせるようなことは今のところ何もない、と存じ上げておりますが」
「今日はいつにも増して刺々しいな。こわいこわい」

普段からこの人をバカにしきったスカした態度がいけ好かないと思ってはいたが、今は特に、この慌しい日常を自分に押し付けた張本人ということで、ことさら腹が立つ。

「何の用だよ。大学はそんなに暇なのか」
「そんなことはないよ。今も講義の合間を縫ってなんとか時間を作ってきたんだ。ユキチにお願いがあってね」

(お願い、ね)

そのお願いがくせものだ。
ちょうど去年の今頃、迂闊にこいつのお願いを聞いてしまったばかりに、今の自分はこんなことをやらされている。

「先輩、おかわりいかがですか」
「ああ、ありがとうアリス。そうだな、いただこうか」

オーダーを受けたアリスは嬉々として柏木のカップにコーヒーを注ぐ。
こいつは元々柏木のファンだったから、柏木の指名でこうして生徒会のメンバーになったということは嬉しくてしょうがないのだろう。
ある意味、羨ましい話だ。

「………ユキチは、約束は守る方かい?」
「…まあ、可能な限りは」
「そうだな。約束を守らない男は信用されない」

2杯目のコーヒーを傾けながら、脈絡があるのかないのかわからない話を始める。

「時に、ユキチは観劇には興味があるかな」
「いや、…別に」

まだ記憶に新しい、舞台の上の大混乱が脳裏に浮かび上がってくる。
正直、さっさと忘れたい。
劇そのものは特に好きでも嫌いでもないが、今は何を見てもあまり楽しめる気はしない。

「ふむ。じゃあ、イタリア料理は好きかい」
「デートの誘いなら、断固ごめんだぞ」
「誘いたいのは山々だがね。残念ながらこれはそういう話じゃないんだ」

そう言いながら、ふふ、と意味ありげに笑う。
やめろ気色の悪い。

「じゃあどういう話なんだよ。回りくどい」
「せっかちだな。…実は、僕はある人物と観劇をご一緒する約束をしていてね。女性だ。近々その約束の日なんだが、急にその日に別の用事ができてしまった。このままでは約束を違えることになってしまいそうなんだ。そこでだ」
「なんで俺があんたの女とデートしなきゃならないんだよ。冗談じゃない」
「まだ何も言ってないよユキチ」
「じゃあ、違うのかよ」
「いや、違わないよ。僕の代わりに彼女のエスコートを頼みたい」

柏木はしれっとした顔でそう言った。

「ただ、彼女は身内だ。僕の女だなんてとんでもない」
「なおさら悪いだろ。あんたの身内の付き合いを、赤の他人の俺がどうして肩代わりすんだよ。場違いだろ」
「おおユキチ、なんて冷たい。お前と僕は兄と弟も同然の仲じゃないか」
「バカ言うな。あんたみたいなのが兄なら即刻家出するね」
「ひどいなあ。祐巳ちゃんだってさっちゃんの“妹”なんだから、家族ぐるみの付き合いみたいなもんじゃないか」
「…ちょっと待てよ、その身内ってまさか祥子さんじゃ」
「いや、違う。さっちゃんは劇場というのが好きじゃないらしくてね。連れて行ってやっても、劇場のシートは狭くて腰が痛いとか、何時間も座っているのは退屈だとか言い出してゴネるんだ。お嬢様育ちのせいでこらえ性がないのかな」

仮にも自分の婚約者を、他人の前でよくもまあそんなに気安く悪し様に言えるもんだ。
…まあ、多少は納得できないでもないが。

「都合が悪くなったんなら、日付を変えてもらえばいいだろ。知りもしない他人に相手されたってその人だってありがたくないんじゃないのか」
「日付を変えていたら彼女が見たがっていた公演は終わってしまうんだ。…それに、時には他人の方が気が楽なこともある」
「? なんだ、そりゃ」
「わからなければいい。まあ、とにかくそれはそれだ。ユキチには祐巳ちゃんのチケット争奪戦の時の貸しがあったろう」

忘れていた。
だが、それを貸しにされるのはたまらない。

「ちょっと待てよ。確かにあの場を治めてもらったことには感謝してるけど、ああいうことになったそもそもの原因は、あんたの同好会のつまらない悪戯のせいで祐巳が変に目立っちまったせいじゃないか。そのツケを、どうして俺が払うんだ」

柏木は祐麒の顔を見つめたまま、真面目な顔で沈黙した。

「………そうだな。確かにそれは筋が通らない。すまなかった」

もう少しあれこれ言を弄して言いくるめにかかってくるかと思ったが、柏木は意外にもあっさりと折れた。

「お前にはいろいろ迷惑をかけて、悪いと思っている。だが、こういう時にお前以上に頼れる人間はいないんだ」

なんだか普段と様子が違う。
どうも調子が狂う。

アリスは脇で少し驚いた顔をして見ているが、口は挟んでこない。
こういう時アリスは敏感に空気を読んでくれるので助かる。
小林たちがいなくてよかった。

「お前の貸しにしてくれてかまわないから、引き受けてほしい。どうか、この通りだ」

そう言ったと同時に、柏木は両手をついて、机に着くほど深く頭を下げた。











駅に着いた時には、もうすっかり日が暮れて暗くなっていた。
帰宅ラッシュで溢れる改札口の前を素通りして駅の反対側に出ると、ちょうど家の方に向かう駅前始発のバスが発車待ちで止まっている。

「…あ、おかえり」

乗り込んだがら空きの車内に、自分と同じ顔が座っていた。

「…バスん中でおかえりとか言われてもなあ」
「えー、じゃあ何て言えばいいのよ。こんにちは、とかじゃもっと変じゃない」
「ごきげんよう、とか言っとけばいいんじゃないの」

そう言いながら、2人掛けのシートの隣に腰を下ろす。

「今日は遅いんだな。学祭終わって暇になったんじゃなかったのか」
「んー、まあ、今日はちょっといろいろあってね」

そして祐巳は、聞かれもしない内から、その“いろいろ”を語り始めた。
“黄薔薇のつぼみ”の島津さんが、先代の黄薔薇さまと約束した、妹を見つけて紹介する期限が近づいて焦っていること。
そしてそれを解決するために、オーディションを開催して1年生から志願者を募ろう、とか言い出したこと。
その突拍子もない思いつきに、祥子さんや支倉さんまでが賛同してしまって、山百合会全員が巻き込まれてしまいそうなこと。

「妹を選ぶって、そういうもんじゃないんじゃないかしら。テレビタレントのスカウトやってるんじゃないんだからさあ、もうちょっとなんて言うかこう、デリカシーがあっても、って思わない?」
「そこで同意求められても。こっちにゃそんなしきたり自体ないんだから、はあそうですか、としか」
「むー」

祐巳は不服そうな顔をする。

「それに、花寺に似たようなもんがあったとして、考えてみろよ。男同士で兄弟の契り、なんて演歌かヤクザ映画の世界だぞ。デリカシーもクソもあったもんじゃない」
「うーん。まあ、そうか」

そうして喋っている内にいつの間にか座席は埋まり、バスが発車した。

「でも、祐麒は柏木さんに指名されて、生徒会長を継いだんでしょ。じゃあ、祐麒にとっては柏木さんが“お兄さま”みたいなもんなんじゃないの?」
「…本気で言ってんの? それ」
「……だよ、ね。なわけないか」

祐巳は自分で言っておいて、その図を思い浮かべてげんなりしている。
それを横目で見ながら、祐麒は数時間前の、自分の前で頭を下げる柏木の姿を思い返していた。
あの男が、気取りもプライドも捨てて、自分に向かってそこまでするのだ。
よほど大事な相手なのだろう。

「…でも、やっぱりオーディションで妹ってのは、なんかね」
「祐巳は、自分が祥子さんと劇的に出会ったから、姉妹ってのに夢見すぎてんじゃないの。実際リリアンの中でも、祐巳ほどお姉さまにべったりなんて、そんないないだろ」
「そんなことないよー。リリアンの子にとっては、姉妹って本当に大事なものなんだから」
「どうだかなー。祐巳が散々ネタにする藤堂さんと二条さんだって、学祭の時に見た限りじゃさっぱりしたもんで、祐巳みたいにのべつまくなしにハートマーク飛ばしてるような感じじゃなかったぞ」
「それは普段を見てないから! あのふたりだって、周りがわたしや由乃さんしかいなかったら、もーいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃしてるんだから!」

そこから祐巳の話は、白薔薇姉妹のいちゃつきっぷりがどれほどのものかの解説に始まり、でもやっぱり姉妹っていいよね、という述懐を経由して、この間祥子さんが図書室で居眠りしていてその寝顔がとても可愛らしかったとか、1年前の祥子さんの真似をしたのにスルーされて悲しいとか、毎度お馴染みののろけ話へと移行していった。
もう途中からはこっちは聞いてなんかいないのだが、祐巳はそんなのおかまいなしに滔々と喋り続けている。
バスの中にはリリアンの生徒も乗っていて、時折こちらを見てはくすくすと笑っている。 祐麒は他人の振りがしたかったが、こう顔が似ていてはそれもかなわない。
ちょっとした拷問だ。

(そんなに他の誰かがオーディションで妹を決めるのに異議があるんなら、自分があの子を妹にした経緯でも話して聞かせてやりゃいいんだ)

だが、それを口に出して、別ののろけ話に続かれても面倒なので、黙っておくことにした。

祐巳の話がようやく一段落する頃、バスは家の最寄の停留所に着いた。











「これが劇場のチケットだ。食事の方は店に僕から話を通しておくから、お前はサインだけすればいい。頼んだよ」

チケットを渡してそそくさと去っていく柏木を、祐麒は憮然とした顔で見送った。
結局、引き受けてしまった。
お人よしにもほどがある。

「なんだ、柏木先輩とデートか? とうとう観念したのかユキチ」
「冗談はやめろ。て言うか何だ観念て」

放課後の生徒会室。
祐麒と、小林、アリスが顔を揃えていた。

「だいたいなんだ、昨日はお前らだけ勝手にさっさと帰りやがって。残ってたら、これはお前に回ってたかもしれないんだぞ」
「なんだそりゃ。何だか知らないが、俺はスケジュールの空きはないぜ。その場にいたとしてもお断りだ」
「嘘つけ、ちょっと前まで暇だ暇だってぶーたれてたくせに。学祭の準備にかこつけてリリアンでナンパとか言ってたじゃ…って、お前もしかして」
「違うよバカ。彼女ができてたらお前、もっと人生バラ色で舞い上がってるっつーの。受験予備校の集中セミナーだよ」
「ああ、そういえば小林くんは昨日もそう言って帰ったよね」

その場のノリだけで生きているような小林が、そんなものに通っているとは。

「どういう風の吹き回しだ。悪いもんでも食ったか」
「うるせえよ。俺だっていろいろ考えてんの。ああ、俺放課後も当分ここ来ないから。あと、よろしく頼むな」
「ちょっと待てよ、そりゃまずいだろ」
「まずかないだろ。学祭済んだんだし、学期終わるまでイベントもないんだから。うちはクリスマスも関係ないし」
「イベントはないけど、次期予算の折衝はあんだろ。会計がいなくてどうすんだ」
「折衝ったって、各部が出してくる要望書受け取るだけだろ。持ってくる奴が口頭で何言おうが、書面に書いてない内容は無効なんだから、右から左に受け流しときゃいいんだよ」
「そうは言ってもお前…」
「予算編成の本会議は3学期だろ。その時はちゃんと出るからさ」

そう言いながら、小林はもう帰り支度を始めている。

「なんだ、もう帰るのかよ」
「今日はそれだけ言いに来たんだ。言ったろ、予備校だって。なんかあったら昼休みとかに頼むわ。じゃな」

そう言うが早いか、小林はすたこらさっさという擬音がしそうな慌しさで出て行った。

「あいつが予備校ねえ…高田は部活か」
「学祭の間トレーニングを怠った分、ハードワークしないと、って言ってたよ。彼も当分来ないんじゃないかな」
「日光月光も来ないし…お前はいいのか? 部活」
「まあ、僕のとこは学祭の発表で一段落したから。運動部じゃないから、集まってトレーニングってのでもないし…」

心なしかがらんとした部屋の中で、アリスとふたり、どちらからともなくため息が漏れる。
窓ごしにどこかの運動部の掛け声が届いてくる。

「…今日、この後、なんかある?」
「…特に、ないかな」
「…帰ろっか」
「…そうだな」

鍵をかけて生徒会室を後にする。
窓の外はもうすっかり夕暮れの色になっている。
グラウンドの方からはまだ威勢のいい声が響いてくるが、廊下には既に人影もない。

「結局、引き受けちゃうんだね。柏木先輩の話」
「我ながら、ちょっとお人よし過ぎると思うよ」
「頼まれたらいやだと言えないもんね、ユキチは」
「それもあるけど…あいつがあんな風に人に頭を下げるなんて、滅多にないことだからな」
「うん、初めて見た」

薄暗くなった階段を、アリスと並んで昇降口まで歩いていく。

「あと、あいつがそこまで気を遣う相手ってどんなのかなって、ちょっと興味もあるんだ」
「女の人だって言ってたよね。大学生かな?」
「いやー、結構なおばさんだったりするんじゃないの? あいつが頭が上がらないような相手なら」
「名前とか聞いてないの?」
「行けばわかるとか言って、おあずけさ。何考えてるんだか。行ってみたらやっぱり祥子さんでした、なんて話になったら後で祐巳になんて言われるか」

まあ、どうせ暇なのだ。
期末試験の準備を始めるにもちょっと早いし、暇潰しにそんな座興もいいだろう。
これまでは、そういう暇潰しの相手といえば小林だったのだが。

「受験予備校ねえ。随分気が早いこったな」
「そうでもないよ。進学志望の人は、もう夏休みからでもいろいろやってるみたい」
「2年生で?」
「2年生で。レベルの高い大学目指してる人は、そんなもんじゃないかな」
「レベルの高い大学か。…小林が?」

何か、自分の中の小林のイメージと一致しない。

「受験かあ。僕もそろそろ考えておこうかなあ。将来の進路」
「3年になってからでいいんじゃないのか、そんなの」
「そりゃ、頭いい人ならそれでいいかもしれないけどさ。あんまり土壇場まで引っ張って適当な決め方するの、いやじゃない」
「うーん。そんなもんか」

考えてみれば、日光月光コンビも3年だから、もう受験の準備をしなければいけない時期だ。
顔を出さなくなるのも当然だろう。

「進路か…」

昨日先生にも言われたが、しかし、正直なところ、まだあまり考えたくない。
もう少し、高校生のままでいたい。
そういうのは甘えだろうか。
祐巳はどうするのだろう?
考えは千々に乱れるばかりだ。

源平の分かれ道まで来て、祐麒はどちらの道も選ばずに、第三の方向へと素通りする。

「じゃ、おつかれ」
「あれ? 帰らないの?」

祐麒の背中を、アリスの声が追いかける。

「寄り道。じゃあな」
「あ、そ。それじゃあ」

そう言って別れると、祐麒は裏門へと続く道へと向かった。











花寺学院は武蔵野の丘陵地帯にあり、都心からそう遠くない場所にあるとは思えないほど多くの緑に囲まれている。
バス通りでもある正門前はそれなりに賑やかで、学生を当てにしたファミリーレストランや喫茶店などが道路沿いに軒を並べているが、裏門から出るとそこは東京都内とは信じられないくらい何もない、田舎くさい風景が広がっている。
リリアン学園は隣とは言っても結構距離があって、その間にはまばらな住宅街と雑木林があるだけで、商店街はおろか、コンビニすら滅多に見当たらない。

その中を縫ううら寂しい道をしばらく歩いていった先に、その公園はある。
ゴンドラ型のブランコと、小さな滑り台と、後はベンチが一脚あるだけの狭い公園。
背の高い木々に周りを囲まれ、目前に近づくまでは気付かないほど目立たない。
なぜこんな場所にこんなものを作ったのか、疑問に感じてしまう。

この公園を見つけたのはいつだったろうか。
いつ来てもひと気がないので、最近ひとりで何かを考えたくなった時に、なんとなく足が向くようになった。
バス通りからは遠く離れてしまうので、この方向に家があるのでもない限り、花寺・リリアン両校の生徒が通りかかる可能性もまずない。
公園の隅に置かれた、塗装の剥げた古い自動販売機の缶コーヒーを飲み干すまでの間、暮れていく空を見つめながら、さまざまなことに思いを巡らせる。
特に結論めいたことが見つかるわけじゃないが、時には家族とも友達とも離れて、ひとりになりたい時はあるのだ。

だが、いつもは誰もいないはずのその場所に、今日は先客がいた。

(珍しいな)

普段は落ち葉くらいしか乗るもののないブランコに、人影がひとつ座っているのが見えた。
自分だけの場所を取られてしまったような気分を少し覚えながら、しかしここで来た道を戻るというのもなんだかつまらない気がして、そのまま足を進めた。
近づくと、相手はどうやらリリアンの制服らしいのがわかった。
こちらに背を向けた姿は、夕暮れの光の中でどこか寂しそうで、泣いているようにも見える。
頭の左右両側で髪を結ったその後姿には見覚えがあるような気がした。

(…やっぱ、今日はやめとこう)

公園の入り口まで来て、思い直して踵を返そうとしたところで、相手がこちらに気付いて振り返った。
その振り向いた顔は果たして思った通り、知っている相手だった。

「…ゆ…っ!!」

相手はこちらの顔を見るなり、ひどく動揺した表情を浮かべた。
だがそれは一瞬で、こちらの全身を把握すると、ほっとしたような、がっかりしたような、微妙な顔に変わった。

「…祐麒さま。ごきげんよう」
「…松平さん」

そこにいたのは、柏木優の従妹にして、祐巳の“妹”、松平瞳子だった。











「………久しぶり、だよね」
「…そうですね」
「あー、…元気だった?」
「ええ、…まあ」
「……………………」
「……………………」

困った。
話が続かない。
なんとなく並んでベンチに腰掛けてはみたものの、こりゃどうにもならないぞ。
遠慮がちに離れて座った、そのふたりの狭間に、硬い空気が陣取っている。

祐巳の高等部での後輩で、一番最初に見知ったのはこの子だった。
初めて会ったのは、夏休みの柏木邸でだったろうか。
気の強そうな、それでいていかにもお嬢さま風の上品な物腰が印象に残っている。
どうやら、夏前に祐巳と祥子さんの喧嘩(?)の原因の一端を担ったのも、この子らしい。
それが今や祐巳の妹なのだから、世の中というのはわからないものだ。

小さな唇から、はふ、と小さなため息が漏れる。
まあ、気持ちはわからないでもない。
せっかく姉妹になったというのに、姉の方はそのまた姉に未だに夢中で、妹がこんなところにひとりでたそがれているのも知らずにいるのでは、ため息のひとつも出ようというもんだ。

(その上、寄って来るのが、祐巳と同じ顔なだけの野郎じゃあな)

自分がそうであるように、彼女もここでひとりで考えたいことがあるのだろう。
邪魔をするべきじゃない。

「…ごめん。俺、帰るわ」

そう言って立ち上がりかけた学生服の裾が、しかし、白い指先に引き留められた。

「ごめんなさい、そういうつもりじゃなかったんです。わたし…」

こっちが気を悪くしたと思われたのだろうか。
その気遣いをちょっと意外に感じつつ、こちらを見上げる顔に振り向きながら、名前通りに大きな瞳だなあ、なんてどうでもいいことが頭をよぎる。

「いや、別に気にしたとかいうわけじゃないんだけど。やっぱり、お邪魔だろ」
「…だからって、一度側に来ておいて、そんな風にあからさまにほったらかして逃げられたら、それはそれで惨めですわ」

ちょっと拗ねたような顔で抗議される。
言われてみればそれもそうだが。

まあ、そこまで言うなら、ということで思い直して再び腰を下ろしてはみたものの。

「……………………」
「……………………」

やはりそこから会話は続かないのだった。

伏し目がちの白い横顔を、横目で盗み見る。
夏休みやリリアンの学園祭の稽古で会った時には、少し子供っぽい印象があったけれど、こうして物憂げな顔をしていると、ずいぶん印象が違って見える。
この顔が本来のこの子なのか、それとも、今取り巻かれている状況がそんな顔をさせているのか。

「……ごめんな」
「…はい?」
「祐巳のこと。なんだか、その、いろいろ迷惑をかけているみたいで」
「………いえ、…」

まったく、普段あれだけリリアンの姉妹制度の重要性について、こっちが聞きもしないのに、時には母親と一緒になって力説しているくせに、自分の妹はこんな風にほったらかしなんだから、祐巳は一体何を考えているのか。

「あんな奴だけどさ、よろしく頼むよ。妹として、うまく合わせてやってくれると、嬉しいんだけど」

励ますつもりで、軽い気持ちでそう口にしたのだが、それを聞いた瞬間、松平さんの表情が強張った。

「…祐麒さままでそんなことをおっしゃるんですね。そうやってわたくしのことを苛めるのがそんなに楽しいのですか」

そう言って、小さな拳を膝の上で握り締める。

「…ちょっと待ってくれよ」

なんだか雲行きが怪しい。

「祐巳の妹って、松平さんなんじゃないの?」

祐麒の問いに、彼女はもはや完全に怒りを露にして。

「祐巳さまとわたくしは、単に同じリリアン女学園に通う先輩と後輩。それ以上の関係は何もありませんわ。何も」

一字一句噛みしめるように、そう吐き捨てた。

(…ええっ?)

ちょっと待てよ、そりゃどういうことなんだ?
それじゃあ、リリアンの学祭の時、この上もなく嬉しそうな顔でこの子の手を引いていたのは、一体何だったんだ?
「瞳子ちゃんをうちに呼んでも、祐麒は気にしないよね」と楽しそうに聞いてきたのは?

絶対の前提として疑ってもいなかったことがいきなり崩れ去って、すっかり面食らってしまった。
その祐麒を置き去りにして、目の前の彼女は不機嫌な顔のまま、どんどん俯いていく。
やばい。
まずい。
なんとかせねば。

「ごめん。知らなかったんだ。俺が勝手にそう思い込んでただけなんだ。ほんとに」
「…………」
「ごめん。ほんと。ゆるして。おねがい。悪かった。この通り。マジで。ほんと」

なりふり構っている場合じゃない。
正面からほとんど土下座のような格好で拝み倒して赦しを乞う。
堰を切りそうだった瞳が驚きと戸惑いで見開かれて、やがて。

「…いいですわ。赦してさしあげます」

涙の代わりに苦笑いがこぼれた。
今回だけですけれど、という断り付きで。











リリアンに出入りしている間に耳にした噂では、祐巳の妹候補と目されているのは、ここにいる松平瞳子ともうひとり、やはり山百合会の補助要員だった細川可南子、ということだった。
しかし、細川可南子はかつて祐巳をストーキングしていた子で、祐巳の訴えでその細川可南子を自分が更に尾行したこともある。
個人的には、祐巳があれを妹に選ぶとは思えない。

「怒らないで欲しいんだけど…確認してもいいかな。祐巳の妹は、細川さんでもないんだよ…ね?」
「…ええ。少なくともわたくしはそういう話は知りません」

とすれば。

(……あいつ)

何のことはない。
他人事みたいな顔で話していたが、妹オーディションは、祐巳のためでもあるんじゃないか。
大方、悠長に構えている祐巳に業を煮やした祥子さんが、祐巳を焚きつけるために、島津さんの思いつきに便乗して強引に押し込んだのだろう。
当の祐巳はどうもそんな意図などさっぱり汲み取れてはいなさそうだが。

(はあ。頭いてえ)

「あの、…祐麒さま?」

こめかみを押さえる祐麒の顔を、松平さんが怪訝な顔で覗き込む。

「ああいや、ごめん。それじゃあ、ほんとに迷惑だっただろ。噂とかいろいろ」
「いえ…別に噂くらい、大したことじゃありませんし…」

松平さんは気丈にそう言うが、煩わしくないわけがない。
学祭準備でリリアンに出入りしている頃には、噂好きの女の子たちがわざわざ祐麒のところにまで、「松平瞳子と細川可南子のどちらが祐巳の妹にふさわしいと思うか」と突撃してきたくらいなのだ。

(まあ、アリスの言によれば、半分以上はそれを口実に男の子とお近づきになりたいという、要するに逆ナンパが目的だということだったが)

その上、今度は“妹オーディション”だ。
また新たな騒ぎにならずにすむわけがない。
そうなると、この子はまた、自分の責任とは関係ないところで噂に取り巻かれることになるのだ。
祐巳がはっきりしないばかりに。

(それは…ちょっと、なんとかしてやりたいなあ)

祐麒がそう思った瞬間、松平さんがぽつりと言った。

「…わたくしって、そんなに心許ない、頼りなさそうな人間に見えるんでしょうか」
「は?」

しまった。
頭の中で考えていたつもりだったが、口に出してしまっていたのか。
それとも、そんな読みやすい顔をしていたのか。

「ごめん、そんなつもりで言ったわけじゃないんだ」
「えっ?」

しかし今度は、松平さんの方が虚を突かれた表情になった。

「違うんです、学校で、そういうことを言われたもので」

考えをうっかり口に出してしまったのは、彼女の方だったらしい。

「…祐巳が、そう言ったの?」
「あ、いいえ、祐巳さまは何も。別の、同級生の友人から…」

松平さんは、少し気の抜けたような顔で。

「その人が言うには、あなたの力になりたい、と…おかしいですわよね。わたくしは別に何かに困っているわけでも、助けて欲しいと言ったわけでもないし、そう思っているわけでもないのに」

そう言って、薄く笑った。
オーディションの件を知っているこちらとしては、その人がそう言いたくなった気分もわからなくもないのだが。

松平さん自身は、オーディションの話を知っているのだろうか。
リリアンの中で情報がどう流れているかさっぱりわからないので、迂闊な口も聞けない。

「……ま、世の中には、相手が何も言わない内から、勝手に先回りしておせっかいを焼きたがるバカな奴もいるのさ」
「ばか…ですか」

少し、不満そうな顔。
なるほど、その友達のことが結構好きなんだ。

「そう、バカ。バカだから、余計なことまで引き受けて、後で厄介を抱え込むことになる。お調子者や、筋肉オバケや、双子の巨人や、男の体に女の心が入った奴なんかの面倒を見させられて、舞台の上で右往左往する羽目になったりするんだ」

こちらが喋っている途中で、何のことを言っているのかに気がついた瞳子ちゃんが、ぷ、と笑いを漏らした。

「…それは、確かに、ちょっとおばかさんかもしれませんわね」
「笑ったな。後で覚えとけよ」
「あら、わたくしの言っているのは、わたくしの友人の話でしてよ」

くすくすと笑うその顔は、花のような、という形容が一番似合いそうだった。

「…人に話したら、少し気分が軽くなりましたわ。ありがとうございます、祐麒さま」
「ん。まあ、聞くだけで楽になってくれるんならお安いもんだ」
「お礼に、いつか祐麒さまが愚痴を言いたくなった時には、今度はわたくしがお聞きして差し上げますわ」
「…あのさ、松平さん」
「はい?」
「その…祐麒さま、っていうのは、やめない? 同い年なんだしさ」
「でも、祐麒さまは上級生ですから。けじめはつけないと」
「こっちの産まれるのが1日遅けりゃ同学年だったんだ。同じ学校に通っているわけじゃなし、そこまで杓子定規でなくていいんじゃないかな。それに…」

同じ人間を姉と呼ぶことになるかも知れないんだし、というのは言わずにおいた。
松平さんは少しの間目を伏せて考えた後、顔を上げた。

「わかりました。じゃあ、…祐麒さん、とお呼びさせていただくことにします。その代わり」
「その代わり?」
「わたくしのことも、苗字ではなく、名前で呼んでください。瞳子、と」

大きな瞳でまっすぐ見つめられながらそんなことを言われて、少し動揺した。
改めてそうしろと言われると、妙な気恥ずかしさがある。
しかし、そもそも呼び方を変えて欲しいと要望したのはこっちなので、それに対する交換条件には応えなければならない。

「わかったよ…………瞳子、ちゃん」
「はい、祐麒さん」











家に戻ると、部屋着に着替えた祐巳が、リビングのソファに寝そべり、だらけた様子でテレビを眺めていた。

「……………」
「…は、ほはへひ」

晩飯前だというのに煎餅をぱくついている能天気な姿に、何か無性に腹が立ってきた。
こんなのの妹になるかならないかで振り回されている瞳子ちゃんがかわいそうになってくる。
口にくわえた煎餅を取り上げて怒鳴った。

「お前さあ、しっかりしろよ。マジで」
「…なによ、何の話?」

しかし、もうそれ以上何か言うのも苛立たしくなって、怪訝な顔の祐巳に背を向け、自分の部屋に上がる。
ゴミ箱に放り投げた半欠けの煎餅が乾いた音を立てた。











『堅苦しい席じゃないが、一応それなりの格好はして行ってくれ。穴の開いたGパンとかはやめてくれよ』

はいはい、わかりましたよ柏木先輩。
まったく、面倒なことだ。

約束の、土曜日の午後。
父のお下がりのシルクのジャケットに袖を通しながら、ため息をつく。

「おや、どうしたの、おめかしして。デート?」

玄関に下りて靴を履いていると、母が暢気に聞いてくる。

「そんないいもんじゃないよ。バツゲームみたいなもんだ」
「あらあら。遅くなるの? 晩ご飯は?」
「あー、うん、食ってくる」
「そう。じゃ、気をつけて」

おざなりな見送りの言葉に送られて家を後にすると、駅まで出て、中央線から山手線を乗り継ぎ、有楽町で降りる。
普段このあたりに出てくることはほとんどないので、予想以上に時間がかかってしまった。
急いで劇場にたどり着いた時には既に開演3分前。

(まいったな)

特に待ち合わせをしていたわけではなく、直接席に行けばいいということにはなっていたが、開演時間を過ぎてからのこのこ現れたのでは、あまり良い顔はされないだろう。
少し焦りつつ、自分の席に向かう。
席は2階の最前列なので、迷うことはなかった。
自分の席らしい場所の隣には、既に女性が座っている。
ウェーブのかかった長い髪の後姿は、予想していたよりもずいぶん若い雰囲気だった。

(…よし)

気後れしている場合でもない。

「あの、すみません、こちら…」
「はい」

側に寄って声をかけると、髪に隠れていた横顔が振り向いた。

「あ」

軽い驚きがその顔に表れる。
たぶん、自分も同じような表情をしていただろう。

「…瞳子ちゃん」
「祐麒さん…」

開演のブザーが鳴り響く中で、ふたりの時間だけが、見つめあったままで止まっていた。











「あの、お座りになったら…」
「え。あ、ああ、うん」

客席の照明が落ち始めて、ようやく我に返った。
後ろの座席の客の視線を気にしながら、そそくさと座席に体を押し込む。

「優お兄さまの代理って、祐麒さんだったんですのね。だったらあの時教えてくだされば」
「こっちには相手を教えてくれなかったんだよ。身内としか」
「お兄さまってば…」

こそこそと小声で言葉を交わしている間にも、舞台の緞帳が上がり始める。

「始まりますわ。とりあえず、お話は後で」
「あ、ああ」

会話が途切れた途端に、彼女の視線は舞台にまっすぐに向かっていた。
まるで、隣に誰もいないかのようだ。

(ふう)

とりあえずは、自分も観劇に意識を向けることにする。

演目は、『アンナ・カレーニナ』だった。











「退屈だったんじゃありません?」
「そんなことはないよ。面白かった。最後の方はかなり見入っちゃったよ」

プロの生の舞台を見たのも、考えてみれば初めてのことで、その迫力にかなり圧倒されてしまった。
自分たちのやった学芸会ごときと比べるのもなんだが、やはり本物は違う、と思わされた。

「よかった。優お兄さまなんて、いつも途中で寝てしまうんですのよ。失敬だと思いません?」
「あー、まあ、あの人ならそれも驚かないけど」

カーテンコールも終わり、席を立つ客で賑わう中、2階席からエントランスホールに向かう階段を降りながら、瞳子ちゃんは少し興奮の覚めやらぬ様子で語りかけてくる。

「素晴らしかったわ。わたし、あの主演の方のファンなんです。前の舞台よりもっと素敵になられて」
「あの女優の出る時はいつも見てるんだ」
「ええ、端役でもあの方が出られている舞台なら、必ずお兄さまにお願いして席を取っていただくんです」

深紅のショートドレスをまとって、髪を下ろした姿は、夕暮れの公園で出会った時とは、また別人のような印象だ。
クロークでバッグとハーフコートを受け取るその姿に、つい見とれてしまう。

「お待たせしました、祐麒さん。…祐麒さん?」
「えっ、あ、うん」

劇場のドアをくぐって外に出ると、空はもうすっかり暗くなっていた。

「えーと…家どこ? 送るよ」

瞳子ちゃんの艶やかな雰囲気に、なんとなく自分が不釣合いな気がして、逃げるように先を歩く祐麒のジャケットの裾を、瞳子ちゃんの指先がつかまえた。

「お食事までご一緒してくださるとうかがっているんですけれど」
「え、あー…でも」
「家の人間にもそう言って出てきたんですから、早く帰ってもわたしの食べるものがありませんわ。困ります」

それを言ったら自分もそうなのだ。
まあ、自分は帰り道でハンバーガーでも食えばいいのだが。
躊躇する祐麒に、瞳子ちゃんは微笑みかけながら言った。

「お兄さま持ちなんでしょう? 遠慮なさることありませんわ。従妹との約束を反故にした上、後輩に面倒を押し付けて逃げるような人のお財布からは、たっぷり巻き上げてしまえば。せいぜい楽しんで、後で悔しがらせてあげましょうよ」
「…まあ、瞳子ちゃんがいいんなら」
「もちろんですわ。じゃあ、行きましょう」

銀座のきらびやかな大通りを連れ立って歩く。
周囲は身なりのいい大人ばかりだ。
居心地の悪いことこの上ない。
馴染みの吉祥寺や三鷹の小汚い通りが恋しくなってくる。

「店の場所、知ってる?」
「ええ、わたしがリクエストしたんですもの」
「でも、俺、テーブルマナーとか知らないけど、いいのかな」
「だいじょうぶですよ。イタリアンのカジュアルなお店ですから。言えばお箸も出してくれるようなところですわ」

連れて行かれた先は、表通りからは少し離れた、こじんまりとしたたたずまいの店だった。

「あの、予約をしていたんですが…」
「福沢さまと松平さまですね。こちらへどうぞ」

流暢な日本語のイタリア人らしきウェイターが、こちらの言葉が全部終わらない内から席へと案内してくれる。
店の中は狭かったが、調度や装飾は見るからに高級そうだ。
席の数は10ほどしかなく、自分たちの連れて行かれた席以外は既にすべて埋まっていた。
そして、ここでも自分たち以外の客は大人ばかり。

(ここって、何ヶ月も前から予約してないと入れないような店じゃないのか)

すっかり気圧されながら席に着いて、目の前に置かれたメニューを開いてみるが、何が書いてあるんだかさっぱりわからない。
一応、イタリア語の下に日本語も併記してあるのだが、それを読んでも料理の内容がまったく想像がつかない。

(こりゃ、あかん)

到底、庶民の小倅の手に負えるようなもんじゃない。
無理して自分でどうにかしようとしたって墓穴を掘るだけだ。
こういう時は見栄も体裁も捨てて、当てになりそうな人間を見つけてすがるに限る、というのが、花寺学院高等部生徒会長として得た最大の教訓だ。
幸いにして、今はこの上なく当てになりそうな人間が目の前に座っている。

「ごめん、これ、全然わからない。注文はお任せしちゃっていいかな」
「いいですわよ。何か特に食べられないものとか?」
「ない。雑食性だ」
「ふふ。じゃあ、後からわたしの好みに文句を言うのは、なしにしていただきますからね」

そう言って悪戯っぽい微笑を浮かべると、ウェイターを呼び寄せ、慣れた様子で料理を注文していく。

出てきた料理はどれも舌がとろけるほど美味かった。
イタリアンといえばすぐに連想するトマトやチーズ、パスタから、見たこともない野菜、食べたことのないような肉まで。
ニンジンやタマネギのようなありふれたものすら、別世界のもののように思える絶妙な味、何でできているのか想像もできない見事なソース、ナイフを入れてしまうのがもったいないと思えるほどの美しい盛り付け。
世の中にはこんな食い物があるのか、と、一口ごとに感動を禁じえない。

「ん〜、おいしい♥」

瞳子ちゃんも、祐麒の前でナイフとフォークを上品に軽やかに捌きつつ、幸福そうな顔をして料理を頬張っている。
これはどう低く見積もっても、2〜3千円そこらで得られるような味ではない。
このクラスの店を“カジュアル”と言ってしまえるのだから、金持ちというのは恐ろしい。

ひとしきり料理を楽しんだ後、瞳子ちゃんが祐麒に小声で話しかけた。

「祐麒さん、未成年ですわよね」
「何言ってるんだ。同い年だろ」
「そうですわよね。残念」
「何が?」
「いえ…お兄さまと一緒だったら、ワインがいただけたのになあ、って」
「…従妹に何を教えてるんだ、あの人は」
「あら、祐麒さんにも教えてるんじゃありません?」

くすくす、とナプキンの端で口元を押さえて笑う。
まあ確かに、夏の合宿の時に、何だかよくわからないが高そうな酒をいろいろ飲まされた覚えはある。
生まれて初めて二日酔いというものを体験した記憶は、あまり思い出したくないが。

「ワイン、好きなの?」
「別に…ただ、今日はちょっと飲みたいかな、と思って」

少し物憂げにそう言って、頬づえをついて窓の外に目をやる。
その様子が、妙に大人びて見えた。

「なんか、人生に疲れました、って顔だね」

そう茶化してやると、瞳子ちゃんは途端に歳相応の顔に戻って。

「そんなんじゃありませんわ。まるで年寄りみたいに言わないで」

子供じみたしぐさで、少し大げさにむくれて見せる。

「…ちょっと待てよ。柏木先輩も、まだ未成年なんじゃなかったか? いつから酒を注文してたんだ」
「…そう言えば、そうですわね。わたしが中等部の頃から、普通に飲んでいたような覚えがありますわ。あまりにも自然だったので、気にもしていなかったですけど」

まあ、実際、あいつがあの物腰で堂々と酒を注文したら、店の方も何の疑問もなく出してしまうだろう。

「なんて奴だ…」

それを聞いて、瞳子ちゃんはまた、くすくすと笑った。

そこからは、さまざまな話題に花が咲いた。
バレンタインに祐巳が作ったチョコレートの試作品が壮絶に不味かった話。
柏木邸のお手伝いのトミさんに、瞳子ちゃんでも時々不気味に思わされている話。
祥子さんが花寺の面々との初対面で卒倒した話。
高田のマザコンにまつわる武勇伝の数々。
瞳子ちゃんが身体検査用のケープだかポンチョだかにフリルを縫い付けて先生に怒られた、という話を尋ねた時には、彼女の顔が真っ赤になった。

「…祐巳さまって、お家では何でもお話しになるんですのね」
「そうでもないよ。あれで本当に大事なことは何も喋りゃしない」

妹がまだいないことも、オーディションが自分自身のために組まれていることも、瞳子ちゃんのことを本当はどう考えているのかも。
だが、そう思ったのは口には出さなかった。

「逆に、家の中のことも外でぺらぺら喋ってるんじゃないかと思うと気が気じゃないね」
「そうですわね、いくら身内でも、下着姿で女性のお部屋に入られるのは、おやめになった方がいいんじゃないかしら、と思いましたわ」
「…マジかよ。勘弁してくれよ」

瞳子ちゃんの逆襲に頭を抱えた。
会心の一撃に瞳子ちゃんが意地悪く微笑む。
本当に、あいつは外で何を喋っているかわかったもんじゃないな。











少々甘すぎるデザートを平らげ、強烈に苦いコーヒーをちびちびと舐めていると、シェフが席まで挨拶に出てきた。

「お久しぶり、アントニオ」
「瞳子さん、最近おいでくださらなくなったと思っていたら、こんな素敵なボーイフレンドが。どうやら私はまた女性に振られてしまったようですね」

そう言って、恰幅のいいイタリア人は大げさに嘆いて見せた。
瞳子ちゃんは横目で、やれやれ、というような表情をこちらに一瞬向けた後、シェフに答えた。

「ああアントニオ、わたくしもとても残念ですわ。でも、あなたのような妻子ある男性とお付き合いをするには、わたくしはまだまだ子供過ぎて」
「いやいや、もうこんなに立派なシニョーラですよ。でも、そうですね、あなたを道ならぬ恋に引き込んだとあっては、私はあなたのご両親やお兄さまに呪われてしまいますね」

そう言うと、シェフは樽のような腹を揺らして笑った。
“ご両親”のところで、瞳子ちゃんの顔にかすかに陰りがさしたように見えたのは、気のせいだったろうか。
シェフは祐麒の方にも握手を求めてきた。

「アントニオです。今日のお料理は、お楽しみいただけましたか?」
「いや、何と言ったらいいのか、言葉で表現できないくらい美味しかったです。素晴らしかった」
「それはよかった。瞳子さんのボーイフレンドなら、これからも大歓迎です。いつでもおいでください。ええと…」
「祐麒です。福沢祐麒」
「祐麒さんね。覚えておきましょう。またデートの時には、ぜひ」

そう言って人懐こい顔でウィンクをくれる。
自分にとってはそう簡単に来られるような店ではないんだろうと思うが、瞳子ちゃんの相手ともなれば、それなりの家の人間と思われているのかもしれない。

「ああ、でも、意地悪をして予約を受けない方が、私にとってはまた瞳子さんにアタックするチャンスが生まれるのかな」
「もう、アントニオったら」
「はっはっは。祐麒さん、瞳子さんをよろしくお願いしますよ。私の憧れのシニョーラなんですから」

笑いながら厨房に戻っていくシェフの後姿を見送りながら、ふたりは苦笑いを浮かべつつ顔を見合わせた。

「面白い人だね」
「でしょう? ここはお料理も素敵だけれど、あの人が好きなんです、わたし。…あっ、いえ、そういう意味じゃないですわよ。ただ、その、なんて言うか、…ちょっと、そんなに笑わなくてもいいんじゃありません?」
「いや、うん、ごめん、わかってるよ」

自分の言葉の意味に気づいて急に取り繕う瞳子ちゃんがなんだかおかしくて、彼女には悪かったけれど、つい喉を鳴らして笑ってしまう。

「彼、俺を瞳子ちゃんのボーイフレンドだと思ってるよ。いいの?」
「祐麒さんは、お嫌ですか? わたしのボーイフレンドは」

不意に、真面目な顔で聞き返してくる瞳子ちゃんの大きな瞳に、どきりとさせられる。

「いや、まさか…そんな、ことは、ない、よ」
「だったら、いいじゃありませんか。そう思っていてもらえば」

そう言ってにっこりと微笑む。
まあ、今日限りのボーイフレンドでも、それは充分幸運なのかもしれない。

その時になって、一人称が“わたくし”でなくなっていることに、ようやく気がついた。











店を出ると、すぐ近くまで松平家の車が来ていた。
ダークグレーの3ナンバー、暗くてよくわからないが、おそらく外車だろう。
瞳子ちゃんは運転手に短く祐麒の紹介を済ますと、広々としたリアシートにするりと滑り込む。
迎えが来ているなら、エスコートもお役御免だ。

「じゃあ、僕はこれで」
「あら、お近くまでお送りしますわ。同じ方向に帰るんですし」
「えー…いいのかな」
「今日、お付き合いいただいたお礼ですから。それに、もう少しお話したいわ」

まあ、ここで見栄を張って断っても意味もない。
素直にお言葉に甘えることにした。

しかし、車に乗って、二言三言他愛のない会話を交わした後、急に静かになったと思ったら、いつの間にか瞳子ちゃんは柔らかなシートにもたれて寝息を立てていた。
まあ、眠たくなるのも無理はないほど、快適な乗り心地ではあったが。
運転手が気を遣って話しかけてくる。

「すみません、福沢さま。お嬢さまは普段はこのような失礼は」
「え? あ、いいえ、いいんですよ。疲れたんでしょう」
「お客様の前でこんなにリラックスなさるなんて、滅多にないことなんですけれどね」

気を許しているのか、それとも眼中にないのか。

高速に乗った車は、渋滞にも遭わずスムーズに流れていく。
通り過ぎる夜景を見るともなしに眺めていると、横から何かの声が耳に入った。
見ると、瞳子ちゃんが目を閉じたまま何事かを呟いている。
呟きは小さすぎて、内容まで聞き取ることはできなかった。

しばらくその横顔を見つめていたら、不意にその瞼がぱちりと開いた。

「…は、あっ、…ごっごめんなさい、わたし、こんな」

自分が眠っていたことに気づいて慌てるその様子が可愛らしい。

「夢の中で誰と話してたの?」
「えっ、いやだ、わたし何か言ってました? ねえ、ちょっと、祐麒さん」
「声が小さくて、聞き取れなかったよ」
「いやいや、忘れてください、お願いですから」
「だから、聞こえなかったって」

笑いながらかわしている内に、車は高速を降りていた。

「こちらの方向でよろしいですか、福沢さま」
「ええ、ありがとうございます」
「思ったより、わたしの家から近いんですのね」
「そうなの? じゃあ、よかったら今度おいでよ、狭い家だけど。祐巳もいるしさ。うちの親も客が来るの好きだし、晩飯くらいは出るよ。まあ、今日ほどのものを期待されたら困るけど」

何の気なしにそう言ったのだが、それに答える瞳子ちゃんは複雑そうな顔をした。

「…………やっぱりご姉弟ですのね、そういうところは」
「…何の話?」
「なんでもありませんわ。こちらのこと」

そうこうしている間に、家の近所まで着いていた。
近所の柿ノ木邸のところで停めてもらった車から降りて、厚いドアを音を立てないように閉める。
スモークのかかったウィンドウが下がって瞳子ちゃんが顔を出す。

「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。いい思いをさせてもらったよ」
「ふふ。それじゃあ、また機会がありましたら、わたしとデートしてくださいね。ごきげんよう」

良家のお嬢さまは、社交辞令も一流だ。

ウィンドウが滑らかに閉じると、車がスタートする。
テールランプが遠ざかり、角を曲がって消えるのを見送ると、自分も家に向かって歩き始めた。

(世の中には、ああいう人種もいるんだよなあ)

きらびやかな街、上等な服、高価な食事、運転手付きの車。
そうしたものに囲まれて気後れも物怖じもしない、優雅で上品な物腰。
これまで柏木や祥子さんを見てきて、ある程度免疫はあったつもりだったが、それでもやはりああいう人間と行動を共にすると、いろいろと隔たりを感じずにはいられない。

(まあ、瞳子ちゃんは綺麗だったし、飯も美味かったし、結果的には役得だったか)

また、と言ったが、現実には今夜のような機会も、もう二度とないだろう。
彼女が祐巳の妹になれば、また顔を合わせることもあるのかもしれないが、それはただそれだけのことだ。
少し寂しい気もしたが、かと言って特に残念でもなかった。
今日のことは、一夜限りの楽しい思い出として、頭の片隅にしまっておけばそれでいい。

本当にそう思っていたのだ。
その時には。











「で、どうだった。楽しめたかい」

ああ、週明け早々あんたにそれを聞きに来られなければ、それはそれは素晴らしい思い出になったことだろうよ。

月曜日。
登校した祐麒を、柏木が校門で待ち構えていた。

「相手が瞳子ちゃんなんだったら、最初からそう言えよ。もったいつけやがって」
「おや、気づいてるとばかり思っていたけど。ユキチはもっと年上の女性を期待していたのかな、このおませさんめ」

(この野郎…)

普段人のことを散々小狸呼ばわりするが、お前が一番タヌキだよ。

「それで、瞳子の様子はどうだった。お前の目から見て」
「ん? かわいかったよ。紅いドレスで。あと、縦ロールじゃなかったな」
「いいボケだ。だが、そういうことを聞いているんじゃないのは、頭のいい福沢くんならよくわかっているはずだね」

にこやかにそう言いながら、首に回した腕をかなり本気で締めてくる。

「ぐ…どうもこうも、普通に楽しんでたよ。それがどうした」
「楽しんでた、…そうか」
「…あ、でも」

あの、夕暮れの公園での寂しそうな姿を思い返すと、ずいぶんな落差があったようにも感じる。

「なんか、妙にはしゃぎ過ぎだったような気も、しなくもない…かな」
「なるほど。さすがユキチ、よく見ているな。お前に頼んだのは正解だったようだ」

そう言うと、柏木は腕を解いて祐麒から離れた。

「…どういうことだよ。瞳子ちゃんに何かあるのか」
「もう名前で呼ぶほど親しくなったのか。若い者はいいねえ。…だが、ちょっと親しくなったからと言って、何でも理解できるとは思わない方がいいぞ」

柏木が言っているのは、瞳子ちゃんと祐巳の関係のことだろうか。
しかし、オーディションの話まではいくらなんでもまだ知らないはず…いや、考えてみたらこいつは祥子さんと繋がりがあるのだから、筒抜けでも不思議はない。
だがしかし、こいつは確か「他人の方が気楽」と言ったのだ。
祐巳と関係がある話なら、そこで祐麒をあてがうというのは道理に合わない。

考えあぐねて無言になってしまった祐麒に背を向け、肩越しに横顔を向けながら。

「まあ、縁があれば、いずれわかるさ。僕らの一族は福沢家と浅からぬ因縁があるようだしね。…瞳子もそうならいいけれど」

柏木はそう言って大学の敷地の方に向かって行った。

(「瞳子もそうならいいけれど」?)

いつものことながら、古狸の謎かけは意味がわからない。

だいぶ離れてから、柏木はふと足を止めて、立ち尽くして見送る祐麒に振り返った。

「食事のメニューを選んだのは、瞳子か?」
「え? ああ、俺メニュー読んでもわからなかったし、お任せしたけど」
「そうか。…道理で高い皿ばかり選んであったわけだ」

渋い顔で肩をすくめて、柏木は去って行った。

…いくらだったんだろうか。
知らないままの方が幸せな気がする。











「俺さ、公認会計士目指してるんだ」

小林は、学食のヤキソバパンを頬張りながら、そう言った。

「…何だ、公認会計士って」

小林以外のその場にいる全員の疑問を、高田が代弁する。

「んー、まあ、平たく言えば、会計の親玉みたいなもんかな」
「あー、でもなんか聞いたことある。すごい難しいんでしょ、試験が」
「ああ。司法試験とか、医者の試験と同じくらい難しい」

週の半ば。
昼休みの生徒会室に、久々に生徒会メンバーが全員顔を揃えていた。
昼食を兼ねたミーティングという名の雑談は、いつか進路の話になっていた。
薬師寺兄弟は、黙々と弁当を食べているだけだったが。

「生徒会でこういう仕事している内にさ、やっぱり俺はこういうのが天職なんじゃないかな、と思ったわけよ」
「だからって、何もいきなり一番難しいところを狙わなくても。普通に就職して、会社の会計やるんじゃダメなのか」

同じく、学食で買った鮭の握り飯に食いつきながら、祐麒は尋ねる。

「まあそれでもいいんだけどな。俺、将来は独立したいからさ。そのためにはやっぱり国家資格を取らないと」

独立。
まだ高校2年だというのに、そんなことまで考えているのか。

「で、その第一歩として、花寺大の推薦枠を狙おうと思ってる」

その宣言に、薬師寺兄弟を除く全員が、ええっ、と驚きおののいた。

「お前、あれって30人しか枠ないんだぞ。お前の成績じゃあ」
「わかってる。今は無理だ。でもあと1年ある。その間にできるだけその枠の中に入れるように努力する。生徒会の活動の分、評価には色を付けてもらえるし、ぎりぎりなら滑り込める」
「いや、努力するっても…」
「そのくらいの難関が突破できないようじゃ、大学在学中に公認会計士試験に通るなんてもっと無理だからな。明日のためにその1、ってやつだ」

小林はそう言って、にやりと笑った。
そう言えば、夏にこいつに貸した『あしたのジョー』全巻をまだ返してもらっていない。

「花寺大の経済学部には、公認会計士養成講座があるからな」
「うむ。毎年、在学生から公認会計士試験の上位合格者も出している」

黙っていた薬師寺兄弟が口を開いた。
さすが現役受験生、そのへんの情報はよく知っている。

「そう言えば、日光月光先輩は、ふたりとも花寺大なんですか?」

このふたりは、成績も優秀で、推薦枠も余裕で狙えるはずだ。
しかし、返ってきた答えは意外なものだった。

「俺は、国立大志望だ」

これは日光。

「俺は他の私大に願書を出している」

これは月光。

花寺大でないというのもさることながら、ふたりの進路が違うというのは、まったくの想定外だった。
それは祐麒だけではないようで、小林も、高田も、アリスも、呆然として二の句を次げずにいる。
見た目も、言動も、弁当を食べ終わるスピードまでそっくり瓜二つのこのふたりが、高校卒業後は別々の道を選ぶ。
人にはそれぞれの道があり、それを選ぶ時があるのだ、ということを思わずにはいられない。

「…まあ、進路を考えるのに、早過ぎるってことはないよな。俺も、体育大の推薦入学に志願しようと思ってる」

おいおい、高田、お前まで。

「俺は普通の勉強にはあまり興味がないし、ちゃんとした体育理論を修めたいから、それなら近道を選びたい。何より、早く進路を決めて、親を早く安心させてやりたい」

そう言いながら、ママ特製のアスリートランチをしっかりと噛み締めながら食う。
カロリーや栄養素が完璧に計算された、理想の食事だと高田は常々自慢している。
こいつにとっては、ママの作った弁当なら何でも理想の食事なんじゃないのかと思うが。
しかし、それだけに、ママを安心させたい、という目的のためには、比喩でなく本気で命も賭ける奴だ。

「みんな、いろいろ考えてるんだねえ。僕なんか、とにかく共学のとこ、ってくらいしか考えてないけど」

手製のかわいらしい弁当をちまちまとつつきながら、アリスが笑う。
その声を聞きながら、祐麒は危機感に襲われていた。

(俺は、そんなことすら考えてない)

その後の雑談は、上の空でほとんど聞いていなかった。











夕暮れ、祐麒はひとり、あの公園にいた。

昼休みの仲間たちとの会話を思い返し、わけもなく落ち込む。
いつもつるんでバカばかりやってきた小林が、あんな具体的な将来像を持っていたなんて。
急に、小林との間に距離ができてしまったような気がする。
小林だけじゃない、高田も自分の進む道をきちんと考えている。
薬師寺兄弟は既にそれぞれの道を選んだ。
自分はこれでいいのだろうか。
不安と焦燥ばかりが大きくなってくるが、焦ったところで目標が見えてくるわけではない。

(どうすりゃいいんだ)

誰か、この迷いを聞いてくれないだろうか。
別に答えなんかくれなくてもいいから、ただ聞いてくれさえすれば。

ふと気づくと、祐麒のそんな気分に応えるように、公園の入り口に人影が立っていた。
夕暮れを背負ったシルエットに、その縦ロールが逆立ちそうな怒りの空気をまとっているのが、なぜだか感じ取れた。
その人影はのしのしと祐麒の方に歩いてくると、不機嫌そうに口を開いた。

「お邪魔かしら」
「…いや、別に」

と、答えるのも聞き届けない内から、瞳子ちゃんは、どすん、という感じでベンチに腰を下ろした。
まさか、こんなに早く、また会うことになるとは思わなかった。
今日はまた猛烈にふてくされた顔だ。
なんだか、会うたびに別の人間を見ているような気がする。

「…どうしたの」
「別に。世の中にはおせっかいなおばかさんが意外と多い、ってことですわ」

また、誰かに何か言われたのか。

「…祐麒さん、ご存知でしたの? 茶話会のこと」
「さわかい? なんだそりゃ」

字面が連想できず、本気で聞き返してしまった。
その反応に、祐麒は知らない、と瞳子ちゃんが受け取ったらしいのは、怪我の功名だ。

(茶、話、会。要は茶飲み話のための集まりと。オーディションはそういう名目になったわけか。島津さんと祐巳の妹選びが目的なのはバレバレなのに、なんでこういう見え透いた体裁をつけようとするのかね、女ってやつは)

瞳子ちゃんが差し出したリリアンかわら版を眺めながら、頭の中で皮肉に笑う。

「出ろって言われたの?」
「ええ、それはもう、すごい上から目線で。まあ、実際目上の人ですけど」

誰だか知らないが、それは確かにバカなおせっかいだなと思った。
妹選びなんて、祐巳の気分だけで結果が決まってしまう。
選ばれる側の方を煽り立てたって、何の意味もない。
結局のところ肝心の祐巳がどうするつもりでいるのかわからないから、そうやって周りをつついているだけだ。

「こんなの、どうせうまく行きやしない。祐巳は優柔不断なくせに妙なとこで頑固だからな。祥子さんに言われたからしょうがなしに従ってるんだろうけど、真面目にやる気なんかあるもんか」
「そう…でしょうか」
「そうさ。言いだしっぺの島津さんにも文句たらたらだし。オーディションで妹を決めるなんて、ってさ」

祐麒の言葉に思案顔だった瞳子ちゃんだったが、いきなり祐麒の腕を思い切りつねり上げた。

「あいて! 何すんだ!」
「何じゃありませんわ! やっぱり知ってらしたんじゃないですか!」

ち、気づいたか。

「こんなイベントになるなんて知ってたわけじゃないよ。島津さんが妹オーディションをやりたがってる、って聞かされただけで」
「うそ! 祐巳さまにまだ妹がいないって聞いた時に、呆れた顔してた! あの時に祐巳さまも話に組み入れられるの、気づいてたでしょう!」

落ち込んでただけかと思ったら、よく見てるな。

「だとしたら、どうなんだよ。俺からも、力になりたい、って言って欲しかった?」

その問いに、瞳子ちゃんは詰まった。

「……知らない!」

そう叫ぶと、瞳子ちゃんは立ち上がり、来た時と同じようにのしのしと公園を去って行った。

(…俺の愚痴を聞いてくれる約束はどうなったんだ)

ため息をついて、つねられた腕をさする。
瞳子ちゃんが残していったリリアンかわら版には、定規で測ったようなきっちりした折り目がついていた。











「かなちゃん情報によると、山百合会で“薔薇のつぼみの妹オーディション”が開催されるらしいよ」

そしてまたある日の放課後、例によってふたりきりの生徒会室で、アリスはそう切り出した。

「ああ、その話は知ってる。祐巳から聞いた」
「なんだ、つまんない。でもまあ、祐巳ちゃんが当事者なんだから聞いてて当然か。…由乃さんはともかく、祐巳ちゃんがまだ妹を選んでないって、意外なんだけど」
「あいつは未だにお姉さましか眼中にないんだろ。…てか、誰だ、かなちゃんて」
「かなちゃんはかなちゃんだよ。可南子ちゃん。細川可南子」
「へ〜…え?」

かなちゃん、だと?

「お前、あの子とそんなに親しかったか?」
「ん? うん、まあ、学祭後もいろいろあって、ね。他にもリリアンにたくさんお友達できたんだよ。繭ちゃんでしょ、藍子ちゃんでしょ、水奏ちゃんでしょ、笙子ちゃんでしょ、それから…」

アリスは指折り数えて女の子の名前を並べ始める。
さすがにそれが全部終わるまではつきあいきれない。

「ああわかったわかった、そいつはよかったな」
「うん♥」

まあ、男子校で身の置き場に悩んできたアリスにとっては、ようやく仲間に出会えたような気分なのだろう。
しかし、よりによってあの、他人を拒絶するようなオーラをあの長身から出しまくっていた細川可南子と、というのはかなり意外だった。

「…そう言えば、その“かなちゃん”、細川さんは、オーディションに参加するのか」
「しないって言ってた。かなちゃんは、そういうの興味ないんだって。祐巳ちゃんから申し込まれても、受ける気はないって言ってた。もったいないよねえ」

細川可南子はオーディションに出ない。
妹になる気もない。
意外に思いつつ、同時になんとなく納得もしていた。
彼女の祐巳に対する関心と言うか執着と言うか、それは姉妹という形は望んでいなさそうな気がする。

「そうなると、瞳…松平さんはどうするんだろうな」
「出ないんじゃないかな。て言うか、出られないよ」
「なんで?」

素朴な疑問を口にした祐麒を、アリスは少し呆れたような顔で見ながら、解説を始める。

「瞳子ちゃんは、かなちゃんもだけど、ずっと祐巳ちゃんの近くにいて、妹候補って言われてきたわけでしょ。それなのに、祐巳ちゃんは妹をオーディションするって言う。そしたら、これまで妹候補って言われてたのは、何だったの? って思うでしょ」

もっともだ。

「ドラマなんかでもさ、主人公が意に染まないお見合いをさせられそうになったら、それを機会に、前からつきあってた恋人に結婚を申し込む、ってよくある筋書きじゃない。瞳子ちゃんにしろ、かなちゃんにしろ、妹候補って自負があったら、どうしてこういう時に自分のところに来てくれないのよ、って思うんじゃないかしら」
「あー…まあ、そうか」
「また逆に、祐巳ちゃんが妹候補と言われてたふたりを気にも留めずにオーディションを開くなら、実際のところ祐巳ちゃんにとってのあのふたりは、実は候補でもなんでもなかったんじゃないか、って思っちゃっても不思議はないよね」

アリスはまるで見てきたかのように、ここにいない女の子たちの気持ちをすらすらと解き明かしてみせる。
確かにそうやって説明されると、いちいち納得できる話ばかりだ。
さすが、女の心を持って生まれてきたと自他共に認めるだけのことはある。

「もしそうだったら、と考えたら、怖くてとても参加なんかできないよ。自分の目の前で他の子が選ばれちゃったら、ショックどころの話じゃないもん。僕なら死んじゃう」

なるほどね。
それは酒のひとつも飲みたくなることだろう。

「で、実際のとこ、どうなの」
「何が」
「祐巳ちゃんよ。これを機会に、かなちゃんなり瞳子ちゃんなりを、妹に選んだりはしないの」

そう言いながら、アリスは目を輝かせて身を乗り出してくる。

「よせよお前まで。リリアンの子みたいな真似を」
「いいじゃない、気になるもんは気になるんだからさあ」

リリアンに行って以降、ますます女性化に拍車がかかったな。
まったく。

「“かなちゃん”は選ばれても受けないって言ったんだろ。だったら関係ないじゃんか」
「そんなの、わかんないよ。今はそう思っていても、実際に選ばれたら気持ちが揺れちゃうもんでしょ。自分だけを選んでくれるってのに、女の子は弱いんだから」

そんなもんか?
それはお前個人の話をしてないか、アリス。

「でさあ、祐巳ちゃんはどうなってんの?」
「知らねえよ。祐巳はそういうことについちゃダンマリだし。オーディションの話だって、最初はまるで他人事みたいな顔してて、祐巳も込みの話だって知ったのは他の子から聞いて初めてなんだから」
「……他の子って誰」

うぐ。
しまった。

「い、いいだろ別に。お前が“かなちゃん”と友達になったみたいに、俺には俺の情報源があるんだよ」
「ふぅううううううん。そおおおおおおぉ」

アリスがジト目で祐麒を睨みつける。

「…頼む。小林とかには黙っててくれ」
「ま、いいけどぉ。その代わり、何かわかったら、情報は回してよね」
「…わかった」

失言のツケだ、やむを得ない。
まあ、自分にも祐巳の意図はさっぱり読めないので、それほど有用な情報提供ができるとも思えないが。

「でもほんと、祐巳ちゃんどういうつもりなのかしらね。あんな素敵なふたりをさしおいて、オーディションなんて」
「そこなんだけどさ。細川さんは興味ないと宣言したから置いとくとして、松平さんは、どうなんだろう? 彼女は、祐巳の妹になりたいのかな」

その祐麒の問いに、出来の悪い生徒を前にした教師のような顔で、アリスは答えた。

「瞳子ちゃんは祐巳ちゃんしか見てないよ。決まってるじゃない」











金曜の晩。
夕食も風呂も済ませた後、寝るまでの暇潰しにと祐巳の部屋にマンガ雑誌を借りに入ったら、祐巳は何か図面のようなものを広げて、思案に暮れていた。

「…なんだそれ」
「ん? ああ、明日のね、茶話会の座席の配置をどうしようかなって。あんまりぎちぎちにしても窮屈だし、お喋りするスペースもそれなりに取っておきたいし、これが結構難しいのよね」

難しい、と言いつつも、祐巳はなんだか楽しげだった。

「思っていたよりは少なかったけど、それでも薔薇の館に一度にこんなにたくさん人が集まってくるなんて、そうはないことだもの。できるだけ、みんなに楽しく過ごして欲しいの」

祐巳はそう言って天使のように微笑むが、祐麒はそれを見て心底呆れ返っていた。

(このバカ、大元の目的は都合よく忘れて、名目の方だけちゃっかり楽しむ気でいやがる)

こいつがこのイベントで妹を見つけることは絶対ない。
祐麒は確信した。











「そりゃ、ちょっと努力したからって、全てが皮算用通りうまくいくとは思ってないけどさ」

日曜日の昼下がり。
駅前通りのファーストフードショップで、ポテトを啜りながら、小林は言った。
久々に連れ立って出かけたが、午後にはこいつはまた予備校通いだ。
まったく、つきあいが悪くなった。

「でも、だからって最初からハードル下げてたら意味ないだろ。5しか目指さない奴は一番うまく行っても5までしか行けない。でも、10を目指せば、最終的に10には届かなくても、8や9には届くかもしれない。なら、目指すんなら、高いとこだろ」

最大限の努力をしておけば、推薦枠には入れなくても、その後の一般入試で大きな助けになる。

「…まあ、それはわかるけど。その、公認会計士の資格を取るまではいいとして、独立するとかってのは、資格を取った後考えればいい話じゃないの?」
「んー、まあ、そう言われりゃそうなんだけどな。でも、最終的な目標をどこに置くかで、いろいろ変わってくるじゃん? 身の振り方とか、タイミングとかさ」
「大きな会社にいて、偉い立場になるのを目指した方が、でかい仕事ができるんじゃないのか。独立したら、どうしたってスケールは小さくなるだろ」
「確かにそうだけど。でも、男なら、最後はやっぱり一国一城の主だよ、目指すのは。言うだろ、鶏口となるとも牛後となるなかれ、ってさ」

数学以外は全て苦手教科、と言って憚らなかったこいつの口から、十八史略のフレーズが出てくるとは。
小林が受験のために勉強している、というのを、頭のどこかでネタなんじゃないかと思っていたが、やる気はどうやら本物らしい。

「一国一城の主か。そんなの、俺には考えられないな」

何気なくそう呟いた祐麒に、小林はちょっと呆れた風で言った。

「何言ってんだ。お前は、何もしなくても、いずれそうなるだろ。社長令息なんだから」

そう言われて初めて、そう言えば自分の父親も、一応社長なのだと思い出した。

「あー…そっか。いや、でも、うちは個人事務所だし。社長ったって、なあ」
「でも、俺は、お前の親父さんを見て、自分も将来は独立しようって決めたんだぜ」

小林は思いがけないことを言う。

「やっぱさ、かっこいいよ。自分の才覚で一本立ちするって。俺、お前んちでお前の親父さん見るたびに、俺もあんな風になりてえ、ってずっと思ってたんだ」

自分の父親を賞賛する友人の言葉は、なんだかこそばゆいような、ピンと来ないような、微妙な気分だ。
自分にとっては、どこか抜けたところのある、暢気な父親でしかないのだが。

「お前はそう思わないのか。つか、お前、後を継ぐとか考えてないわけ」
「後を継ぐ…か。うーん…」

小さい頃から、ドラフターの前で図面を引く親父の姿を見て育った。
CADをやるようになってからは、自分もパソコンの導入作業や、実務を手伝ったことがある。
CAD技術者の2級資格なら、試験を受ければ一発で通るだろうと太鼓判を押されたこともある。
だが、自分としては、それはあくまで“親の手伝い”というレベル以上の興味が持てないのも事実なのだ。
自分自身の、将来の職業としてイメージしたことはない。

(そもそも、ああいう線やら図形やらをいじくり回す作業が、ちっとも面白いと思えないからなー…)

父親も、祐麒のそんな気分をわかっているのか、特に後を継げとかプレッシャーをかけてきたりはしない。

「まあ、お前の家の話だから、俺がどうこう言ってもしょうがないけど、せっかくの看板を一代限りで終わらせるのはもったいないんじゃないの。第一、あんまり親孝行な話じゃないと思うぜ。俺はな」

小林の投げたその一言は、祐麒の胸にぐさりと突き刺さった。











小林と別れた後、馴染みの街を、何をするでもなくふらふらとさまよった。

親孝行。
そんなことも、単なるスローガンでない、現実のものとして考える歳か。
だが、何をやれば親孝行になるのだろう。
社会人として自立するのはまあ大前提として。
どこか会社なり役所なりに就職して、出世することか。
小林の言うように、家を継いで、父親の立てた看板を守ることか。
それとも、それ以外の第3、第4の道があるのだろうか。

祐巳は…?
いや、祐巳のことは考えてもしかたない。
なんだかんだ言って、女はどこかに嫁に行ってしまえばそこまでだ。
あいつは特に美人でもないが、愛嬌だけはあるから、男にも女にも受けがいい。
普通にあのままエスカレーターでリリアン大に進んで、その後OLにでもなって、割とあっさりいい男を見つけて、そのまま結婚してしまったりするんだろう。

(結婚…)

自分にとっては、まったく想像もできない。
自分自身の進む道すらあやふやなのに、妻とか子供とか、自分以外の人間についてまで責任なんか負えるわけがない。
しかし、身を固めて、孫の顔を見せてやるのも親孝行だとも言うし。

自分の妻になってもいいと言ってくれる女がもしいるとしたら、それはどんな人間なんだろうか。
そもそも、知っている女のサンプルが少なすぎる。
ちょっとでも親しいと言えるのは、山百合会のメンバーくらいなものだが、彼女らはいろんな意味で非現実的だ。
あの中に祐巳が混じっているというのが未だに腑に落ちない。
祥子さんは格が違いすぎて論外だし、支倉さんとか、藤堂さんとか、島津さんとか、二条さんとかにしても、綺麗だなとか可愛いなとか思ったりはするが、恋愛とか結婚の対象としてはさっぱり考えられない。
ガラスケースの中の、うまそうだが食えない蝋細工みたいなもんだ。

ふと、へそを曲げて逃げていった縦ロールの後姿を思い出した。

(まあ、こんな風にぐだぐだ考えているだけの男じゃ、逃げる女ばっかりだよなあ)

駅前のベンチで頬杖をつく頃には、もう陽も傾きかけていた。

(…もう、帰るか)

そう思いかけた時、耳慣れた声が近寄ってきた。

「やっぱりユキチだ。どうしたの、こんなところでたそがれちゃって」

顔を上げると、例によって似合いすぎる少女趣味の服装に身を包んだアリスが、膝に手を当てて祐麒を覗き込んでいた。

「おー。まあ、ちょっとな」

アリスの横に、リリアンの制服が立っている。
が、目線を上げて行っても、胸から上になかなか到達しない。

(…なんだ、この壁は)

かなり首を上げて、ようやくその顔が視界に入ってきた。
現れたその顔は。

「…ごきげんよう。祐麒さま」

細川可南子。
もうひとりの、祐巳の妹候補だった。











「部活帰りに男の子たちとデートかー。やっぱり外部受験組はそういうとこ進んでるわよねー。いいなー」
「よしなさいよ二葉。じゃあ、わたくしたちはここで。ごきげんよう」
「ごめんなさいね、一絵さま、二葉さん、いちごさん。ごきげんよう」
「いいのよ、それじゃあね。バイバイ、アリス」
「うん、またね」

一緒にいた3人のリリアンの生徒たちが改札口の向こうに消えていくのを見送った後、アリスが今日の次第を喋り始めた。

「今日は、リリアンと月見ヶ丘のバスケ部で練習試合があったの。それで、さっきのいちごちゃんたちと一緒に、応援しに行ってたんだ。かなちゃんすごかったんだよ、シュートいっぱい決めて」
「でも、負けたわ」

多少興奮気味のアリスに苦笑いしながら、細川さんは言った。

「それは悔しいけど、でも練習試合だから。本番の都大会とかでリベンジすればいいじゃない」
「そう簡単にリベンジさせてくれるほど、甘くはないわよ」
「でも、次があったら、負ける気はないでしょ」
「…まあ、ね」

答えながら、にやり、と笑った。
その笑みは、祐麒の記憶の中にある、いつも顔を強張らせていた少女からは連想できないものだった。

「これからちょっとお茶でもして帰ろうか、って話してたんだけど、ユキチも来る?」
「え、でも」

この子は確か、男嫌いで通ってるんじゃなかったか。
アリスみたいなのはよくても。

「いいよね、かなちゃん」
「ええ。祐麒さまさえよろしければ、ぜひ」

そう言う表情の柔らかさは、無理をしているようには見えなかった。











夕方のコーヒースタンドは結構混んでいて、3人が座れるボックス席は空いていなかった。
しかたなく、窓際のカウンター席に流れたが、アリスが先頭、祐麒が最後という並びで歩いていたために、席に着いたら男ふたりで細川さんを挟むような配置になってしまった。

「…おい、アリス。ちょっと、席替わった方が」

気を回す祐麒に、細川さんはやや心外そうな様子で言った。

「別に、このくらい平気ですよ。中学までは、共学にいたんですし。男の人に免疫が全然ないわけじゃありません」
「あー…そう。ならいいけど…」
「ユキチは、かなちゃんが男嫌いって評判を気にしてるのよ」

アリスの身も蓋もない指摘に慌てる祐麒に、細川さんは少し頬を赤くしながら。

「そりゃ、自分だってわかってますけど。でも、こんな場所で席が隣になるのも耐えられないってほどじゃないですから」

拗ねたような顔を見せる。

「…でも、男が側に来ただけで気絶しちゃう人も、実際にいたからねえ…」
「…ああ、いたなあ…」
「うそ。いくらなんでもそんな」

細川さんは、少し考えた後で。

「…祥子さま?」
「そう」
「あの人は、筋金入りって言うか、真性よねー…」
「あー…あの方は、そんな感じですね…」

3人で似たような感慨に浸っているのが可笑しくなって、誰からともなくくすくすと笑いが漏れた。

「さっきの3人、誘わなくてよかったのか」
「あの子たちはいいのよ。姉妹だけでゆっくり語り合いたいんだから」

お邪魔しない方がいいの、とアリスは言った。

「でも面白いよね、ひとりを挟んで、片方は実の姉妹、もう片方はリリアンの姉妹って」

思い返すと、確かに3人の内のふたりは似た顔だった。
祐巳が妹を作れば、自分も同じような関係になるのだろうか。

「姉妹って言えばさ、例の妹オーディション、終わったそうじゃない」

…そう言えば、一昨日の晩に明日だとか言っていたな。
昨日帰ってきた後の祐巳の様子は特に何もなさそうだったから、何もなかったんだろうけど。
何かあれば、あいつは顔に出るからすぐわかる。

「結局、その場では決まらなかったってさ、祐巳ちゃんの妹。だから、かなちゃん出ればよかったのに」
「またその話? わたしは興味ないって言ったじゃないの」

細川さんは、うんざり、といった顔で答える。

「祐巳さまの妹には、なりたい、と強く思っている人がなるべきだわ。その人にとっても、祐巳さまにとっても」
「かなちゃんは、思ってないの」
「ええ。わたしは、祐巳さまの妹にはならない」

その言葉は、強がりにも負け惜しみにも聞こえなかった。

「それに、どっちにしろ、オーディションに来た子の中で、祐巳さまの妹に選ばれる子は、いないんじゃないかしら」
「それは、なぜ?」
「何と言えばいいのか…オーディションに応募してくる子はみんな、“紅薔薇のつぼみ”の妹になりたい子ばかりだと思うの。でも、祐巳さまが求めているのは、“福沢祐巳”の妹になりたい子だから。…と、わたしは考えてるけど」

アリスはその説明に釈然としない様子だったが、祐麒にはそれはよく理解できた。
同時に、細川さんが思ったよりも深く祐巳の性格を把握していることに、少なからず驚きを感じた。

「だから、祐巳さまの妹になるべき人は、むしろオーディションに応募してこない人の中にこそ、いるんじゃないかしら」
「なるほどー。それで、自分はオーディションには出なくても余裕、ってわけね」
「だから違うってのに。しつこいなあ」

どうしても細川さんをけしかけたいアリスに、彼女は苦笑を返す。

「一応、何人か候補を残して、しばらくお試し期間をした後、最終結論を決めるって言ってたけど」
「そんな話、わたしもまだ聞いてないわよ。リリアンの生徒でもないのに、耳が早いことね」
「ま、情報源はいっぱいあるから。でも、お試し期間がいつまでなのかはよくわかんないのよね」
「土曜だ」

それまで黙って聞いていた祐麒が突然断言したので、ふたりが驚いて顔を向ける。

「次の土曜日の、剣道部の交流戦。そこがお試し期間のタイムリミットだ。たぶん」
「祐巳ちゃんに聞いたの?」
「いや。でも、そもそもこのオーディションは、島津さんが交流戦までにどうしても妹を作りたい、と言い出したことで始まった話だそうだからな。それに引きずられた祐巳も、同じ刻限を設定されてるはずだ」

島津さんがなぜ、交流戦までに妹を作りたがっているのか、その理由まで聞いているが、まあ、そこまでこいつらに教えてやる必要はないだろう。

「さすが、当事者が身内にいると、情報がリアルだねえ」
「俺は、別にどうでもいいんだけどな」

だが、祐巳の気まぐれに振り回される女の子たちの気分を考えると、他人事なのに気が重くなってくる。











アリスはコーヒーのおかわりを買いに、席を中座していった。
あんな甘ったるいキャラメル味を、よくそんな何杯も飲めるもんだ。

ふたりきりになったところで、思い切って細川さんに尋ねてみた。

「祐巳の妹は、オーディションに応募してこない人の中にいる、って言ってたけど。細川さん自身じゃないとして、具体的に、誰、ってのはあるの」

細川さんは、言っていいのかな、という顔をした後、その名前を挙げた。

「…松平瞳子さん」

意外な気持ちと、やはり、という納得が、半々くらいで祐麒の胸に湧く。

「松平さんは、ライバルなんじゃなかったの」
「それは、周りの人が勝手に言っていたことです。わたし自身はそんな風に思ったことはありませんよ。…まあ、反りが合うとも思いませんけど」

学祭の準備期間中には、天敵、と言わんばかりの空気が漂っていたような気もするが。

「わたしの知る限り、1年生の中で、“紅薔薇のつぼみ”じゃない“福沢祐巳”をずっと見続けているのは、瞳子さんだけです。わたしですら、見つめていたのは、祐巳さまに託した他の誰かの面影で、祐巳さまそのものじゃなかった。今思えば、瞳子さんがわたしを快く思っていなかったのも、たぶん、そのせいなんでしょう」

マドラーで、カップの中をゆるりとかき回しながら、細川さんは続けた。

「だから、時々、瞳子さんがかわいそうになるんです。祐巳さまにとっての理想の妹になりうる人があんなに近くにいるのに、祐巳さまはそういう意味では瞳子さんのことを全然ちゃんと見てあげようとしない。祐巳さまにとって、瞳子さんには何かどうしても許せない、嫌な部分があるのかとさえ思ってしまうくらい」

それは、自分も思わないでもない。
夏前に、祥子さん絡みで喧嘩をしたという件が、尾を引いているのだろうか。
祐巳は、そこまで根に持つタイプではないと思うのだが。

「祐巳さまが最終的に誰を妹にしても、祐巳さまが選ぶ人なら、どんな人でも正しいんだろうと思いますけど。でも、それが瞳子さんでなかったら、たぶん、わたしはちょっとがっかりしますね。祐巳さまにも、瞳子さんにも」
「なになに、何の話? 瞳子ちゃんがどうしたの」
「なんでもないわよ。アリスに噂話を嗅ぎ回られて、瞳子さんもうんざりしてた、って話」
「なによそれぇ、ひどいわねえ」

アリスが戻ってきたことで、その話はそこまでになった。











「じゃあ、僕はここで。僕がいなくなったからって、変な気起こすんじゃないよ、ユキチ」
「駅前のバス停までの間にどんな気を起こすってんだよ、バカ。さっさと帰れ」
「ふんだ。じゃあ、かなちゃん、ごきげんよう」
「ごきげんよう、アリス」

電車で帰るアリスを改札口で見送ると、細川さんと連れ立ってバスターミナルへ歩いた。

「…あいつ、鬱陶しいかもしれないけど、まあ、適当に相手してやってくれよ」
「アリスのことですか? いいんですよ。わたしの方も、いろいろ聞いてもらってるし。男の人にもいろいろあるんだ、ってわかったのは、アリスのお陰」
「なら、いいんだけど」

並んで歩くと、ふたりの目の高さがちょうど同じくらいの位置にある。

「…なんだか、変な感じだわ。祐巳さまの顔が、わたしの顔と同じ高さにあるみたいで」
「学祭の時にも、側に立ってることはあったじゃないか」
「そうですけど。あの時のわたしは、周りの人をちゃんと見る余裕とか、なかったから」

細川さんの乗るバスは、まだ着いていなかった。
平日に比べると人もまばらなバス停の前で、祐麒はふと、確かめてみたくなった。

「本当に、祐巳の妹になりたい、って気はないの?」
「…祐巳さまをあんなにつけ回していた娘が、と思ってらっしゃるんでしょう?」

そう言いながら、細川さんはすっきりとした微笑みを浮かべた。
そんな顔で笑えるんだ。
それに、自分の方からその話題に触れるとは。

「確かに、いつも祐巳さまの近くにいて、祐巳さまを見守っていたい、と思っていたことはありました。そうしないと、祐巳さまとの繋がりが消えてしまう、と思い込んでいたから」

黄昏の鮮やかなグラデーションを見上げながら、細川さんは言う。

「でも今では、側にいなくても、祐巳さまとの間にはちゃんと繋がりがある、と信じられるようになったから。いつも見ていなくてもいい、と思えるようになりました。少し離れていた方が、かえってよく見えることもたくさんありますし。だから、今くらいの距離が、わたしたちには一番いいと思うんです」

祐巳が、可南子ちゃんは変わった、と言っていた、それがどういうことなのか、祐麒にも理解できるような気がした。

「それが、細川さんの結論なんだ」
「可南子でいいですよ。…なんだか、最近、苗字で呼ばれるのに違和感を感じるようになってきちゃって。わたしもリリアンに染まってきたのかしら」

いやだなあ、と彼女は苦笑いをしながら言った。

「じゃあ、俺のことも、さま付けしなくていいよ」
「なら、祐麒さんで」

そうして話している内に、バスが向かってくるのが見えた。

「瞳…松平さんのことなんだけどさ。可南子ちゃんが嫌でなかったら、できる範囲でいいから、その…フォローしてやってくれないかな。祐巳はほら、あんなだから」

祐麒の言葉に、可南子ちゃんは、くす、と笑みを漏らした。

「祐麒さんって、本当、みんなに気配りして、苦労人なんですね。祐巳さまがおっしゃる通り」
「あいつ、そんなことを? まったく、誰のせいだと思ってんだか」

一度、外で何を喋って回っているのか、本気で問い質す必要があるな。

やがて、目の前にバスが止まり、ドアが開いた。

「…祐麒さんは、どう思ってらっしゃるんです?」
「祐巳が、オーディションに来た子の中から、妹を選ぶかどうか?」

可南子ちゃんは、無言で祐麒を見つめることで答えた。

「…ない。あいつは、そういうやり方で妹は選ばない…選べない、と言った方がいいかな」

祐麒の言葉に、可南子ちゃんはしっかりと頷いた。

「…わかりました。タイムリミットは、土曜の剣道部の交流戦なんですね」
「ん? ああ、俺の知ってる情報に間違いがなければ」
「じゃあ、その時に、ちょっといろいろ様子を見てみようと思います。今日の試合に、剣道部の人も応援に来てくれていたから、そのお礼でバスケ部で応援に行こうって話も出てますし」
「悪いね。別に無理してまで気を回さなくてもいいからさ」

バスのタラップを上りながら、可南子ちゃんが振り返る。

「いいんですよ。それに、正直なところ、他の子たちやアリスほどでないにしても、野次馬的な興味もないことはないんです。祐巳さまや、由乃さまが、どんな子を妹に選ぶんだろう、って」
「…意外だな」
「わたしだって、女の子ですもの」

そう言って、可南子ちゃんは、ちょっと舌を出して悪戯っぽく笑った。











週が明けて、花寺高校では、次期部活動予算編成のための各部からの要望書の受付が始まった。
要望書は、今期の活動内容の中間報告も兼ねる。
年度頭に提出された活動予定と、実際の今期の活動内容を照らし合わせ、そこに著しい乖離があるようだと、厳しいチェックが入る。
部員数が部として認定される最低人数を満たさない部は、同好会に格下げになり、学校からの部費の支給は打ち切られ、専用の部室も取り上げられる。
部員の数に心配のない部も、今期の実績次第で、来期の予算の額や、各種設備の優先使用権の割り当てが変化してくる。
だから、どの部もアピールや駆け引きに必死になる。

ある部は、要望書を出しに来た部長が、祐麒を前にして何十分もの間くどくどと訴えを続けた。
またある部は、要望書1枚を出すために部員全員が大挙して生徒会室に押しかけてきた。
予算獲得のライバルになる部の足を引っ張るためのタレコミも相次ぐ。
さらに、来期に部に昇格して、部費と部室の獲得を狙う同好会群も暗躍する。
そこへ、伝統的な運動部と文化部の対立の構図も加わり、この時期の花寺は、さながら伏魔殿の様相を呈する。

「陸上部、こんなに部員いたか? 水増しだろう、これは。幽霊が何割いるやら」
「…この、漫画研究部の、短編アニメ製作ってどうなんだ。映画部と被ってんだろ。調査が必要だな」
「ミステリ同好会が、昇格希望の直訴を出してきてるけど」
「却下」

生徒会室では、祐麒、アリス、そして高田が、各部から出された要望書の内容をチェックしていた。
高田は出席を渋っていたのだが、同席するのが文化部側のアリスだけでは運動部連合からクレームが付くので、強引に引っ張ってきた。

「要調査のピックアップはともかく、裏取りはこの3人だけじゃ無理だよね…」
「日光月光は受験があるから、さすがにもう頼れないしなあ。小林を入れても4人。きついな」
「1年生呼ぶか。西園寺たち」

生徒会の正式構成員ではないが、準構成員、平たく言えば使い走りとして、何人かの1年生が、ことあるごとに召集される。
夏休みの合宿にも同行し、学祭の準備では幾多の雑用にかり出されていた。
祐麒たちも、かつてはそういう雑用軍団のひとりだったのだ。
あの中から、来年再来年の生徒会長や役員が誕生するのだろう。

西園寺はその中で目立つひとりだ。
そして、花寺内での“福沢祐巳派”の急先鋒でもある。
なんでも、あいつの婆さんだかの誕生日になぜか招待されて歌を披露した祐巳を見て感銘を受けて以来のファンだとかで、「花寺祭で見初めたようなニワカ野郎たちとは違う」と常々主張している。
どっちでも大して変わらないだろうと思うが。
そのくせ、機会があっても、「身内が失礼なことをしたのに、合わせる顔がない」とか、よくわからないことを言って、直接会うのは拒んでいる。
おかしな奴だ。
まあ、その祐巳への崇拝が、そのまま祐麒への忠誠にも直結しているので、使いやすい奴ではあるが。

「しかしまあ、どこの部も要求だけは好き放題書いてきやがるな」
「野球部のこれ見てよ、来年は予算倍増、メイングラウンド最優先使用を希望、だって」
「都大会2回戦落ちのくせによく言うよ。せめてベスト8くらいに入ってからほざけっての」
「ま、要望するだけならタダだからな。とりあえず言うだけ言っとけって感じなんだろ」

まあ、それも来年以降も部としての存続が安泰だからできる話だ。
同好会落ちのボーダーラインにいる部にとっては、話は切実である。

「なまじ歴史があったりすると、自分の代で潰したとあっては、先達に申し訳が立たない。俺たち体育会系にとっては特にそうだ。身につまされるな」
「それは文化系でも同じだよ。やっぱり、伝統とか歴史とか、次の代へしっかり継承していかないと、ってプレッシャーはあるよね」

ここでもまた、後を継ぐ話だ。
日曜に、小林に言われた台詞はまだ耳に残っている。

「…だけど、全てを残してやることはできない。どこかで線を引かないとな」

いつかは、諦めたり、妥協したりして、断ち切らなければならないこともある。
去年、自分自身の所属する部を容赦なく切り捨てた柏木の凄さを、今さらながら実感する。

そんなこんなで、各部への対応とチェックに明け暮れてその週は慌しく過ぎ、祐麒はもちろん、アリスでさえも、リリアンの妹オーディションの決着のことなど、いつかすっかり忘れ去っていたのだった。











そして、土曜日。

「ただいまー…」

授業は昼までのはずなのに、夕方になって帰ってきた祐巳を見て、今日が例の交流戦の日だったと思い出した。
制服を着替えもせずに、リビングのソファに身を投げて、祐巳はため息をつく。

「随分、お疲れだな」
「んー、まあ、今日はいろいろとね」

自分の分のついでにお茶を入れて祐巳に渡してやると、ちびちびと啜りながら、今日の事件を話し始めた。

「由乃さんがねー。茶話会に来た子の中から妹が選べなかったんで、交流戦の会場で会ったばかりの子を、妹です、って江利子さまに紹介しちゃったんだって。信じられないよね」
「ふーん。で、祐巳の方は妹は決めたのか。一応、お前も今日が締め切りだろ」
「えっ」

祐巳は、青天の霹靂、と言わんばかりの顔で驚いた。

「なんで、あんたがそんなこと知ってるのよ」
「……」

これだけいろいろ喋っておいて、知られていないつもりでいたのか。
ツッコミを入れる気も失せる。

「その様子じゃ、決まらなかったんだな」
「え、あ、えと、…うん」
「祥子さん、呆れてんじゃないのか」

そう言われて、祐巳は深刻な顔で黙り込んでしまった。
わかりやすい奴だ。

「お前、結局祥子さんさえいれば、妹なんかいらないとか思ってんだろう」
「そんなことはない…わよ」

反駁も歯切れが悪い。

「いずれは妹を、とは思ってるし、茶話会に来てくれた子たちもみんないい子だとは思うけど…自分の妹、って言われると、どうもピンと来なくて」
「そもそも、どういうのならピンと来るんだよ」
「それはやっぱり、わたしの妹になりたいって、心から思ってくれる子…かな」

それで瞳子ちゃんには目もくれないんだからな。
一番欲しがっているものは、とっくに目の前にあるのに、どうしてそれに気がつかないでいられるのだろう。

「あ、そうそう、あとね、会場に可南子ちゃんが来てたの」
「へえ」

彼女、この間の話をちゃんと実行してくれたのか。
律儀なことだ。

「それでね、可南子ちゃんが、どういうわけだか、瞳子ちゃんと一緒に来てて」

なに、と言おうとして、お茶が気管に入って激しくむせた。

「ちょっと、どうしたのよ。大丈夫?」

大丈夫なわけがあるか。
様子を見るとは言っていたが、まさか瞳子ちゃんをその場に引きずり出すとは。
一体何と言って連れ出したんだ。
瞳子ちゃんも、まあよく承知したものだ。

「げほ、……あー、それで、祐巳はどうしたんだよ」
「どうって…いつの間に仲良くなったのかなー、って思ったけど…」
「…それだけか」
「え? なに、他に何かあるの?」

…だめだこりゃ。
ビデオで見た、昔のコントのオチの台詞が脳裏をよぎった。











月曜日。

確証があるわけではなかった。
だが、彼女が来ているような予感がして、放課後、祐麒はあの公園に足を運んだ。
果たして、そこには、所在なげにたたずむ、深緑の制服の少女がいた。

「…………また、おせっかいをされてしまいました」

瞳子ちゃんも、祐麒が来る、ということを予期していたようだった。

「祐巳さまの妹が決まるから、どんな子か見に行かないか、って。剣道部の交流戦に祐巳さまが伴っていらっしゃる子がいたら、それが祐巳さまの妹だから、と」

ブランコの支柱にもたれて、可南子ちゃんにどうやって引っ張り出されたかを、訥々と語る。

「わたしは、そんなのどうでもよかったんですけど。でも、後から人に教えられたりして知る方がいいの、って言われて…」

キツいな、可南子ちゃん。
他の人間ならともかく、かつては祐巳を取り合う仲だった相手にそんなことを言われたら、引き下がるわけにもいくまい。

「そこまで言うんなら、自分の目で真っ先に確かめてやろう、と思って………でも」

は、と自嘲的な笑いを浮かべて、瞳子ちゃんは力なく言った。

「祐巳さまは、誰もお連れにならなかった。勢い込んで出かけた自分が、ばかみたい」
「……まあ、わかってたから、見に行こうなんて言ったんだろう。可南子ちゃんも」
「…………………………わたし、可南子さんだなんて言ってませんけど」

…げ。
しまった。

「やっぱり、祐麒さんの差し金なんですか! なんで、なんでそういうことなさるんです!」

詰め寄る瞳子ちゃんを、手を上げて押し留める。
またつねられたのではかなわない。

「俺が可南子ちゃんに瞳子ちゃんを連れて行けなんて言ったわけじゃないよ。ただ、交流戦が妹選びのタイムリミットだってことと、祐巳は誰も選べない、って話をしただけだ」

つねるどころか、噛み付きそうな勢いだった瞳子ちゃんは、しかし、祐麒の言葉のひと節に表情を変えた。

「………やっぱり、姉弟だと、…血が繋がっていると、そういうところで通じるものなんですか」

不安そうな、悲しいような、とても複雑な顔。

「祐巳は選べない、って話? …まあ、同じ親から生まれて、同じ家で育ったんだからな。読めてしまう部分はあるよ」

好きにしていい、と言われても、自分じゃ何ひとつ決められない。
そのくせ、外からこうしろと言われても、素直には従えない。
優柔不断なくせに、つまらないところで頑固なのだ。
祐巳も、自分も。

「…結局、似てるってことさ。考え方とか、行動パターンとか、いろいろ」

だから、知りたくなくても、わかってしまう。
祐巳を見ていて時々無性に苛立たしくなるのは、つまるところ、それが鏡に映った自分自身だからに他ならない。

瞳子ちゃんは一度目を伏せると。

「…要するに、わたしはからかわれたんですね。可南子さんに」

はあ、とため息をついた。

「言いがかりをつけるような真似をして、申し訳ありませんでした。ごめんなさい」

そう言うと、瞳子ちゃんは祐麒に向かって深々と頭を下げた。
別にそんな馬鹿丁寧に謝ってもらうほどのことでもないと思うが。
可南子ちゃんにフォローを頼んだこと自体は事実なのだし。

「…俺も、よそで余計なことを言ったのかもしれないから」
「いえ。今回のことだけじゃなくて…祐麒さんは、わたしのために、茶話会のことも知らない振りをしてくださっていたのに、わたし、ひどいことを」
「必ずしも、瞳子ちゃんのため、ってわけでもないんだけどな。単に、くちばし突っ込むのも面倒くさい、と思っただけかも」
「そうだとしても、放っておいてもらえた方が嬉しい時はあります。…乃梨子さんも、そうしてくれましたから」

二条乃梨子。
“白薔薇のつぼみ”にして、祐巳が見るところの、瞳子ちゃんの一番の友人。
さすがにそう言われるだけあって、瞳子ちゃんの望むところをよく心得ている、ということか。

「それに…あの、他にも…この前、祐麒さんに、よくないことを…」

恥ずかしそうな、申し訳なさそうな、微妙な顔。
祐麒の腕をつねり上げて逃げたことを言っているらしい。

「…まあ、いいけど。別に」
「いえっ。そういうわけにはいきません。してしまったことの償いはしないと」

何を大げさな、と苦笑する祐麒に向かって、瞳子ちゃんは大真面目な顔で言った。

「お詫びに、祐麒さんがお望みのことを、ひとつだけお聞きします。…わたしにできることで、ですけど」

その宣言に、祐麒は当惑しつつ、密かに呆れた。
自分が言った台詞の危険さをわかっているんだろうか。
それとも、祐麒ならそんな大した要求はしないと、高をくくっているのだろうか。

(利口なようで世間ずれしてないと言うか、無防備と言うか…やっぱりお嬢さまってことだよなあ)

「…OK。じゃあ、ひとつ、聞いてもらおうかな」

祐麒の言葉に、瞳子ちゃんがわずかに息を飲んだ。











カールした髪を結わえていたゴムを苦労しながら両方とも抜き取ると、わずらわしそうに首を振る。
強くウェーブのかかった豊かな髪が波打つ。
広がった髪を手で梳いて整えると、縦ロールの子供っぽい雰囲気とはまったく違う、たおやかなイメージの少女がそこに現れる。

「…あの、これで、いいんですか」
「うん」

少し居心地の悪そうな様子で、肩にかかった髪をかき上げる。
その姿に、あの夜に会ったのは、夢に現れた幻ではなかったんだと再確認した。

「…女の子は髪型ひとつで変身出来るからいいよな」
「そうですか? わたしはそういうの、髪型以外にアイデンティティがないって言われてるみたいで、あんまり嬉しくありませんけど」
「気に障ったらごめん。でも、下ろした髪も素敵だよ。大人っぽくて」

特に底意があったわけではなく、素直な気持ちを口に出してみただけだったのだけど、瞳子ちゃんはちょっと頬を染めた後、胡乱そうな目つきでこっちを見た。

「…祐麒さん、優お兄さまに変な影響受けてらっしゃいません?」
「え? あ、いや、そういうわけじゃ…」

言われて初めて、ちょっと恥ずかしい台詞を言ったかなと照れくさくなった。

(「人間は誉めてなんぼだよ、ユキチ。特に、女性はね」)

いつかあいつが言った、数少ない助言らしき言葉が今頃頭に浮かんできた。

「優お兄さまは、いつもそう。人を褒め称える振りをしながら、そういう美辞麗句を駆使できる自分自身に、自己満足なさってるんですわ。あまり真似なさらない方がいいと思いますわよ」
「手厳しいな。気をつけるよ」

この子にかかっては、さしもの柏木優も形なしだ。

「…もうひとつ、いいかな」
「ひとつだけ、って言ったじゃないですか。もうだめです」

つれなく逃げる瞳子ちゃんに、祐麒はちょっと食い下がってみたくなった。

「せっかくだから、何か演じて見せて欲しかったんだけど。だめなら、いいよ」

それを聞いて、瞳子ちゃんは、ふふん、という感じで笑った。

「…いいですわよ。若草物語の再演でも、ご覧になりたいかしら?」
「それもいいけど、この間見た舞台なんか、どう? 瞳子ちゃんが忘れてなければ、だけど」
「もちろん、覚えてます。まあ、北島マヤ、ってほどにはいきませんけど、主だったところでよろしければ」
「うん、いいよ。それで」
「じゃあ、そちらにお座りになって。松平瞳子の特別公演をお目にかけますわ」

ベンチの方へ優雅に手を振る、その顔はもう女優のそれだった。

『私を困らせたいんですの? あきらめてくださいまし。今日は、それを言いに来たんです。モスクワにお帰りになって。もう二度と、こういうお話をなさらないで。私たち、ただのお友達でいましょう』

幸福を求めながら、どうしようもなく破滅に向かってしまう女の悲劇の、その台詞を諳んじる瞳子ちゃんの姿は、なぜだか妙にはまっていた。











「福沢、貴様、うちの部の予算を削ったら、どうなるかわかってるんだろうな。月夜の晩ばかりじゃないぞ」

「我が部を同好会に落とすなら、末代まで呪いますよ、福沢君――――――」

「頼むよ福沢、俺の代で部を潰したとあっちゃ、先輩方に顔向けできない。同窓会にも出られなくなっちまうよ」

脅し、すかし、果ては泣き落とし。
連日、各部の部長たちが祐麒のところに来ては、自分のところの予算確保や存続を訴える。
実際に祐麒に手を出してしまうと、問答無用で即お取り潰しは免れないので、どいつも口だけではあるが、言われていい気分がするものではない。
それに、生徒会室に来るだけならまだいいが、休み時間の教室にまでおしかけられると、さすがに辟易してくる。

「大変だな、福沢」
「まあ、これもお勤めだ。頑張れよ」

周りの友人たちは口ぶりだけはねぎらうような言葉をかけるが、その顔はどいつもこいつもニヤニヤと笑っている。

(ちくしょう)

こういう時は、自分だけが割を食っているような気分になってくる。











廃部の危機に直面してしまうのは、現部員の努力が足らなかったり、活動内容に魅力がなかったり、あるいはもう単に時代に合わなくなったりしたからだ。
それなのに、いざ廃部ということになると、それを決定する人間が悪いみたいに言われる。
まったくもって割に合わない。

「文句があるんなら部員集めるなり、結果出せっつーの」
「何の結果ですの?」

ひとり、木々の間に消えていく夕陽を眺めていた公園に、瞳子ちゃんが音もなく、舞い降りるように現れた。

「今日は祐麒さんの方が、たそがれてらっしゃるんですのね。何か気がかりなことでも」
「…ん、まあ、うちの学校の中の話だけどね。つまんない話さ」

ベンチにもたれた祐麒の隣に、瞳子ちゃんが静かに座った。

あれから、ふたりはこの公園で幾度も逢瀬を重ねるようになった。
特に約束もなく、足を運ばない日もあったが、不思議と、気が向いた時には相手もそこにいた。
他愛のない会話を交わしたり、あるいはただふたりで夕陽を眺めたり。
それが、なんとなく居心地がいい時間になっていた。

瞳子ちゃんは、12月になってから、スクールコートを制服の上にまとっている。
実際、この時間になるともう肌寒い。

「わたしでよければ、お聞かせください。愚痴を聞いて差し上げるって約束ですし」
「忘れてなかったんだ」
「記憶力はある方でしてよ。…ほんとに、聞いて差し上げるだけしかできませんけど」

せっかくなので、お言葉に甘えることにした。
やるせない気分をどこかに吐き出してしまいたかった。
祐麒のそんな気分を、瞳子ちゃんは黙って受け止めてくれた。
ひとくさり、取り留めのない愚痴を聞き終えて、瞳子ちゃんは口を開いた。

「…難しいところですわね。部を存続させたい、っていう人たちの気持ちも、わからなくもありませんし」
「でも、5、6人しか部員がいなくて、新入部員が全然来てくれないようなとこもあるんだぜ。それを無理矢理維持して、意味があるのかどうか」
「それでも、その部を受け継ぎ、次の世代に繋げるって、大事なことだと思います。過去から未来に繋がる流れの中に、自分が存在しているって確証が欲しい、そんな気持ちって、簡単に切り捨てられたくないものじゃないかしら」

瞳子ちゃんは、薄紅の空の向こうに視線を投げて、そう呟いた。
もちろん、祐麒にもそれはわかっている。
わかっているからこそ、彼らの気持ちを事務的に切り捨てられずに、悩んでしまうのだ。

「…そう言えば、瞳子ちゃんは演劇部だろう。部活は、いいの」
「しばらく、お休みです。学園祭の公演で一段落しましたし、試験も近いので…」

嘘だ。
瞳子ちゃんが、演劇部の他の部員とあまり折り合いがよくないらしい、という話は祐巳に聞いている。
あの『若草物語』の舞台を見ても、それはなんとなく感じ取れた。
エイミーの存在感がありすぎて、話の上ではより比重が高いはずのジョーやベスが完全に食われてしまっていた。
瞳子ちゃんひとりが巧すぎて、舞台で浮いているのだ。
それが、彼女の演劇部内での立場を如実に示していた。

瞳子ちゃんも、そのことが祐巳を通じて祐麒に筒抜けなのは、もうある程度予期しているだろう。
だが、それでも、知らない振りをしていてほしい。
少し伏し目がちになった横顔が、そう言っていた。

そのまま、ふたりは、空の紫が藍に変わるまで、何も言わずに座っていた。











「…ちょっと、よろしいかしら」

翌日、放課後。
たまには寄り道をせずに帰ろうと正門を出たところで祐麒を呼び止めたのは、リリアンの制服の少女だった。

「僕に?」

肩上で切りそろえられた髪に、フレームの無い眼鏡。
見覚えがあるような気がするのだが、名前が浮かんでこない。

「ちょっと、ご相談したいことがあるんですけれど。お時間ありますかしら。福沢祐麒さん」

眼鏡の向こうの抜け目なさそうな瞳からは、危険なサインが出ているような気がした。

(…やれやれ)

最近になって、リリアンとの縁が次から次へと湧いてくる。
色気がある話ならいいが、大半が面倒ばかりなので、大して喜べない。

「…それは、今じゃないとダメなの?」
「ご都合が悪ければ、日を改めますけれど。できれば」

道の脇に寄っていても、周りを通り過ぎて行くのは野郎だらけである。
柄の悪い囃し声が容赦なく降り注ぐ。

「先輩、試験前だってのにデートっすか!やりますねえ!」
「正門前で女待たせるとは、いい度胸だな福沢!」
「いいよなー俺も生徒会長やりてー」
「やりたきゃいつでも代わってやるぞ、バカヤロウ」

ついいつもの調子で応じた祐麒に、少女は面食らって目を丸くしている。

「あー、…とりあえず、ちょっと場所変えよう」

正門前の通りを渡ってすぐのコーヒーショップへと逃げ込む。
幸い、店内に生徒はいない。
ガラス張りの店の一番奥の、外からはほとんど見えない席につくと、少女は鞄から封筒を取り出し、さらにその中から一枚の写真を取り出した。

「まずは、ご覧いただけますかしら」

それは、学生服の少年とセーラー服の少女が仲良さげに並んでいる風景。
少し体を横に向けた少年が、後姿の少女に笑顔を向けて見つめあっている姿。
そのあまりにも格好よく決まりすぎている絵に、そこに写っている少年が自分だということに気付くまで、しばらく時間がかかった。

(…いつの間に)

後姿の少女の、強いウェーブのかかった長い髪は、瞳子ちゃんに間違いない。
背景は、あの公園。
ということは、ついこの間の、あの時だ。
写真を撮られたなんてまったく気付かなかった。

「ご覧の写真なんですけれど、隠し撮りのような真似をしたのはお詫びします。けど、思いのほかよいものになりましたので、よろしければ公開する許可を頂けたら、と思いまして、お願いに上がった次第ですの」

確かに、自分でそう言うだけのことはある、素晴らしい仕上がりではあった。
構図も光の加減も申し分なく決まっていて、プロが撮ったポートレートと言っても通じるほどの見事な一枚だ。
写っているのが自分でなければ、美しいとすら言えただろう。

「…なるほど。君が、武嶋さんか」
「お知り置きいただけているとは、恐縮です」
「君はうちでも有名人だからね」

一体どういう経路で流れてくるのかは知らないが、花寺の校内でも「リリアンかわら版」が何日遅れかで出回っている。
記事の大半はリリアン学内の予定や行事の報告なので、外部の人間にとってはほとんど意味がないものだが、その紙面を飾る、リリアンの少女たちの瑞々しい姿を見事に写し取った美しい写真の数々は、花寺の男どもの絶賛を浴びており、そこに撮影者としてクレジットされる「武嶋蔦子」の名は今や伝説と化している。
もちろん、祐麒個人にとっては姉からことあるごとにその名を聞かされる曰くつきの人物でもある。

「わたくしのことをご存知いただけているのなら話が早いですわ。どうかしら」
「どうかしら、と言われても、なあ…」

花寺もリリアンもそれなりに校則は厳しいが、両校の間での生徒個人の交際は別に禁止されてはいない。
建前上は「学生らしい、節度ある交際」のレベルを守るのであれば、恋愛も自由だ。
だいたい、講師からしてリリアン高等部在学中の女生徒と公然と付き合ったりしていたのだから、生徒に歯止めがかけられるわけもない。
この程度の写真が表に出たからと言って、今さら問題にもなるようなこともないだろう。
しかし、そこに写っているのが自分自身となると、やはり話が別だ。
増してや、写っているのは自分だけではない。

「本来なら、ご一緒に写ってらっしゃるうちの生徒の方に伺いを立てて、そちらから祐麒さんにご連絡をお願いしようと思ったんですけど…この子が誰なのか、わからなくて」

そう言いながら、武嶋さんの長い指先が、少女のうしろ頭をつついた。

「校内のめぼしい子は全部把握しているつもりでいたのに…ちょっとショックだわ」

(あんたは芸能スカウトかなんかか)

まあ、普段の瞳子ちゃんを見慣れていると、こういう姿は想像しにくいのは確かだろう。
本当は、こちらの方がナチュラルな彼女の姿なんじゃないかと思うけれど。

「で、どうかしら」

武嶋さんは同じ質問を繰り返した。
だが、答えは考えるまでもなかった。

「ノー。公開は許可できない」
「理由を聞いても、いいかしら」
「武嶋さんでも彼女が誰なのか知らない、それが理由だよ」
「彼女は目立ちたくない。そういうことね」

瞳子ちゃんがそう言ったわけではない。
だが、こうした方がいいと思った。
こういう時の直感には従った方がいい、というのが経験則だ。

「…それは、残念」

そう言いながら、武嶋さんはさほど残念そうでもない顔で、写真を封筒にしまった。
たぶん、この回答が最初から予想できていたのだろう。

「殿方をこんなに上手く撮れたのは初めてだったんですけどね」
「僕だけでよければいつでもモデルになるよ」
「そうね。考えておきますわ」

もちろん、武嶋蔦子は女の子を撮ることにしか興味がないということは、祐巳から散々聞かされて知っている。

「まあ、この子が、わたしがあの子じゃないかと疑っている子なら、確かに噂の種にされるのは苦痛でしょうね。これ以上は」
「見当がついているのなら、どうしてその子に尋ねてみなかったんだい」
「確証がないのにそんなことは出来ませんわ。もし違っていたら、被写体の許しも得ない内から、無関係の人間に写真を見せてしまうことになるじゃないですか。それは、被写体も、わたくし自身も、困りますので」

まあ、もっともだ。

「…それにしても、残念。祐巳さんほど表情を読ませてはくださらないんですのね」
「ご期待に添えなくて申し訳ないね。中身は顔ほど瓜二つってわけでもないんだ」

未だ“つぼみ”の祐巳と違って、こっちはまがりなりにも生徒会長として矢面に立たされてきたのだ。
面の皮のひとつも厚くなる。

「そのようですわね。まあ、似てる・似てないなんてお話は、ご本人たちは飽き飽きでしょうけど」

そう言いながら、武嶋さんは封筒を差し出した。

「?」
「差し上げます。お好きなようにご処分なさってください」
「いいのかい。会心の出来だったんじゃないの」
「表に出せない作品なんか取っておいても意味がありません。わたくしの写真は、より多くの人目に触れることで初めて価値が生まれるものですから」

封筒の中には、同時に撮ったと思われる別の写真が数枚と、ネガも入っていた。
最初に見せてもらった1枚の他は、構図が斜めになっていたり、ブレていたり、被写体のふたりがフレームから見切れていたりする、失敗ショットばかりだったが。
しかも武嶋さんにとっては残念なことに、どの写真の瞳子ちゃんも後姿ばかりだった。

「位置が悪かったのと、急いでいたので時間もなくて。顔の見えるアングルでは1枚も撮れませんでした」

小さなため息をつきながら、武嶋さんはそうこぼした。

「僕がこれを持って彼女に相談しに行くのをつけて来れば、正体がわかるかもしれないな」
「写真週刊誌じゃあるまいし、しませんわそんなこと。撮られることを警戒している被写体なんて、面白くもなんともない。わたくしの求めるものは“いい絵”であって、スクープではありませんの。その点だけは、わたくし自身の名誉のために、声を大にして申し上げておきますわ」

そう言って胸を張るけれど、どっちにしてもやってることは隠し撮りだろう。
そんなツッコミが脳裏をよぎったが、それを口に出してへそを曲げられても無意味なので、適当に合わせておくことにする。

「それは悪かった。写真を無駄にさせた埋め合わせはいずれ何かの形でするよ」
「…なら、今、コーヒーを奢ってくださいません?デザート付きで」

今週買おうと思っていた雑誌の値段が頭をかすめた。

「…まあ、それでいいのなら」

武嶋さんが、にやり、という感じで笑った。
まったく、余計なことは言うもんじゃない。











「でも、気をつけた方がよろしくてよ」

チーズケーキをつつきながら、武嶋さんは言う。

「うちの新聞部あたりが嗅ぎつけたら、わたくしのように断りなど入れずに勝手に記事にしてしまいますからね。あなたはいろいろと目立つ人物なのだし」
「目立つ?」
「そうですよ。花寺学院高等部の生徒会長は、それだけでも注目される立場。その上、リリアン女学園の星・紅薔薇のつぼみの実弟。しかも、美男子」
「はあ? 美男子?」

散々、小狸だなんだと言われてバカにされるこの顔をつかまえて、何を言ってるんだ、この女は。

「ええ。考えてもごらんになって。祐巳さんは絶世の美女というわけではないけれど、可愛らしさではリリアンの中でも上位を争うルックス。それと瓜二つのお顔とくれば、殿方としては相当に端正な部類に入ると思いません?」

思いません。

「学園祭の舞台での女装も、他の皆さんがお笑いにしか見えない中、祐麒さんだけは男装の麗人と言っても通用する凛々しさで。主役に抜擢なさった紅薔薇さまの眼力の確かさを感じましたわ。…ああ、まあ後、有栖川さんもよくお似合いでしたけど」

そんな褒め方をされても、嬉しくない。
むしろ情けない。

「何より、あの癖の強そうな生徒会のメンバーを見事に従える統率力。気難しくて男アレルギーの紅薔薇さまを花寺の学園祭に引っ張り出して成功を収める実行力。それでいて気さくで親しみやすいお人柄。リリアンの中で、あなたの人気が今どれほどのものか、祐巳さんからお聞きになったこと、ありませんの?」
「いや、全然」
「祐巳さん自身も、そういうとこ無頓着だからなあ…やっぱりご姉弟なのかしらね」

ほとんど初対面の相手にそんな呆れ顔をされる謂れはないと思うのだが、やっぱり祐巳と同じ顔というのが気安くさせる原因なのだろうな。
人気者の姉というのも良し悪しだ。

「コーヒーとケーキ、ごちそうさまでした。奢られついでにもうひとつ、お願いしてもいいかしら」
「はっ?」

言うが早いか、武嶋さんは席を立って祐麒の隣りに回ると、顔がくっつくほど身を寄せて、ポケットから取り出した小さなカメラを自分たちに向けて、シャッターを切る。

「ちょっ…」
「これはプライベートにしますから、公開はしませんわ。ご安心ください」

そう言いながらウインクをすると、席から自分の荷物を取り上げて立ち上がった。

「それでは、ごきげんよう」

なんなんだ、一体。
狐につままれたような気分で、祐麒は武嶋蔦子の後姿を見送った。











「蔦子さまね」

手に取った写真を一瞥するが早いか、瞳子ちゃんは撮影者の名を言い当てた。

「これ、どこから手に入れたんですの」
「本人が持ってきた。公開してもいいかって」
「わざわざ花寺へ? リリアンの生徒がなんて大胆な。あの方にはタブーというものがないのかしら」

心底呆れた風で首を振る。

「…それで、何とお答えに」

喜ぶわけはないだろうと思っていたが、予想以上に硬い顔で聞いてくる。
これ以上は噂になりたくないだろう、という武嶋さんの言葉が脳裏に蘇る。

「断ったよ。自分の知らないところで見世物にされるのは好きじゃない」
「そうですか」

平静を務めてはいるけれど、安堵の色は隠しようがない。

「…それに、瞳子ちゃんのこの姿を知っているのは俺だけ、ってことにしておきたかったからね」
「だから、やめてくださいってば。そんな、優お兄さまみたいな物言い」

少し赤くなりながら照れた顔を見せる。
そう、彼女は今日も、髪を下ろした姿でこの公園にいる。

「それにしても、あの蔦子さまにもわからないだなんて、なんだかおかしいですわね」

そう言いながら、その瞳はひとつも面白くもおかしくもなさそうだった。

「ネガも渡されたけど、彼女、信じていいのかな? あらかじめ複数プリントされていても、こっちにはわからないよ」
「蔦子さまが公開しないと言われたのなら、しませんわ。あの方はそういうところは筋を通される人ですから」
「なるほど、信用が厚いんだ」
「そうでなければ、あんな盗撮マニア、とっくの昔に袋叩きにされて放校ですわよ」

瞳子ちゃんは鼻で嘲笑いながら冷ややかに斬り捨てた。
まあ考えてみれば言う通りなのだが。

「で、これ、どうする?」

鞄から取り出した封筒を見せた。

「………」

瞳子ちゃんは黙って写真を見つめている。
後姿の自分。
その時の気持ちを思い出しているのだろうか。
それとも、写真の向こうに何か別のものを見ているのだろうか。

「…わたしは、いりませんわ。こんな写真。祐麒さんがお持ちになりたいなら、持っていらして」

苦い表情で、祐麒の方に写真を差し出す。
そんな顔で言われて、はいそうですかと懐に入れられるわけもない。

「じゃあ、こうしよう」

そう言いながらポケットから取り出したのは、家の台所からくすねてきたマッチだった。
瞳子ちゃんはそれを見てはっとした顔をした後、ゆっくりとうなずいた。

公園の隅の手洗い場の蛇口の下に封筒の中身をぶちまけ、空になった封筒にマッチで火を着けると、写真とネガの束の中に押し込んだ。
乾いた空気の中で、写真たちがみるみる燃え上がっていく。
その炎を見つめながら、言葉がこぼれた。

「周囲の目に用心しろ、って言われたよ」
「蔦子さまに?」

しゃがんだ祐麒の後ろから、腰をかがめた瞳子ちゃんが祐麒の背中に覆い被さるようにして、炎を見ている。

「ああ。俺は目立つから、だってさ。笑っちゃうよな。生徒会長だからとか、祐巳の弟だからとか、俺が望んでそうなったわけじゃないのにさ」
「…………」
「なんで、俺なんだ。俺なんか、何もないのに。注目なんかされても、ありがたくもなんともない。どうせ、みんな見てるだけで、助けてくれる気も無いくせに」

わかってる。
これはただの愚痴だ。
みっともないことこの上ない。
だが、いったん口を突いて出てしまったものは止まらない。

「どいつもこいつも遠巻きに眺めているだけだ。俺が取り残されて右往左往するのを見て指差して笑いたいだけなんだ。それで、俺にどうしろって言うんだよ…」

苛ついた気分になって、拾った木の枝で炎の中をかき回す。
ネガの焼ける焦げ臭いにおいが立ち上る。

「…ごめんなさい。わたしのせいで、余計な気がかりを…」

瞳子ちゃんの手が、遠慮がちに肩にかかった。
その感触に、やや冷静さを取り戻す。

「瞳子ちゃんとは関係ないよ。自分のことで、ちょっとむしゃくしゃしてた。くだらない愚痴さ。変なこと聞かせてごめん」
「いえ…」
「瞳子ちゃんこそ、いいのかい。武嶋さんが言ってたよ、新聞部に嗅ぎつけられると大変だって。俺なんかと噂を立てられちゃあ、いい迷惑だろ」
「どうってことありませんわ。噂の種にされるのも、いつものことですから。今さらひとつふたつ種が増えたところで」

嘯きながら、疲れた笑いを浮かべる。
彼女にとっても、学校はあまり心休まる場所じゃないのかも知れない。

「…どうせ何もしなくても的にされてしまうのなら、いっそのこと自分で種を撒いてしまうのもいいかもしれないわ」
「……どういうこと?」

肩越しに見上げた視線のすぐ先に、透き通った、それでいて底の見えない深い色を湛えた大きな瞳があった。

「花寺学院高校の生徒会長と、リリアン女学園高等部の噂の娘とで、既成事実を作ってしまって、蔦子さまに、一部始終を全部撮らせてあげればいいんだわ。そうして眺めている人たちを右往左往させてやるの。痛快だと思いません?」
「…それも、いいな」

波打つ長い髪が、頬にかかる。
その豊かな黒い流れに指を絡めて、引き寄せる。
白い顔がゆっくりと近づいてくる。

それは、捨て鉢な気分が起こさせた、気の迷いだったかも知れない。
あるいは、ただの子供じみた悪ふざけだったかも知れない。
互いに、どこかで相手が止めてくれるのを期待していたのかも知れない。

だが、気づいた時には、唇が重なっていた。

何秒くらいそうしていただろう。
ふたりとも、呆然としたまま、ゆっくりと体を離した。

「………あ、…」
「……ごめんなさい。わたし、帰ります」

身を翻してベンチに置いた自分の鞄を掴むと、瞳子ちゃんは足早に立ち去っていった。
一度も振り返らずに。

後には、燃え落ちた煙の残り香だけが漂っていた。











女の子とキスをするというのは、もう少しこう、ドキドキしたりムラムラしたりするもんなんじゃないかと思っていた。
少なくとも、こんな風に落ち込むようなものではないはずだ。

(するべきじゃなかった)

自室のベッドの上で、祐麒は後悔にも似たどんよりとした気分にはまりこんでいる。

なぜ、自分は途中で押し止めなかったのだろう。
なぜ、彼女はそれを許したのだろう。

重なった瞬間の、乾いた唇の感触だけが、生々しく記憶に焼きついている。
それ以外、何の感動もなかった。
こんなファーストキスがあっていいものか。

(ずっと幼い頃に、祐巳とふざけてキスしたような覚えもあるけど、…いや、あんなものはノーカウントだ、うん)

まあ、自分はいい。
男だから、別に純潔を気にする必要もないし、それどころか相手があれだけの美少女ならむしろ幸運と言ってもいいくらいだ。
だが、瞳子ちゃんはそうもいかないだろう。

彼女は傷つき、疲れている。
彼女を取り巻くさまざまなことに。
あのくちづけは、その痛みをひと時忘れたいがための、ほんの気まぐれに過ぎない。
だが、それが彼女の中に新しい傷をつけてしまったとしたら。
なすがままに流していた自分が、とんでもない能無しに思えてくる。

これでまだ自分が瞳子ちゃんに恋い焦がれてでもいるのなら、まだ救いもあるのだが。

コンコン。

そもそも自分は、彼女のことをどう考えているのか。
こうして気にしているということは、自分にとって彼女は、単なる知り合いというだけの相手ではないのだろう。
だが、それじゃあ彼女が好きなのか、と言うと、それはかなりあやふやだ。
彼女にどこかで共感しているのは事実なのだが、それは舞台の上の女優に観客席から感情移入しているような感じで、現実味が薄い。

コンコン。

(…うるさいな)

人の落ち込んだ気分を踏んづけるような無遠慮さで、能天気なノックがしつこく響く。
返事をしないでいたら、勝手にドアを開けられた。

「なによ、いるんじゃない。返事くらいしなさいよ」
「…なんだよ」
「なんだよ、じゃないわよ。あんた、わたしの辞書持っていきっぱなしでしょ。用が済んだらすぐ戻してっていつも言ってるのに、返しに来ないんだから」
「……ったく、そんなことかよ」

部屋のドアに鍵がないというのも、時には実に鬱陶しい。
落ち着いて悩みに耽ることもできやしない。

「そんなこととは何よ。そんな口聞くなら次から貸してやらないわよ。…ちょっと、どこにあるのよ」
「ああもう、勝手に机の上いじんなよ」

また一人でいたい時に限って、こいつはずかずかと踏み込んできやがる。
我が姉ながら、この空気の読めなさには、時折どうしてくれようかと思う。

「ちょっと待ってろ…ああ、こっちだ」

机の脇に放ってあった鞄を開けて、祐巳の辞書を探す。

「なによ、また学校に持って行ってたの? わたしのなんだから勝手に家から持って出ないでって、あれほど」
「うるさいなあ、学校に忘れてきたわけじゃないんだからいいだろ、ほら」

乱暴に取り出して祐巳の胸元に押し付けた。
その勢いで、鞄の中から紙切れが1枚こぼれ落ちる。

「?」
「ちょっとお、何その態度。だいたい、あんたはねえ…」

拾い上げてみたら、それは今日燃やしたはずの写真の1枚だった。
鞄の中で封筒からこぼれていたのか。
その生き残りに写っているのは、フレームの中で随分と隅に追いやられてしまっている、セーラー服の後姿だけだった。
彼女自身の意思で闇に葬られた、誰も知らない姿。

…と、思いに浸っていたのも束の間。

「聞いてるの、祐麒。……あれ、瞳子ちゃんじゃない」

横で喚いていた祐巳が、写真を覗き込むと、後姿の少女の正体をあっさりと看破した。
思わず目を剥いて祐巳の顔を見た。

「…………わかるの?」
「わかるわよ。いつも見てるんだし」
「でも、顔写ってないし…こういう、髪を解いてる時の姿、見たことあるの」
「いや、ないけど…だって、瞳子ちゃんでしょ? 見間違えようがないよ」

1+1の答えは2に決まっている、とでも言うかのような顔。

「でも、なんで祐麒が瞳子ちゃんの写真なんか持ってるの」
「…知り合いからもらったんだよ。リリアンの近所で撮ったけど誰だかわからないって」
「ふうん。…本当なの?」
「嘘言ってどうする」
「まあ、そうか」

一応、嘘は言ってない。

「でもなんか、言っちゃ悪いけどいまいちな写真だね。うちの蔦子さんならもっとかっこよく撮るわよ」

その蔦子さんの作品なんだがね。
まあ、撮り損ねだけど。

「言っとくけど、勝手に人の写真撮ったりするの、趣味悪いわよ。生徒会長なら、そういうの注意しときなさいね」
「“うちの蔦子さん”はどうなんだよ。祐巳は注意してるのか」
「彼女は、…まあ、うちの生徒だし、女だし…」
「女にだったら盗撮されてもいいなんて、だいぶ麻痺してるんじゃないの」
「そうかな…そうかも…いや、そういう話じゃないでしょ」
「心配しなくても、プリントもネガも全部回収して処分したよ。この1枚はたまたま荷物に紛れて免れただけ。それより辞書取りに来たんだろ。勉強してたんじゃなかったのか」
「あ、そうだった。…てか、祐麒はそんなぼけっと寝転がってて、試験勉強しなくて大丈夫なの? 花寺も試験近いんでしょ」
「日頃の積み重ねがあれば、土壇場になってから慌てて詰め込む必要なんかないんだよ。ほらもう、用が済んだんなら自分の部屋に帰れ」

実際にはやってもいないでまかせを言って、姉を部屋から追い出し、ベッドの上に崩れ落ちるように座る。

唖然とした。
あの武嶋蔦子でさえ見破れなかった、松平瞳子を見分ける術を、祐巳は知っている。
それも、疑いの余地もないほどにはっきりとした何かを。

自分は、後姿だけの瞳子ちゃんを、見分けることができるだろうか。











それから数日が過ぎた。

予算要望書の受付は締め切られ、1年生たちも動員しての予備調査も一段落し、以後の処理は3学期の予算編成本会議に持ち越しとなった。
期末試験を控え、生徒会の活動も一時中断となるその日、例によってふたりだけの生徒会室で、アリスが遠慮がちに切り出した。

「…ユキチさ、リリアンの方でちょっと噂になってるらしいよ。ユキチがリリアンの子とつきあってるって」
「えっ…!」

人通りの少ない場所とは言え、学校から歩いていける範囲で何度も逢っているのだ。
いずれは周囲の知るところになるだろうと、考えなかったわけじゃない。
しかし、実際にそれに直面するとなると、動揺しないでいるのも無理だった。

「ユキチがリリアンの子と一緒にいるのを見た、って話もあるみたいだし。いつだか、リリアンに情報源がどうとかって話してたよね。その子なんでしょ」
「…あ、うん、まあ…いや、でも、つきあってるってわけでは」
「ユキチがそう思ってても、噂になったら、そう考えてはもらえないよ」

その通りだ。
このままでは、瞳子ちゃんにも累が及ぶ。
しかし、花寺側はともかく、リリアンの中で起きていることには、手も足も出しようがない。

(まずい…)

あの時、瞳子ちゃんは、いっそ自分から噂を立ててしまえ、みたいなことを言っていたが、あれはやけくその強がりだ。
本当に自分との間で噂が立ったら、ダメージを受けずにはいられないだろう。

「…それにしても、ユキチがあの子となんて、意外だったな」
「……………」

もう相手の名前まで伝わっているのか。
いよいよ進退窮まったか、と覚悟した祐麒に、アリスが挙げた名前は、しかし。

「まさか、蔦子さんとつきあってるなんてね」
「……はあ?」

まったく意識外だった名前が出てきて、祐麒はずっこけた。
なんでそこで武嶋さんが出てくるんだ。

「…あれ? 違うの? うちの正門のとこでふたりが待ち合わせしてたとか、学校の近所で一緒にいたとか、証言があるみたいなんだけど」
「いや、確かに武嶋さんとは会ったけどな」
「それに、写真部に行った笙子ちゃんが、蔦子さんがユキチと一緒に写ってる写真を持ってるのを見たって。新聞部の真美ちゃんがその噂について蔦子さんに聞いたら、プライベートだからノーコメントって言われたそうよ」
「なんだ、そりゃ」

そう言えば、確かに一緒の写真は撮られたが、武嶋さんとはそれっきりだ。
なぜ、一度しか会っていない武嶋さんと、噂になるんだろう。
武嶋さんも、なぜそんなはっきりしない答えをするのか。

「とぼけてる…ってわけじゃなさそうだね、その反応。本当に蔦子さんじゃないの?」
「なにを…」

バカな、と言いかけて、気づいた。

(そうか。これは、煙幕なんだ)

福沢祐麒が、リリアンの女生徒と逢瀬を繰り返している。
その一方で、武嶋蔦子が福沢祐麒を訪ね、一緒に写った写真も持っている。
そうしたら、そのふたつの情報は、実際には無関係でも、自動的に結びつけて考えられる。
福沢祐麒と、武嶋蔦子が、つきあっていて、何度も逢っているらしい、と。
そして、祐麒が逢っていた本当の相手の存在は隠される。

さらに、武嶋蔦子はリリアンの新聞部と協力関係にある。
新聞部が武嶋蔦子のプライベートをスクープすることは、両者の関係を破壊することになるので、したくてもできない。
したがって、武嶋蔦子本人が新聞部に情報を明かさない限り、真相は闇に包まれたまま、暴かれることはない。
そして、実体のない噂は、放っておけば、いずれ消えていく。

思えば、祐巳を通して連絡してきてもよいものを、わざわざ自ら花寺に赴くという目立つ形で祐麒に接触してきたのも、周囲の目をひきつけるための計算だったのかもしれない。

その正体に確証が持てない相手のために、自らが囮になってみせることも厭わない。
盗撮魔・武嶋蔦子がリリアン女学園から追放されない理由を、祐麒は深く理解した。

『気をつけた方がよろしくてよ』

去り際にウィンクを投げた武嶋さんの顔が思い浮かぶ。

「…アリス。お前、武嶋さんとは面識あるか」
「まあ、なくはないけど」
「じゃあ、もし今度会ったら、彼女に伝えておいてくれ。今度、またコーヒーを奢る、デザートつきで、ってな」
「…なにそれ」
「いいから。言えば向こうにはわかる」
「どういうことよ。ユキチ、やっぱり」

アリスはしつこく食い下がってきたが、それ以上は何も教えなかった。











そんなこともあり、気まずさもあって、あれからあの公園へは行っていない。
期末試験が始まる直前に、一度だけ行ってみたが、瞳子ちゃんは現れなかった。
そして、そのまま試験期間に入ってしまい、足が遠のいてしまった。

期末試験は、とりあえず解答欄を埋めはしたが、まるっきり上の空で、何を書いたのかすらよく覚えていない。

試験が終わる頃には、リリアンでの祐麒と武嶋さんの噂も、早くも立ち消えになっていた。











期末試験が終わった、その夜。
祐麒のもとに、柏木から電話が入った。

「試験はどうだった。いい成績が取れそうかい」
「あんた、わかってて言ってるだろ」
「ん? さて、どうかな」

電話口から含み笑いが漏れてくる。
わざわざ嫌味を言うために、このタイミングを見計らっていたのか。
暇な奴め。

「まあ、そんな話は置いといて。ユキチ、明日は暇か」
「特に予定はないけど。悪いけど、あんたと遊ぶ気にはならないな」
「それは残念だ。だが、これは遊びの誘いじゃない」

思いがけず、真面目な声で柏木は言った。

「お前の手を借りる必要がある。ぜひ来てもらいたい」
「…なんだよ。何があるんだ」
「それは会ってから話す。これはお前にしか頼れないことなんだ。頼む」

つい最近も、こいつからそう言って頼みごとをされた覚えがある。

(…瞳子ちゃん、か?)

あれ以来、瞳子ちゃんとは逢っていない。
その後の彼女がどうしていて、何があったか、祐麒は知らない。
柏木がこういう口ぶりをするなら、瞳子ちゃんに何かがあった、あるいは、これから何かあるのかもしれない。
柏木が祐麒と瞳子ちゃんの間にあったことをどこまで知っているのか、疑問もなくはない。
しかし、あの日のことで瞳子ちゃんが傷ついているなら、せめて何か一言だけでも届けたかった。

「…わかった。行くよ」

祐麒は、柏木の誘いに乗った。











「でも、ま、降水確率ゼロパーセントだし」

翌日の朝。
祐巳は、祥子さんと遊園地デートだと張り切っていた。
期末試験前からそれで浮かれていたせいで、学園内を流れていたはずの祐麒と武嶋さんの噂にも、さっぱり気づいていないようだ。

思えば、梅雨時に祥子さんと何か揉めていたのは、その遊園地デートに行く行かないとかいう話が発端だったらしい。
客観的には、そんなどうでもいい話からどうやったらそんな揉め事に発展するのか、さっぱりわからないのだが、まあ、祐巳にとっては重大なことなんだろう。
それがようやく実現するというので、祐巳はいつにも増して浮かれている。
あいにくの曇天模様も吹き飛ばす勢いだ。

「遊園地は、冬の方が多少は空いているって聞いたことがあるよ」
「本当?」
「でもさ、今の時代ってあまり季節感がないって言うか。だから、あまり当てにならないかも。その情報」
「ああ、冬でもコートの下はノースリーブだったり、真夏なのに毛皮がついた服着たりしている人いるもんね」

こちらとしては、遊園地の人出を気にする祐巳をからかっているつもりなのだが、舞い上がっている祐巳の答えはどこか頓珍漢で、だんだん変なやり取りになっていく。

「わたしと祐麒って、やっぱり姉弟だわ」
「何、今さら」
「すっごいうれしいことや楽しいことが、目の前にあるとするでしょ? その時、浮かれて飛び出しそうな気持ちを律するために自ら心にブレーキをかけるの。悪く転んだ場合、こういうことが起こるかも、って」
「…………」

だんだん、かまっているのがあほらしくなってくる。

(今、浮かれて飛び出しそうなのは、お前だけだよ、祐巳)

こっちは浮かれるどころじゃない。
柏木の用件が何なのか。
瞳子ちゃんに関係することなら、今彼女はどうしているのか。
柏木は、自分と瞳子ちゃんの今の関係を知っているのか。
考えると気が気でないのは確かだが、およそ、うれしいとか楽しいとかいう気分とは対極だ。

「ところで祐麒も早いじゃない。出かけるの?」
「うん」

柏木に呼び出されたという話をすると、祐巳は途端に不機嫌になった。

「行くの?」
「ああ。他に用事もないし」
「何をさせられるかわからないのに?」

祐巳は柏木を、不誠実で信用ならない、尊大で無礼な人間と見ているようだ。
確かに柏木は鼻持ちならないスカした野郎だし、瞳子ちゃんがいつか言っていたように自己満足に浸っているのかも知れない。
だが、祐巳が思っているような不誠実な男ではない。
そんな人間に花寺の生徒会長は務まらないし、あいつがそんな奴だったなら、自分はこんなに劣等感を感じないで済んでいるだろう。

祐巳の柏木に対する印象は、祥子さんが祐巳に吹き込んだ情報が元になっているのだろう。
これを言ったら祐巳は怒るかも知れないが、祥子さんは結構ものごとを自分の都合のいいように捻じ曲げたがる傾向がなきにしも非ず、という印象が自分にはある。
だから、祥子さんが柏木について祐巳にどう言ったのか、詳しくは知らないが、それにどこまで事実や真実が含まれているかは、正直眉唾ものだろうと思っている。

柏木と祥子さんの間に流れている空気は、言ってしまえば「犬も食わない」類のものだ。
皮肉な態度を取っても、憎まれ口を叩いても、あのふたりは互いを思っているし、互いを求め、必要としている。
それに、あの自意識過剰のナルシストの向こうを張れるのは祥子さんしかいないだろうし、あの癇癪持ちのお姫さま相手に動じないでいられるのも柏木の奴しかいないだろう。
余人が割り込む隙はない。

だから、祥子さんが柏木を事実以上に悪し様に言ってしまうのも、本当は大事に考えているが故の照れ隠しのようなものだ。
それを察することが出来ないほど祐巳は鈍くはないはずだ。
だが、祐巳は柏木に対して、彼女としては珍しく攻撃的で、どこか空気が読めていない。
祥子さんに対する崇拝のあまり目が曇っているのか、それとも、察してはいるけれど認めたくないのか。

「うまく言えないけれど、柏木先輩がああいう強引な誘い方する時って、結果的に乗ってよかった、ってことが多いんだ」
「ふうん」

納得の行かない顔の祐巳。
結局、こいつの世界は何もかも祥子さん中心で回っているのだろう。

(これじゃあ、瞳子ちゃんがいくら祐巳を思っていても、報われないよなあ)

まあ、今日のところはその世界の中心と一緒に、念願の遊園地でせいぜい楽しんでくればいいさ。
こっちはそれどころじゃないんだ。

祐麒は朝食もそこそこに、待ち合わせの学校前へと向かった。











「来たか。遅いぞ」

試験休みで人のいない校門前に、柏木の赤い車が停まっていた。

「車なら、うちの近所まで来てくれりゃいいじゃないすか。呼び出したのはそっちなんだから」
「こっちもいろいろ都合があるんだよ。学校と言っておけば、祐巳ちゃんが勘づくこともないだろう」
「勘づく? 何を」
「いいから乗れ。お姫さまたちより先回りしないといけないんだから」

首根っこをつかまれて、助手席に押し込まれる。
祐麒がシートベルトを締めるよりも早く、柏木は運転席に飛び込み、アクセルを踏み込む。

「ちょっ、どこ行くんだよ」
「黙っていろ。舌を噛むぞ」

明らかに交通法規を逸脱した速度で、車は街中の公道を走り抜け、猛然と高速に突っ込んで行った。
直線コースに入って、多少運転が落ち着いたので、祐麒はようやく口を開いた。

「これは、どこに向かってるんだ。瞳子ちゃんは」
「着けばわかる。…瞳子は関係ないぞ」

どうなってるんだ。
どうも、事前の見込みと違う。

「………瞳子と何かあったな」
「えっ、あっ、いや、その」
「相変わらず、わかりやすい奴だ。…お前たちは相性がいいだろうとは思っていたが、少しばかり進展が早すぎやしないか」
「あー…ええと」
「まあいい。瞳子の件は後でみっちり聞いてやる。だが今は、目的地に着くのが最優先だ。行くぞ」

そう言うと、柏木はアクセルを一層踏み込んだ。











「――どうして」
「それは俺も知りたい」

連れて行かれた先で、姉と対面させられた祐麒は、憮然と呟いた。
そこは、祐巳と祥子さんがデートをする予定の遊園地だった。
電車で移動していたふたりを車で追い抜いて、ゲート前で待ち伏せをしたのだ。
祐麒を一旦学校に呼び出したのは、祐麒の口から漏れた情報が祐巳経由で祥子さんに届いて、移動中に行き先を変更されるのを防ぐための布石だった。

「じゃあ、どうしてここにいるの?」
「いちゃいけないかな。でも、君たちが来ているというだけで、僕らはこの遊園地への入場もできないってことはないよね?」

柏木と祥子さんのお馴染みの痴話喧嘩を横目に見ながら、祐巳が般若もかくやという凄い顔で祐麒に詰め寄ってくる。
もとが狸面なので、凄んでもどこかマヌケなのだが。

「柏木さんに手を貸すって、こういうことだったの」
「信じて、祐巳。俺は、本当にこんなこととは知らなかったんだから」

適当に言い訳をしておかないと、後々何と言って祐巳から攻撃されるかわかったもんじゃないが、ひどい運転に振り回された直後で、その意欲もあまり沸いてこない。

「さ、祐巳、チケットを買いましょう。こんな人に関わっているだけ時間の無駄よ」
「そうそう。自由にやってくれたまえ。こちらも好きにやらせてもらう。おい、ユキチ、行くぞ」

結局、互いに好き勝手に行動するということで、柏木と祥子さんの話は一応決着したが、祐巳は憤懣やるかたない様子で、祥子さんと共にチケット売り場に向かって行った。
柏木はそんなふたりを尻目に、既に購入済みのチケットで、祐麒を伴ってゲートを通った。

「祥子さんをストーキングするのに俺をつきあわせたのかよ」
「ストーキングとは人聞きの悪い。まあ、僕の方の目的はそうと言えなくもないが、お前を連れてきた理由は違う。その時になればわかる。その時が来ない方が理想ではあるがね」

柏木は面白半分の嫌がらせだけでこんな真似をする人間ではないとは思うが、それではその意図がどこにあるのかというと、さっぱり見当がつかない。
とにかく、引きずり込まれてしまったので、やむを得ずつきあうことにする。

遅れてゲートを入ってきた祐巳と祥子さんを見つけると、柏木は祐麒を引きずって、その後をついていく。
着かず離れずの微妙な距離を取りながら。

(これじゃ、マジでストーカーだよ)

さっきから、祐巳がこっちを気にしてちらちらと盛んに視線を送ってくる。
祥子さんの方は、対照的に意地になってこちらを無視している。
柏木はと言えば、そんなことにはまるで気づいていないかのような態度で、行列で隣に並んだ女子大生と歓談している。

(…俺、ここで何やってんだろう)

祐麒は、今日の天気のようなどんよりした気分で、虚ろに思った。











それでも、いくつかアトラクションを消化していく内に、祐巳のテンションが上がってきたのが、遠目からでもわかるほどになった。
今朝、ブレーキがどうとか言ってたのはなんだったんだ、と言いたくなるようなはしゃぎっぷりで、見ているこっちが恥ずかしくなってくる。

祥子さんが苦手なのだろう、動きの早い乗り物は避けているようだったが、ジェットコースターに未練がありそうな祐巳を見かねてか、それまで無視を決め込んでいた祥子さんが、急に柏木と祐麒のところにやって来た。

「優さんでいいわ。祐巳と、ジェットコースターに乗ってくれない?」

また、それに柏木もあっさりと承諾した。
それまで「お互い勝手に」とか言っていたとは思えない阿吽の呼吸ぶりだ。
柏木と同乗というのに祐巳は難色を示していたが、祥子さんの側に柏木が残ることはより容認しがたいようで、結局柏木と共にジェットコースターの行列に並んだ。
いっそのこと乗らない、という選択肢はないらしい。
まあ、あからさまに「本当は乗りたいけれど、我慢してます」という顔をされても鬱陶しいだけだが。

「すげえ声」

ジェットコースターに乗った祐巳の絶叫が場内にこだまする。
祐巳は自覚がないようだが、あいつの声はものすごくよく通る。
その能力を生かした方向に進まないのが不思議なくらいだ。
朗読とか、声楽とか、あるいは、演劇とか。

演劇、というキーワードで、また瞳子ちゃんのことを思い出す。
祐巳がこうして遊び呆けている間、彼女はどんな気分でいるのだろう。
柏木も、どうせなら彼女を連れてきてやればいいものを。

「…楽しそうで、よかったわ」

ジェットコースター乗り場の前のベンチに座りながら、祥子さんが、ぽつりと言った。

「約束したまま、ずっと反故にしてきたから。本当はもっと早く果たしてあげたかったんだけど」
「…高校生にもなって、遊園地で遊びたいとか、あいつはほんとに幼稚で。それで随分駄々もこねたみたいで、申し訳ないです」
「いいんですのよ。わたくしも、祐巳と一緒に楽しみたかったんですから」

祥子さんは穏やかに答える。
なんだかちょっと元気がないようなのは、気のせいだろうか。

「これであとひとつの気がかりが片付いてくれれば、安心して卒業できるのだけれど」
「……妹のことですか」
「ええ。あの子ときたら、その点だけはいつまでたっても思い切りが悪くて、本当に困ったものだと思いますわ。もうこの際、気の迷いでも場の勢いでもなんでもいいから、さっさと誰かつかまえて欲しいのだけれど」
「あいつは、そういうのはだめですよ。そういう衝動的な行動を、自分の中で正当化できないから。その手前の段階で、これでいいのかしら、とぐるぐる悩むだけで終わっちまう」
「そのようですわね。オーディションとか、いろいろ焚きつけてみたのだけれど、さっぱり動いてくれなくて。ようやく、この子はこれじゃだめなんだと気づきました。こんなことなら、最初から祐麒さんのご意見を伺っておけばよかったわ」

そう言って、祥子さんは小さくため息をついた。

「本当は、あの子の中ではもう決まっているはずなのに。なぜ、そのことに自分で気づかないのかしら」

祥子さんの頭の中にあるのも、もしかしたら自分が考えているのと同じ女の子のことなのかもしれない。
なんとなく、そう思った。

「押してダメなら引いてみろとか言いますからね。案外、相手が逃げそうになったら気づいたりするんじゃないですか」
「それも困ったものねえ」

ふたりで苦笑しているところに、ジェットコースターを降りた祐巳と柏木が戻ってきた。
祐巳は存分に堪能したのか、いかにも「すっきりした」と言わんばかりの顔をしている。

ジェットコースターで合流したことで、互いに好き勝手に行動する、というのもなし崩しになってしまったようで、昼食も4人一緒に取ることになった。
レストランで、4人が選んだのは、示し合わせたわけでもないのに、同じカレーライスだった。
柏木はこういう時、意地でも他人とは違うものを選ぼうとするような奴なのだが、今日はそういうところに注意が向いていないらしい。
傍目にはいつも通りのスカしたポーズだが、なにか少し余裕がないようだ。
そんなことを知る由もない祐巳は、ジェットコースターで叫んでいた祐巳の声がわかったという祥子さんに感激している。
横から、お前の声はでかすぎて誰にでもわかる、と祐麒が指摘すると、気分を壊すなと言いたげに睨めつけてきた。

「それに引き替え優さんは、随分おとなしかったわね。もしかして、恐かったの?」

いや、それはたぶん、隣の祐巳の騒がしさに驚いてただけだと思いますよ、祥子さん。











昼食の後は、祐巳のハイテンションぶりが伝染したのか、祥子さんも随分とはしゃぎ始めた。
嬌声を上げて動き回る祥子さんに、今は祐巳の方が引きずられている。
それは、姉妹と言うより、お姫さまとそのお付き、といった雰囲気だ。
まあ、あれがあのふたりにとっての仲睦まじい姿なのだろうから、それはそれでいいのだが。
しかし祐麒は、その様子を見ながら、危ういかな、と思っていた。

祥子さんにとって、このデートは、“思い出作り”だ。
高校生活の心残りを解消し、先へ進むためのけじめだ。
しかし、祐巳にとっては?
未来の妹には目もくれず、ただ祥子さんだけに気持ちを注ぐ祐巳は、祥子さんが卒業してしまったら、どうなるのだろう。
心の持って行き場を見失って、腑抜けになってしまうのではないだろうか。

祐巳が目を向けてくれるのを待ち続けている子は、すぐ側にいると言うのに。

そんなことを考えながら、熊の着ぐるみのジャグリングを見物しているふたりの後姿を眺めていた、その時。

「だめか」

横にいた柏木が呟いた。
と、同時に、祐巳の隣の祥子さんが、急にしゃがみこんだ。
何が、と思った時には、柏木がその側に駆け寄っていた。
祐麒も慌てて後を追う。
熊に見とれていた祐巳が異変に気づいたのは、祐麒も祥子さんの側まで到着した頃ようやくだった。

「祥子さま…!」

祐巳はすっかり動転して、泣き出してしまった。
…まったく、心配したそばからこれだからな。

近場のベンチに避難して、ようやく少し落ち着いたところで、柏木が祥子さんに語りかける。

「昔から、さっちゃんはよく出先で気持ち悪くなってたよね」
「そうね。成長しても、治っていなかったのね。がっかりだわ」

つまり、柏木と祥子さんには、最初からわかっていたのだ。
こういう事態が起きる可能性を。
祥子さんが遊園地行きをずっと渋ってきた理由のひとつも、これなのだろう。
自分ひとりがそれを察することができなかった、という事実の前に、祐巳はすっかり悄然として、声を失っている。
自分が具合が悪くなったわけでもないのに、祐麒が支えていてやらないと、立っているのもおぼつかない様子だ。

(これが、俺を連れてきた理由か)

祥子さんの具合が悪くなることだけじゃなく、そうなった時に祐巳が動揺してパニックに陥ることも織り込み済み、というわけだ。
柏木にとっては、祥子さんの面倒を見ることが先決、だが、だからと言って祐巳を捨て置くわけにもいかない。
祐巳を受け止め支えることのできる人間が、この場に必要だったのだ。

こういうところは、柏木には敵わないな、と思う。
気配り、根回し、そして人選、どれを取ってもこれ以外考えられない、完璧だ。
完璧すぎて憎たらしくなるくらいだが、この状況では感謝せざるを得ない。
もしここに柏木と自分がいなくて、具合の悪くなった祥子さんを抱えた祐巳がひとり途方にくれることになったとしたら、と思うと、ぞっとする。

そして、祥子さんの体調を考え、今日はこのまま撤収ということになった。
祥子さんは柏木に任せ、祐麒は祐巳を連れて電車で帰ることにした。
祥子さんを早く家まで送り届けて欲しい、というのもあったが、これ以上、祐巳を柏木の側にいさせたくなかった。
祐巳は、柏木の配慮の完璧さと、浮かれていた自分自身とを見比べて、打ちのめされているだろうからだ。
だが、車を寄せて、柏木は言った。

「君たちも一旦小笠原の家まで来てくれ」
「え?」
「今は祐巳ちゃんに、さっちゃんの側にいて欲しいんだ」

そう言われて、祐巳が拒めるはずもなかった。
そういうところが、柏木は憎たらしいのだ。

後部座席で、眠りに落ちてしまった祥子さんの手を握りながら、祐巳がささやかな抵抗を試みる。

「こうなるって予測していたんでしょ? どうして、止めなかったの?」
「それは、さっちゃんがものすごく楽しそうだったからだよ」

柏木の答えが、祐巳の傷口をさらにえぐる。

「さっちゃんは、祐巳ちゃんと一緒にいろんなことをしたいんだよ。それを阻むことの方が、僕には酷だと思えた。そういうことさ」

道理で考えれば、不安の残る遊園地行きなど、止めるべきだ。
だが、柏木はどこまでも祥子さんの意思を尊重した。
もし何も起こらなければ、無駄足を踏み、嫌な奴と思われる結果になるとしても、側にいて、万一に備えることを選んだ。
そして、そんな柏木を、結局は祥子さんも受け入れ、おそらくは、感謝している。
“大好きなお姉さまとの、ふたりだけの時間”しか考えていなかった祐巳の、完全な敗北だ。

祐巳は唇を噛んで俯くしかない。
その姿をバックミラーに見ながら、祐麒は思った。

(かわいそうに。…まあ、祥子さんにばっかり見とれて、瞳子ちゃんをほったらかした報いかもしれないけどな)

今、ここに瞳子ちゃんがいたら、どうするだろうか。
柏木が場を紛らわそうと振ってくる馬鹿話に生返事をしながら、ふと、そんなことが頭に浮かんだ。











小笠原邸に着いて、家に連絡するついでに用足しをして戻ると、泣きながら応接間を出ていく祐巳と入れ違いになった。
反射的に、黒い怒りが祐麒の中に満ちた。

「何を言った。祐巳に、何をした」

ソファに悠然と座る柏木の前に立ちふさがり、怒声を上げる。

「ゲームの話をしていただけだよ」
「嘘をつけ。どういうつもりなんだ。俺への当て付けで、祐巳を泣かせたのか」

柏木は足を組み替えながら、冷たく微笑んだ。

「見くびるなよ。お前を相手にそんな回りくどい真似はしない。お前を痛めつけたくなった時は、僕のこの手で、直接地べたに這わせてやるさ」
「そうかい。だが、そう簡単に行くと思うなよ」

柏木と祐麒の間の空気が、ぐっ、と密度を増したようだった。
格闘ものの劇画なら、ふたりの間にどす黒い渦が巻く図が描かれるところだ。
だが、その張り詰めた空気を、柏木の方がふっと解いた。

「…よせよ。お前と今、拳で語る気はない」

柏木は気取った表情を消し、少し疲れたような顔を見せた。

「祐巳ちゃんを泣かせてしまったのは、しかたなかったんだ。そうなることはわかっていたが、避けられないことだったんだ」
「ふざけんなよ。そんな言いぐさで納得するとでも」

今にもつかみかからんばかりの祐麒を片手を上げて制しながら、柏木は辛抱強く語った。

「まあ聞け。祐巳ちゃんがさっちゃんに夢中なのはわかっているだろう。言葉は悪いが、執着している、と言ってもいい」
「それがなんだ」
「誰かの一番でありたい、と願う気持ちが強すぎるあまりに、その自分自身の気持ち以外何も目に入らなくなってしまうのは、誰にもあることだ。ましてや、祐巳ちゃんはさっちゃんがああいう風になってしまうことを知らなかったのだからね。だが、それを、自分が嫌っている相手によって思い知らされるというのは屈辱だよ。女の子なら、泣き出してしまってもしかたない」
「そこまでわかってて、よくも」
「しかたないさ。さっちゃんが窮地に陥るのを放っておくわけにはいかない。さっちゃんを救えるのなら、他の誰かの涙なんて、僕にとってはどうでもいいことだよ。それがたとえ、さっちゃんの大切な妹であろうと、それによって、僕が祐巳ちゃんから更に嫌われ、憎まれることになろうと、ね」

悔しいが、柏木の言うことは納得せざるを得なかった。
祐巳とは別の意味、別の次元で、柏木にとっては祥子さんが一番、ということなのだ。

「お前だって、わかっているだろう。祐巳ちゃんはあのままでは、いずれ困ったことになると。さっちゃんにとらわれ過ぎることは、彼女のためにならない。いつかは、それを知らなければいけないんだよ。そのきっかけが、たまたま今日やってきた、というだけで、いずれはこういうことが起きた。それについて、僕がフォローしてやることはできない」

だから、祐麒を呼び寄せたというわけだ。

「お前にしても、お前の知らないところで祐巳ちゃんが泣かされて帰ってくるよりは増しだろう?」

いちいちもっともなのだが、だからこそ、腹に据えかねた。
あんたは正しいよ、柏木先輩。
正しすぎて、反吐が出そうになるくらいにな。

やがて、祥子さんの部屋に行っていた祐巳が戻ってきた。
祐麒は、車で送る、と言う柏木の申し出を撥ね付け、祐巳を引っ張って帰ろうとした。
もうこれ以上、柏木の側に祐巳を置いておきたくなかった。
だが、祥子さんと話して落ち着いたのか、頭に血が上った祐麒より、祐巳の方が今は冷静だった。

「いいじゃない、柏木さんに送ってもらおう。わたしは送ってもらうよ。ね、だから祐麒も。別々に帰ったら、変だよ」

そうまで言われては、押し切ることもできない。
祐巳だけを柏木に任せてひとりで帰るなんて、今の状況では絶対にしたくなかった。
渋々、柏木の車で祐巳共々送ってもらうことにする。

「…もう少し、やさしく運転しろよ」

家路の車上で、祐麒はささくれ立った気持ちの持って行き場を失い、柏木に八つ当たりをする。
柏木はそれを軽く受け流した。

「ユキチはうるさいな。やっぱり、瞳子の方がよかった」
「…瞳子ちゃん?」
「そ。最初は瞳子を誘ったんだけど、断られたからユキチが繰り上がった」
「俺は補欠かよ」

ふて腐れて見せながら、そんなことは遊園地に行く時には一言も言わなかったな、と祐麒は思い返していた。
ここで瞳子ちゃんの名前を出すのは、祐巳に対する何かのメッセージなのか、とも思ったが、心ここにあらずという雰囲気で、何かをぶつぶつと呟いている祐巳に、それが届いたようには見えなかった。

やがて、車は福沢家の前に着いた。
小笠原邸で持たされたお土産の包みを抱えながら、祐巳は呆然と玄関に向かった。
祐巳が扉の中に消えていくのを見送りながら、祐麒は柏木に問うた。

「……瞳子ちゃんに断られたって話、嘘だな。呼ばなかったんだ。最初から」
「…さすが、ユキチは賢いな」
「よせよ、茶化すのは。祐巳が祥子さんに執着するのと同じように、瞳子ちゃんも祐巳に惹かれている。祐巳が泣く羽目になるのがわかっていたから、瞳子ちゃんにはその場にいて欲しくなかった。そうだろ」

柏木、祥子さん、そして祐巳、全員と関わりを持ち、それぞれの気持ちや事情がわかっている瞳子ちゃんは、3人の間で微妙な立場に置かれることになる。
瞳子ちゃんが既に祐巳の妹になっているのなら、祐麒の代わりに祐巳を支えることもできたかもしれない。
だが、そういう絆を確かめていない瞳子ちゃんは、祐巳の涙を前にしても、身動きが取れないまま、傍観するしかできないだろう。
それによって、瞳子ちゃんもまた、深く傷ついてしまう。

柏木は、投げやりな笑みを浮かべて言った。

「…いくら僕と言えども、同時に3人もの面倒は見てやれないんだよ」

その様子を目の当たりにして、こいつも案外苦労人だな、と祐麒は思った。

「それにしても、短い間に瞳子の気持ちに随分通じていることだな。お前と瞳子の間がどうなっているのか、やはり拳を交えて聞き出す方がいいのかな」

そう言って柏木はぎろりと祐麒を睨んだ。
その目はいつものスカした優男ではない、妹を護る兄のそれだった。
祐麒は少しひるんだ。

「…まあそれは、また今度にしよう。今日は僕も疲れた。おやすみ、ユキチ」

その台詞を置き去りにして、柏木の車は静かに祐麒の前から去って行った。

空には、昼間の曇天が嘘のような、降るような冬の星が瞬いていた。











あれ以来、祐巳は部屋にこもって、毛糸で何かを編んでいる。
食事や風呂に呼ばない限り、ほとんど部屋から出てこようとしないので、時々扉の隙間から様子を覗くのだが、編みものの手を動かしながら、しきりにぶつぶつと何事かを呟いている。
時にはため息をついて編みかけのものを解いて、また最初から編み始めたりしている。
正直言って、かなり気味が悪い。

たまに部屋から出てきても、あのお喋りな姉が口を聞くのもだるそうな様子で、ことあるごとにため息をついている。
親たちは祐巳の気分の複雑な背景なんか知らないので、「せっかくのデートがだめになったのが本当に残念だったのねえ」程度の認識しかしておらず、あまり気にしていないようだが、一部始終を見ていた祐麒にとっては、こうまで引きずっているというのは結構深刻だな、と思われた。
こういう時に祐巳に活を入れてしゃきっとさせてくれる人物と言えば祥子さんなのだが、今回はその祥子さんが倒れてしまったのが原因なので、どうしようもない。

女の子というのは、こんな時は友達に電話をかけたり、一緒に出かけたり、家に呼んだり呼ばれたり、というようなことで気を紛らわせるもんなんじゃないか、と思うのだが、祐巳はあまりそういうことをやらない。
それどころか、考えてみたら、祐巳の友達が家を訪ねてきたことなど、片手の指で数えられるほどしかない。
高等部に上がってからは、一度もないんじゃないだろうか。
祥子さんでさえ、この家の敷居をまたいだことがない。
まあ、あんなお屋敷に住んでいるお嬢さまがこんな狭い家に来たら、この間とは別の意味で気分が悪くなったりしそうではあるが。

しかし、学園祭の時に少し話した二条さんは、休日に藤堂さんの家をよく訪ねると言っていた。
祐巳の妹問題で突撃してきた女の子たちも、友達と互いの自宅に招き招かれみたいなことはよくあるような口ぶりだった。
それを考えると、休日の交流の薄い祐巳は、ちょっと奇妙な気がした。

思えば、祐巳は幼稚舎からリリアンにいる割に、その頃からの馴染みの知り合いとか友達とか、そういうのはいないようだ。
高等部に上がってからも、山百合会に入る以前は、友達の話なんかほとんどしたことがなかった。
たまに、テニス部にいるなんとか言う友達の話が出たくらいで、その子の名も今では話題に上らない。

『祥子さんと仲違いをした時、祐巳さん、薔薇の館にも来なくなっちゃって。あのまま、山百合会を辞めて、わたしたちとも友達づきあいしてくれなくなるんじゃないかって、すごく心配だったの』

学園祭準備の合間に、島津さんが語った言葉が思い浮かんだ。

「…はあ」

また、ため息をついている。
こうして、結構扉を大きく開けて覗いているのに、気づきもしない。
声をかけようかと思ったが、かけたところで何を話していいかもわからないので、静かに扉を閉めて階段を下りる。
玄関には、久々に訪ねてきた小林が待っていた。

「お待たせ」
「おう。じゃ、行こか」

こいつも、考えてみれば小学生時代からの腐れ縁だ。
ここ最近こそご無沙汰ではあるものの、大して近所でもないのに、うちに足しげく通ってきては、飯まで食って帰ったりする。
お前はもう少し遠慮しろ、と言いたくなるくらいだ。

外に出ると、もう、風はかなり冷たかった。

祐巳が元気がない、そのくせ他の友達には相談しない、という話をすると、小林は。

「祐巳ちゃん、ちょっとこれなとこあるからな。祥子さんを好きな間は、他の人間に目をくれちゃいけないとか、自分で思っちゃってるんじゃないの」

これ、のところで顔の横にひさしを作るポーズをしながら、そう言った。
ガキの頃からうちに入り浸ってるだけあって、祐巳に対する評価にはそれなりに説得力がある。
そう言えばこいつは、祥子さんの男嫌いについての分析も結構正確だった。
案外、人物眼は確かなのかもしれない。

「ほんのちょっと周りを見回してくれれば、俺という男がいるのに気がついてもらえるのになあ」

いや、それはないから。

駅前で高田やアリスと落ち合う。
今日は生徒会の2学期おつかれ会という名目で、揃って遊ぼうという趣旨だ。

「日光月光先輩が来れないのは残念だな」
「受験直前だからな。さすがのあのふたりでも、街で遊ぼうって場合じゃねえだろ」
「しょうがないね。僕らも、もう年内にはこうして集まれる都合はつかないんだし」
「ま、その分は年明けの卒業生歓送会で盛大にやってやろうじゃないの」
「そだな。で、まずはどこ行く」
「あ、ほらほら、あそこ行こうよ、こないだ言ってた」
「しかし、クリスマス前だっつーのに、朝から男ばっかりで集まって何がうれしいんだ」
「色気が欲しいんなら自分で調達してこいよ。文句ばっかり言いやがって」

軽口を叩き合いながら街へと繰り出す。
今日この時だけは、祐巳のことも柏木のことも、瞳子ちゃんのことも一旦忘れて、楽しむことにしよう。











午前中から夕方まで遊び呆け、いい加減疲れてきたところで、解散して家路についた。
本当はこのまま居酒屋でも、という雰囲気だったが、今日の面子は全員未成年なので、一応やめておこうということになった。
小林は年末年始も勉学に励むと言い、高田は年内いっぱいは部活の合宿、アリスも家の事情で年末年始は忙しいらしく、終業式が済んだら顔を合わせられる機会も3学期まではない。
別れ際には、柄にもなく少し寂しい気分になった。

何の用もなくても、なんとなく集まって、じゃれ合って、馬鹿な話をして、それだけで気分が軽くなる。
あいつら相手なら、気を遣ったり遠慮したりすることもなく、気楽に過ごせる。
お互いそれなりに言えないこともあったりはするが、そういう部分も含めて察することができる。
そういう友達がいるってのはやっぱりいいもんだ、と思う。

祐巳には、そういう相手はいないのだろうか。
ひとり、部屋にこもったまま、誰とも会わず、誰とも話さず、誰とも遊ぼうとしない。
山百合会の仲間たちでさえ、祐巳にとっては、本当の意味で気の許せる友達ではないのだろうか。

バスの窓に映る景色は、夕暮れから夜へとみるみる変わっていく。
駅前でバスに乗った時にはまだ結構明るかったのに、つるべ落としとはこのことだ。
家の最寄のバス停に着いた頃には、あたりはすっかり真っ暗だった。
冷えた空気の中を歩きながら、祐麒はまた姉のことを考える。

祐巳は昔から、落ち込むことがあるとあんな風だ。
嵐が通り過ぎるのを待つかのように、いつもひとりでじっとしたままでいる。
祥子さんと喧嘩をした時にも、誰かに相談するとか、愚痴を言うとか、そういうことはやろうとせず、自分ひとりで抱え込んでいたように思う。

しかし、そんな祐巳でも、かつて自分から家に呼びたいと言った相手がひとりだけいる。
それはやはり、祐巳の中で特別な位置を占めている人物、ということなのだろう。
なぜ、今はその相手を思い出さないのだろうか。
祐巳の中には、それを妨げる何かがあるのだろうか。

そんなことを思いながら、ふと道の向こうを見た。
そこには、見覚えのある後姿があった。
一瞬、目の錯覚かと思った。
しかし、街灯に照らされて濃い影を落とすその姿は、幻ではなさそうだ。
何か、不案内そうに、うろうろしては戻ろうとし、また進もうとしては、辺りを見回している。

(…何やってんだ)

後姿は、結局そこから先に行くのをやめて、戻ろうと振り向く。
そこで、祐麒と真正面から目が合った。

「……………………!!!!!!!!」

途端。

「あ」

逃げた。
逆方向に向かって、全力疾走だ。

「待っ…!」

慌てて追いかけるが、なかなか追いつかない。
結構足が速い。
それでも、背丈の分だけ歩幅も違えば、体力的にも祐麒が上だ。
祐麒がギアを上げると、あっさりとつかまった。

「待てったら。どうしたんだ。なんで逃げるんだよ、…瞳子ちゃん」

祐麒に腕をつかまれ、ぜいぜいと肩で息をしながら、それでも瞳子ちゃんは、なんとか逃れようと弱々しくもがいた。
見ると、ワンピースにカーディガンという部屋着のような装いで、この季節、この時間に出歩くには薄着に過ぎる格好だ。
散歩のついでに寄ってみました、という雰囲気ではない。

瞳子ちゃんは、祐麒を威嚇するような瞳で睨みながら、短く吠えた。

「離して」
「離したら逃げるだろう。だめだ」
「人を呼ぶわ。大声を出すわよ」
「いいね。呼べよ。ついでに警察なんかも来てくれるとなおいいな。そうすれば、パトカーで家まで送ってもらえる」

その言葉で、沈黙する。
実際にはそう都合よく警察がすぐに来てくれるとも思えないが、今の彼女には効き目があった。
そんな形で家に送り返されることは避けたいはずだ、という読みは外れていないようだった。

「…離してください。逃げませんから」

抗うのをやめ、目を伏せながら訴える、その唇が紫色に染まっている。
この寒空の下を、こんな薄着で歩き回っていたのだから、無理もない。

すぐ先に自動販売機があるのを見つけ、瞳子ちゃんの腕をつかんだまま、そこまで歩いていく。

「あ、あのっ…」

引きずられて戸惑いの声を上げる瞳子ちゃんを尻目に、片手でホットのミルクティーを買う。
補充してから間もないのか、缶があまり暖かくないことに、頭の中で舌打ちをしながら、瞳子ちゃんに差し出す。
瞳子ちゃんは少し迷った後、片手で缶を受け取った。
それを見届けると、つかんでいた腕を放し、自分のジャケットを脱いで瞳子ちゃんにかけてやる。
空気は冷たかったが、少し走ったせいか、さほど寒くは感じない。

「…………………いただきます」

瞳子ちゃんは缶を開けて、ちびちびとお茶を飲み始めた。
ぬるそうな割に、湯気はそれなりに立ちこめた。

「…何してたの」

自動販売機にもたれながら聞くと、瞳子ちゃんはバツが悪そうに目を逸らしながら。

「……別に。休日に外を歩くのに理由なんか要りませんわ」
「女の子がひとりで出歩く時間じゃないんじゃないか」
「まだ、そんなに遅い時間じゃありません」
「遅くなくたって真っ暗だ。散歩したって、何も見えなくて面白くないだろ」
「歩くのが好きなんです」

この、強情っぱりめ。

「じゃあ、一緒に歩こうか。つきあうよ」
「結構です。もう帰りますから」
「なら、家まで送るよ」
「ひとりで帰れます。構わないでください」

お茶で温まった唇が、白い顔のなかで鮮やかに色づいた。

「そうはいかない。帰る途中で何があるかわからないからな。瞳子ちゃんが自分の家に着くまで、ずっとついて回るぞ」
「やめてください。ストーカーですか」
「こう見えても、可南子ちゃんに気づかれずについて行ったこともあるんだ。すごいだろう」
「自慢することですか。ほっといてください。わたしのことなんか」
「ほっとけるわけないだろ。女の子が、上着もなしでうろうろしてるのを。それに…」

仮にも、キスした相手なのに。

「…家に来なよ」
「なんで、わたしが祐麒さんのお家に」
「俺だけの家じゃない。祐巳もいるよ」
「だからって。お呼ばれする理由がありませんわ」
「休日に出歩くのに理由が要らないんだったら、歩いてる途中に知り合いの家に寄るのにも理由なんか要らないだろ」
「…………」

ふて腐れた顔で、答えない。

何があったのか知らないが、普通の様子ではない。
以前、意外と近所とは言っていたが、その時に聞いた彼女の家のある町の名は、歩いて行き来するにはちょっと遠い場所だった。
そこからこのあたりまでを結ぶバスの路線もないはずで、この薄着でその間を歩いてきたとすれば、かなりの異常事態だ。
帰ると言うのも額面通りには信じられない。
別れた途端にあさっての方向に行かれてはかなわない。

このまま目を離すわけにはいかない。
それに、瞳子ちゃんがここにいるのは、祐巳に会いたかったからに違いない、という妙な確信があった。
だが同時に、それを自分で認めたくない、という彼女の気分も感じ取れた。
どうやって引き留めたもんだろう。

「……じゃあさ。祐巳のために、来てくれないか」
「祐巳さまのため?」

瞳子ちゃんは、祐麒の申し入れに怪訝な顔をした。

「あいつ、この間、祥子さんと一緒に遊園地に行ったんだけど、そこで、祥子さんが具合悪くなっちゃって。それが自分のせいだと思って、ずっと落ち込んでるんだ」
「…そんなことが…」

やはり、知らなかったか。
柏木がその場にいたことは、言わないでおいた方がよさそうだ。

「以来、ずっと部屋にこもって、ぶつぶつ言いながら編みものしてる。はっきり言って、かなり不気味なんだ。でも、家族が声をかけても、あんまり反応がなくてさ。だから、学校の友達が来れば、少しは気分を変えてくれるかなって」
「学校の友達…ですか」
「そう。友達として、祐巳の様子を見に来て欲しい。別にご機嫌取りしろとかそういうことじゃなく、ただ、あいつが何か言ったら適当に受け流すだけでいいから。だめかな」

瞳子ちゃんにとって、口実としては悪くないはずだ。
それに、あの薄気味の悪い祐巳をどうにかしたいというのも、嘘ではなかった。

瞳子ちゃんはしばらくの間考え込んでいたが、やがて、すっかり冷めてしまったお茶を一気に飲み干すと、こちらを見据えてはっきりと言った。

「…わかりました。行きます」











走ったせいで、家からは少し離れてしまった。
家までの道のりを並んで歩きながら、祐麒はずっと気にしていたことを口にした。

「……怒ってる? この間のこと」
「この間…あ、あ、ああ、いえ…」

瞳子ちゃんも思い出したのか、暗がりでもわかるほど赤くなった。
その反応に、改めて、自分はこの子と唇を重ねてしまったのだという実感が沸き、たまらなく恥ずかしくなってくる。

「……………どうしてです?」
「だって、俺の顔見るなり、逃げたから。怒ってるのかと思って」
「…そんなことは…」

瞳子ちゃんは気まずそうに口ごもる。
祐麒は居たたまれなくなって、焦ってまくし立てた。

「あ、あのさ、あれは、なんて言うか、その、気にするな、って言っても、無理かもしれないけど。その、なんだ。一時の気の迷いって言うか、そういうのだから、瞳子ちゃんにとっては、その」

ええい、何を言ってるんだ俺は。
情けない気分になりながらしどろもどろになる祐麒の顔を見つめて、瞳子ちゃんは言った。

「……気の迷い、なんですか」
「えっ…」
「あれは、祐麒さんにとっては、気の迷いだったんですか」

真剣な顔で聞いてくる。
祐麒は答えられない。
瞳子ちゃんのまっすぐな視線に耐えられず、思わず目を外した視界に入って来たのは。

「…着いた」

見慣れた我が家だった。
祐麒の言葉に、瞳子ちゃんも思わず振り返って福沢家の全容を眺める。

「ここが…」
「…ええと。それじゃあ、その、いいかな」
「…はい」

瞳子ちゃんを玄関へと促すと、彼女の内側で何かが切り替わるのがわかった。
いつかのような、女優の顔をしていた。











出迎えた母は、祐麒が女の子を伴っているのを見て、彼女を連れてきたとでも思ったのか、喜色満面、といった表情になった。
しかし。

「祐巳ちゃん、早く早く、ほら」

いくら瞳子ちゃんを祐麒の彼女と思ったからといって、いきなり祐巳を呼び寄せようとするのは何かおかしい。
母は、瞳子ちゃんがリリアンの生徒だなどとはまだ知らないはずだ。
瞳子ちゃんが脱ぐジャケットを受け取りながら、こっちでも何かあったかな、と祐麒は直感した。

やがて、祐巳が2階から降りてきて、瞳子ちゃんを認めるなり、目を丸くした。
それに向かって、瞳子ちゃんはこれ以上ないくらい完璧な笑顔で、優雅に挨拶をする。

「…ごきげんよう、祐巳さま」
「と、瞳…!」

ああ、また祐巳がすごい顔でこっちを見ていやがる。

祐巳は普段が割と聞きわけがいいので、なかなかそういう風には思われないのだが、ひとたび、これは自分だけのもの、と思ったら、それに対する独占欲は強い。
それ以外のものに対する執着が薄い分、その落差の激しさは一層際立つ。
おもちゃ、本、自転車、かばん、果ては傘に至るまで、“わたしだけの宝物”と祐巳の中でラベルを付けられたものに対しては、近寄ることすら許さない。
他人がそれらに迂闊に触れたりすると、猛烈に怒り、へそを曲げて何日も口を聞いてくれなくなったり、突如ヒステリーを起こして泣き喚いたりするのだ。
今、祐巳が祐麒に向けている視線は、そういう時のそれだ。

『なぜ、お前がその子といっしょにいるのよ! その子は、わたしのものなのに!』

負のオーラが祐巳の背後から沸き上がって、祐麒をちくちくと責め立ててくる。
ああ、柏木はこれを毎度浴び続けているんだよなあ。
それであんな涼しい顔をしていられるんだから、肝が据わっていると言うか、面の皮が厚いと言うか。
自分はとてもあの真似ができるようにはなれそうもない。

『わたしの大切なもの、取らないでよ!』

そういえば、割と最近にもそう言ってこの玄関で泣き叫んでいたっけ。
あの時は何がなくなったんだったか。

「柿ノ木さん家の角で、ばったり会ったんだよ。だから、家に寄れば、って連れてきたんだけれど」

とにかく何か言い訳をしておかないと、どんな形で矛先が向かってくるかわからない。

「と、とにかく上がって」

まあしかし、そうして刺激されたせいなのか、祐巳の様子は今朝方までの呆けた様子から一転して、妙にテンションが上がり始めた。
瞳子ちゃんを自分の部屋へと連れ去りながら、祐巳がこっちに顔を向け、声を出さずに口をパクパクさせて何かを言っている。

(? 「ひ・っ・こ・ん・で・ろ」?)

はいはい。
仰せの通りにいたしますよ、姉上殿。

まったく、そんなに独占したいんなら、さっさと妹にしてしまえばいいのに。
白けた気分になりながら、祐麒はリビングの電話から受話器をつかむと、瞳子ちゃんを連れた祐巳が自室に入るのを見計らってから、自分の部屋に隠れた。

「祐巳ちゃんかい」

1回目のコール音も終わらない内に電話口に出た柏木は、開口一番そう言った。
それで、柏木がうちに電話をかけてきていたのだとわかった。
たぶん、瞳子ちゃんの行方を捜して、当たってきたのだろう。
母のあの様子も、おそらくはそのせいだ。

「俺だよ」
「…ユキチか。どうした」

少し落胆したような声のトーンで、奴にしては珍しく焦っていることも感じ取れた。
安心させてやるのはなんとなく癪だったが、人が心配している姿を見てほくそ笑むほど悪趣味でもない。

「瞳子ちゃん、うちにいるぜ」
「…………そうか」

一瞬の絶句の後に、安堵の声が漏れた。

「しばらくは、ここにいる。いつでも迎えに来られるようにしててくれ」
「わかった。…瞳子が自分から訪ねて行ったのか?」
「さあ。ただ、うちの近所をうろうろしていたから、つかまえて引っ張ってきた」
「そうか。ありがとう。恩に着る」

柏木は、奴にしてはえらく素直に礼を述べた。

「瞳子ちゃん、どうしたんだ? このクソ寒いのにコートもなしで出歩いて」
「お前はどう思う。あいつに何か変わったところを感じたか」
「知るかよ。あんた、俺に聞いてばっかりだな。身内なら、俺なんかよりよく知ってんだろ」
「なら、お前は、祐巳ちゃんのことをすべてわかっているのか」

答えられなかった。

「近くにいたって、わからないことはある。むしろ、近すぎるからこそ見えない部分もな」
「………」

確かに、こんなに近くにいても、一向にわからない部分はある。
瞳子ちゃんをあれだけ特別に考えていながら、妹に迎えようとはしないことなどは、その最たるものだ。

「瞳子が家を飛び出ていった直接の理由は知っている。だが、そこに至った理由までは、正直言ってよくわからない。お前のところに行った理由も」
「来たのは祐巳のところだろ。俺じゃなくて」
「そうかもしれない。そうでないかもしれない。本当のところは、瞳子自身しか知らない。…いや、あいつ自身も」

また古狸の謎かけだ。
今はそれにつきあう気にはなれない。
用件だけ言って会話を切り上げることにする。

「瞳子ちゃんが帰る気になったら、また電話するから、近場で待機しててくれ。泊まりって話になったら、それはそれでまた電話する」
「わかった。…祐麒」

柏木はその時、ユキチ、と言わなかった。

「ありがとう。本当に」











やがて、夕食になり、瞳子ちゃんも当然のように祐巳の隣に同席した。
瞳子ちゃんは、祐麒の依頼通り、“祐巳の学校の友人”として、客人として、その役どころを完璧に演じて見せた。
祐巳はその瞳子ちゃんを相手に、甲斐甲斐しく気を遣っている。
どうやら、柏木から、瞳子ちゃんに何かあったという話は伝わっているらしい。
その様子を黙って眺めながら、祐麒はなぜか不安を感じていた。

祐巳はほんの少し前までの落ち込みようが嘘のように、瞳子ちゃんの世話に張り切っている。
ちょっと見には、立ち直ったようにも思える。
だが、それでいいのだろうか?
自分自身の不安や落胆を、瞳子ちゃんに投影して、そこに一方的に同情してしまっているだけではないだろうか。
依存する対象を、祥子さんから瞳子ちゃんに乗り換えただけなのではないだろうか。
それが、祐巳にとって、そして瞳子ちゃんにとって、果たして本当によいことなのだろうか。
瞳子ちゃんは、そんな祐巳から、何を感じ取っているだろうか。

祐麒は、瞳子ちゃんを家に呼んだ自分の判断が正しかったのかどうか、自信がなくなってきた。

そして、夜半過ぎ、瞳子ちゃんは帰ると言い出した。
タクシーを呼ぶと言う瞳子ちゃんに対して、父は自分の車で送ると言って譲らず、そこでちょっとした押し問答になる。
まったく、妙なところで頑固なのは、やはり自分たち姉弟の親だな、と思わざるを得ない。
いつまでもやらせておくのもみっともないので、適当なところで割って入る。

「折衷案。と言うより、もう俺が勝手に決めちゃってたんだけど」

そう言って、電話機のリダイヤルボタンで、近所で待機しているはずの相手を呼び出す。

「誰にかけたの?」
「すぐにわかるよ」

実際、間髪入れずにドアホンのベルが鳴り、玄関の扉を開けたそこには、柏木が立っていた。
夕食前に電話をした直後から、家の前に車を停めて、待っていたのだ。

「優お兄さま……」
「迎えに来たんだ。帰ろう」

瞳子ちゃんは素直に頷いた。

「お世話になりました。改めて、お礼に伺います」
「ごちそうさまでした」
「また遊びにいらっしゃい」

親たちと挨拶を交わす柏木と瞳子ちゃんの様子は、見るからにいい家のご兄妹、という雰囲気で、この場面だけ見ていたら、まるで普通の家族ぐるみのつきあいのようでさえある。
車に乗り込む前の一瞬、瞳子ちゃんは祐麒を見つめた。
その顔は、笑っても怒ってもいない、何とも言いようのない表情だった。
祐麒はそれにどう応えていいかわからず、やはり何とも言えない顔で見送るしかなかった。

「あんな子が、祐巳ちゃんの妹になってくれたらいいわね」
「お母さんたら、何言うの。やめてよ、からかうの」

柏木の車が夜の闇に消えていくのを見送った後、家の中へと戻る途中、母の言葉に慌てる祐巳の声を背中で聞きながら、祐麒はまたわずかな苛立ちを感じた。

(まだ、そんなこと言ってるのか、こいつは)

今日の様子を見ていたら、お前があの子を妹にしたくてたまらないのは、誰の目にも丸わかりだってのに。
なぜ、そうやって自分の気持ちをまっすぐ見ようとしないのだろう。











翌日。

「柏木先輩来たなんて、俺、知らなかったぞ。なんで呼ばないんだよ」

自分が部屋でぼけっとしている間に、柏木が昨夜の礼として、家に菓子折を持って訪れていた。
祐巳のやつは気の利かないことに、それを自分に知らせず、さっさと追い返したらしい。
そんなにあいつが嫌いかよ。

「今から電話するけれど、なんなら祐麒がする?」

もちろん、するとも。
菓子折を親が受け取った旨の連絡を入れるというので、すかさず電話機を奪い取る。
昨夜の件で、蚊帳の外に置かれてはたまらない。

「あ、先輩? ちわーっす」

嫌味をこめつつ挨拶をする。

「家まで来といて俺を無視して帰るって、ひどいじゃないすか。昨夜は結局どういうことだったのか、ちゃんと教えてくださいよ」
「悪いな。今日会ったら、殴りたくなりそうだったから、やめておいたんだよ」

瞳子ちゃんを見つけたのが俺だったのが、そんなに気に入らないのか。
祐巳に聞かれたくないので、自分の部屋に戻ってから、本題に入る。

「瞳子ちゃん、何があったんだ」
「教えてやってもいいが、お前には知る覚悟がちゃんとあるのかな」

なんだそりゃ。
またわけのわからないことを言う。

「前後の事情を知らなきゃ、覚悟のしようもないだろ。いいから言えよ。俺に教えてもいい範囲まででいいから。覚悟はその後でする」
「……そういうところは、祐巳ちゃんとは違うな、お前は」
「誰かさんのお陰で、見る前に飛ぶのが当たり前になっちまったからな」

1年生の3学期に生徒会長に指名されて以来、行動の前に熟考を重ねている余裕なんかない。
飛んでから後悔してもなんとかなるし、どうせなるようにしかならないんなら飛んでしまった方が増し、生徒会の日々はそんな経験ばっかりだ。
祐麒のその言葉に、柏木も牽制するのを諦めて喋り始めた。

「……瞳子の祖父が奥多摩で病院をやっているのは、知ってるか」
「…ああ、聞いた覚えがある。亡くなった祥子さんのお祖母さんが入院してたってとこだろ」
「うん。そこの後継者の問題で、ちょっと揉めてな」

家柄のいいところなら、後継ぎの問題は重大なことだろう。
子供が自分の将来を思い通りに出来ないことはありうる。

「演劇をやめて、後を継げって言われたとか」
「いや、逆だ。病院の後継者については心配いらないから、瞳子には好きな道を進めと。そう言ったら、瞳子が怒り出したらしい」
「…はあ?」

瞳子ちゃんは演劇に熱心だ。
祐巳からも聞いたし、学園祭で実際に見もしたし、直接話せばそれはさらによくわかる。
あれほど打ち込んでいるものを取り上げられて、自分の進む道を外から押し付けられたのなら、腹を立てるのも無理はない。
だが、好きな道に進んでいいと言われて、なぜ怒るんだ。

「意味がわかんないな。瞳子ちゃん、医者志望だったのか?」
「僕の知る限り、そんな話はないな。早くからそういう志望があったら、高校はリリアンじゃなく、他所の進学校を目指してただろう」
「それで、後を継がなくていいと言われて、どうして怒るんだ」
「知らんよ。言っただろう、直接の原因は知っているが、そこに至った理由はわからん、と。とにかく、そういう押し問答の果てに、へそを曲げて家を飛び出した、というわけだ」

意外だった。
瞳子ちゃんが、それほどまでに家の事業を継ぐことに意欲を持っていたとは。

柏木が全てを語っているかどうかは疑わしい。
まだ何か隠しているような気はする。
だが、少なくとも語られたことに関しては、事実だろうと思われた。

「…しかし、あれだな。自分の大事に思っている人間が、肝心な時に頼っていくのが自分以外の人間だというのは、なかなかこたえるもんだな」
「祐巳を泣かせた罰が当たったんだろ」
「そうかもしれん。確かに泣きたくなるよ」

柏木は電話の向こうでため息をついた。

「…瞳子に逢うなとは言わない。だが、迂闊な真似をしたり、余計なことを言ったら、その時は、僕はお前を本気で叩きのめしたくなるだろう。それは覚えておけよ、ユキチ」

そう言って、柏木は電話を切った。

なにか、ろくな成り行きになりそうもないような、嫌な予感がした。











2学期最終日。

貼り出された期末試験の順位表の前で、ちょっとしたどよめきが起きていた。
中間テストまでは100番以下をうろうろしていた小林が、いきなり60番台まで上がってきたからだ。
小林を知る生徒たちは、悪いものでも食ったか、とか、中の人が変わった、とか、からかい半分の賛辞を投げかけていた。
その様子を横目に見ながら、こうして実際に成果を見せられて、小林の意気込みが本物だということを、祐麒は改めて感じていた。

「まあ、元々数学だけならトップレベルだったからな、小林。他の教科の点がついてくるようになりゃ、順位は上がるよな」
「でも、ここからはそう簡単には上がれないさ。順位ひとつ上げるだけで一苦労だと思うぜ」

小林は得意な顔をしつつも、見通しは冷静だ。

「しかしまあ、これでうちの親にも俺が本気だというのを思い知らせてやれるな。予備校に行きたい、って言ったら、正気かみたいな口を聞きやがったが、吠え面かかせてやるぜ」

そう言って愉快そうに笑う。
まあ、子供が勉学に意欲を燃やしているのを嫌がる親もいない。
小林の両親も、なんだかんだ言いつつ喜ぶのではないだろうか。
自分自身の努力の手ごたえを実感できて、親にも喜ばれる。
実に理想的な話だ。
何に向かって努力すればいいのかもよくわからない自分を見比べると、もう小林が遥か先を走っているように思われてくる。

その一方で、自分が望む方向が、親から望まれていない道だった、という人間もいる。

あれから、瞳子ちゃんはどうしただろう。
家に帰って、親とは和解できたのだろうか。

そもそも、なぜ親と喧嘩をするようなことになってしまったのか。
柏木から聞いた内容から判断する限りでは、娘の意思を尊重する優しい親だという風にしか思えない。
だが、それが、瞳子ちゃんにとっては何か容認できないものを含んでいたのだろうか。

終業式の開かれる講堂へ、アリスと連れ立って向かいながら、祐麒はぽつりと口にした。

「子供が家を継ぐのと、自分なりの道を進むのと、親にとってはどっちが嬉しいんだろうな」
「なに、藪から棒に」
「いや…まあちょっと、思うことがあってな」
「自分のこと? ユキチ、二代目だし」
「うんまあ、それもあるけど…知り合いがさ、家でそういう話でひと悶着あったって聞いて」

アリスは、人差し指を顎に当てて、考える仕種をする。

「難しいねえ。そりゃ、親は自分の後を継いでくれれば嬉しいんじゃないかと思うけど、そのために、子供が自分の希望を抑えちゃうのがいいとは思わないかもしれないし」

そもそも、瞳子ちゃんは本当に病院を継ぎたいのだろうか。
彼女の興味は演劇に向いているものだとばかり思っていた。

「まあでも、僕の意見はあまり参考にはならないよ」
「なんで?」
「…僕は、親の期待を裏切っちゃった子供だから」

少し遠い目をしながら、アリスは言った。

「僕の親は、僕にもっと男っぽい子に育って欲しかったと思うんだ。名前のこともそうだし、男子校に入れたのだって、周りに刺激されて男らしくなってくれれば、と思ってのことだったんだ。でも、僕は、親のその期待には応えてあげられなかった」

そう言えば、こいつの名前は、金太郎、などという勇ましいものだった。
童話に出てくる豪傑のイメージは、どう考えても今のアリスにはそぐわない。

「自分がこんな風だってことを後悔することはないけど、でも、親に対しては、ちょっと申し訳ないな、って思うことはあるんだよね。ご期待に添えない息子でごめんなさい、みたいな」

少し切なげなその横顔に、こいつはこいつでまた、自分には計り知れない悩みや迷いがあるんだろうな、と思う。

「でも、僕の親は、僕がこういう人間なことを認めて、許してくれた。だから、男らしさ以外の部分で、僕ができることがあるなら、してあげたいとは思ってる」

そう言うアリスの表情は、何かふっきれているようにも見えた。
それもまた、自分の未来の選択の、道のひとつなのかもしれない。

講堂で整列しながら、アリスはさらに語った。

「せめて、結婚して、子供を作って、親に孫の顔を見せてあげる、っていうのだけは、なんとかしたいなあ」
「…それは、どっちが産むんだ」
「普通、女の人でしょ。仮に僕が性転換手術を受けても、子宮までは付けられないからねえ。女の人に産んでもらうってことになると思うけど」

そりゃ、戸籍上はもちろん、肉体的にも男なら、結婚すると言ったら、女性と、ということになるはずだが。

「…お前、できんの? つか、その意欲が持てるの?」
「ん? そりゃ、難しいかもしれないけど、無理じゃないと思うよ。僕は男の人が好きだけど、だからって女の子が嫌いってわけじゃないもん」
「あ、そうなの…」
「こんな僕でもいいって言ってくれる女の子がいれば、お友達みたいな夫婦になれて、それはそれでいいかも、とか思ったりするんだ♥」

…やはり、ある意味、計り知れない世界だ。

絶句する祐麒の虚を突くように、アリスが鋭く指摘してくる。

「知り合いって、例の子でしょ。ユキチがつきあってる」
「ああ、まあ…いや、つきあってないって」
「でも、好きなんでしょ」

好き。
瞳子ちゃんを。
自分が?

「…どうなんだろう」
「なにそれ。はっきりしないのって、女の子には嫌われるよ」

はっきりするも何も、自分と瞳子ちゃんの間には。

(…………)

キスしておいて、何もないと言えるだろうか。

「好きなら好きだって、ちゃんと態度に出してあげないだめだよ。じゃないと、女の子はどんどん不安になるんだから」
「いや、だから…」

そこまで言ったところで、終業式が始まってしまった。
そのまま雑談は切り上げられ、言いかけた言葉は祐麒の頭の中に取り残される。

瞳子ちゃんとの関係は、一体何と表現すればいいのだろう。

自分が瞳子ちゃんに対して持っているこの気持ちは、「好き」なのだろうか。
そうだとして、それはどういう形の「好き」なのだろうか。
友達として?
家族のような?
それとも、…恋人として?

また、それをはっきりさせたとして、瞳子ちゃんの方はどうなのか。
気にしているのは自分の方だけで、あっちは自分のことなど、鼻にも引っ掛けていないことだってありうる。

この先、彼女に会ったら、どういう態度を表明したらいいのか。

校長の長すぎる訓示の間、祐麒の思考は、同じところをぐるぐると回り続けた。

終業式が終わり、ホームルームで通知表が配られると、いよいよ2学期も終わり、冬休みの始まりだ。
開放感に浮かれた生徒たちがひとしきり廊下に溢れ、やがてあっという間に消えて行く。
今日ばかりはグラウンドで練習している部もない。
何もやることはなかったが、一応年内最後ということで、生徒会室の中を確認した後、鍵を返しに職員室に向かう。

「おう、福沢。ちょうどよかった。ちょっと、手伝ってくれないか」

鍵を置いたらすぐ帰るつもりでいたのに、教師につかまってしまった。
花寺学院でも遅まきながら教員の業務にパソコンが導入され、さまざまな情報を電子化している途上なのだが、日々の忙しさに追われて、学期中に処理しなければならないデータの入力を先送りにした結果、多くの教師たちが終業日の今日になって慌てる羽目になっていた。
年配の教師になるとキーボードを打つのもままならない有様で、作業は遅々として進まない。

「昼飯奢るから。頼むよ、なっ」

小林も、アリスも、高田も、それぞれの用事でさっさと帰ってしまった。
内心舌打ちしながら、拝み倒されると無下に嫌とも言えず、渋々ながら引き受けてしまう。

(まあ、いいか。特に予定もないし)

手を動かしている間は、余計なことは考えないで済むだろう。











結局、なんだかんだで夕方までつきあわされてしまった。
こんなことなら晩飯も要求すればよかった。
いつもこうやっていいように使われてばかりで、生徒会長の威厳も何もあったもんじゃない。
バス停の前で見上げる空はもう真っ暗だ。
バスを待つ生徒も自分の他にはいやしない。

花寺学院高校前から駅に向かうバス路線はいくつかあって、ひとつはJR駅と私鉄駅の間を繋ぐ往復便、もうひとつはJR駅前を基点に武蔵野の丘をぐるりと回る循環便だ。
他にバス会社の車庫へ向かう便などもあるが、これは本数が少ない。
ほとんどの生徒は、往復便の方を使う。
駅まで到着するのにかかる時間が短いのと、循環便の方にはリリアンの生徒が多く乗るからだ。
乗客が女の子ばかりのバスに乗って、気後れしないでいられる男はそう多くない。
女っ気に慣れない男子校の生徒となればなおさらだ。
そんなわけで、校門前を通過するにもかかわらず、循環便の方は花寺の生徒にはあまり利用されない。

しかし今、宵闇の中でぽつんとバスを待っていた祐麒の前に停まったのは、循環便の方だった。

(ま、いいか)

今日はリリアンも終業式。
下校のピークはとっくに過ぎているだろう。
女の子で車内がいっぱいになることもあるまい。
寒空の下でこれ以上寂しく待つのも嫌だったので、気にせず乗り込む。

がら空きの車内で、最後尾のベンチシートに座る。
自分の他には乗客は一人しかいない。
静かな車内で窓の外に目をやりながら、彼女のいる奴なんかは、今頃は楽しくやっているのだろうな、などと、ぼんやり考える。

彼女。

その言葉から、また瞳子ちゃんの顔が浮かんできた。
いや、待て。
アリスがあんなことを言うから変に意識しているだけだ。

なんでこんなに、彼女のことばかり気にしてるんだ。
キスしてから、いや、キスする前から、何かといえば彼女のことに結び付けて考えてばかりいる。

瞳子ちゃんは、どう思うだろう。
瞳子ちゃんなら、どうするだろう。
瞳子ちゃんは、今、何をしているのだろう。

なんなんだ、これは。

どうでもいいじゃないか。
あの子は、ただの先輩の従妹、姉の後輩、それだけだろう。
学校も違う。
住んでる世界も違う。
見てるものも、求めるものも違う。
本来なら、関わることも、交わることもない相手のはずだ。

なのに。

もう、考えるのはよそう。
彼女が、祐巳の妹になるかどうかも、病院を継ぐかどうかも、自分には手出しのできないことだ。
それに、自分自身の道も決められないのに、彼女に何をアドバイスできるというのか。
自分が気を揉んでやったところで、彼女のためには何の役にも立たない。

だけど。

冬休みは2週間ある。
その間に、会うこともないだろう。
その間に、いろいろなことが、自分の知らないところで解決するかもしれない。
その間に、忘れてしまうこともできる。

…でも。

待つ人のいない途中の停留所を停まらずに飛ばし、バスはリリアン女学園前に近づく。
クリスマスイブともなれば、キリスト教系だけに、ここの礼拝堂ではクリスマスのミサが行われるそうだが、さすがにこの時間ではそれもとっくに終わったらしく、バスを待つ人影はひとりしかいない。
だが、そのひとりがバスに乗り込んできた瞬間、祐麒は息を呑んだ。
相手も、俯いていたその顔を上げて祐麒を認めると、表情が硬くなった。

(瞳子ちゃん)

一瞬、声も出せずに見つめ合う。
が、瞳子ちゃんはすぐに、ぷいと視線を逸らし、一番前の、祐麒からもっとも遠い座席に座った。

考えまい、と思っていた矢先なのに、自分を惑わせるために現れたのか。
だが、瞳子ちゃんは祐麒の方を見ようともしない。
その背中には、なぜだか怒りのオーラが立ち上っている。

やがて、祐麒より前から乗っていた客が途中のバス停で降りてしまい、車内には瞳子ちゃんと祐麒だけしか乗客がいなくなった。
気まずい沈黙を乗せ、長いようにも短いようにも感じられたドライブの後、バスは駅前に滑り込んだ。

バスを降りても、瞳子ちゃんは振り返ろうともせず、祐麒の前をすたすたと歩いていく。
声をかけづらいまま、祐麒はその後を歩いていった。
そうして、少し離れたまま駅の入り口に向かう途中、不意に、瞳子ちゃんがぴたりと足を止めた。

「……ついて来ないでください」

横顔を見せて、ぎろり、という雰囲気で睨みつける。
そう言われても、こちらの帰り道もこの方向なのだから、しょうがない。

「…怒ってるの?」
「怒ってません」

眉間に皺を刻み、柳眉を逆立てながらそんなことを言われても、とても信じられない。

「…ごめん」
「何について謝ってらっしゃるんですか。謝っていただかないといけないようなことを、わたしはされたんですか」
「いや…その」

いつにも増して刺々しい。
そんなにこの間のことを怒っているのか、それとも、また何かあったのか。

「やっぱりご姉弟なのね。ふたりとも、気の迷いを起こしやすくていらっしゃることだわ」
「…何の話だよ。祐巳は関係ないだろ」
「ええ、関係ありませんとも。わたしと祐巳さまは、何も」

頑なな態度を崩さない瞳子ちゃんに、祐麒は次第に苛立ってきた。

「どうしたんだよ。俺が気に障ることをしたんなら、謝るから」
「結構です。どうせ、わたしなんて、気の迷いで済まされてしまうようなものなんでしょう」
「そんなこと言ってないだろう。何が気に入らないんだ」
「祐麒さんこそ。どうしていちいちわたしの前に現れて、わたしに構おうとするんです。もう、放っておいてください」

祐麒の方に向き直ると、瞳子ちゃんは昂然と言い放つ。

「その場限りの同情で優しくされても、迷惑です。この間のことは、わたしも忘れますから、祐麒さんももうお気になさらないでください」

できるもんなら、そうしたい。
でも。
ああもう、なんで自分はこんな子のことを。

「…そんなわけにいくかよ」
「なぜですか。気の迷いだって、おっしゃったじゃないですか」
「ああそうだよ。気の迷いだよ。だったらどうした。しょうがないだろ、好きなんだから。好きな女の子のことで迷ったら、いけないのかよ」

思い余って口にした言葉に、瞳子ちゃんは一瞬、ぽかんとした表情になる。
鳩が豆鉄砲を食らったような、というのはこういう顔のことか、と変に冷静に考えた後、自分が何を言ったかに気づいて、顔が熱くなった。
目の前の瞳子ちゃんの顔も、みるみる赤く染まっていく。
そのまま、お互いに二の句が継げずに、向かい合って身動きが取れなくなってしまった。
駅に向かうデート中らしいカップルの女の方が、小声で「がんばれー」と投げかけて、ふたりの横を通り過ぎて行く。
見回すと、雑踏の中で立ち止まっているふたりは、周囲から怪訝そうな視線を集めていた。

「…ちょっ、ちょっと、こちらに」

瞳子ちゃんが祐麒の袖を引いて、駅ビルの壁際まで逃げ込む。

「…どういうつもりなんです。わたしのこと、からかってらっしゃるんですか」

赤くなったまま、怒ったような困ったような複雑な顔で、瞳子ちゃんは祐麒に食ってかかる。
祐麒も、恥ずかしさに赤くなりながら、ふて腐れたように目を逸らしながら答える。

「…本気にしたくなきゃ、別にいいよ」

自分だって、こうして言葉にするまで、自分の気持ちが本気にできなかったんだから。

「…そっちこそ、俺のこと、からかってるんじゃないのか。俺が、君のことばっかり考えて、迷ったりおたついたりしてるのを見て、内心笑ってるんだろう」
「…っ、そんな! わたし、そんな娘じゃありません!」

気まずさと、恥ずかしさで、もうまともにお互いの顔を見ることができない。

「………なんて日なの。こんな………」

困惑しきった顔で、瞳子ちゃんは、そう小さく呟いた。
そして。

「…………あの、今は、あの、わたし、ちょっと、いっぱいで、その、なんて答えたらいいか」

しどろもどろに口走りながら後ずさりをすると。

「あっ、あのっ、ですからその、このお話は、また今度に! そっ、それじゃあ、ご・ごきげんようっ!」
「あっ、おい!」

身を翻して、脱兎のごとく改札口の方に駆け出して行ってしまった。

この状況で放置かよ。
今度って、いつだよ。
これじゃあ、いっそひと思いにここでごめんなさいされた方が増しだ。

ぐったりと脱力しながら、瞳子ちゃんが消えて行った改札の雑踏をしばらく眺めた後、祐麒はすごすごと家路に着いた。

その日の夕食には、クリスマスらしいメニューがいろいろ並んでいたような気がするが、よく覚えていない。
早々に風呂を浴びて、ベッドで布団を被ったが、後悔と羞恥に悶々とするばかりで、なかなか眠れなかった。

クリスマスイブに、女の子に好きだと告白した。
字面だけ見たら、なにかすごくロマンチックに思えるが、現実は情けなくなるほどのぐだぐだっぷりで、あまりの間抜けさに逃げ出してしまいたいほどだ。
できるなら、なかったことにしたい。
サンタクロースがタイムマシンでも持ってきてくれないもんだろうか。

そんなわけで、その晩の祐巳の様子なんかは、気にしている余裕もなかった。











翌朝。

当然のことながら、サンタクロースは来なかった。
耳の欠けた猫型ロボットも、改造車に乗った老科学者も来なかった。
起きたら全部夢だった、というオチも少しだけ期待したが、母に叩き起こされた朝は、普通に昨日の続きだった。

福沢家では、学校が休みだからと言って、だらだらと惰眠を貪ったりさせてはもらえない。
自宅がそのまま父の事務所でもあるので、親が働いている側でだらしのない生活を送ることなど許されないのだ。

とは言え、普段なら着替えて降りるところを、寝巻き代わりのスウェットに上着を羽織っただけで済ませてしまえるのは、休みならではだ。
顔を洗い、寝癖を適当になでつけてダイニングに入ると、祐巳はもう食卓でもそもそとパンをかじっていた。

「おはよう」
「……あ、うん……おはよう」

祐麒が入ってきたのが目に映っていなかった様子だ。
どこか虚ろな表情なのは、祐巳も寝ぼけているのだろうか。

テーブルの上には、昨夜の残りのローストチキンが乗っかっていた。

「あなたたちが食べるだろうと思って多めに作ったのに、ふたりともさっさと寝ちゃうんだもの。しばらくはそれを処理してもらうからね」

申し訳ない、母上。
しかし、朝っぱらから肉をがつがつ食う、という気分にもなれなかったので、残りは昼食で、ということで勘弁してもらう。

祐麒がテーブルを離れる時、祐巳はまだパンの切れ端を噛んでいた。

やることもなく、部屋に戻って、物思いに耽る。

なし崩しに瞳子ちゃんに好きだと言ってしまった。
言ってしまったことで、この気持ちがやはり“好き”というものだということも、自分自身で認めてしまった。

祐麒の告白に対して、瞳子ちゃんはうろたえた挙句、逃げて行ってしまった。
それは、どう解釈したらいいのだろうか。
やはり、拒絶されたと考えるべきなのか。
また今度と口走っていたが、その“今度”が本当にあるのだろうか。
駅の雑踏の中に消えて行く後姿が最後というのはあんまりだ。
ノーならノーで、せめてはっきりした答えは確かめたい。

だが、祐麒は瞳子ちゃんの住所も電話番号も知らない。
知っていたとしても、相手はなにしろお嬢さまだ。
どこの馬の骨ともわからない男からかかってきた電話に、簡単に娘を電話口に出したりはしてくれないだろう。
冬休みに入ってしまったのでは、学校近くのあの公園で待ってみるというのも現実的じゃない。
直に接触を試みようにも、手段がないのだ。

近しい人間に仲介を頼むという手はある。
だが、その相手と言えば。

(祐巳と、柏木…)

だめだだめだ。
どっちに頼んでも、まともに仲介などしてくれそうにない。
だいたい、何と言って頼むんだ。
祐巳は、自分が特別に目をかけている後輩に祐麒がちょっかいを出そうとしている、と思ったら、へそを曲げてしまうに違いない。
柏木は柏木で、大事な妹に手出しをしようとする悪い虫は容赦なく潰しにかかるだろう。

そもそも、思っているのはこっちの方だけだ。
瞳子ちゃんの方には、自分の気持ちに答える義務なんかない。
彼女は、祐麒なんか無視してしまったって構わないのだ。

(はあ)

思考が途切れると、途端に瞳子ちゃんのいろいろな顔が次々と脳裏に浮かんでは消えていく。
落ち込んでしおれた顔、澄ました笑い顔、ふて腐れてむくれた顔、怒って睨みつける顔、頬を染めて恥らう顔。

瞳子ちゃんに逢いたい。
好きだ、と認めてしまっただけで、こんなにも逢いたくてしかたなくなるものなのか。
だが、逢ってどうする?
その後がどうなっていくのか、まったく先が読めない。
だから、逢いたいと思う一方で、再び逢うことに気後れしておののく気分もある。

なんだか、胸の奥の方が重たく疼くような気分ばかりが続いて、ちっとも楽しくない。
恋というのはこんなものなんだろうか。

「ああもう、ちくしょう」

こうして部屋にいても、先に進まない思いを抱えて悶々とするだけだ。
外の空気でも吸って、気分を変えなければ。

手早く着替えて、玄関を飛び出す。
午前の冬の空はよく晴れて、澄み渡った空の青が目にしみるようだ。
その底抜けの明るさが、今の自分のもやもやとした胸の内とあまりにも対照的すぎて、なんだか不愉快になってくる。

足早に柿ノ木邸の角を曲がると、ちょうど路肩にでかい外車がゆるゆると停まろうとしているところだった。
この界隈にはちょっと場違いな雰囲気のその車の横を通り過ぎながら、なぜか既視感を覚える。

(あれ? この車、なんか見覚えが…)

その思考が終わらない内に、スモークのかかったウインドウがするすると下がって。

「…祐麒さん」

現れた顔を見て、危うく悲鳴を上げてしまいそうなほど驚いた。

「瞳子ちゃん!?」

思い出した。
これは、いつかの観劇の時に迎えに来た、松平家の車だ。

「ごきげんよう。…あの、今からどちらに?」
「いや、別に…ちょっと、そこまで」

逢いたい、とは確かに思ってはいたが、こんな不意打ちを食らうと、何を喋っていいのかわからず、間の抜けた受け答えしかできない。

「じゃあ、あの、…お話がしたいんですけど、よろしいですか」
「あ、ああ…」

瞳子ちゃんが中から車の後部ドアを開ける。

「それじゃあ、お乗りになってください」
「? なんで?」
「往来で立ち話もなんですし、…その、人目もありますから」

言いながら、福沢家のある方角を気にする。

「そりゃ、まあ、いいけど…祐巳には会っていかなくていいの」
「…いえ、今日は…」

瞳子ちゃんは、歯切れ悪く尻込みした。
まあ、自分も、今柏木に会いたいかと言われたら、それは遠慮したい。

「…じゃあ、ちょっと、お邪魔します」

また間抜けな台詞だ、と自分に呆れながら、後部座席に乗り込んだ。
ドアを閉めると同時に、車が滑らかにスタートする。

(…まさか、このまま松平家に連れて行かれるんじゃないだろうな)

よくも大事な娘を、と、暴れん坊将軍のような父親にこってり絞られるのではないか、そんな不安が一瞬頭に浮かんだ。
実際はそんなことにはならず、車は近場の大きな公園の駐車場へと滑り込んでいった。
幼い頃はここの動物園や水族館に家族でよく来たもんだったな、と思い出す。
運転手は車を停めると、車を降りて外からドアを開ける。
それに向かって、後部座席から優雅なしぐさで降り立ちながら、瞳子ちゃんは言った。

「しばらく、ここで待っていてください。それから、…あの、パパやママには、ここに来ていることは…」
「心得ております。ごゆっくりなさってください」

自分でドアを開けて勝手に降りた祐麒を、瞳子ちゃんが遠慮がちに誘う。

「じゃあ、あの…こちらへ」
「…あ、うん…」

祐麒もまた、遠慮しながら、瞳子ちゃんに応じる。
駐車場の出入り口に向かっていくふたりを、運転手がお辞儀をしながら見送っていた。

公園通りを、並んで歩く。
間に微妙な距離を保ったまま、互いを気にしながら、でも、何を喋っていいのかもわからず、目を逸らしたまま、ただ、黙って歩く。

何を話せばいいのだろう。
何を言われるのだろう。
どんな顔で、どんなまなざしで、相手を見たらいいのだろう。

言いたいこと、聞きたいことはたくさんあったはずなのに、ためらいと戸惑いで喉元に蓋がされてしまったかのように、言葉が出てこない。
せめて、もう1日2日、間を置いた後なら、気持ちの整理もついたのに。

でも、それじゃあ、逢えないままで何日も過ごすことに、耐えられたのか?
…それには自信がなかった。

瞳子ちゃんは、今日はフード付きの明るい色のハーフコートで、きちんと冬の装いをしていた。
つい見とれてしまいそうになるが、こちらの視線に気づいた瞳子ちゃんと目が合ってしまうと、慌てて互いに目を逸らしてしまう。

このまま黙りこくってお散歩するだけじゃ、埒が明かない。
気力を振り絞って、何とか言葉を押し出す。

「………………もう、会えないのかと思ってた」
「……なぜです?」
「だって、…あんな風に逃げられたら、嫌われたのかと思って」
「…そう…そう、ですよね、やっぱり」

それから、また少しの間、沈黙が降りる。
今日はなぜ、と聞こうとした祐麒の機先を制して、瞳子ちゃんが口を開いた。

「昨日は、その、嫌だから逃げたってわけじゃなくて…別のことで、頭に血が上ってて、ちゃんとしたお答えが、できないから…落ち着いて考える時間が欲しかったんです」

顔を前に向けたまま、瞳子ちゃんは語り続けた。

「ゆうべ、ずっと考えて…考えて、やっぱり、ちゃんとしたお返事をしなきゃいけないって思ったんです。それで、朝になったら、すぐにお逢いしに行こうと」

「ありがとう」
「えっ?」
「…逢いに来てくれて。昨日、あの後からずっと、逢いたかったんだ。でも、どうやって連絡を取っていいかわからなかったし、連絡を取ってもいいのかどうかもわからなかったから」
「…そんな、お礼なんて…」

しばらく歩いて、池が視界に入ってくるあたりまで来ると、ようやく瞳子ちゃんは祐麒に向き直った。

「…お伺いしたいんですけど。この間、わたしが福沢さまのお宅にお邪魔した時のこと、優お兄さまから、何か聞かれましたか」
「…瞳子ちゃんの家で、何があったか、って話?」

緊張した顔で、瞳子ちゃんは頷いた。
なぜ今その話なのか、疑問を感じなくもなかったが、誤魔化す必要もないのでありのままに話す。

「聞いたよ。瞳子ちゃんはお祖父さんの病院を継ぎたいと言ったけど、ご両親は、瞳子ちゃんに好きな道を進めと言って、それで喧嘩みたいになって、瞳子ちゃんが飛び出していった、って」
「…それだけですか。喧嘩の最中にわたしが何を言った、…とかは」
「そんなとこまで聞いてないよ。聞いたって意味ないだろ、親子喧嘩の売り言葉や買い言葉なんて」
「そうですか…」

見るからに安堵した表情。

「そんなにすごいこと言ったの?」
「え? ええまあ、ちょっと…」

松平のような歴史のある名家で、手塩にかけて育てられた娘が、親に向かって悪口雑言を吐いたりしたら、それは親はさぞかし驚き慌てることだろう。
その上、着の身着のままで飛び出していったとなれば、すわ家出か、と右往左往してしまうのもわからないでもない。

それにしても、なぜ、という疑問は拭えない。
自分の好きな道を進め、と言う親に、なぜ反発する必要があるのか。

「………それで、あの。昨日のこと、なんですけど」

よそごとに思考が流れて油断していたところに、いきなり核心へ話を戻され、心臓が跳ね上がる。

「…う、うん」

池のほとりで、ふたりは正面から向き合った。
息を呑んで待つ祐麒に、瞳子ちゃんは言いにくそうな表情で、言葉を紡ぎあぐねている。
裁判で判決を聞く被告人というのは、もしかしてこんな気分なのだろうか。

「…わたし、嬉しかったです。祐麒さんが、わたしのこと、…好きだって、言ってくださったの。………でも」

でも。
やっぱり、迷惑だとか言われてしまうのか。

「でも……あの、いろいろ、考えたんですけど、…祐麒さんのお気持ちに、どういう風にお応えしていいか、その…よくわからないんです。だから、あの」

そして、瞳子ちゃんは搾り出すように言った。

「おっ、お友達からじゃ、だめでしょうか!」

…お友達。

安心したような、がっかりしたような、何とも言えない脱力が、祐麒の全身を覆った。
そんな気分が顔に出ていたのだろう、瞳子ちゃんは不安そうな表情になって尋ねる。

「…やっぱり、だめ…ですか」
「いや…いいけど。お友達か。お友達ね」

頭をかきながら答える。
まあ、そういう回答も予測していなかったわけじゃない。
しかし。

「お友達、ってどっちつかずなのは、どう取っていいのかわからなくて、一番残酷なんだけどな。もし気を遣ってくれてるんなら、それは感謝するけど、でも…見込みがないんだったら、ノー、ってはっきり言ってくれた方がいいんだけど」
「気を遣っているわけでは…本当に、それしか…」

瞳子ちゃんは困惑した顔で、落ち着きなく組んだ手を揉み絞る。

「…わたし、祐麒さんのこと、嫌いじゃありません。ううん、わたしにとって、大切な人なんだって思ってます。でも、それじゃあ、…好き、って言ってしまっていいのかどうかは、その、…まだ、よくわからないんです。祐麒さんのことをどう考えたらいいのか、自分の気持ちなのに、つかまえられないんです」

一生懸命に言葉を探しながら、瞳子ちゃんは訴えた。
その気持ちは、祐麒にはなんとなく理解できるような気がした。
祐麒自身、好きだ、と言葉にしてしまうまで、自分の気持ちがよくわからずにいたのだから。

「…そんな答えなら、急いで俺に返事をしに来ることもなかったんじゃないの。冬休みが明けてからでも」

祐麒の言葉に、瞳子ちゃんは少しむっとした顔で答えた。

「そんなわけにいきませんわ。こんな大事なお話、半月も放っておけるわけないじゃありませんか」
「けど、瞳子ちゃんには、答えなきゃいけない義理なんてないんだし」
「それは…そうかも知れませんけど…」

むくれる瞳子ちゃんを横目に、池の柵に腰掛ける。

「でも、びっくりしたよ。まさか、昨日の今日で、それも家の車で乗り付けてくるなんて、思わなかった」
「それは…わたしも、ちょっとどうかなとは思わなくもなかったんですけど…ひとりで外出すると、両親がまた余計な心配をしてしまうので…運転手が一緒なら、安心するだろうと思って」
「心配かけたくないんだ。優しいんだな」

祐麒の横で、同じように柵に体を預けながら、瞳子ちゃんは少し表情を曇らせた。

「そんなことありませんわ。…むしろ、わたしのせいですもの。両親がそんな取り越し苦労をするのは」

そこまで親のことを思っていて、どうして喧嘩なんかになったのだろう。
聞いてみたい誘惑に駆られるが、しかし、“お友達”の自分が踏み込んでいいものか、ためらわれた。
そこは諦めて、話題を戻す。

「それならそれで、うちに電話くれればよかったのに。別に、電話で話したっていいようなことだし…場所を指定して呼び出してくれたら、行ったのに」
「それは考えましたけど、お電話じゃ、どなたがお出になるかわからないじゃないですか。電話口に出られるのが祐巳さまだったりしたら…」

…それは確かに、ちょっとうまくない。
その場は適当に誤魔化せても、後で根掘り葉掘り聞かれずに済むわけがない。

「まあ、ちょうど逢えたからいいけど…でも、俺が出てこなかったら、どうする気だったの。行き違いになってたかもしれないし」
「それは…」

瞳子ちゃんは、決まりの悪そうな顔で呟いた。

「…考えて…ませんでしたわ…」

ちょっと意外だった。
そんな風に、その場の思いつきだけで動くような子には思えないんだが。

「…………逢いたかったんです」

不機嫌そうな顔で、しかし意外な言葉を、瞳子ちゃんは言った。

「昨日、ずっと、いろんなことを考えて、でも、考えれば考えるほどわからなくて。頭がもやもやして、胸が重たくて、…とにかく、祐麒さんに逢わなくちゃ、って、それしか考えられなかったんです」

その言葉は、祐麒の胸を熱く突いた。
同時に、男に向かってそんな無防備な台詞を吐く瞳子ちゃんに、少し腹が立った。

「…どういうつもりでそういうことを言ってるのか知らないけど。そんな風に言われたら、脈があるのかと思ってその気になっちまうぞ。わかっててやってるんなら、悪ふざけにもほどがあるし、わかってないんなら罪作りだよ」

顔を背けながら、吐き捨てる。

「そんなつもりありません! わたしは」
「でも、“お友達”なんだろう、俺は。ただのお友達にそんな気を持たせるようなこと言って、どうするんだよ」

祐麒の苛立ちに反応して、瞳子ちゃんも泣きそうな声で喚いた。

「そんな、そんなこと言われたって。わたしだって、こんなの、どうすればいいかわからないんだもの」

その声に驚いて、近くを漂っていた水鳥が慌てて飛び去っていく。

「だいたい、祐麒さんが悪いんじゃないですか! す、好きだなんて言うから! ずっと女子校育ちで、男の人とどういう風に接したらいいのかもよくわからないのに、そんなこと言われて、…好きだなんて、面と向かって言われたの初めてなのに、頭の中ぐちゃぐちゃで、誰にも相談できなくて、それでわたしにどうしろって言うんですかっ!」

逆切れかよ。
好きだと言うのが悪いとか言われたら、それじゃあこっちはどうすればいいんだ。

「その割には、いつかのレストランでは随分慣れたあしらいをしてたじゃないか」
「あんなの、ただの社交辞令じゃないですか。アントニオが本気でわたしみたいな子供を相手にしているわけじゃないし、わたしだって、大人の女の人が言っていたのを見よう見まねしていただけで、わたし自身が考えて喋っていたわけじゃありませんわ」

言われてみればそれは至極当然な話だった。
それにしても、初めて、なんてことはないだろう。

「柏木先輩が、いくらでも言ってくれるんじゃないの。“好き”くらい」
「お兄さまは、お兄さまですし…それに、あの人が言う“好き”って、なんだか、全然心がこもってないって言うか。言われても、ふざけてるか、小馬鹿にされてるようにしか感じられなくて。とても真に受けるわけには」

まあ、その感じはわからないでもない。
柏木本人が聞いたら落ち込みそうではあるが。

「……でも、俺の“好き”は、真に受けるんだ」

祐麒のその呟きで、まるで何かのスイッチでも入れたかのように、瞳子ちゃんが真っ赤になった。
それを見て、祐麒もまた顔が熱くなる。

こりゃ、だめだ。
話せば話すほど、恥ずかしいやらもどかしいやらで、どこまでもぐだぐだになって行く。
今はもう、これ以上踏み込まない方がいい。

「うん…いいよ。わかった。とりあえず、お友達で」
「…ごめんなさい…こんな、はっきりしない答えしかできなくて、わたし…」

瞳子ちゃんも昂ぶりが去って気落ちしたのか、本当にすまなそうな顔で目を伏せた。

「いいって。俺の方が、一方的に好きだって言っただけなんだから。嫌われてない、ってわかっただけで充分だよ」

それは強がりではない、偽らざる気持ちだった。
恋人とか、そういう関係にいきなりなりたいと思っていたわけじゃない。
ただ、好きという気持ちを相手に拒否されるのは、苦しく悲しい。
それだけだったのだから、瞳子ちゃんが拒まないでくれただけでも、さっきまで心を覆っていた雲が晴れたように感じた。

「でも、本当に、初めてですから。真剣に、好きだって言われたのは」

そう言いながら、瞳子ちゃんは照れくさそうに水面に視線を落とす。

「……そうよ。先に、ちゃんと、好きだって、言ってくれたら……」

そう呟く瞳子ちゃんの表情には、なぜだか憂いの色が浮かんでいた。











それからふたりは、池の水面を眺めながら、いい天気だとか、隣の家の犬がどうしたとか、今しなくてもいいようなどうでもいい話を途切れ途切れに交わした。
話しながら、お互いになんだか上の空だった。

微妙な居心地の悪さに、祐麒は瞳子ちゃんに提案した。

「………もう、戻ろうか。運転手さん、待ってるだろうし」
「え。あ、ええ、そう、そうですね」

瞳子ちゃんも、その提案に一も二もなく飛びついた。

ふたりともぎくしゃくしながら、来た道を戻り始める。
もう一歩、いや半歩近づけば肩が触れそうな間隔で、しかし、それ以上近寄ることも、離れることもできず、来た時と同じように、黙って並んで歩いた。

手をつないだり、肩を抱いたりするほど近くにはいない。
と言って、手が届かないほど遠くにもいない。
それが、今の祐麒と瞳子ちゃんの間にある距離だった。

駐車場に戻ると、運転手はこの寒い中、車の外で待っていた。

「ごめんなさい、お待たせして」
「いえ。もう、よろしいのですか」
「ええ。…あの、ちょっと、お手洗いに行ってきますので、もう少しだけ、いいですか」
「はい」

瞳子ちゃんが座を外し、男ふたりが残される。
手持ち無沙汰に瞳子ちゃんが戻るのを待つ、その沈黙を破って、運転手が祐麒に話しかけてきた。

「先日は、お嬢さまが福沢さまのお宅にお邪魔した際に、大変良くしていただいたそうで。本当にありがとうございました」
「ああ、いえ…」
「わたくしども使用人も、非常に心配しておりまして…ご無事でいらっしゃると柏木さまからご連絡をいただいた時には、胸を撫で下ろしました」

年恰好は自分の親とそう違わなさそうな運転手は、きっと瞳子ちゃんが生まれるずっと前から、松平家に仕えているのだろう。

「お嬢さまもお年頃でいらっしゃいますので、いろいろと思い悩んだりなさることがおありなんだと思います。それに対して、わたくしどもは何のお力にもなって差し上げられません。それでも、わたくしどもは、お嬢さまにお幸せになっていただきたい、そう考えているのです」

運転手は、真剣な顔でそう語った。
瞳子ちゃんが、両親ばかりでなく使用人も含めた家人たちから、本当に大切にされているのだというのが強く感じ取れた。

「わたくしのような者がこのようなことを申し上げるのは、差し出がましいとは重々承知しておりますが、お嬢さまのことを、どうか、よろしくお願いします。福沢さま」
「えっ、あ、はい…」

深々と頭を下げられて、祐麒は少しうろたえる。
まだそんな、よろしくお願いしたりされたりするような関係じゃないはずなのだが。

やがて、瞳子ちゃんが戻ってくると、運転手は後部座席のドアを開けた。

「ありがとう。…お近くまで、お送りしますわ」

瞳子ちゃんは運転手に礼を言った後、祐麒に向き直って言った。
だが、祐麒はそれに首を振った。

「いや、いいよ。出かけるところだったんだし、うちの近所に戻って祐巳に見られたりするのもなんだし」
「でも…」
「いいって。…ちょっと、歩きたいんだ」
「…そうですか」

祐麒の答えに、瞳子ちゃんは目を伏せた後、もう一度顔を上げて祐麒を見つめた。

「あの。…また、逢ってくれますか?」

その、切なさをたたえた瞳に、心臓を鷲づかみにされたような気がした。
これではまるで、告白したのが瞳子ちゃんの方みたいだ。

「…それは、こっちの台詞だよ。また、逢いたいな」

伸ばした祐麒の手に、瞳子ちゃんの指先が一瞬触れて、また離れた。

まだ何か言いたげな表情の瞳子ちゃんの姿が後部座席のドアの向こうに隠れ、やがて車が滑るように駐車場から出て行った。
走り去る車の後姿を視界から消えるまで見送った後、公園通りの舗道を家に向かって歩き始める。

昨夜から祐麒を悩ませていたものは、思いがけずすっきりと晴れてしまった。
目の前の青空のように。

瞳子ちゃんとの縁は、切れずにすんだ。
だが。

『また、逢ってくれますか?』

あの、すがるような瞳は何なのだろう。

彼女は、友達から、と言った。
それは、祐麒のことを、異性として、恋する相手としてはまだ考えられない、ということだ。
だが、あの眼差しは、“友達”に向けるようなものではない。

瞳子ちゃんも、自分のことを思ってくれている。
そう自惚れるには、何か腑に落ちないものが、祐麒の中に引っかかっていた。
それが何なのかは、おぼろげ過ぎて、はっきりとした像を結ぶことはなかったが。

そうして考えながら、一方ではまた、瞳子ちゃんとまた逢えた、そして、これからもまた逢えるという嬉しさに、どこか地に足の着かない、雲の上を歩いているかのようなふわふわとした気分で、家までの長い道をぼんやりと歩き続けた。

家に帰り着いた時には、ちょうど昼食だった。
胸のつかえが取れたせいか、それとも単純に歩いてエネルギーを消費したせいか、祐麒は猛烈な食欲で残り物のローストチキンをほとんど一人で平らげ、母に呆れた顔をされた。











「お正月に、祥子さまのお宅の新年会に行ってきてもいいかな。泊りがけで」

祐巳がそう切り出したのは、それから2日ほど経った晩のことだった。
祥子さんから招待状が来たとかで、招かれているのは山百合会のメンバー、女の子限定なんだけど、と遠慮がちに両親の顔色を伺う。
今年の正月にも同じように小笠原邸に招かれて泊まっていることもあって、母は特に疑うこともなく許可を与えた。

「でも、いつでもお邪魔する一方で申し訳ないわね。今度、祥子さまにも我が家に来ていただいたらどう? 狭いけど」

小笠原邸はまさしく豪邸と言った風情で、もはや個人の邸宅と言うより、ほとんどホテルのようなたたずまいだった。
母はたぶん小笠原邸の現物を見たことはないだろうが、祐巳ともども連れて行かれた祐麒にとっては、あれと比べて狭くない家が日本にどれだけあるんだろうか、と思われた。

「ねえ、祐麒は来ないよね」

夕食の鍋を台所に片付ける祐麒の背中に向かって、祐巳が尋ねる。

「なんで? この前行ったから?」
「うん…そうかな」

そのどこか沈んだような様子に、祐麒は少し疑問を感じた。
普段の祐巳なら、愛しの祥子さん直々のお誘いともなれば、喜び勇んで一も二もなく受けるはずだ。
親が何を言おうが、空から槍が降ろうが、絶対に行くと宣言しているだろう。
もちろん、祐麒なんかお呼びじゃない、むしろ絶対来るな、と釘を刺すのではないか。
だが、今回の祐巳は妙に腰が引けていると言うか、どこか気乗りがしない、という雰囲気を感じさせる。

「行かないよ。あれは、柏木先輩に半ば強引に連れて行かれただけでさ」

柏木、という名前を聞いた途端、祐巳の顔色が変わった。

(なるほど、遊園地の時のことがまだ尾を引いているのか)

祥子さんへの気遣いを巡って、柏木に圧倒的な差を見せつけられた祐巳は、正月の小笠原邸でまた柏木に出会うかもしれないことに、気後れしているらしい。

「柏木さんも来るのかしら?」

そんな事情を知らない母は、無邪気に祐巳に聞いてくる。

「さあ…」
「祥子さまの従兄なんでしょう?」

祐巳は苦虫を噛み潰したような顔でスルーしようとするが、母はおかまいなしにしつこく食い下がる。
母は柏木の見た目好青年ぶりに、奴をいたく気に入っているようだ。
母の追及に迷惑そうな顔の祐巳に、父が助け舟を出す。

「だが、柏木君は男。新年会は、女性限定だったろう」

そう、招かれているのが女の子だけというのは、祐巳が最初に自分で言ったのだ。
だから、祐麒に向かって来るかどうかを尋ねるのも、柏木と会う可能性に気を揉むのも、およそナンセンスなはずなのだ。

(まさか、また祥子さんと喧嘩でもしたのか)

一瞬、そう思った。
が。

「じゃ、瞳子ちゃんだったら呼ぶかもしれないわね?」

母が何の気なしに口に上せたその名を聞いた瞬間、柏木の名を聞いた時よりも更に強く、祐巳の顔が強張った。

「わ、わかんないよ。祥子さまが声をかけたかどうかなんて」

なんでもない風を装うが、声が裏返っている。

(…瞳子ちゃんの方か)

祥子さんが招待役となれば、親戚筋の瞳子ちゃんも招かれている可能性は高い。
及び腰な理由はそれだ、と祐麒は直感した。

そう言えば、クリスマスイブに出会った瞳子ちゃんは、何かに怒っていた。
祐巳がどうとか言っていたような覚えもある。
おとといも、祐巳には会いたくないという態度だった。
また祥子さんを巡って何か揉めたのか、それともうちに来た時のことで衝突したのか。
やはり、彼女に祐巳のお守りみたいなことを頼んだのはまずかったか。

祐巳の様子に気づいているのかいないのか、母は祐巳の言葉尻を捉えてつついた。

「まあ祐巳ちゃんたら、全然情報収集していないのね」
「…招待状が届いてから、まだ話してないし」
「えっ、どうして?」
「だって、お父さんやお母さんの許可が下りてから、お返事の電話をかけようと思っていたんだもん」

その言葉に、母ばかりか父までが少し呆れた顔でため息を吐く。
許可が下りてから、って、小学生じゃないんだから。
そんな空気がリビングを漂う。

「祐巳ちゃん、真面目すぎるんじゃない? ねえ、大丈夫?」

祐巳自身も自分の言ったことに恥ずかしくなったのか、電話機から受話器をひったくると、リビングを出て自分の部屋に向かった。

「大丈夫だって。親の前でしか電話をかけないような高校生の娘は、俺もどうかと思うけど。祐巳は違うから」

呆れるのを通り越して心配顔をしている母に、祐麒はそう声をかけた。

実際のところは、真面目だからそうしているわけじゃない。
親から許可されたから、という消極的な理由付けででも後押ししてもらわないと、招待に応じる気になりきれない、というだけのことだ。
気持ちが行き詰まると、自分からは動けなくなってしまう、祐巳の悪い癖だ。

しばらくして、祥子さんと話し終わった祐巳が、リビングに受話器を戻しに来た。
父は風呂に行き、母は台所で洗いものをしている。
リビングには祐麒ひとりが残って、テレビを見るともなしに眺めているところだった。
祐巳がスタンドに受話器を置こうとした瞬間、ベルが鳴り始めた。

「はい」

置きかけた受話器を持ち直して耳に当てた祐巳は、何度か、もしもし、と電話口に話しかけたが、怪訝な顔で通話ボタンを切った。

「…何」
「切れちゃった」

祐麒が差し出した手に、祐巳が受話器を渡す。
受話器の小窓には、「非通知」の表示があった。

「間違いなら、間違いでしたすいません、くらい言いなさいよ。失礼しちゃうわ」

ぶつぶつ言いながら、台所の方に祐巳は歩いていく。
祐巳は間違い電話と思っているようだが、発信元非通知でかけてくるのはイタズラ電話の可能性が高い。
若い女が出たら、調子に乗って繰り返しかけてくる変態野郎だったりするかもしれない。

(またかけてきたら、ちょっと脅かしてやる必要があるな)

そう思って受話器を横に置いたまましばらく待ち構えていたら、案の定、再びベルが鳴り始めた。
表示はまたも「非通知」。
間違いない。

「はい、もしもし」

怒りを含めた低い声色を作って電話口に話しかける。
だが、スピーカーから出てきた声は。

「あ、あっ、あのっ、ふっ、福沢さまのお宅で、よ、よろしいでしょうかっ」

半分しどろもどろなその声は、聞き覚えのある女の子のものだった。

「とう…!」

思わず相手の名を呼びそうになって、祐巳が台所から「誰?」と顔を出すのが目に入り、慌てて言葉を止めた。

「あっ、はいっ、俺です! お世話になってます! はいっ!」

わざとらしく電話口に言いながら、片手で祐巳を追い払う仕種をすると、祐巳は不平そうな顔をしながら、台所へと引っ込んだ。
慌てて受話器を抱えたままリビングを出て、自分の部屋に逃げ込み、後ろ手にドアを閉める。

「あの、…祐麒さん?」
「ああごめん。ちょっと、横に祐巳がいたから」

電話口の向こうで、相手が少し息を呑む気配がわかった。

「ゆ、祐巳さま、今もお近くにいらっしゃるんですか」
「いや、今は俺の部屋だから、もう祐巳はいない。…どうしたんだ? 瞳子ちゃん」

瞳子ちゃんが福沢家の電話番号を知っているのは、別に不思議なことではない。
しかし。

「さっきも、うちにかけてこなかった?」
「は、はい…祐巳さまがお出になったので、びっくりして、切っちゃいました…ごめんなさい…」

やはり。
祐巳が出たら切ってしまった、ということは、正月に小笠原邸に招かれている件で話がしたくて電話をかけてきたのではない、ということだ。

「まあ、いいけど…それで、どうしたの」
「え、ええ…あの、祐麒さん、…いきなりで申し訳ないんですけど、明日って、空いてますか?」
「は?」











クリスマスの華やかなデコレーションが取り去られた師走の街には、埃っぽい慌ただしさだけが残り香のように漂っている。
あと数日もすればそれも過ぎ去り、街は新年の穏やかな静けさに包まれるのだろう。
去り行く年を見送る、気忙しさと切なさの入り混じったこの時期の空気が、祐麒は嫌いではなかった。

「ごめんなさい、お待たせしちゃいました?」

ぼんやりとした物思いを遮って、待ち人は現れた。

「いや。早めに来たつもりだったけど、3分も経ってないよ」

駅ビルの1階にあるコーヒーショップ。
窓際のカウンターで駅前の往来を眺めていた祐麒の元に、客の間を縫って瞳子ちゃんが歩み寄ってきた。

今日の瞳子ちゃんは、髪を完全に下ろして、ストレートのロングにしている。
いつかと同じ、フード付きのハーフコートの下は、ハイネックのセーターに、膝丈あたりのプリーツスカート、ストッキングに覆われた脚に、短いブーツ。
細いベルトの付いた小さなバッグを肩にかけ、ぱっと見、祐巳の外出着とさほど変わらないいでたちで、いいとこのお嬢さま、というような感じはあまりしない、よくいる街の女の子といった雰囲気だ。
だが、そういう普通の格好でいることで、素材の良さがかえって引き立っていた。

我知らず、その姿をまじまじと見つめてしまう祐麒に、瞳子ちゃんは怪訝な顔をする。

「…なんです?」
「あ、いや…」

かわいいので見とれてました、とはさすがに口に出すには恥ずかしかった。

「おかしな祐麒さん。じゃあ、行きましょう」

そう言って微笑むと、瞳子ちゃんは祐麒の腕を引いて、店の出口へと歩き始める。
引きずられた祐麒は、慌てて飲みかけのコーヒーを一気に飲み干し、空になった紙コップをゴミ箱に放って、瞳子ちゃんに従った。

昨夜、福沢家に電話をかけてきた瞳子ちゃんは、祐麒を映画に誘った。
父親が映画会社の株を持っているので、株主優待とやらで映画館の招待券がいくつも送られて来るのだそうだ。
なぜ、今、自分となのか、そんな疑問を差し挟む暇もないほど、瞳子ちゃんに妙に熱心に誘われ、押し切られるままに祐麒はOKしてしまった。

電車に乗って、隣街へ。
冬休みということもあり、街には同じくらいの年頃の少女たちが溢れている。
しかし、その中でも、瞳子ちゃんの容姿は際立っていた。
それはもう贔屓目でもなんでもなく。
すれ違う男たちが、時には女までが、瞳子ちゃんに視線を止めるのがわかる。
瞳子ちゃんは慣れているのか、それとも気づいていないのか、そんな視線には頓着していない様子だ。
その堂々とした立ち居振る舞いが、既に女優然としている。

そんな瞳子ちゃんと、ふたりだけで映画鑑賞。
それも、いつかの観劇の時のような騙し討ちじみたセッティングでなく、ふたりで示し合わせて。

(…やっぱり、これって、デート…だよなあ)

告白してから、まだ1週間も経っていない。
それでこういうことになっているのだから、嬉しくないわけがない。
思わず顔が緩んでしまいそうになる。
が。

昨夜の祐巳の様子と、あのクリスマスイブの瞳子ちゃんの言葉の断片から、ふたりの間に何かあった、と気づいてしまった以上、そう能天気に喜べもしなくなってしまった。

瞳子ちゃんは見るからにうきうきとした表情で祐麒の腕を引いていく。
だが、その顔の1枚下には、戸惑い悩んでいる顔が隠れている、そう感じてしまう。
しかし、かと言って、何があったのかと面と向かって尋ねるのは、気が引けた。

映画館に向かう途中で、瞳子ちゃんはコンビニに立ち寄った。

「映画館の中で買うと、高いですから。先に買っておきましょう」

そう言ってポップコーンと飲み物を手に取る。
お金持ちのお嬢さまの割に随分がっちりしているな、と思いつつ、祐麒の分まで籠に入れてレジに向かう瞳子ちゃんを追いかける。

「じゃあ、俺の分は払うよ」
「いいですわよ。わたしがお誘いしたんですし、このくらいは」

締まっているんだか気前がいいんだか、よくわからない。
結局、協議の末に割り勘ということになり、自分の分の代金を渡す。
小銭がなかったので多めに渡したら、瞳子ちゃんはお釣りだと言って5円玉をしっかり返してきた。

「別に5円くらい…」
「だめです。割り勘と決めた以上、お勘定はきちんとしないと」

思いのほか、お堅い性格らしい。
渡された5円玉は、昭和32年の刻印が入った、年代ものだった。

映画館で、文芸大作や恋愛もの、ホラー、子供向けアニメと並んでいる中で、瞳子ちゃんが選んだのは、刑事ものだった。
それも、格闘や銃撃戦、カーチェイスや爆発がふんだんに盛り込まれた、かなり派手なやつだ。

「こういうの、好きなの」
「好きですよ。いつも見るってわけじゃありませんけど。こういうのを見ると、なんて言うのかしら、スカッとするじゃないですか」

(つまり、スカッとしたいのか)

その言葉を胸にしまったまま、薄暗い映画館の席に並んで座る。
ハリウッド製の大味なアクションドラマを眺めながら、瞳子ちゃんは本当に楽しんでいるのだろうか、と祐麒は思った。
もちろん、祐麒自身はこういう映画は大好きだ。
だが、瞳子ちゃんは“スカッとしたい”のと同時に、そんな祐麒の好みを見越して、合わせてくれているだけなんじゃないだろうか。
やはり、あのタイミングで瞳子ちゃんに告白してしまったのは、瞳子ちゃんにとっては重荷なのではなかったのか。
それを祐麒に感じさせないために、気を遣ってくれているのではないか。

そんな思いがたびたび頭をよぎって、映画のストーリーにはもうひとつ入り込めなかった。
時々横目で盗み見た瞳子ちゃんは、案外真剣に画面に見入ってはいたが。











「主人公もよかったけれど、あの悪役の副リーダーの人がすごく素敵だったわ。わかっているのにどうしようもない、って切なさがすごく出てて。祐麒さんはどうでした?」

映画を見終わった瞳子ちゃんは、かなり興奮している様子だった。
意外と、本気で楽しんでいたのかもしれない。
それにしても、悪役の演技なんて祐麒の方は気にも留めていなかったが。
やっぱり、見るところが違う。

映画館を出た時には、もう昼もすっかり過ぎていた。

「お腹が空きましたわ。お昼にしません?」
「いいけど、あんまり高いとこは入れないよ」
「わかってます。わたしも手持ちはあまりないですから」

辺りを見回すと、ファーストフードのハンバーガーショップが目に入った。
瞳子ちゃんも同じ店に目を留めている。

「…あそこ、ナイフとかフォークとかはないけど、大丈夫?」

祐麒の言葉に、瞳子ちゃんは少しむっとした顔をした。

「失礼ね。ハンバーガーの食べ方くらい知ってます。何だと思ってらっしゃるの?」
「あ、いや。祥子さんが知らなかったって祐巳から聞いた覚えがあったから。リリアンのお嬢さまってみんなそうなのかなと思って。ごめん」

瞳子ちゃんは一転、呆れた顔になって。

「そこまで浮世離れしているのはあの方くらいなものです。ある意味、お幸せな人だわ」

ため息をついた。

「じゃあまあ、ハンバーガーでいいならあそこで」
「…でも、わたし、朝食がパンでしたから、できたら別のものがいいわ」

そういえば、自分も朝はパンだった。
とは言え、見当たる中に女の子と一緒に入れそうなのは、他にはあまり安くなさそうな店しかない。

「…じゃあ、ちょっと歩いてみる?」

そう提案した祐麒に、瞳子ちゃんはなぜか少し恥ずかしそうな顔をしながら。

「あの、…わたし、あの店に入ってみたいんですけど…」

そう言って指差したオレンジ色の看板を見て、祐麒はしばし言葉を失った。

「………あれ、食べたいの?」
「前からずうっと、興味あったんですけど…その、女の子ひとりじゃ、入れなくて」

照れくさそうに笑う瞳子ちゃんが視線を投げたその店の窓には、売り物の名前が大きく書かれていた。

“牛丼”。











「…結構、おなかいっぱいになりますわね。ふぅ」

瞳子ちゃんは終始物珍しそうな顔でメニューを眺めたり店内を見たりしながら、女の子にはちょっと量が多いのではないかと思われる丼をきっちり完食した。
店を出て、通りのガイドレールにもたれながら、いかにも満腹、という様子で息をつく。

「大丈夫? 口に合ったかな」
「ええ、美味しかったですわ。優お兄さまにも何度も連れてってってお願いしたのに、あんなところは女の子の行く場所じゃない、とか言われていつも却下されるから、悔しくて。男の人だけで楽しんでるなんて、ずるいわ」
「ずるい、なんて言われるほど上等な食べ物じゃないんだけどね」

苦笑いしながら、瞳子ちゃんの素直な感想に答える。
その笑みを残したまま、祐麒は瞳子ちゃんに聞いた。

「…俺でよかったの?」
「えっ?」

不意の問いかけに、瞳子ちゃんは戸惑った顔になった。

「俺は、誘ってもらえてすごく嬉しいけどさ。瞳子ちゃんにとっては、今日一緒にいるのが俺でよかったのかな、と思って。柏木先輩とか、学校の友達とかじゃなくて」
「…どうして、そんなことおっしゃるんです?」
「ん、…だって、俺の顔を見たら、思い出すんじゃないかと…」

祐巳のことを。
だが、瞳子ちゃんはその言葉にも、なぜか一瞬、意味がよくわからない、という顔をして、あ、と何かに気づいた。

「ああ。…そう言えば、似てらっしゃいますもんね、お顔が」

(あれ?)

そういう反応は予想していなかった。

「よく知らない内は、似てるなあ、って思っていましたけれど、今は祐麒さんを見たからってすぐ祐巳さまを思い出すようなことはないですわ。…だって、おふたりは、全然違う人ですもの」

そんな風に言われたのは初めてだ。

いつも、祐麒は祐巳とセットのように見られてきた。
しかも、祐巳が先に生まれているので、どうしても比較の基準は祐巳の方になってしまい、祐麒の方は祐巳のコピーのように扱われることもしばしばだった。
就学してからは男子校と女子校に別れてしまったので、日常的にそのような待遇を経験することは少なかったが、祐巳の存在を知る人間からは、例外なく二言目には似ているだのそっくりだのと囃し立てられ、祐巳と比べてどうこう、と型にはめられて不当な評価を受けたりもした。
幼い頃には、そんな風に言われるのが、自分の人格を否定されたように感じて、嫌な気分になることもあった。
両親が祐巳と祐麒を別々の学校に入れたのも、そうしたことに配慮したからなのかもしれなかった。

祐巳を知っていて、祐麒を祐巳の従属物のように言わないのは、小林のようなごく親しい友人だけだ。
しかし、彼らはまた、祐麒と祐巳は違うと殊更に言ったりもしない。
だから、はっきりとそう言われたのはなにか新鮮だったし、またそれを言ったのが祐巳と曰くのある瞳子ちゃんだというのが、少なからず驚きだった。

「………やっぱり、ご迷惑、でしたか」

そう言いながら、瞳子ちゃんはまた、迷子の幼子のような視線を祐麒に向けてくる。
その切なげな瞳の色に胸の奥がざわめくのを感じながら、また同時に、そんな目を向けられることに何とも言えない違和感を覚える。

「迷惑なもんか。…でも、好きな女の子からこんな風に誘われたんだから、俺はデートだと思っちまうけど。それでもいいの」

照れ隠しに、からかうような調子でそう言うと、瞳子ちゃんは急に頬を染めた。

「デート…わたし、男の人とデートなんて、初めてだわ」

今更のようにそんなことを言い出す瞳子ちゃんに、祐麒はちょっと鼻白んだ。

「何言ってんだ。柏木先輩とよく出かけるんだろ」

この間の観劇の時だって、柏木の代役だったのだ。
あんな騙し討ちなどデートの内に入らないと言うのはわからなくもないが、今さら“初めて”もないだろう。
だが、瞳子ちゃんは頬を染めたまま、唇を尖らせて反論する。

「優お兄さまは身内だもの。祐麒さんは、祐巳さまとふたりで出かけたら、それをデートだって思うんですか」

言われてみれば。

「…それは、まあ…ないかな」
「でしょう」

それ見ろ、というような表情で瞳子ちゃんは、つん、と顎を上げる。
その仕種がどうしようもなく可愛らしかった。

そして瞳子ちゃんは、少しいたずらっぽい目で祐麒を見上げて言った。

「デートなら、もう少しお付き合いいただいても、いいですか?」











それからふたりは、ウィンドウショッピングに興じた。
一緒なのが祐巳だったら、早々に飽きて帰りたくなってしまうところだが、瞳子ちゃんと歩く街は、時間の過ぎるのも忘れてしまうほど、新鮮で楽しく感じられた。
帽子、靴、本、アクセサリー、CD、服。
さまざまな店のショーウィンドウを冷やかしながら、祐麒と瞳子ちゃんは互いの趣味や好みを語り合い、そぞろ歩いた。

「ああ、これいいなあ。次のバーゲンまで残ってるかしら」

気に入ったらしいワンピースを手にとってためつすがめつし、名残惜しそうな顔で元に戻す。

「気になるんなら、今買ったら」
「意地悪ね。手持ちはあまりないって言ったの、覚えてるでしょう」
「カードとか、持ってるんじゃないの?」
「あるわけないじゃないですか、そんなもの」

柏木が高校時代に自分名義のクレジットカードで派手に散財する姿を見ていたので、あのクラスの金持ちになるとそういうもんなのかと思っていたが、瞳子ちゃんの答えはその予断を裏切った。

「家が裕福だからと言って、わたしが家のお金を自由に使わさせてもらえるわけじゃありませんわ。わたしの自由にできるお金は毎月のお小遣いだけだし、それだって常識的な額しかもらえないですもの」

瞳子ちゃんが明かした自分の小遣いの額は、祐麒や祐巳がもらっているのといくらも違わなかった。

「親の脛を齧っているだけの子供に不相応なお金を与えるのは好ましくない、というのが、我が家の代々の方針なんです。パ…父も、お祖父さまからそうして育てられたそうですから。仕方ないわ」

小遣いの少なさに不満を漏らしているにしては、なぜだか、誇らしげな顔だ。

「それでも、お小遣いだけじゃ厳しいから、夏休みには、アルバイトがしたかったのだけど。でも、父は、校則で禁止されているだろう、と言って許してくれないんです。そんなの、黙っていればわからないし、守っていない子なんてたくさんいるのに。父は自分だって、学生時代にはいろいろアルバイトをしたって、散々話して聞かせるくせに」

そう言って瞳子ちゃんはむくれたかと思うと。

「母なんか、年端も行かない娘を働かせるなんて、って言って泣くんです。やってられないわ」

今度はうんざりした様子でため息をつく。

「家の手伝いをして、その分お小遣いを増やしてもらおうにも、使用人が何人もいるから、わたしの手伝えることなんかほとんどなくて。下手に手伝おうとしたら、邪魔だって怒られるくらいで」

その箱入り娘っぷりがなんだかおかしくなって密かに漏らした笑いを、瞳子ちゃんは見逃さず、笑い事じゃありませんわよ、とさらにむくれる。

「旧家の令嬢だなんて言っても、実際はそんなもの。普通の家の子の方が、わたしなんかよりずうっとお金持ち」

祐麒が黙って聞いているのに気をよくしたのか、ひと休みに入ったコーヒースタンドのカウンターに並んで腰掛けながら、瞳子ちゃんの両親に対する愚痴とも抗議ともつかない文句は止まるところを知らず、徐々に深いところにまで差し掛かり始めていた。

「お祖父さまの病院のことだってそう。まだ若い、子供だからそんな話は早いとか、今は高校生としての学業に励むことだけ考えなさいとか。そんなこと言われなくたってわかってます。わかってますけど、それでも、お祖父さまの後を継ぎたいっていうのはまぎれもなくわたしの意志なんだから、それを少しくらい尊重してくれたっていいんじゃないかしら。そう思いません?」
「う〜ん…そうだなあ…」

同意を求められ、どっちつかずの返事を返す。
瞳子ちゃんの話からは、彼女の両親が瞳子ちゃんを本当に大事にしていて、無用な苦労をさせたくないと考えているのが感じられた。
だが、瞳子ちゃん自身の、大事にされているだけでは不満だという気持ちも、わからなくもない。
父の後を継ぐかどうかもいまだあやふやな祐麒には、瞳子ちゃんの言い分を肯定することも否定することも、あまり気軽にしていいことには思えなかった。
そんな煮え切らない祐麒の言葉を聞いているのかいないのか、瞳子ちゃんの愚痴はなおも続いた。

「挙句の果てには、女の子はそんなことは考えなくていいんだ、なんて言うの。頭が古いったらないわ。それじゃあ、わたしが男の子だったら、病院を継ぎたいと言った時の答えが違ったってことなのかしら」

まあ、旧家ともなれば、いまだにそういう考えがあっても不思議ではない。

「瞳子ちゃんは、兄弟はいるの?」
「…いえ。一人っ子です。上にも下にもいません」

一人っ子、と言う時、瞳子ちゃんは悲しげに目を伏せた。
祐麒はそれに気づいたが、その時はそれについて深く考えなかった。

「じゃあ、まあ、全然考えなくてもいいってこともないだろうと思うけど…でも、一人娘なら、慌てなくたって、いずれは家を継ぐって話が出てくるんじゃないの?」
「祐麒さんは、あるんですか? そういうお話が」
「まあ、周りからはいろいろとね。親父から直接そういう話をされたことはまだないけど、もしかしたらそういう期待をされているのかな、と考える時はあるよ」
「男の人だと、自然とそういう風に見てもらえるんですのね。…ずるいわ、そんなの」

ずるい、か。
そんな風に羨ましがられるようなことなのだろうか。
それとも、この歳になったら、瞳子ちゃんや、あの小林のように、自分の進む道をはっきり見据えている方が普通で、自分が考えなさすぎなのだろうか。











コーヒースタンドでカップやごみを片付けて外に出ると、一足先に外にいた瞳子ちゃんが、何かを見上げていた。
瞳子ちゃんの視線の先には、年明けから公演が始まる舞台の看板があった。

「…見に行きたいの」
「えっ? あ、ええ」

祐麒が側に来たことも気づいていなかったようだ。

「好きなんだな。芝居が」
「ええ。好き。大好き」

一瞬の躊躇もなく、瞳子ちゃんは言った。

「わたしの人生は一度しかないけれど、舞台の上ではいくつもの人生を何度でも生きられる。同じ人生でも、わたしの演技次第で、可笑しくもなれば、悲しくもなる。演劇より楽しいことが、世の中にあるなんて思えない」

夢見るような口調で、演劇への情熱を語る。

「…なのに、病院を継ぎたいんだ」

祐麒のその言葉に、瞳子ちゃんは夢から現実へと引き戻された。

「………ええ」

そこがどうにもよくわからなかった。
自分の内の情熱の向かう方向を自覚していながら、どうしてそれを抑えつけてまで、家を継ぐことにこだわるのか。
瞳子ちゃんの横に並んで看板を見上げながら、祐麒はふと尋ねた。

「覚えてる? うちの生徒会の小林。あいつ、公認会計士ってのになりたいって言って、その資格を取るための勉強を今から始めてるんだ。おかげで、生徒会の仕事もほったらかしさ」

突然、ここにいない人間の話を振られて、瞳子ちゃんは怪訝な顔になる。

「公認会計士の試験は、医師試験と同じくらいの難関なんだそうだよ。小林は、今からその準備をして、それでもぎりぎりだって言ってる」
「…何がおっしゃりたいんですの」
「君は、医者になるために、何か準備をしてるの」

瞳子ちゃんは口をつぐんだ。

「演劇に打ち込みながら、医者になるための勉強もする。それって、両立できるの」
「それは…」

瞳子ちゃんの表情が暗くなる。
別に、そんなことを言って落ち込ませたいわけじゃない。

「…まあ、小林や俺みたいな凡人の感覚でものを言っちゃいけないのかもしれないけどな」

祐麒は、自嘲気味に明るい声で言った。

「柏木先輩みたいな、文武両道のスーパーマンも世の中にはいることだし。その血筋を引いた瞳子ちゃんなら、別にそのくらいどうってことないかもしれない」

軽い気持ちで吐いた言葉だったが、それに対する瞳子ちゃんの反応は思いがけないものだった。

「…………どうせ、わたしは、優お兄さまのようじゃないわよ」

突然、瞳子ちゃんに怒りに燃える瞳を向けられ、祐麒は驚き、戸惑った。

「そんなこと言ってないだろ。どうしたんだよ」
「どうせ、どうせわたしは優お兄さまと違うわ! あんな風に、何にでも挑戦して、何でも上手くできてしまう人とは! だって、だって…」

舗道の途中で急に怒り始めた瞳子ちゃんに、周囲を歩く人々の注目が集まる。
なまじ舞台で鍛えているだけに、その声は雑踏の中でもよく通るのだ。

「なんだよ、落ち着けよ」
「どうせみんな、わたしには何もできないって思ってるんだわ。わたしが…」

そこまで言って、瞳子ちゃんは次の言葉を飲み込んだ。

「…わたしが、…なに」
「………うるさい! うるさいうるさいうるさい! 嫌い! みんなみんなきらい!!」

いつの間にか、祐麒と瞳子ちゃんの周りを、野次馬のギャラリーが取り囲んでいた。
そのギャラリーの中に、見知った顔を見つけて、祐麒は少し焦った。

「ちょっと、落ち着けって。いったい…」
「触らないで! …わたし、帰る!」

そう叫ぶと、瞳子ちゃんはギャラリーの間に飛び込んでいった。

「おいっ!」
「来ないで! ひとりで帰れます!」

人の壁を掻き分けてその向こう側に出た時には、駆けていく瞳子ちゃんの後姿はもうはるか遠くになっていた。

「………なんなんだ………?」

取り残された祐麒の周りから、ギャラリーが散っていく。
しかし、ひとりだけ、立ち去らずに祐麒に近づいてくる人間がいた。

「…随分、お盛んなことですのね」

苦笑いを浮かべながら、そう語りかけてきたのは。

「…可南子ちゃん。変なとこ見られちゃったな」

さっきギャラリーの中に見かけた、見知った顔。
それは、買い物帰りらしい、ラフな格好の細川可南子だった。











「以前お話しした時、変だなとは思ったんです。いくら気配りの人と言っても、瞳子さんのことを随分気にしてらっしゃるんだなあって。…そういうことだったんですね」
「なんだよ、そういうことって」
「休日にデートなさる上に、往来で痴話喧嘩まで始めるほどの仲、ってことです」

からかうような視線を向けてくる。

「祐巳さまが何と言われるか。ご自分がまだロザリオも渡さない内から、先に弟君の方がそんな深い仲になっていると知ったら」
「…頼む。黙っててくれ」
「まあ、わたしはそんなお喋りはしませんけれどね。ただ、さっきの野次馬の中に、うちの生徒がわたしの他にもいたら、その時は、戸板は立てられませんよ」
「…まいったなあ…」

頭をかきながら、とぼとぼと歩く祐麒の横に、可南子ちゃんがついてくる。

「…どうしたんです? 瞳子さん。ちょっと、普通じゃない様子でしたけど」
「知るもんか。普通に話してたのに、いきなり怒り出したんだ。どうしたかなんて、こっちが聞きたいよ」
「差し支えなければ、何をお話しになっていたか、お聞かせくださいますか」

あんな醜態を見られた後で隠し立てをしても仕方がない。
病院のことは適当にぼかしつつ、可南子ちゃんに語って聞かせた。

「彼女、家の仕事を継ぎたいらしいんだけど、そのためには結構大変な勉強とかしないといけないんだ。それで、彼女、演劇部だろ。どうやって両立するんだ、って話になって。そしたら突然。別に、無理だとかやめとけとか言ったんでもないんだけど」
「…それは、確かに、わけがわかりませんね。大丈夫なのかしら、彼女」
「瞳子ちゃんは、学校では、どうなの」
「…正直、見てられない、って感じです。本人は、平常通り、何ともない、って上手く装えているつもりでいるんでしょうけど、わたしの目からは…ものすごく不安定な、ぐらぐらして、危なっかしくて…そんな風ですね」

そう言ってから、可南子ちゃんはふと、気の抜けた笑いを浮かべた。

「まあ、瞳子さんにしてみれば、お前にだけは言われたくない、って思うでしょうけど。以前のわたしも、似たような感じだったでしょうから」

以前の可南子ちゃんをそれほど深く知らない祐麒には、その述懐に対して、そうだとも違うとも言えない。
祐麒が黙っていると、可南子ちゃんは話題を瞳子ちゃんに戻した。

「終業式の日に、山百合会でクリスマスパーティがあったんですけど、瞳子さん、何を拗ねてるのか、祐巳さまに直々に誘われているのに、出たくない、って顔してて。しょうがないから、わたしも参加することにして、強引に引きずって行きましたけど」

拗ねてた。
なぜだろう。
やはり、家に来た時に、祐巳のご機嫌取りみたいなことをやらせたことに腹を立てていたのだろうか。

「パーティでも瞳子さん、ひとりだけ仏頂面で。わたし、用事があったのでパーティは中座してしまったんですけど、あの様子じゃ、あの後楽しく過ごしたってこともなさそうですね」

終業式の日、思い返せばあの晩の祐巳も妙に静かで、クリスマス気分で盛り上がってそのまま姉妹の契りを結んだ、という雰囲気ではなかった。
瞳子ちゃんと祐巳との間で何かがあったとすればそのパーティの時だと思うが、しかしパーティの前から機嫌が悪かったのだとすれば、原因は別の何かなのだろうか。

「…祐巳さまも、さっさとロザリオを渡して、瞳子さんをつかまえてくれたらいいのに」
「まったく。…祐巳は祐巳で、別の意味でふらふらしてるからなあ…」

はあ。
祐麒と可南子ちゃんのため息が重なった。

その時はまだ、クリスマスパーティの終わりに何が起きたか、祐麒も可南子ちゃんも知らなかったのだ。











釈然としない気分のまま、家に帰り着き、自室のベッドの上に寝転がって、祐麒は考える。

自分が不用意に発した言葉の何かが、瞳子ちゃんの怒りに触れた、それはわかる。
おそらく、家を継ぐこと、あるいは、医者になること、そのあたりがスイッチなのだろう。
だが、いったい何に対してあれほどまでに腹を立てるのか、それがわからない。
わからないのでは、反省も注意もしようがない。

それにしても、瞳子ちゃんはなぜあれほどまでに、祖父の病院を継ぐことに固執しているのだろうか。
それも、今、すぐにそれを決めなければならないと言わんばかりの性急さで。
彼女は一人っ子だと言った、それなら、待っていれば嫌でも家督を、家業を継ぐという話は彼女の前にやってくるだろう。
慌てる必要などないはずだ。
だが、瞳子ちゃんのあの様子には、情熱を傾けて打ち込んでいるはずの演劇とすら引き換えにしてでも、という執着を感じる。

(そんなに、家を継ぎたいものなのか…?)

もちろん、松平家のような旧家と、福沢家のような庶民とでは、家の重みも違うだろう。
しかし、他ならぬ両親が、まだ焦らなくていいと言っているのに、自分から家というものを背負い込もうとする瞳子ちゃんの気持ちが、祐麒には理解しがたかった。

「……………」

祐麒は起き上がると、階下へ降り、父の事務所に向かった。

福沢設計事務所は、外から見ると福沢家とは独立した建物のように見え、入り口も別々にあるが、中では繋がっている。
幼い頃から慣れ親しんではいるが、住宅と事務所を隔てるドアの向こう側には、何か違う空気があるように感じられる。
そこは、“父親”とも“夫”とも違う、職業人としての福沢祐一郎の聖域だ。

今日は仕事納めということもあり、父はドラフターの前には座っておらず、事務机について書類を眺めていた。

「おう、なんだ。もう晩飯か?」

手元の書類に目を落としたまま、父は祐麒に声をかけた。

「いや、まだだけど…」

来客用の椅子に腰掛けて、どう切り出したものかと考えあぐねている祐麒に、父は初めて顔を上げて、書類を脇に寄せた。

「どうした。相談ごとか」
「う…ん、相談て言うか、その…」

言葉を探す祐麒を、父は黙って待ってくれた。

「その…父さんは、もし、もし俺が、この事務所を継ぎたいって言ったとしたら、…父さんは、嬉しいと思う?」

その問いかけに、父は少し驚いた目をしたが、顎に手をやりながら、落ち着いて答えた。

「そうだなあ…祐麒が、自分で考えて、父さんと同じ道を選んでくれるなら、それはとても嬉しいよ」
「そう…やっぱり、そうだよな」
「どうしたんだ? その気になったのか」

そう言いながら、父の目は、そうではないだろう、と言っているように感じた。

「うん…いや…」

歯切れの悪い答えを返す息子を見つめながら、父はハイバックのチェアに背を預けて言った。

「なあ、祐麒。お前が自分の将来を真剣に考えて、結果的に父さんと同じ道を選んでくれるなら嬉しい。だが、父さんを喜ばせるためだけに、父さんの後を継ごうというのなら、それは親としてはあまり嬉しいとは言えないし、そういう選択は違うだろう、と思うぞ」
「…そういうもんなの?」
「福沢の家に、代々受け継いでいかないといけない何かがあるってわけじゃないし、この事務所も、誰から譲り受けたものでもない。父さんだって、家業を継いじゃいないしな。お前が自分自身の本当の希望は棚上げにして、家のために、親のために、なんて考えているとしたら、父さんはもう一度よく考えろ、と言うよ。お前はそれで本当にいいのか、とね」

その父の言い分は、祐麒には充分納得できるものだった。
おそらくは、瞳子ちゃんの両親も、同じようなことを言ったに違いないのだ。
だが、それが瞳子ちゃんには受け入れられない。
なぜ?

「…それに、だ」

父は椅子に座ったままゆったりと足を組みなおすと、祐麒を見据えて言葉を続けた。

「中途半端な気持ちで後を継ぎたいと言っているなら、それは認めるわけにはいかん」

胸の前で手を組んで、真面目な顔で語りかける。

「福沢設計事務所に対する評価は、私自身の努力と研鑽の積み重ねの上に築いたものだ。息子だからと言って、それにただ乗りしようというのは許さない」

厳しさを含んだ声のトーンに、祐麒はたじろいだ。

「将来の希望が特にないから、とりあえず家業を継いでおこう、みたいないい加減な意気込みだったり、あるいはいくら意気込みが高くても、後を託してもいいと私が思えるだけの能力がお前になかったりしたら、その時は看板を譲ってなどやらない。私の代限りで、この事務所は閉める。お前には渡さない。それは覚えておけ」

鋭い目でそう言った時の父は、父親の顔ではなく、ひとりの男の顔になっていた。

「…参考になったかね」

そう言った時には、もういつもの、穏やかな父の顔に戻っている。
祐麒は、その落差に少し気圧されながらも答えた。

「…うん。ありがとう」
「まあ、まだ高校生だ。自分の将来について悠長でいていいとは言わないが、慌てて決めすぎるのもよくない。思い込みだけではうまくいかないことだってある。迷う余地があるのなら、今のうちはたっぷり迷って、じっくり考えてもいい。誰の話か知らんが、相手にはそう言ってあげなさい」

祐麒自身のことでないのはお見通しだ。
その上で、半端はするなと釘を刺されたというわけか。
かなわないな。

「…もうひとつ、いいかな」
「ん?」
「女の子が、こっちにはわからない理由で急に怒り始めるのって、何なのかな」
「祐巳がか?」
「いや、祐巳じゃなくて…」
「ほう」

父は、それを聞いてちょっと面白がるような顔になった。

「そうか、お前もそういう歳になったんだなあ」
「なんだよ、それ。ちゃんと教えてくれよ」
「ん? そうだな…まあ、時と場合にもよるが、親しい女性が理不尽な理由で怒り始めた時というのはな」
「うん」
「その女性は、甘えているんだよ。お前にな」











夕食もとっくに済み、家人はみんなそれぞれの部屋に引き上げる深夜。
祐麒は、ひとりリビングに居座って時間を潰していた。

「まだ寝ないの?」

歯を磨いていた祐巳が、自室に戻る途中で祐麒に気づいて話しかけてくる。

「あー、うん、ちょっと」
「ふうん。じゃ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」

祐巳は、祐麒の夜更かしの理由になどさして興味もない様子で、深く追求することもなく2階へと戻っていく。
テレビのスポーツニュースを音を絞って流したまま、祐麒は当てもなく待っていた。

今では、祐麒も松平家の電話番号は知っている。
だから、かけようと思えば、いくらでもこちらから電話をかけることはできる。
だが、出てもらえなければ、それまでだ。
瞳子ちゃんが、祐麒と話をしてもいいと思ってくれなければ、線は繋がらない。
今の祐麒にできるのは、かかってくるかどうかもわからない電話を待つことだけだった。

いくら考えても、瞳子ちゃんの怒りの理由は見当がつかなかった。
柏木を引き合いに出したことが気に障ったのだろうか。
でも、なぜそれで腹が立つのか?
瞳子ちゃんが、祐巳のように柏木のことを嫌っているとは考えられない。

父の言うように、甘えられているのだろうか。
もしかしたらそういう面もあるのかもしれないが、それだけとも思えない。
まだ自分の知らないことの中に、重要な断片が隠れている。
そんな気がする。

テレビの画面の中では、大して面白くもない深夜番組が始まっている。
さすがにもう電話はないだろうと諦め、テレビを消して立ち上がった瞬間、ベルが鳴った。
少し息を呑んで、受話器を取る。

「…もしもし」
「…………………………夜分に、申し訳ありません。…福沢さまのお宅で、よろしいでしょうか」

細い声が、スピーカーからこぼれた。

「……俺だよ」
「…………………………」

沈黙の中に、逡巡、当惑、後悔、安堵、複雑な感情が入り混じっていた。

「…………ごめんなさい…………」

消え入りそうな声で、瞳子ちゃんはそれだけ言うと、また沈黙した。

「…いいよ。全然気にしてない、…って言うと嘘になるけど、もし、俺が言ったことが気に障ったのなら…」
「違うの…わたしが…わたしが悪いの。祐麒さんのせいじゃ…」

電話の向こうの瞳子ちゃんが、今どんな顔をしているのかは見ることはできない。

「……時々、自分の気持ちが、自分でどうにもできなくなるの……いけないってわかっているのに、……抑えられなくて、………わたし………」

震えるその声は、泣いているようにも思えた。

「ごめんなさい……こんなわたしなんか、嫌いになりましたよね……」

瞳子ちゃんは、謝りながら、何かに怯えているようだった。
何をそんなに恐れているのだろう。
今、手を離してはいけない。
あの日、家の近所で瞳子ちゃんをつかまえた時と同じ気持ちが、祐麒の中に湧いた。

「…嫌いになったりしないよ。俺の気持ちは変わらない。だから、これっきりとか、言わないでくれよ。また、逢ってほしい。…瞳子ちゃんが嫌でなければ」
「……祐麒さん……」
「…でも」
「……………」
「話せる時が来たらでいいから、今日、何がいけなかったのか、話してくれよ。な」
「……ごめんなさい……」

その「ごめんなさい」はどういう意味なのだろう。
昼間のことを謝っているのか、それとも、理由を話すことはできないということなのか。
何度も「ごめんなさい」を繰り返す瞳子ちゃんに、それを問い質すことはできなかった。











「ずるい」

大晦日、いや、日付も変わった新年元旦の深夜。
散歩に出ようとした祐麒についてきたがる祐巳を止めたら、祐巳はそう言ってゴネ始めた。

「男だからいいとか、女だからダメだとか。そういうのずるい」
「言っておくけど、男女差別してるんじゃないぞ」
「わかっているわよ。心配してくれているんでしょ、わたしのこと。でも、悔しいんだもん。違うってわかっているけど、何かすごく悔しいんだもん」

普段滅多にわがままを言ったりしない祐巳が、少し涙目になって駄々をこねている。
こんなことは珍しい。
祐麒の中で、あの日の急に怒り始めた瞳子ちゃんの姿が重なった。

「…なら、親に許可もらってこいよ」

一転、嬉々として親たちの寝室に交渉に向かう祐巳を見送りながら、祐麒は瞳子ちゃんのことを考えた。
あの時、瞳子ちゃんは、理由も定かでない怒りを祐麒の前で爆発させた後、逃げて行ってしまった。
いつかの家出の時にも、そうだったのかもしれない。
抑えきれない感情のままに、親に言葉をぶつけて、そのことに自分で耐えられなくなって、逃げ出したのか。

(違うってわかっているけど、悔しい、か)

親の許可を取った祐巳は、意気揚々と祐麒についてきた。
たかが散歩なのだが。
道すがら、初詣に向かうらしいふたり連れを見かけた祐巳は、自分も行きたそうな顔をし始めた。

「ダメだからな。あの人たちについていったら、1時間あっても帰ってこれなくなるぞ」
「…別に、そんなこと言ってないじゃない」

祐麒ひとりなら別に構わないのだが、祐巳が一緒ということで、門限は1時という条件付きだ。
しかし、祐巳は口では諦めたように言いつつも、未練がましい様子は隠さない。
遊園地のジェットコースターの時と同じだ。
まったく、正直というか何と言うか。

「…どこでもいい?」

しかたないので、近所の小さな社に連れて行ってやると、祐巳は大げさな声を出して驚き喜んだ。

「なんで、こんな場所知っているの?」

小さいし、路地裏で見つけにくいところにあるのは確かだが、しかし家から10分も離れていない場所なのだ。
生まれた時からこの町に住んでいるのだから、見つけるチャンスはいくらでもあっただろうに。

「あ、お賽銭持ってくればよかった」
「あるよ」
「えっ。まさか、お年玉!?」
「んな、アホな」

もらったばかりの紙幣を賽銭に出すと思って間抜けな驚き方をしている姉を尻目に、ポケットの小銭を探る。
いくつか見つけた5円玉の中に、瞳子ちゃんから渡されたお釣りの年代ものが残っていた。

「はい、5円」

ご縁がありますように。
そんな気分で、祐巳に瞳子ちゃんの5円玉を差し出す。
祐巳はそれをすぐには受け取らず、まじまじと眺めている。

(?)

これが瞳子ちゃんから渡されたものだと気づいた?
いや、まさか。

「…こんなことで、ずるいとか言うなよ」
「言わない」

そう言ってようやく祐巳は祐麒の手のひらから5円玉をつまんだ。
祐麒と瞳子ちゃんがたびたび逢っていることすら、祐巳は知らないはずだが、こいつは時々妙に勘がいいので、変な間があると不安になる。

小さな祠の前に賽銭を置くと、ふたり並んでかしわ手を打つ。
片や仏教系、片やキリスト教系の学校に通っていながら、正月には稲荷にお参りしているんだから、節操がないことだよなあ、と我ながら呆れていると、横から小さな呟きが聞こえてきた。

「瞳子ちゃんと仲直りできますように」

思わず横目で祐巳を見るが、祐巳は祐麒の視線には気づかず、目を閉じてまだ何かぶつぶつと願い事をしている。
おそらく、自分が願い事を口に出していることも気づいていないだろう。

だいたいわかっていたことではあるが、これで確定だ。
祐巳と瞳子ちゃんは、仲違いをしている。

(はあ)

急に怒り出したり、駄々をこねたり、そろって情緒不安定な感じなのも、その影響かもしれない。
まったく、面倒くさい女どもだ。

お参りが済んだので、ふたりは来た道を家へと戻り始めた。

「ねえ、祐麒。今度、この場所までの地図を描いて」
「今歩いてきたのに、わかんなかったの?」
「だって暗いし…」

そんなことだから、夜中の散歩はやめとけと言いたくなるんだが。

家に戻ると、玄関に、風呂が沸かしてあると書かれたメモが置いてあった。
どちらが先に入るかでじゃんけんをしたら、祐麒が先にパーを出しているのに、祐巳は遅れてグーを出してきた。
その場は笑い飛ばしたが、祐巳のあの上の空な様子は、やはり何か精神的に参っているのかもしれない。
湯船に浸かりながら、瞳子ちゃんは大丈夫なのだろうか、とまた考えた。











一眠りして起きた後、恒例の雑煮を食べてから、届いた年賀状の仕分けになった。
祐巳は相変わらず、頭の中で読み上げている名前を声に出してしまっている。
注意しても居直る有様だ。
大方、その調子で瞳子ちゃんの前でも迂闊に思っていることを口に出してしまって、彼女の不興を買ったりしたんじゃないんだろうか。

自分宛の年賀状の中に、知らない名前から届いたものがいくつもあった。
祐巳の方にもそういうのが少なからずあって、互いに見比べてみたら、それぞれの学校でのクラスメイトや知り合いから出されたものだとわかった。
クラスの名簿を見れば、住所はわかる。
そこで、花寺の連中は祐巳に、リリアンの子たちは祐麒に、それぞれ年賀状を送ったわけだ。
花寺での祐巳の人気は知っているので、野郎どもがそういうことをやるのは不思議ではなかったが、自分宛にもそういうことをされるとは思っていなかった。

『リリアンの中で、あなたの人気が今どれほどのものか、祐巳さんからお聞きになったこと、ありませんの?』

いつか武嶋さんに言われた一言が脳裏に浮かぶ。
こういうものが届くということは、彼女の言葉もあながち大げさというわけでもなかったのか。
自分と関係のない場所で人気があると言われても、やはりピンと来ないのだが。

差出人を照らし合わせながら、瞳子ちゃんの名前を探したが、彼女からの年賀状は祐巳宛にも祐麒宛にも届いていなかった。

(…まあ、そうだよな)

少し落胆する祐麒をよそに、祐巳は祥子さんからの年賀状を見つけて、やに下がっていた。











1月2日。

ドアホンのベルが鳴っている。
2度目に鳴ったところで、家には自分しかいないことを思い出した。
両親は、年始回りに出ている。
祐巳は祥子さんの家の新年会に行って、明日になるまで戻ってこない。
例年なら小林が電話してきたり、アポなしで押しかけてくることもあったが、奴はこの年末年始は勉学に勤しむと宣言していて、実際冬休みに入ってからは、年賀状が来た以外に何の音沙汰もない。
いつになく、静かな正月だった。
読みかけの文庫本を開いたまま机の上に伏せると、しぶしぶ階下に降りる。

「はい、はい、と」

3度目のベルの途中で、ドアホンを取った。

「どちらさまでしょう」
「…松平と申しますが」

驚いて玄関を開けると、そこには、紅いコートを着た瞳子ちゃんが立っていた。

「あけましておめでとうございます。祐麒さん」
「…ああ。あけまして、おめでとう」

君の今の状況はめでたくもなんともないだろうに。

「祐巳ならいないよ」
「知ってます。だから、お邪魔したんです」

祥子さんはおそらく、瞳子ちゃんにも新年会の招待状を送っているだろう。
その上で、ここに来たということは。
…何としても祐巳には会いたくない、というわけか。

「…親もいないんだけど。上がる? それとも、どっかそのへんで」

と言っても、そのへんにあるゆっくりできそうな店はどこも年始休み中だ。

「家から歩き通しで、疲れました。上げていただけると、嬉しいんですけど」

結構遠慮がない。
しかたないので、とりあえずリビングに通してやる。

「ちょっと、待ってて」

出かける予定もないので、朝からパジャマ代わりのスウェットのままでいたが、そんな姿はさすがに客の相手をするにはみっともない。
着替えようと思って階段を登りかけて、ふと気づくと瞳子ちゃんが後ろにいる。

「待ってろって言ったろ。なんでついて来るんだ」
「いいじゃないですか。わたし、祐麒さんのお部屋が見たいわ。それとも、見られたくないものでもあるんですの」

普段ならそういうこともあるが、幸いにしてと言うか困ったことにと言うか、大晦日に大掃除をしたばかりなので、今は年中で一番綺麗な時期だったりする。

「…見たって面白くもなんともないぞ。祐巳の部屋みたいに可愛いもんなんかないんだから」

階段の途中で押し問答をするのもあほらしいので、諦めて自室に入れてやる。

「まあ、そこにでも座って。お茶入れてくるから、待っててくれ。そこらへんのもん、勝手に触るなよ」

祐巳の部屋のようにクッションの類があったりはしないので、やむを得ずベッドを指差してそこに座らせると、台所に降りてコーヒーを用意する。
自分ひとりだったらインスタントで済ませるが、ここはちゃんとコーヒーメーカーで入れることにする。
まあ、ちゃんと、と言っても、豆はそこいらのスーパーで売ってるような安物だが。
コーヒーメーカーがコポコポと音を立てて琥珀の液体を吐き出し終わるのを待っていたら、台所の戸口に瞳子ちゃんがひょっこりと顔を出して、祐麒を驚かせる。

「だから、待ってろって言ったろ! なんで人の家ん中ちょろちょろしたがるんだよ」
「ごめんなさい。でも、なんだか面白いんですもの、このおうち。この間お邪魔した時には、あんまり見られなかったから」
「そりゃ、いいとこのお嬢さんから見たら、こんな狭い家は珍しいのかもしれないけどさ」

戸棚からコーヒーカップを取り出しながら皮肉を投げてやるが、相手は動じることなく正直に返してくる。

「そういう意味じゃありませんわよ。ありきたりな建物じゃ考えられないような、一見ありえない構造があちこちにあるのに、でもそれが全部合理的なの。さすが、建築家のおうちって感じで、すごく素敵だわ」
「そんなもんか。俺は生まれた時からこの家だから、何が素敵なのかさっぱりわかんないけどな」

それがわかるようだったら、父の後を継ごうという気にもなれるのかもしれないが。

「コーヒー入ったけど。降りてきたんなら、リビングで飲む?」
「コート、上に置いてきちゃいましたわ。上がいいです」

上着を脱いだ白いセーター姿の瞳子ちゃんは、あくまで祐麒の部屋に居座ることを主張した。

「…じゃあ、これ持って。ほら、行った」

カップ2組と砂糖やクリームを乗せた盆を渡すと、自分はコーヒーメーカーから外したポットとお茶菓子を持って、瞳子ちゃんを台所から追い立てる。

「お客を顎で使うなんて、失礼ね」
「そう思うんなら、次からはアポぐらい取ってから来てくれよ」

そう言いながら、先に立って階段を登る瞳子ちゃんの後姿を見上げた時、目の前にある腰から脚にかけての柔らかなラインに、思いがけずどきりとした。
同じようなアングルで祐巳の後姿を何度も見上げていても、そんな風に感じたことなどないのに。
少しうろたえながら目をそらす。

祐麒の部屋に戻り、瞳子ちゃんはベッドに、祐麒は椅子にそれぞれ座って、コーヒーを飲んだ。
瞳子ちゃんは物珍しそうに部屋の中を見回している。

「優お兄さまのお部屋と比べると、随分綺麗にしてらっしゃいますのね」
「まあ、大掃除で片付けたばっかりだからね。…柏木先輩の部屋って、そんなに汚いの」
「ええ、それはもう。あやしげなものがいろいろありますのよ。たとえば…」
「ああああ、いやいい、聞きたくない」

あいつの部屋がそんな魔窟だというのは、意外なような納得のような微妙な気分だが、何があるかは本気で知りたくない。
心底おぞましげな顔をする祐麒に、瞳子ちゃんも苦笑いしている。

「瞳子ちゃんの家は、帰省とかはしないの」
「松平は、うちが本家ですもの。よそから親類縁者が帰ってくるのを迎える側ですから、お正月はどこにも行けませんわ」

はふ、と軽いため息をつく。

「父も母も来客の相手で忙しくて、わたしのことなんか構っている暇はないし、親戚は大人ばかりで、わたしと歳の近い子はいないし。お年玉はもらえるけれど、退屈で」
「柏木先輩は?」
「優お兄さまは、あちらはあちらで柏木の本家だし…それに、優お兄さま、今日はお出かけだから」
「へえ。そうなんだ」
「今朝方、お電話があって。祥子お姉さまのところに行くけど、一緒に行くか、って」

(あー、それは…)

柏木にしては空気の読めない誘いだ。
いや、ある程度察した上で、誘うのが柏木なら来るかも、という読みか。

「…あれ? でも今年は、あそこは女性限定、男子禁制って話じゃなかったか」
「よくご存知ですのね。でも、お兄さまは、自分がこうすると決めたら、他人の意向なんて平気で無視する人ですから。祐麒さんは、よくおわかりなんじゃないですか」

…ああ、それはもう嫌になるほどよくわかってる。

「…で?」
「今日は外に出たくない、って言いました。お兄さまは、今もわたしが家にいると思ってらっしゃるはず」
「外に出たくないのに、うちには来るんだ。この嘘つきめ」

茶化してやると、瞳子ちゃんはベッドの上で膝を抱えて、べえ、と舌を出した。

「………何も、聞かないんですね」

膝を抱えたまま、カーペットに視線を落としながら、瞳子ちゃんはぽつりと言った。

両親とのこと。
祐巳とのこと。
この間の、怒っていた理由。

「聞いて欲しいの」

瞳子ちゃんは、はいともいいえとも言わず、抱えた膝に顔を半分埋めた姿勢で止まっている。

祐巳とは仲違いをして、顔を合わせたくないから、祥子さんの招待には応じられない。
家出の件が尾を引いているので、自宅にもいづらい。
柏木のところに転がり込もうにも、話を聞いてくれそうな柏木も祥子さんのところに行ってしまっている。
学校の友達も、二条さんはおそらく祥子さんのところだろうし、可南子ちゃんは年末年始は確か帰省するという話だった。

学校でも家でも突っ張ってばかりいるのでは、心の休まる暇がない。
長い休みの間、誰にも会えないのも寂しい。
誰にも顧みられず、ほったらかしにされるのも嫌だ。
でも、自分の事情は詮索されたくない。

顔見知りで、事情をある程度理解していて、少々甘えても許してくれそうな相手。

(手近で都合よさそうなのが、俺というわけだ)

だからと言って、男ひとりの家に上がりこんでこられて、無防備な振る舞いをされるのは、複雑な気分だ。
頼ってこられるのは嬉しくないわけではないが、しかしその一方で、無害な男と思われているのは、なぜだか少し不愉快だった。

「祐麒さんは、どこにもお出かけになりませんの」
「まあ、特に出かける場所もないし。初詣はもう行ったし。それに…」
「…それに?」
「実は、瞳子ちゃんから何か連絡があるかもと思って、待ってたんだ」

向き直って、瞳子ちゃんの顔を見つめながらそう言ってやると、瞳子ちゃんは少し頬を染めながら、怪訝な表情になる。

「本当に? ……嘘でしょう?」
「うん、嘘」

言い終わると同時に枕が飛んできた。

「意地悪。知らない」

むくれてそっぽを向く様子は、思ったよりは元気そうだ。
この間、電話で話した時には随分萎れていたので心配していたのだが、少なくとも見る限りは落ち込みっぱなしというわけでもなさそうだ。
まあ、祐巳と仲違いをした件も、こうして祐巳の残り香が漂うこの家に来るのは平気、ということは、それほど決定的なものでもないのかも知れない。

「家にいてお年玉をもらっていた方が、この間の服が買えていいんじゃないのかい」
「その代わりにくどいお話に延々つきあわされたり、お説教されたりするんじゃたまらないわ。今年は特に、女の幸せは家庭に入ってよき妻よき母になることですよ、みたいな話をやたらにされるの。たぶん、わたしがお祖父さまの病院を継ぎたいと言った話が伝わっているんだわ」

瞳子ちゃんは辟易した様子を露にしながら愚痴をこぼす。

「特に、大叔母さまはお祖父さまが病院を開く時にも、松平の男子が町医者になど、って大反対なさったそうだから、まして、わたしが病院を継ぐなんてもっての外。父の前で、さっさと婿でも取らせて、子供のひとりも産めば、そんな冒険心なんかすぐ忘れるとか言うのよ」

高校生になったばかりの娘に向かって、婿を取って子供を産めとは、また随分強烈なことだ。
開業医と言ったら相当なステイタスのはずだが、それを町医者呼ばわりで悪し様に言うというのも、庶民の感覚からはかけ離れている。

「そこまで言われるんなら、いっそお医者さまか、医学生の方とでも結婚してやろうかしら」

ぽつりと瞳子ちゃんはこぼした。
それは彼女にしてみれば、大叔母さまとやらに言われたことに対する反発から出た、何気ない言葉だったかもしれない。
だが、それを自分の前で言われることに、祐麒は苛立ちを覚えた。

「…医者になってくれる男なら、誰でもいいのか」
「そりゃあ、財産目当てみたいな人は困りますけど…でも、本気でわたしの代わりにお医者さまになって、わたしと一緒に、お爺さまの病院を継いで下さる方なら」
「ふうん。…それで、君はそれにどんな見返りを与えるんだ」
「えっ?」
「医者なんて、ちょっとやってみようか、でなれるような職業じゃない。やるとなったら一生の仕事だろ。病院を継ぐことにしたってそうだ。相手が君のために人生を賭けるのに、どうやって報いるんだ」
「それは…」

思わぬ追及を受けて、瞳子ちゃんは戸惑った顔になる。

「自分が結婚してやるんだから、それだけでありがたく思いなさいと?」
「そんな、そこまで思い上がってません。わたしにできる精一杯のことをします」
「本当に?」

椅子から立ち上がると、瞳子ちゃんの横に腰を下ろして詰め寄る。

「相手が医者になって瞳子ちゃんの希望を叶える代わりに、瞳子ちゃんも自分の人生をその相手に捧げろ、と要求されたら、そうするのか」

瞳子ちゃんは少し意地になって答える。

「ええ、しますわ。当然のことです」
「じゃあ、…たとえば、俺が医者になるって言ったら、俺の言うなりになるのか」
「えっ…」

瞳子ちゃんはその言葉に少し動揺した。

「俺が君の代わりに医者になって、君のお爺さんの病院を継ぐ代わりに、何もかも捨てて俺だけ見て生きろ、って言ったら従えるか」
「それ、は…」
「演劇も捨ててもらう。祐巳のことも忘れてもらう。その後の一生を、俺に尽くすためだけに使ってもらう。どうだ。…できないだろ、そんなこと」

胸元を指差して責め立てると、瞳子ちゃんもムキになった。

「できます。やってみせます」

祐麒はそれを鼻で笑った。

「たとえばの話だったら、口先でなんとでも言えるよな」
「祐麒さんこそ! お医者さまなんて、どうせなる気なんかないでしょう」
「できないと思ってるんだな」
「お互いさまだわ。でも、わたしはできます」
「言うだけはタダだ。証明なんかできない」
「できます! なんでしたら、今すぐ確かめていただいてもよろしくてよ。祐麒さんに、責任がお取りになれるんでしたら」

そう言って、顎をつんと上げる。
その、侮った態度にむっと来て、肩を掴んで押し倒した。

「言ったな。後悔しても知らないぞ」

低い声色を作ってそう言った祐麒に、瞳子ちゃんは冗談と思って笑っている。

「いやだ、もう。やめましょう、こんな…祐麒さん?」

しかし、祐麒が横からしっかりと押さえ込むようにのしかかっていくと、表情に不安が浮かんできた。

こうして近づいてみると、よくわかる。
やせっぽちの祐巳とは全然違う、女性らしいまろやかな体の線。
仰向けになっても存在を主張するふっくらとした胸元。
ぐい、と胸を押し付けると、服の下から充実した感触が返ってくる。

「あっ、…あの、祐麒さん…」
「…俺さ。自分の将来についてずっと迷ってるんだ。これと言って目指したい道があるわけでもないし、家を継ぐにも、親父の仕事にはあまり興味が持てない。どうしたらいいか、考えても答えが見つからない」
「ゆ……」

触れてしまいそうなほど顔を寄せて語りかける。
密着した胸に、みるみる早くなっていく鼓動が伝わってくる。
祐麒の内側で、凶暴な衝動が頭をもたげ始める。

「だから……それなら、女のために人生を賭けてみるのも、悪くないかもしれないよ」
「あ、あの、でも…っ」

衝動に突き動かされながら、しかし一方で、祐麒はどこか冷静に瞳子ちゃんを観察していた。
瞳子ちゃんは祐麒を押しのけようとするが、体勢が悪い上にがっちりと押さえ込まれて、うまく力を入れられない。
なんとか祐麒の体をもぎ離そうとする細い腕を掴んでシーツに押し付けると、瞳子ちゃんは早くも息が上がり始めている。
学校では力自慢の運動部の奴をねじ伏せたこともあるのだ。
ことさら鍛えているわけでもない女の子の抵抗を挫くことなど、祐麒にとっては造作もない。
驚きと怖れに潤んだ瞳を、祐麒はじっと見つめた。
そして、肉食獣が牙を立てるように、唇を奪う。

「う、う…っ、んっ…!」

いつかのような、触れるだけの戯れとは違う、貪るようなくちづけ。
組み敷かれた体が、ぶるぶると震えながら、徐々に力を失っていく。
唇を離す頃には、哀れな獲物はぐったりと横たわるだけだった。

「…………おねがい、やさしく………」

瞳子ちゃんは、肩で息をしながら、蚊の鳴くような声でそう呟くと、濡れた睫毛を伏せた。
そして、もはや声にならない、唇の動きだけで言った。

「ゆ み さ ま …」

それを見た瞬間に、祐麒の中で燃え上がったものが、急速に冷めた。
押さえていた腕を離して身を起こすと、ため息をついて瞳子ちゃんを見下ろしながら。

「………見ろ。できやしないじゃないか」

呆然と祐麒を見上げる瞳子ちゃんは、まだ少し震えている。

「そんな死にそうな顔して。それで男を動かせるつもりかよ」

苛立ちながらそう口にした祐麒の顔に、ようやく身を起こした瞳子ちゃんの平手が飛んでくる。
だが、力ないそれは、ぺた、と情けない音を立てただけで、祐麒の頬を滑り落ちた。
今にも泣き出しそうな顔で、しかし何を言えばいいのかわからない風の瞳子ちゃんに、祐麒は言い放った。

「もう、帰れよ」
「………………」
「帰れ! 俺は、君のお兄さまじゃないんだ。いつでも紳士でいられるわけじゃないぞ」

叫んだ。
その声に弾かれるように瞳子ちゃんは立ち上がると、コートを掴んで部屋を飛び出していった。
階下で、玄関のドアが開閉する音が響き、そして、静寂が落ちる。

(はあ)

何をやってるんだ。
ちくしょう。











ベッドの上で、祐麒はまた後悔に苛まれていた。

瞳子ちゃんと何かがあるたびに、後悔してばかりいる。
どうしてこうなってしまうのだろう。
嫌な思いをしたいわけでも、彼女を傷つけたいわけでもないのに。

寝返りを打つと、かすかに瞳子ちゃんの髪の香りをシーツに感じる。
柔らかな体と、甘く濡れた唇の感触が蘇ってくるが、それが呼び覚ますのは、情欲よりも苛立ちと罪悪感だ。

(くそっ)

頭を冷やしたくなって、ベッドから跳ね起きると、手早く着替えて、玄関に降りた。
とにかく、どこかそのへんを歩き回って、このささくれた気持ちを鎮めなければ。
そんなことを考えながらドアを開けて外に出た瞬間、ドアのすぐ横に何かがうずくまっているのに気づいて、ぎょっとする。
その何かも、祐麒が突然現れたことに、びくっと身を震わせた。

「………………」
「………………」

瞳子ちゃんが、脱いだままのコートを抱きしめ、震えながら座り込んでいた。











沈黙。

リビングのソファで、はす向かいに座ったまま、祐麒と瞳子ちゃんは無言の時間を分け合っていた。

逃げ帰ったものとばかり思っていた瞳子ちゃんが、玄関先にうずくまっていた。
そればかりか、今またこうして家の中にいて、青ざめた顔で自分の目の前に座っている。

(…これは、どうしたらいいんだ)

自分があんな仕打ちをしておいて、「大丈夫か」と言うのも間抜けすぎて、かける言葉が見つからない。
じりじりとした居心地の悪い時間だけが過ぎていく。

やがて。

「………………………………本当ですか」

長く重苦しい空白の果てに、瞳子ちゃんの方が沈黙を破った。

「はっ?」

突然放たれた質問の意味を測りかねて、気の抜けた声で答えてしまう。

「…女のために、人生を賭けてもいい、って言いました」

まあ、確かに言ったが。

「…もし、本当に、祐麒さんが本当にそうなさってもいいと考えてくださるなら…、わたしのことを求めてくださるのなら」

瞳子ちゃんは、強張った顔を上げると、決然と言った。

「…………わたしのすべてを、祐麒さんに捧げます。ですから、その代わり」

自分のために医者になってくれ、と。
祐麒は唖然とした。

「だから」

瞳子ちゃんは強張った顔のままですくっと立ち上がった。

「しましょう。…先ほどの、続きを」

ベッドに誘っているはずだが、仁王立ちで発したその宣言は、色気もへったくれもない。

「待て、待て、ちょっと待てよ。待てって!」

祐麒は半ば呆れながら、瞳子ちゃんを制止した。

「君は自分が何言ってるのかわかってんのか? ついさっき、あんな目に遭わされた相手に自分を捧げるとか、正気か」
「わかってます! 優お兄さまがいつもおっしゃってました。祐麒さんは、責任感が強くて、一度引き受けたことは、必ずやり遂げる人だと。だから」
「お兄さまの言葉なら、鵜呑みにするのかよ」
「わたしが直接お会いして、お話しして、考えて、その上で、お兄さまの言葉は正しい、と判断したんです」
「だからって! そんな、何かと交換で放り捨てるみたいな態度で迫られて、はいそうですか、とその気になんかなれるもんか。いい加減にしろよ」

いくら女子校育ちで免疫がないからって、一体男を何だと思ってるんだ。
そんな気分を込めた祐麒の反駁を浴びて、瞳子ちゃんは言葉を失って立ち尽くし。

「―――――――――――――」

立ち尽くしたまま、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
突然の涙に、今度は祐麒の方が絶句する。

「…………じゃない」

震える唇から、かすれた声が漏れる。

「好きだって、言ったじゃない。わたしのこと、好きだって…」

押し倒され、奪われそうになっても流さなかった涙が、堰を切って溢れる。

「それなら、…それなら、わたしを、求めてよ。わたしを…」

顔をくしゃくしゃにして、しゃくり上げながら、瞳子ちゃんは幼子のように泣いた。

「わたしが、欲しいって、言ってよ…!」

搾り出すようなその声は、しかし、悲鳴のようにも聞こえた。
祐麒は我知らずの内に立ち上がって瞳子ちゃんの前に立つと、壊れものを触るかのように、瞳子ちゃんの体をそっと抱いた。
瞳子ちゃんはそのまま祐麒の胸に顔を埋めて泣き続ける。
何も言えないまま、祐麒は泣き止まない瞳子ちゃんを抱きかかえて、その場に立ち尽くすしかなかった。











そして。

冬の陽が傾きかけた夕空の下、瞳子ちゃんと祐麒は肩を寄せ合うようにして街路を歩いていた。

結局、泣きじゃくる瞳子ちゃんを抱きしめていただけで、それ以上のことは何もできなかった。
そのまま情欲に流されてしまうには、瞳子ちゃんの涙はあまりにも痛ましすぎた。
長い時間の後、ようやく泣き止んだ瞳子ちゃんは、何か気が抜けたようになって、家まで送るという祐麒の言葉に、悄然とうなずいた。
そうして今、ふたりは松平家へ向かう道をとぼとぼと辿っている。

祐麒はわからなかった。
祐麒の、獰猛な牡の顔に直面して逃げ出した瞳子ちゃんは、あれは嘘でも演技でもなかったはずだ。
しかし、逃げる途中で立ち止まった瞳子ちゃんは、今度は祐麒に自らを捧げようとする。
それは、祐麒を恐れていないからなのか。
それとも、病院を継ぐという目的のためなら、自分自身すらも犠牲にする覚悟なのか。

(…いや、違う)

『わたしが、欲しいって、言ってよ…!』

あの押し殺した叫びは、そういうものとは次元の違う、もっと深いところから発せられていた。
なぜそう感じるのかはわからないが、しかし祐麒はそれを確信している。
だが、それが何を意味しているのかが、わからない。

もどかしい思いのままに、並んで歩く瞳子ちゃんの横顔を見つめる。
視線に気づいた瞳子ちゃんも、祐麒を見つめ返す。
言葉もなく視線が絡み合い、やがてどちらからともなく瞳をそらす。
そんなことを何度も繰り返し、そうするたびに足が止まってしまい、歩みはなかなか進まない。

欲望に任せて、最後まで押し切ってしまうことは、たぶん簡単だ。
でも、それをしてしまったら、その甘さに幻惑されてしまって、瞳子ちゃんが胸の奥に押し隠している、しかしどうしようもなく瞳子ちゃんを衝き動かしている何かからは、むしろ遠ざかってしまう…そんな気がする。
その思いが、祐麒の心と体にブレーキをかけていた。

福沢家からだいぶ歩いて、一見すると公園のような敷地の、背の高い長い柵に沿って歩きながら、ふと気がつく。

(……まさか、これが松平家の?)

予想は違わず、しばらくすると大きな鉄門と、その遥か向こうに建つ、遠目にも豪奢な洋館が見えてきた。
小笠原邸に行ったことがなかったら、度肝を抜かれたに違いない。
今さらながら、自分はとんでもない子とつきあっているのだと、改めて思い知らされる。

「……もう、このあたりでいいです。ありがとうございました」

門にあと少しのところまで来て、瞳子ちゃんは祐麒の方に向き直って言った。

「…もう、平気?」
「ええ。…ごめんなさい。わたし、みっともない真似をしてしてまって」
「俺の方こそ。乱暴なことして、……悪かったよ」

名残惜しく伸ばした指先が触れ合い、絡み合う。
そして瞳子ちゃんはまた、あのすがるような瞳を祐麒に向けた。

「……また、逢えますか」

なぜだ。
もう二度と逢いたくない、と言われてもしかたのないようなことをしたはずなのに、どうして、その相手にそんな目をするんだ。
祐麒は瞳子ちゃんの瞳の奥にその真意を探せないものかと見つめてみたが、さっき涙の向こうに現れたように思えたものは、もう柔らかな殻をまとって覆い隠されてしまっていた。
一瞬、目を伏せて、瞳子ちゃんの手を握り締めると、祐麒はもう一度瞳子ちゃんの瞳を見つめた。

「……瞳子ちゃんが、そう望んでくれるなら」

そうして、瞳子ちゃんが何度か振り返りながら門の向こうに消えていくのを見送ると、祐麒はある決意と共に踵を返した。

今こそ、問い質さなければならない。
あいつに。











「お前の方が来るとはな」

1月4日。
屋敷の敷地内にある道場で、柏木優は竹刀を手に一人稽古をしていた。

「明日からスキー旅行に行くんでな。その間稽古できない分、今日しっかりやっておかなければ」

そう言って、柏木は訪ねてきた祐麒を道場の床に座らせて待たせた。

瞳子ちゃんを送って帰宅した後、祐麒は柏木の携帯に電話したものかどうか迷った。
柏木が小笠原邸で長居して、去年のように泊まったりしていたら、タイミングによっては祐巳がそばにいるかもしれない。
柏木が祐巳に気づかれるような下手は打たないだろうとは思ったが、一応、慎重を期して、祐巳が帰宅するまで柏木に連絡するのは待った。
だが、祐巳の帰宅後に電話をかけてみても、今度は圏外だのなんだのと言われて、なかなかつかまらない。
途中、母に小笠原家へのお礼を理由に長話に興じられて電話を占拠されたりしたせいもあり、ようやく柏木と連絡が取れたのは3日の夜になってからだった。
柏木には4日の午後まで待てと言われたが、祐麒は気の逸りを抑えきれず、午前の内から家を出て、柏木邸に押しかけたのだった。

正座した足の痛みと、急ぐ気持ちにじりじりとしながら、祐麒は柏木が竹刀を振り終わるのを眺めていた。
きっちりとした素振りの形をしばらくの間披露した後、蹲踞の姿勢で深く息を吐くと、柏木はようやく祐麒の前に歩いてきた。

「で、何の用だ。そんな切羽詰った顔で押しかけてきたのは、新年の挨拶に来たというわけではなさそうだが」
「瞳子ちゃんのことで、聞きたいことがある」
「ほう」

柏木はタオルで汗を拭きながら、気のない返事をする。

「瞳子ちゃんについて、俺がまだ知らないことを、教えてもらいたい」
「なんだ、瞳子のスリーサイズでも知りたくなったのか?」
「そんな話じゃないことは、わかってるはずだ」

いつもの調子ではぐらかそうとした柏木は、祐麒の動じない様子に、にやけた笑いを顔から消した。

「瞳子ちゃんは、どうしてあんな風なんだ」
「…あんな風とは、どういう意味だ」
「瞳子ちゃんはなにか、すごく急いでる。他人から求められたがってる。必要とされたいと思ってる」
「それが何だ。人間は誰だって、誰かに求められたい、愛されたい、そう思っているものじゃないのかい」
「そうだな。でも、瞳子ちゃんは、自分からそれを目の色を変えて追いかける必要なんか、ないはずだ」

柏木はなぜか、祐麒と目を合わせようとしない。

「瞳子ちゃんには、瞳子ちゃんを大切にしてくれる親もいる。家の使用人たちからも大事に思われてる。学校には二条さんや可南子ちゃんみたいな、理解してくれる友達もいる。…あんただっている。瞳子ちゃんが欲しがってるようなものは、改めて欲しがらなくたって、もうとっくに瞳子ちゃんの手の中に、全部あるはずなんだ」

…祐巳以外は。

「それなのに、彼女はどうしてあんな風に、焦って、急いでるんだ。一体、何が足らないんだ。病院を継ぐことで、彼女は何を満たそうというんだ」

祐巳とうまくいかないから、それだけではあんなに不安定になるわけがない。
それに、家のことは、祐巳とは関係がない。

「それに…瞳子ちゃんは、あんたを引き合いに出されることに腹を立てていた。自分はどうせ、お兄さまのようじゃない、って言って。なぜ、瞳子ちゃんがあんたにコンプレックスを持つ必要があるんだ」
「…お前は、そこまで瞳子に近づいてしまったのか」

柏木は、苦渋の表情でため息をついた。

「あんたは、知ってるはずだ。瞳子ちゃんが追いかけているのは、本当は何なのかを」
「…それを知ってどうする。瞳子を理解すれば、自分のものにできるとでも、思っているのか」
「そんなんじゃない。…いやなんだよ。瞳子ちゃんが、苦しんだり、泣いたりするのを、わけもわからずに、ただ眺めているだけなのは」

柏木はしばらく黙っていたが、不意に壁の方に歩いていき、掛かっていた竹刀の1本を取ると、祐麒に投げてよこした。

「?」
「取れ」

それだけ言うと、柏木は自分の竹刀を正眼に構えた。

「ちょっと待てよ、俺は剣道なんか」

思わぬ展開に及び腰になる祐麒に向かってじりじりと間合いを詰めながら、柏木は低く言った。

「瞳子が泣いたと言ったな」

今日初めて、柏木の目が正面から祐麒を見据えた。

「お前がついていながら、瞳子を泣くままにさせておいたのか」

その瞳に険が宿っている。

「それとも、………………お前が、瞳子を泣かせたのか」
「……………」

答えられない祐麒に向けて、柏木の闘気が膨れ上がった。

「えぃや――――――――――――――ッ」

裂帛の気合と共に、柏木は一気に踏み込み、上段から竹刀を打ち下ろす。
慌てて身をひねるが、よけきれず肩に一撃を受けてしまう。
体勢を立て直す暇もなく、二の太刀三の太刀が猛烈な速さで浴びせられる。
都大会を震撼させた、神速の太刀だ。

「あいっ、いでっ、くっ、このっ…」

慌てて竹刀を握り、振り下ろされる一撃をなんとか受け止める。
短い鍔迫り合いの後、飛び退って間合いを取りながら、冷ややかな笑みを浮かべて柏木は言った。

「相手のいない稽古は物足りなかったところだ。いい機会だから、いつぞやの続きと行こうじゃないか。お前が僕を倒せたら、お前の知りたいことは何でも教えてやるぞ」

(ちくしょう)

打たれた痛みに、反射的に怒りがこみ上げてくる。

(どうせいつかは決着をつけなければならないんだ。やってやる)

祐麒は覚悟を決めて竹刀を構えなおすと、柏木と相対した。

「えぃや! えい、えい、えぃ―――――――ッ!!」

しかし、技量と鍛錬の差は覚悟だけでは埋まらない。
柏木が次々と繰り出す剣を受けるだけで精一杯だ。
しかも、3本にひとつは痛烈な一撃を体のどこかに食らってしまう。
防戦一方の祐麒は次第に追い詰められていった。

「思ったより持ち堪えているのは褒めてやろう。だが、反撃してこないのではつまらないな。お前は何をしてもいいぞ。手でも足でも好きに使うといい。僕は剣道の範囲内で対応してやろう」

言われなくても、馬鹿正直に柏木の土俵で勝負する気はない。
しかし、ただでも剣道三倍段などと言われるのだ。
その上、祐麒は武道も格闘技もまともに習ったことなどない。
知っているのは、実戦で身に着けた喧嘩殺法だけだ。
それでは、剣を持ったこの男を相手に、たとえなんでもありと言われても、文字通り太刀打ちなどできるわけがない。

(くそ…)

手詰まりで焦りを隠せない祐麒に、柏木は妖しい黒い笑いを浮かべながら言った。

「お前なら人畜無害だと思っていたのに、つくづく予測も期待も裏切る奴だな。腹の立つことだ。瞳子の涙の報いは、高くつくぞ」
「勝手なこと言うな! 肝心なことは何も教えずに俺に丸投げしといて、…そんなに瞳子ちゃんを泣かせたくないんだったら、あんたが彼女の面倒を見てればいいだろうが!!」

祐麒のその言葉に、柏木は祐麒が未だかつて見たこともない憤怒の形相を露にした。

「できるものならそうしている。お前に言われるまでもなくな!!」

怒号と共に突きが飛んだ。
防ごうとした竹刀を弾き飛ばして、切っ先が祐麒の喉元へと伸びる。
その突きを、しかし祐麒は紙一重でかわした。
が、同時に足がもつれて滑り、体が倒れそうになる。
その一瞬、柏木の太刀が迷った。

「!」

祐麒はその一瞬を見逃さなかった。
床についた手を軸に体をひねると、視界に入った柏木の左足に、回し蹴りで右の踵を叩き込んだ。

「がっ」

足を払われた柏木がもんどりを打って倒れる。
すぐに体を立て直そうとするが、立ち上がれない。
さっきまで涼しい顔だった柏木が、脂汗を額に浮かべて左の向こう脛を押さえている。

加減をする余裕などまったくなかったので、全力で蹴りを入れてしまった。
折ったか?と思うくらいの手応えがあった。
普通なら悶絶するほどの痛みのはずだが、歯を食いしばって呻き声ひとつ上げないのは、さすが柏木優、と言うべきか。

しかし、祐麒の方もまた、立ち上がれなかった。
何度も打ち据えられた体は激しい痛みでぎしぎしと軋み、それ以上動くことを拒んだ。

ふたりの男は、共に倒れたまま、肩で息をしながら睨み合った。

「…約束だぞ。あんたを倒したら、教えてくれるって」
「お前も倒れているんじゃ、倒したことにならないだろうが。くそ…」

睨み合いながら動けぬまま、戦いの空気が冷めていった。











「瞳子が、病院を継ぎたいと言い出したのは、夏休みからだ。その時は、両親や祖父さまを喜ばせるための戯言だと、皆思っていた。あいつは、そういうサービス精神みたいなのが旺盛だったから」

昂りの過ぎ去った後、柏木は瞳子ちゃんのことを語り始めた。
祐麒は黙って聞いた。
いや、口を挟む元気もなかったのだが。

「だが、秋になってもまだ言っているので、周囲の人間も、瞳子がどうやら本気らしいと気づいた。医者になるということも、病院を経営するということも、そう簡単なことではないと諌めても、瞳子は聞こうとしない」

共に床の上に無様に転がったまま、柏木の言葉だけが続いた。

「瞳子の両親は、瞳子が演劇の道を志していたことを知っていたから、それを諦めてほしくはなかったし、自分たちが瞳子に対して何か圧力を感じさせていたのなら、それを正したいと考えて、たびたび瞳子を説き伏せようとした。だが、瞳子は頑として受け入れなかった。それでちょっとした押し問答になることも、1度や2度ではなかった」

暮れに家出した件は、突然そうなったわけじゃなく、そこに至る伏線はあった、ということか。

「困った瞳子の両親から、相談を持ちかけられたりもした。それとなく言い含めてやってほしいと頼まれもした。だが、瞳子はそういうところは聡い子だから、家族に代わって僕がなだめにかかったところで、そんなものはすぐ見抜いてしまうので、それで更に意地になられてかえって逆効果だ」

確かに、意固地になった時の瞳子ちゃんは、ちょっと手が付けられない感じではあった。

「さっちゃんに見てもらおうかとも考えたんだが、彼女は瞳子のような娘をうまく御していけるタイプではないし…」

祥子さんも癇癪持ちだから、相性はあまりよくはなさそうだ。
両方をある程度知っている今だから思うことかも知れないが、祐巳は一体何を見て祥子さんが瞳子ちゃんの方を選んだなどと一時でも思ったのか、理解に苦しむ。

「瞳子を観劇に連れ出そうとしたのは、そんな中でちょっとでも気分転換になればと思ってのことだった。だが、僕も結局身内だから、会えば家のことを話さないのも不自然だ。その話題を避けて、気を遣われている、と瞳子に悟られては、気分転換にもならない。…だから、お前にエスコートを頼んだんだ」
「…なぜ、俺だったんだ。別に俺でなくても、祐巳でよかったんじゃないのか」
「あの時点で、瞳子と祐巳ちゃんがどういう仲なのか、わからなかったからな。誤解とは言え、一時はさっちゃんを巡って険悪な状態になったとも聞いていたし、それがどの程度修復できているのかも僕にはわかっていなかった」

まあ、祐麒ですら、祐巳が瞳子ちゃんをどう考えているのかは今でもつかみきれないのだから、外野の柏木にわからないのも無理はない。

「どうせなら、家からも学校からも離れて、それでいて気安い相手がいい。お前は瞳子とは直接面識もあるし、僕の後輩で、祐巳ちゃんの弟なら、瞳子もあまり構えずに済むだろうと思ったんだ」

観劇の直前に、祐麒と瞳子ちゃんが学校近くの公園で出会ったのは、柏木の思惑とは無関係の偶然だ。
だが、仮にそれを知っていたら、柏木はどうしただろうか。

「それに」

脚の痛みに顔をしかめながら、柏木は言った。

「お前は、祐巳ちゃんと似ている。顔かたちが、ということではなく、内に持っているものがだ。さっちゃんや僕と同じように、瞳子もそれに気を許して、心を安らげてくれるんじゃないかと期待していた」

(そう言えば観劇の後に探りを入れに来て、一族がどうとか言っていたな)

ドサクサ紛れに何かちょっと気持ち悪い台詞が混じっていたような気もするが、そこには敢えて突っ込まずにスルーしておくことにする。

「瞳子は、家族に対する自分の愛情を証明する手段が、祖父の病院を継ぐことだと思っている。だが、それを当の家族から反対されて、憤慨し、当惑し、混乱している。また一方で、演劇への未練も捨て切れてはいない。そんな矛盾した状態を引きずっているせいで、学校でもあまりうまくいっていないらしい」

可南子ちゃんが瞳子ちゃんについて、不安定で危なっかしい、と言っていたのを思い出す。
祐巳から伝え聞いた演劇部での諍いというのも、その結果なのだろうか。

「瞳子は今、いろんなものを見失って、あがいている。迷っている。手を伸ばしさえすればすぐに届くものすら目に入らず、ありもしない、見えもしないものを求めてさまよっている。僕は瞳子の近くにいても、いや、近くにいるがゆえに、それをどうにもしてやれない」

虚ろな目で道場の壁を見つめながら、柏木が呟く。

「僕が瞳子と縁もゆかりもない、ただの男なら、あいつの望むようなものは浴びるほど与えてやれるのにな。だが、瞳子にとって、僕は“兄”でしかないし、僕にとっても…」

祐麒からは完全無欠のように見える柏木のような男でも、無力感に苛まれることがあるのか。
柏木ですらそんな風になるというのに、自分が瞳子ちゃんのために何ができると言うのか。
そんな思いを感じながら、それでも祐麒は問うた。

「…一番肝心なことが抜けてる」
「……………………………」
「瞳子ちゃんが、家族に対する愛情を証明する方法が、病院を、家を継ぐことだと考えたのには、理由があるはずだ。なぜ、そうしなければならないと思ったのか、その理由が。それを、あんたは知ってる。そうだろう」

柏木は、黙ったまま、祐麒を見据えた。

「………そうだな。いずれにせよ、今日、祐巳ちゃんが来れば話すつもりでいたことだ。その時に、お前も一緒に聞け」
「ちょっと待てよ、祐巳がここに来るのか?」

そこで初めて、祐麒は祐巳があの家出の一件の後で、柏木に瞳子ちゃんのことで相談していたのを知った。
祐巳に瞳子ちゃんを妹にする決心がついたなら、柏木は祐巳に瞳子ちゃんのことを話すと約束していたこと、そして、正月の小笠原邸で、柏木が祐巳に今日までに聞きに来るよう水を向けたということも。

「もし、彼女が瞳子の姉になりたいと言うのであれば、望まれたら話さないわけにはいかないからな」

そう言えば、小笠原邸から帰ってきてからの祐巳は、普段以上にぼーっとして、飯をこぼしたり、物をひっくり返したりしていた。
あの上の空な様子は、瞳子ちゃんを妹として受け入れるかどうかで悩んでいたというわけか。

(…なんだよ。それじゃあ、俺は叩かれ損か)

瞳子ちゃんが望んでも手に入れられないものの中で、明らかなひとつは、祐巳の気持ちだ。
それが、祐巳の方から歩み寄っていこうと決めたのなら、瞳子ちゃんに拒む理由はない。
そうして祐巳と瞳子ちゃんが姉妹になれば、瞳子ちゃんが今迷っていることの少なくとも何割かは解決するだろう。
そうすれば、拠り所を得た瞳子ちゃんは、今のような不安定な状態を脱して、落ち着くかもしれない。
…自分の出る幕はない。
それはいいことなのだろうが、結局、瞳子ちゃんにとって何の助けにもなれていない自分が、祐麒は少し切なくなった。

「坊ちゃま」
「ぅわあ」

突如背後から声をかけられ、祐麒は驚いて大声を出してしまった。
いつからそこにいたのか、道場の中に和服の老女が正座している。
この屋敷の女中頭のトミさんだ。

「福沢のお嬢さまが」
「来たか。茶室にお通しして…」
「いえ。屋敷の前にしばらくおられましたが、呼び鈴を押さずにお帰りになられました」
「………そうか」

帰った。
ここまで来ておいて、引き返したというのか。

(祐巳のやつ…!)

「……………それじゃあ、しかたないな」

少し落胆した顔で、ため息をついてから、柏木は助けを求めた。

「トミ、手を貸してくれ」

トミさんは柏木の方へ音もなく歩み寄りながら、薄く笑いを浮かべた。

「返り討ちに遭われるとは、まだまだ修行が足りないようでございますな、坊ちゃま」
「まったくだ。…お前も、今日はもう帰れ。祐巳ちゃんが来ないのなら、足1本で教えてやれるのは、ここまでだ。僕は、明日の旅行の準備もしなけりゃならない」

トミさんに支えられて立ち上がった柏木のその言葉に、祐麒は耳を疑った。
自力で立てないほどなのに、旅行の準備、それも、確かスキーだと言ってなかったか?

「行く気なのか? その足で?」
「僕が幹事なのに、後輩にやられたので行けなくなりました、などと言えるか。スキーくらい、松葉杖をついてでも滑ってみせるさ」
「そんな、馬鹿な…」
「馬鹿で結構。男の人生なんて、やせ我慢するためにあるもんだ」

そう嘯いて、柏木優は、ふん、と鼻で笑った。
そうして、足を引きずりながら、道場の敷居の方へと向かう途中。

「祐麒…瞳子を、頼む」

柏木は少し振り返って言った。

「祐巳ちゃんが瞳子を受け止める気になってくれない以上、今、頼れるのはお前だけだ」
「…勝手だな。散々小突き回した挙句、結局肝心なことは教えもしないで」
「瞳子のためなら、僕はいくらでも勝手にも卑怯にもなるよ。それを軽蔑するなら、すればいい」

そう語る柏木の瞳は、なぜだか少し悲しげだった。

「瞳子は自分では世慣れたつもりでいるが、所詮はお嬢さま育ちの、子供だ。悪い男に引っかかって、欲望をぶつけられることを愛情だと思い違いをして、身を持ち崩してしまうことだってありうる」
「俺が、その“悪い男”だったらどうするんだ」

柏木はふっと微笑した。

「お前がそうなら、いっそ頼もしいね」

馬鹿にしやがって。
…まあ、自分でもそんな柄ではないのはわかっているが。

「誰の助けもなくても瞳子にそこまで近づいてしまったお前だ。いずれ、瞳子の隠しているものの在り処にまで辿り着いてしまうだろう。だが、それまでは、…いや、その後も、あいつが抱えたり背負ったりしてしまっているものではなく、瞳子そのものだけを見ていてやって欲しいんだ」
「………」
「そして、あいつがどこか暗闇に落ちていってしまわないように、捕まえていてくれないか。…頼む」

背中越しにその言葉を残して、柏木は母屋の方へと去っていった。

ひとり残された祐麒は、道場の冷たい床に身を横たえて、自分の思いに沈んだ。

(…なんで、こんなことになってるんだ)

祐巳も、柏木も、ことごとく逃げ腰で、自分だけが瞳子ちゃんを追いかけている。
それなのに、自分には一番大事なことは知らされない。
どうして、自分が知ってはいけないんだ。
瞳子ちゃんが隠している何かは、それほどまでに語れないことなのか。

…いや、わかっている。
祐巳は、瞳子ちゃんと姉妹になれる。
だが、自分は瞳子ちゃんと兄妹にはなれない。
“男”として責任を取るには、今の自分には何もなさ過ぎる。
ただ、好きだ、というだけでは支えきれない、何かがそこにあるのだ。

(ちくしょう)

やるせなさを抱えたまま、祐麒は痛む体を引きずりながら道場を出て、屋敷を去ろうとした。

「お待ちなさい」

そこに、トミさんがまた音もなく追いかけてきて、祐麒を道場に引きずり戻すと、簡単な手当てをしてくれた。

「あ、いや、そこはいいですから」
「若いもんが、こんな婆ぁ相手に恥ずかしがってるんじゃありませんよ。ほら、お見せなさい」

そう言いながら、祐麒を身ぐるみ剥がして、青痣だらけの体になんだかよくわからない膏薬を塗ってくれた。
後で聞いた話では、一般には売られていない秘伝の高級品ということだった。

「あの………すいません」
「いいんですよ。怒りに任せて剣を振るったりしている内は、本物の武道家にはなれません。坊ちゃまにはいい薬です」

トミさんは乾いた笑いを薄く浮かべながら。

「……お若いからなんでしょうけれどね。皆さん、考え過ぎなんですよ。もっと簡単に、あるがままを見つめるようにすれば、たいがいのことはすぐ片付くものですよ」

手当てを終えた祐麒の肩を、ぽん、と軽く叩いてそう言った。

「…ありがとうございます」

一礼すると、今度こそ門を出て柏木邸を後にする。
ふと振り返って、堂々とした門構えを眺めた。
祐巳はなぜ、ここまで足を運んでおきながら、あともう一歩が踏み出せないんだ。
なぜ、逃げてしまうんだ。
姉の行動を歯がゆく思いながら、背を向けて家路に着いた。











未完

July 2007 - April 2008

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